1話 目覚める新世界 ―ヴィジオン―
数十年前にアニメに登場した、没入型のバーチャルゲーム。
それが現実の技術として登場するのに、思っていたよりも長い年月はかからなかった。
脳波の解析技術とAIによる言語変換技術の進歩によって、人はついに「思考で世界を動かす」時代へと突入したのだ。
この新技術を用いたゲーム機器が一般販売されたのはわずか数年前。
だが、最初に登場した作品群は限られ、いずれも単発的で、やがて話題からも消えていった。
そんななか、日本の新興ゲーム会社《Ordis社》が発表したタイトル──
それが、「Vision」である。
このゲームは、プレイヤーの脳に直接信号を送ることで“もう一つの現実”を生み出した。
内部には「地球」と同一の世界が再現されており、ただひとつだけ異なる点は、太平洋の中央に未知の巨大島が存在すること。
そこには無数の都市と自然が広がり、人々が自らの手で文明を築き上げていく。
現実社会との違いはわずかにひとつ──「この世界では努力がそのまま資産になる」こと。
ゲーム内で得た収入は現実世界でも十分の一のレートで換金可能であり、それがヴィジオンを爆発的に普及させる決定打となった。
「お兄ちゃん、ごはーん!」
リビングから妹の声が響いた。
咲夜は、デスクに広がるモニターの光を消し、ゆっくりと立ち上がった。
ヘッドホンの中で再生されていた音楽が自動的に止まった。
「はーい」
一階へ降りると、妹のひなりがエプロン姿でせわしなくテーブルを動き回っていた。
まだ高校に入学したばかりだというのに、既に料理の腕は母親よりも確実に上達している。
「父さんたちは?」
「電車止まっちゃって、近くのホテル泊まるって。雨、すごいよ。川の音みたいに聞こえるくらい」
「へえ……。まあ、うちは高台だから大丈夫か」
ひなりはテーブルにカレーが入った器を置くと、咲夜をちらっと見た。
「ねえ、またあのヘッドホンしてたでしょ?外でつけるの禁止だよ」
「あれは屋内専用。ちゃんとわかってるって」
「もう……この前も、歩きながら使ってる人が事故起こしたってニュースでやってたし」
「俺は家でしか使ってないし、大丈夫だよ」
ため息をついたひなりは、それ以上何も言わずに食器を並べた。
カレーの香りが部屋いっぱいに広がる。咲夜の家では、雨の日は決まってカレーだった。
「またゲームするの?」
「またって言うなよ。息抜きだよ」
「帰ってからずっとしてたじゃん」
「……勉強もちゃんとしてるし」
「お兄ちゃんはテスト上位だからいいけどさ。私なんて授業でいっぱいいっぱい」
「ひなりは運動できるからいいだろ。俺はインドア専門」
「ふふ、たしかにね」
二人の笑い声と共に、食卓に柔らかな空気が流れた。
ーーー
食後、咲夜は台所で食器を洗っていた。
流れる水の音を聞きながら、頭の中では別の世界のことを考えていた。
「……やっと今日からか」
ヴィジオンの正式版が一般プレイヤーに開放される日。
数か月前のβテストでは「現実すぎて怖い」と言われたが、それはつまり完成度の高さの証でもある。
何より、AIが完全に統治する仮想経済という点に惹かれていた。
食器を片付け終わり、階段を上る。
雨は一層強くなり、窓を叩く音が夜を深くしていく。
部屋に戻ると、デスクの上には新品のフルダイブ式ヘッドギアが置かれていた。
「……さてと、ログインしてみるか」
咲夜はベッドに体を預け、ヘッドギアを装着する。
視界が暗転し、やがて柔らかな光が滲み出た。
《Vision 起動中──神経接続を確認……プレイヤー識別完了》
ーーー
AIの無機質な声が響く。
咲夜はログイン認証のために現実で登録した情報の設定していたパスワードを入力し、次にキャラクターメイク画面へと進んだがこれも夕食の前に入力、設定していたのを確認しただけだったので時間はかからなかった。
このゲームでは、一度作成したアバターの容姿を後から大きく変えることはできない。
整形したい場合は、ゲーム内の病院で莫大な金を払う必要がある。
「名前は……咲夜のままでいいか」
身長、体形、声質。すべて現実と同じに設定した。ただし性別は、現実社会と同じでなければならないので男となっていた。
初めての世界で“現実の自分”のまま生きてみたかった。
視界が真っ白に染まる。
頭の奥が一瞬、微かに痺れたような感覚。
体の輪郭がほどけ、意識だけが宙に浮かぶ。
次の瞬間、潮の香りと風の熱が肌を撫でた。
「……ここが、“ヴィジオン”の世界……?」
咲夜が初めの場所に選んだのはヴィジオンの中心の本島にした。その本島はすべてのプレイヤーが下りれるのではなく設定する際に降り立ちたい場所を順位付けることで上位から順番に抽選されていく。そして運よく咲夜が1位にしていた本島に初期位置にすることが出来た。始めの位置はゲームの中での中心も中心のセンタータワーの側から始まった。周囲には高層ビル群が立ち並び都市電光掲示板には様々な情報が書き記してあった。
《あなたのリスポーン地点は、自動抽選により決定されました。》
「都市か……。思った以上に現実っぽいな」
風の匂い、空気の重さ、足の感触。
どれも現実と区別がつかない。
咲夜は初期装備の軽装服のまま、石畳の街路を歩き出した。
街の中心には掲示板のようなホログラムが浮かび、無数のメッセージが流れていた。
【国家設立】東方共和国 プレイヤー募集中
【企業募集】素材採掘部門・月給制
【AI通達】不法侵入および所有権違反は即時罰金対象です。
「……もうこんなに進んでるのか」
まだ正式サービス開始から数時間しか経っていないのに、すでに“国家”や“企業”が生まれつつあった。
ヴィジオンの特徴は、プレイヤーが完全に世界を運営できること。
AIは基本的に干渉せず、犯罪や特許侵害などの明確な違法行為にのみ介入する。
つまり、ここではプレイヤー同士の社会がそのまま国家のように成り立つのだ。
街を歩いていると、広場で騒ぎが起きていた。
人だかりの中心には、黒いスーツの男と青い光を放つAIドローン。
《通告:プレイヤー“アラン=ヘルツ”による特許侵害を検出。
無断複製された製作機モデルは即時没収されます。》
「ま、待て! 俺のはただの試作品だ! 機構も違う!」
《照合率98.2%。模造品と判断。資産を凍結します。》
瞬間、男の装備や所持品が光に包まれ、すべて消失した。
群衆がどよめく中、AIは冷たく告げた。
《特許違反の刑罰:罰金および24時間の口座停止。》
「……マジかよ」
咲夜は息をのんだ。
これが、AIが裁く“法”の現実。
人の裁量は一切存在しない。
ルールを犯せば、容赦なく消される。
それから数時間、咲夜は街を探索しながら、土地情報を確認していった。
全ての区画では、各所有地に立っている杭が青く表示されていれば、購入可能かが示されている。さらに都市部であるため面積は狭いが一軒家であった。
資金は、初期支給の100万ヴィジオン。この初期支給金は換金することは出来ず常に100万ヴィジオン以下の場合は換金できないようになっていた。借金は可能なのだが。
今の資金で選べるのはせいぜい小さな区画だ。
「ここにするか……海に近いし」
購入を確定させると、ホログラムにAIの声が流れた。
《土地購入を確認。区画ID 2123はプレイヤー“咲夜”の賃貸所有権を登録しました。現実世界での1月ごとにゲーム内通貨で10万の引き落としが自動的に行われます。また税金が多少発生します》
「税金まであるのかよ……ほんとに現実だな」
軽く笑いながら、咲夜は自分が借りたした土地を再度確認した。都市部であるため面積は狭いが一軒家であった。
「まずは稼がないと、か……」
日が暮れ、街の灯がともる。
ヴィジオンの世界では、現実の4時間がゲーム内の1日として進行する。
空の色、風の温度、遠くで鳴る波音。
すべてが人工のはずなのに、どこか“現実以上の現実”に感じられた。
咲夜は空を見上げながら、独り言のように呟いた。
「しかし……この世界、本当にただのゲームなのか?」
AIが見ている。
無数のプレイヤーが動き出す。
そして誰もが、現実では得られなかった“もう一つの人生”を築こうとしていた。
その空の向こうで、AIの眼が光る。
無数のデータの流れの中で、咲夜の名もまた、ひとつの点として記録されていた。
――そして、“現実”と“幻想”の境界は、ゆっくりと溶け始めていた。




