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『エッセイ 三角形の家族 ─ 家庭のかたち』

作者: 小川敦人


『エッセイ 三角形の家族 ─ 家庭のかたち』


序章 かたちの秘密


 物理学は冷たい真理を語る。だがその冷たさの奥には、静かな優しさが潜んでいる。

 三角形は最小の安定形。二点はただの線であり、容易に揺らぐ。四点は一見強そうで、実はわずかな差でガタつく。だが三点――三脚のように、互いを補い合い、倒れにくい。


 私はこの単純な法則を、しばしば家庭に重ねてしまう。人は二人で結ばれるとき、まだ一本の線にすぎない。そこに第三の点が加わったとき、初めて「面」となり、暮らしは安定の色を帯びる。


 それは子どもかもしれないし、親や兄弟かもしれない。あるいは友人、地域社会、共に守る小さな命かもしれない。血縁に限らず、二人の間に「もう一つの支え」が加わるとき、家庭は三角形として息づき始める。


第一章 線から面へ


 夫婦二人の暮らしは直線である。

 直線は美しい。

 最短距離を描き、真っすぐに伸びる。


 若い日々の愛は直線に似ている。手を取り合って歩く道は単純で、光にあふれている。二人で囲む小さな食卓、見上げた夜空に願う未来。そこには張り詰めた輝きがある。


 しかし直線は脆い。外からの衝撃に弱く、支点が一つでも欠ければ崩れる。

 仕事の疲労、病の影、不意の試練――それらが襲うと、直線は容易に揺らぐ。


 だから人は第三の点を求める。

 その点が加わったとき、直線は面に変わり、家庭は三角形として立ち上がる。


# 第二章 三角形の安定


 三角形は安定を生む。

 物理学者の言葉を借りれば、それは剛性を持つ構造である。

 一本が揺れても、他の二本が支える。


 夫が倒れそうなとき、妻と子が残る。

 妻が涙を流すとき、夫と友が支える。

 子が幼さで揺らぐとき、両親が包み込む。


 三角形の内側には空間がある。そこには笑い声が響き、涙が静かに流れる。

 人はこの空間を「家庭」と呼び、「安心」と呼ぶ。


 詩人ならばこう言うだろう。

 ――三角形は、二人の線が呼び込んだ第三の星。夜空に瞬く光が降りてきて、暮らしを照らす形。


第三章 多角形の揺らぎ


 やがて三角形は膨らむ。

 子が増え、仲間が加わり、四角形、五角形へと広がっていく。


 四角形は、三角形ほどには安定しない。

 ほんのわずかなズレで、脚の長さが違うテーブルのようにガタつく。

 家庭もまたそうだ。兄と弟、姉と妹、夫と妻――その均衡は微妙で、バランスを欠けば軋みを生む。


 しかし、多角形の不安定さは必ずしも悪ではない。

 不安定さこそが賑やかさを生み、軋みこそが関係を深める。

 四角形は三角形に分割することで初めて安定するように、家庭もまた小さな三角形の連なりで支えられる。


 母と子、父と友、兄と妹――その小さな三角形の網の目が、多角形の家族を支えている。


第四章 収縮のとき


 だが時は流れる。

 子どもは成長し、やがて独立していく。

 家庭は広がった分だけ、また縮んでいく。


 多角形は三角形に、三角形は直線に。

 親族や友人の数も減り、夫婦は再び二人きりの線へと戻る。


 この老いの直線は、若き日の線とは異なる。

 あの頃は張り詰め、未来へ向かう強い線だった。

 今は柔らかく、風に揺れるような線。頼りなさもあるが、その揺らぎにこそ温かさが宿る。


 夕暮れの食卓で並んで味噌汁をすする。

 テレビの音が遠くに響く。

 互いに言葉は少なくとも、「まだ一緒にいる」という実感が心を満たす。


 社会からは少しずつ距離ができ、かつての賑わいは遠のく。

 それでも二人の線は、細くとも確かに続いている。


# 第五章 点へ


 そして最後には、その線も解かれていく。

 一人が先に旅立ち、残された者は点となる。


 点は、物理学的には最も不安定で孤独な形だ。

 だが同時に、すべての形が点から始まったことを忘れてはならない。


 宇宙はビッグバンという一点から始まった。

 人生もまた、産声という一点から始まり、やがて点に還る。


 残された点は孤独である。だが完全に孤立してはいない。

 過去に形成した三角形や多角形の記憶が、その点を支えている。

 賑やかだった日々の笑い声、涙を拭い合った瞬間、寄り添い合った沈黙。

 それらの記憶は、消えた線や面の残響として、点を包む。


 詩人ならこう言うだろう。

 ――点は孤独ではなく、宇宙の記憶を宿す種子である。


第六章 円への憧れ


 人はしばしば「円満な家庭」と言う。

 円はどこから見ても対称で、中心から等しい距離にある。最も調和のとれた形だ。


 けれども現実には、完全な円の家庭は存在しない。

 人はそれぞれ異なる性格と欲望を持ち、距離の違いを抱えている。

 だから、家庭の形は三角形や多角形にとどまり、円は理想として夢に描かれるだけだ。


 だが、その夢こそが人をつなぐ。

 「円満でありたい」という願いは、たとえ実現しなくとも、揺らぎを和らげ、支えとなる。

 物理的には不可能であっても、精神的には力を与える。


終章 家庭という物理法則


 線から三角形へ、三角形から多角形へ。

 やがて収縮して線となり、最後は点に還る。


 この形の移ろいは、悲しみだけではない。

 三角形に安定を見いだし、多角形に賑わいを経験し、老いの線に静けさを受け入れ、最後に点となる。

 そのすべてが、人の営みの自然な流れである。


 物理が語る真理は、壊れないことを安定と呼ぶのではなく、

 変化を受け入れながら続いていくことこそ安定である、ということだ。


 ――人は揺らぎながら生き、やがて原点へと還っていく。

 家庭とは、その揺らぎを共に歩むための形であり、物理が与えたもう一つの法則なのかもしれない。



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