終章 私という迷宮(ラビリンス)
自分を責める声は、いつだって私の中にあった。
それは母の声に似ていて、教師の声に似ていて、かつて愛した誰かの沈黙に似ていた。
──また、間違えたね。
──どうして、普通になれないの?
──あなたが悪いのよ。いつも。
過敏で、不器用で、繊細すぎる自分。
それを“治す”ことが回復だと、ずっと思い込んでいた。
けれどある日、気づいたのだ。
この声たちは、“他者の残響”に過ぎない。
それらは、私の神経系に刻まれた古い記憶であり、誰かの価値観が刷り込まれたノイズだった。
本当の私は、もっと静かで、もっと透明な場所にいた。
私は自分の過去を、いくつかの断片として見直した。
彼に心理的に侵入された日々。
母とぶつかり合いながらも、その眼差しに傷ついてきた子ども時代。
自分という存在が、常に“誰かにとっての何か”としてしか認識されてこなかった歴史。
「私は、誰かの期待を満たすために生きてきたのか?」
そう問いかけると、答えはすぐに出た。
──違う。私は、私としてしか生きられなかったのだ。
◆
その日、私は鏡の前に立ち、ひとつの行動に出た。
髪を結ぶことも、化粧を整えることもせず、ただじっと、自分の目を見つめた。
映っていたのは、不完全で、弱くて、時に利己的で、しかし確かに生きようとしている“生き物”だった。
「ごめんね」と私は口にした。
それは、かつての自分――傷つきやすくて、強がってばかりだった自分への言葉だった。
「あなたは何も悪くなかった。生き延びようとしていただけだった」
その瞬間、不思議な感覚が胸に広がった。
許しとは、他者に向けるものだと思っていた。
だが、最も困難な“許し”とは、自分自身に向けるものだった。
私は、私を責めることをやめた。
私の過敏さ、気難しさ、孤独の渇き、それらすべてを「特異な神経設計」として受け容れることにした。
「私は、こういう人間だ。けれど、それでいい」
その言葉は、まるで新しい神経接続のようだった。
未使用だった内なる回路が、今ようやく開通したような。
自己理解ではなく、自己の“承認”。
それは革命ではなかった。静かな決定だった。
◆
夜が深まり、私はノートを開く。
かつて彼に言えなかった言葉、自分自身に投げかけられなかった質問、それらを一つひとつ書き出していく。
「私の価値は、他者によって測られるものではない」
「孤独は、罰ではなく、思考の贈与だ」
「共感は、支配の道具ではなく、差異を尊重する橋である」
書き終えたとき、私は気づいた。
それは、“彼”への手紙ではなく、“過去の私”へのラブレターだったのだ。
そして私は、ようやく迷宮の中心にたどり着いた。
そこには、もう誰もいなかった。
ただ、私自身だけが立っていた。
孤独ではなかった。
ようやく、「私という存在」と再接続できたのだ。