第3章
僕の頭の中は、メリーゴーランドの惨劇と、みずきの顔、そして目の前のアイボウの存在が、複雑に絡み合っていた。思考を整理しようとするが、脳みそが上手く働いてくれない。まるで深い霧の中にいるかのように、思考の糸がもつれていく。
「今はぼんやりと意識がかすんでいて、スムーズに思い出すことができない」。
僕の心の声が、そのまま言葉になる。この夢の中では、現実の僕とは違う、どこか頼りない自分がいる。
「今の俺は…いつもの俺じゃない…」。
そう呟くと、僕は自分の内側に、奇妙な違和感を覚えた。
「まるで別の脳の中へと潜り込んでしまったような…そんな奇妙な違和感に包まれていた」。
この夢は、僕自身の夢でありながら、どこか他人の夢を覗き見ているかのような感覚だった。
「それよりも、この部屋に見覚えはないか?」。
アイボウが、僕の思考を遮るように問いかけた。彼女の瞳は、この薄暗い部屋の隅々までを見透かしているかのようだった。
僕は、部屋の中を改めて見渡した。古びた木製の床、剥がれかけた壁紙、そして奥にあるキッチンとダイニングテーブル。どこかで見たような、しかし思い出せない既視感。
「まったくわからん」。僕は正直に答えた。
「そうか、まあいい…」。
アイボウは、僕の答えにわずかに肩をすくめた。彼女の表情は、どこか諦めを含んでいるようにも見えた。彼女の右腕が、まるで血潮のように赤く輝き、その光が薄暗い部屋をわずかに照らしている。
そして、彼女は僕に視線を合わせ、不敵な笑みを浮かべた。「さあ、始めるぞ」。
「始めるって、なにを?」。
僕の問いかけに、アイボウは答えることなく、その表情を真剣なものへと変えた。彼女の全身が、青白い光に包まれ、まるで稲妻が走るかのように、彼女の体から光の筋が放たれる。
「ソムニウムスキャン開始!」。
アイボウの声が、部屋中に響き渡った。その言葉と共に、僕の視界が歪み始める。青白い光が、僕の視界を覆い尽くし、世界が急速に変化していく。
「うむ、わかったぞ」。
アイボウの声が、どこか遠くで聞こえる。
アイボウは、僕の混乱をよそに、その腕を胸の前で組み、口を開いた。「私は今、おまえの夢の世界をスキャンした」。その言葉に、僕は呆然とした。僕の夢が、スキャンされた?
彼女の背後の壁には、奇妙な茨のようなオブジェが浮かび上がっていた。その背景には、「Mental Lock #1」という文字が薄く浮かんでいる。
「それを基にシミュレーションした結果、いくつかの『Mental Lock』が見つかった」。
アイボウの声が、淡々と告げる。
「メンタルロック?」。僕は、その聞き慣れない言葉を繰り返した。それは一体、何を意味するのか。
アイボウは、僕の反応に呆れたように、ため息をついた。「やれやれ、そんなことも思い出せないとは…」。その言葉は、僕が記憶を失っていることを、改めて突きつけるものだった。
「よほど思考能力が鈍っているようだな」。彼女の言葉には、わずかな皮肉が混じっていた。僕は、何も言い返すことができない。この夢の中では、僕の思考は、まるで霧に包まれたかのようにぼんやりとしているのだ。
アイボウは、僕の正面に立つと、再び口を開いた。「夢の世界とは要するに深層意識の世界のことだ」。彼女の言葉は、この奇妙な空間の正体を示唆していた。ここは、僕の意識の最も深い部分。
そして、彼女の背後の壁に、再び文字が浮かび上がった。今度は、「Mental Lock #2」と記されている。背景には、重い鎖が絡み合っているかのように見える。
「その世界はいくつかのレイヤーに分かれていて、それぞれの層の境目に基盤となる部分が存在する」。
アイボウは、僕の夢の世界の構造を説明する。まるで、僕の精神が、複数の階層に分かれているかのように。
「この基盤のことを『Mental Lock』と言うんだよ」。
彼女は、その言葉を締めくくった。
つまり、メンタルロックとは、僕の深層意識の各層を隔てる「鍵」のようなものなのだろうか。僕の失われた記憶、そして事件の真実が、これらのメンタルロックの向こうに隠されているのだとしたら。この夢の中で、僕はその「鍵」を解き放ち、真実へと辿り着かなければならない。アイボウは、その過程を僕に強いているのだ。
アイボウは、その赤い瞳で僕を見つめ、静かに、しかし断固たる口調で告げた。「ここを突破しない限り、我々は意識のより深い層へと沈んで行くことはできない」。僕の失われた記憶、そして事件の核心に迫るためには、このメンタルロックを解除することが必須なのだ。
「深層に至らなければ真実はわからず…」。アイボウの声が、この夢の目的を明確にする。彼女の言葉は、この夢の中での僕の行動が、現実世界の事件の解明に直結していることを示唆していた。
「したがって我々は常に…」。アイボウの言葉は、僕がこの夢の中で、常に意識的に行動しなければならないことを意味しているようだった。
僕は、その言葉を理解しようと、頭の中で反芻した。「あー、えーと、要するに『Mental Lock』とかいうやつを解除すればいいんだな?」。僕は、確認するように問いかけた。複雑な情報を、僕なりに簡潔にまとめたつもりだった。
アイボウは、その問いに何も答えなかった。ただ、彼女の背後の壁に、奇妙な茨のようなオブジェが、薄暗い部屋の照明の中で、不気味な影を落としているのが見えた。その奥には、錆びついた鎖で固く閉ざされた扉がある。
「まずは明かりを」。僕は、部屋の様子を改めて見渡しながら呟いた。
「まずは明かりを点けて、ドアを開ければいいのか?」。僕は、単純な思考でそう結論付けた。現実世界での捜査と同じように、まずは周囲を明るくし、閉ざされた扉を開く。それが、この夢の中でも基本なのだと。
「なら、すぐに終わりそうだな」。僕は、どこか楽観的にそう口にした。この夢が、案外早く終わるのではないかと、期待したのだ。
しかし、アイボウは、僕のその楽観的な思考を、冷たく、そして明確に打ち砕いた。彼女の表情は、どこか呆れているようにも見えた。「そう簡単にはいかないのが、夢の世界の難しいところだ」。彼女の言葉は、このソムニウム世界が、現実の論理が通用しない、予測不能な場所であることを改めて突きつけた。
アイボウは、僕に視線を合わせた。「そうだ、まずは手始めに、あのドアを調べてみよう」。彼女の瞳には、僕を導くような、しかし、どこか挑戦的な光が宿っていた。
「あのドアまで私を移動させて、指示を出してくれ」。
彼女は、そう言って、僕に指示を求めた。僕は、目の前にそびえる鎖で閉ざされた扉を仰ぎ見た。