第1話:目覚めは最悪、身の程は相応
数ある作品の中から、本作を選んでいただきありがとうございます。
この物語は、特別な魔法もスキルも持たない「くたびれたおじさん」が、仕事道具のPC一台を頼りに、異世界でなんとか効率よく生き抜こうとするお話です。
派手な無双はありませんが、大人の知恵とガジェットで少しずつ成り上がっていく過程を楽しんでいただければ幸いです。
……重い。
まぶたの裏側に、嫌な熱を感じる。
意識の底から這い上がってこようとする俺を、何かが無理やり現実に引きずり戻そうとしていた。どこかで電子音が鳴っている。ピーッ、ピーッ、という、聞き慣れた、だが今の俺が最も忌み嫌っている不機嫌なアラート音だ。
「……ん、んん……。おい、あと5分……いや、10分だ」
俺は重い腕を動かし、その音を止めようとした。だが、指先が触れたのは、使い古した目覚まし時計のプラスチックではない。湿り気を帯びた冷たい土と、指に刺さるような鋭い草の感触だった。
その瞬間、意識が急速に覚醒する。
「……あ?」
目を開けた。視界に飛び込んできたのは、オフィスの黄ばんだ天井ではない。
異常なほどに巨大な葉の隙間から、凶器のような強さで差し込んでくる陽光。鼻を突くのは、都会の排気ガス混じりの空気ではなく、植物が腐りかけ、同時に生命が爆発しているような、濃密な緑の匂いだ。
「……どこだ、ここ」
体を起こそうとして、すぐに後悔した。
腰に、電撃のような痛みが走る。節々の関節は、まるで一晩中コンクリートの上で寝かされていたかのように強張っていた。いや、実際に土の上で寝ていたらしい。
俺はうめき声を上げながら、なんとか上体を起こし、周囲を見渡した。
そこは、森だった。
だが、俺の知っている「森」の概念からは大きく逸脱している。樹木の一本一本が、スカイツリーの土台かと思うほどに太く、天を突くように伸びている。シダのような葉は人の背丈を超え、見たこともない原色の花が、不気味なほど大きく口を開けていた。
「嘘だろ……。キャンプに来た覚えはないぞ。ましてや、こんなアマゾンみたいな場所……」
最後に何をしていたか、必死に記憶を掘り起こす。
そうだ。1週間に及ぶサーバー保守のデスマーチがようやく終わり、ふらふらになりながら深夜の帰り道を歩いていたんだ。コンビニで買った安物の缶チューハイを袋に入れて、次は1週間ぶりに布団で寝られると、それだけを考えていた。
足元を見る。そこには、買い込んだはずのビニール袋も、脱ぎ捨てたはずのビジネスシューズもなかった。
代わりに、俺の左腕に、見慣れた、だが場違いな「仕事道具」が装着されていた。
「……『Link』……か」
それは、俺が勤務するIT企業でテスト運用されていた、次世代型の腕型ウェアラブルPCだ。
もうすぐ五十路を迎える俺のようなロートル技術者に、こんな最新鋭のガジェットが与えられたのには理由がある。最先端の現場でスマートに使うためじゃない。開発チームから「佐藤さんのようなアナログ世代が、過酷な現場で使い倒して壊れるか試してほしい」と、なかば耐久試験のテスターとして押し付けられたものだ。
俺は震える指先で、リストバンドの側面にある物理スイッチを長押しした。
一瞬のラグの後、空中に淡いブルーの光が走る。
目の前の空間に展開されたホログラムディスプレイが、原始的な森の風景の中に、異質な文明の光を投げかけた。
『システム起動……ユーザー認証完了。佐藤、おはようございます。バイタルチェック中……心拍数、血圧ともに正常範囲を超えています。アドレナリンの過剰分泌を確認。リラックスしてください。状況……オフライン。GPS信号、ネットワークともに圏外です』
「おはよう、なんて気分じゃないよ……。圏外か。ま、そうだろうな」
空中に浮かぶウィンドウをスワイプする。
本来なら、ここでパニックになって走り回るべきなのかもしれない。だが、残念ながら俺にはそんな気力は残っていなかった。
長年の社畜生活で培われたのは、想定外のトラブルに直面した時の「諦め」と「効率重視の判断」だけだ。ここで叫んでも体力を消費するだけで、リターンは何もない。
「……まずは生存確認だ。サバイバル支援パッケージ、起動。周辺環境の解析。優先順位は、水、それから安全な場所の特定だ」
俺の言葉に反応し、デバイスの底面から不可視のレーザーが照射される。
ホログラムのウィンドウに、目まぐるしく文字列とグラフが流れ始めた。
『スキャン終了。周辺の植生……地球上の既知データと一致するもの、0%。大気組成……酸素濃度23%。微細な未知のエネルギー粒子を検出。飲料水……北北西300メートル地点に流水反応あり。経路を表示します。警告:現在の佐藤の体力残量は、推定15%です。無理な運動は控えてください』
「15%……。あの日曜日の夜の俺より低いじゃないか」
俺は力なく溜息をつき、膝を支えにして立ち上がった。
一歩踏み出すたびに、足の裏から嫌な生温かさが伝わってくる。地面を這う、見たこともないほど巨大な甲虫がカサカサと音を立てて逃げていく。
若ければ、この冒険に心を躍らせたかもしれない。だが、今の俺にあるのは「早く座りたい」「腰を伸ばしたい」という、あまりに切実で地味な欲求だけだった。
生い茂る草をかき分け、斜面を下る。
腕のデバイスが、時折「ピピッ」と短い警告音を鳴らし、俺の視界にARマーカーを表示した。
『警告:左前方に強粘着性の罠を感知。3メートル右を迂回してください』
『アドバイス:この勾配は現在の膝の負荷を考慮し、ジグザグに降りることを推奨します』
「はいはい、わかったよ……。まったく、口うるさい上司と変わらんな」
愚痴をこぼしながらも、俺はデバイスの指示に忠実に従った。
自分の感覚を信じて冒険していいのは、20代の若者か、特殊部隊の人間だけだ。俺のような「くたびれたおじさん」が生き残るコツは、自分の判断を捨てて、自分より優秀なシステムの計算に従うこと。仕事でもそうだった。
やがて、水のせせらぎが聞こえてきた。
岩肌を縫うようにして流れる、驚くほど透明な小川。
俺は転がるように水辺へ這い寄り、デバイスを水面に突き出した。
「検査だ。飲めるか?」
『水質分析中……。不純物、細菌ともに極小。ミネラル分が極めて豊富です。特記事項:高濃度の「活性化魔力」を検出。飲用により細胞の活性化、疲労回復が期待されます』
「魔力、ね……。いよいよ隠す気がなくなったか、この世界も」
俺は両手で水をすくい、顔を洗った。
冷たい刺激が、ぼやけていた脳を強引にシャキッとさせる。
そして、一口。
喉を通る水は、驚くほど甘く、そして全身に染み渡るような心地よい熱を持っていた。
「……ああ……生き返る……」
濡れた顔を拭い、俺はふと川面に映った自分を見た。
そこには、人生の折り返し地点を過ぎ、すっかり疲れ切った男の顔があった。
白髪の混じった短髪。目の下のクマ。深くなった法令紋。
異世界ファンタジーに相応しい勇者の姿でもなければ、魔王と戦う聖騎士の体でもない。
あるのは、泥で汚れた作業服と、左腕に光る、この世界ではあまりに場違いな文明の利器だけだ。
「……スキルなし、魔法なし、体力なし、か」
俺は自嘲気味に笑い、空中に浮かぶホログラムを操作して、現在地のログを保存した。
「ま、いいさ。とりあえず水は見つけた。次は寝床だな。効率よくいこう。……明日、全身が筋肉痛で動けなくなる前にさ」
俺は再び、重い腰を上げた。
英雄になるためではなく、ただ今日を、そして明日を生き延びるために。
くたびれたおじさんの、あまりにも地味で切実な「効率的異世界生活」が、ここから静かに幕を開けた。
第1話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
まずは水分確保……ということで、おじさんの異世界生活がようやく一歩踏み出しました。
次回、第2話「翻訳アプリと、初めての接触」を予定しています。
言葉の通じない異世界で、彼がどうやってコミュニケーションの壁を突破するのか、ぜひ見届けてください。
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