第1章
彼からのメッセージが途絶えたのは、ある雨の夜だった。
通知音が鳴らない――ただそれだけのことに、心がざわつく。それが単なる情報の未着ではなく、意味を孕んだ沈黙であるように感じてしまうのは、私の脳がいつのまにか彼の言葉に「期待」という名のトラップを掛けてしまっていたからだった。
いや、違う。期待ではない。すでに「承認」されることへの依存だった。
彼は、人間が本質的に孤独であることを、巧妙に、静かに、私にすり込んできた。「君は誰にも理解されない。だが僕は、その孤独を理解できる」――それは甘くて、しかし極めて危険な言葉だった。
私の中にあった脳科学の知識や、認知心理のロジック。彼はそれらを吸収し、私自身の地盤に立って、私を崩しにかかった。
「人間は結局、孤独でしかない」と彼が言ったとき、私はただ頷いた。その一言には、私の人生の過敏さや、他人との距離感、あらゆる孤立の記憶が凝縮されていた。だからこそ、その理解者であろうとする彼の存在は、許しがたく魅力的だった。
彼のメッセージが来ないだけで、私はなぜか胸がざわついた。あれほど冷静なつもりでいたのに。「もしかして何か、気に障ることを言ってしまったのだろうか」「でもきっと、忙しいだけだ」そうやって自分をなだめようとする反面、別の声がささやく。「あなたがこの世で唯一、理解されるべき対象だと彼が思わなくなったのかもしれない」と。
それは明らかに“歪み”だった。認知の歪み。私は理性でそれを把握していた。だが、感情は理性よりも数秒早く反応し、身体の奥から不安という名の毒素を分泌していた。
この構造――そう、これは「変動間隔スケジュール」だ。行動心理学でいう、報酬の間隔が不規則なほうが行動は強化されやすい、あの条件づけ。私は、それを知っている。知っているのに、逃れられない。
彼の言葉は、感情に対する報酬だった。不規則に届く肯定と、合間に走る沈黙が、私の感情の可動域を狭め、彼の言葉だけが価値を持つ世界へと誘導していた。
「あなたの孤独を僕だけはわかる」
それは、共感のように見えて、実際にはハンティングの罠だったのかもしれない。
そして私は、実験動物のように、反応を繰り返していた。彼のメッセージ一つに、一喜一憂して。脳科学を知っている自分自身が、その構造の中で「理解したまま破滅に向かう」という皮肉に囚われていた。
何度か、メッセージを送ろうとして、やめた。彼が私に投げた“理解”という名の網が、私の知性のフィールドに張り巡らされていたから。だから私の言葉は、すべて解釈され、加工され、さらに深く私を捕らえる武器になりそうな気がしていた。
結果、私は彼の連絡先を削除した。
逃げた、と言えばいい。だが、その逃走には、私自身の意思よりも、自己防衛本能が強く働いていた。感情が、自己崩壊を恐れて叫んでいた。
私は、自分が「女」であるというだけで、彼の視線に対象化される不快さに耐えられなかった。そして、それでもなお、自分の孤独を理解してくれる存在を求めてしまったという事実に、強い自己嫌悪を抱いていた。
人間は、脳によって動いている。感情も恋も承認欲求も、すべて脳の電気的興奮に過ぎない。そう知っていたはずなのに。私は、誰かに理解されたいという、生き物としてのプリミティブな願いに抗えなかった。
そして彼は、その隙を突いた。
だが、それでも――
私は、私の脳が、どれだけ感情に呑まれてもなお、それを見つめ返す目を持っていることに気づいたのだ。
それは、唯一の救いだった。