第1章
薄暗がりに沈む、古いメリーゴーランド。かつての賑わいは影を潜め、鉄と木の朽ちた匂いが、周囲に漂っていた。その中央で、何者かの死体が横たわっている。僕、伊達は、その光景を前に、静かに佇んでいた。隣には、僕の左の眼窩に組み込まれたAI、「アイボウ」が、いつものように冷静な声で情報を伝えてくる。
僕の脳内で、アイボウの視覚情報がオーバーレイされる。死体を詳細に分析するのに役立つだろう。
「『ズームモード』を使うんだな?」僕は問いかけた。
「ああ、そうすれば、近寄らなくても調べることができるだろう?」アイボウは、僕の思考を先読みしたかのように答えた。
メリーゴーランドの周囲には、赤い光の線が、静かに、しかし明確に張り巡らされていた。「周囲に赤い規制線が張りめぐらされている」その光は、血の色を思わせ、現場の不穏さを際立たせる。
「昔は『KEEP OUT 立入禁止』と書かれた黄色いテープを使っていたが」と、アイボウが過去を語る。「ホログラム技術の向上によって、現在は主にこの照射式の規制線が用いられている。」テクノロジーの進化は、こんな場所にも影を落としているのか。
僕の視線は、メリーゴーランドの片隅にある小さな建物へと向けられた。「制御室、とでも言うのだろうか…?」その無機質な外観は、どこか冷たい印象を与えた。「正式名称は不明だが、とにかく係員がメリーゴーランドを動かしたり止めたりするためのものだ。」アイボウが、淡々と説明する。
「さっき中をのぞいてみたが、手がかりになりそうなものは見当たらなかった。」アイボウの声には、微かな落胆の色が滲んでいた。
死体からは、不気味なほどの沈黙が漂っている。周囲の遊具は、かつての楽しかった記憶を嘲笑うかのように、ただ静かに佇んでいた。僕はアイボウの「ズームモード」を起動し、死体へと焦点を合わせた。微細な部分までが、鮮明に僕の目に飛び込んでくる。この小さな光景の中に、事件の糸口が隠されているはずだ。そして、その手がかりが、このメリーゴーランドに秘められた、もっと深い闇へと僕を誘うことになるだろう。
メリーゴーランドの中心で横たわる死体。その姿は、この夜の闇を一層深くしていた。周囲にはホログラムの赤い規制線が静かに輝いている。かつて使われていた黄色いテープは、今では稀にしか見られなくなった。僕は、左の眼窩に埋め込まれたAI「アイボウ」の機能である「ズームモード」を起動し、被害者の顔へと焦点を合わせた。
死体の顔が、モニター越しに鮮明に映し出される。その情報に、僕は思わず息を呑んだ。
「眼窩の中に、なにもない」。アイボウの、感情のない声が告げる。
その言葉が、僕の脳裏に現実として突きつけられる。被害者の顔には、目を覆うべき悍ましい穴が二つ、ただ虚しく開いていた。
「目玉がくり抜かれている」。
血の跡が、まるで涙のように、眼窩から頬へと流れ落ち、その生々しい赤色が、死体の白い肌に異様なコントラストを描いていた。
「左目が…」僕は、かすれた声で呟いた。この現場に広がる不穏な気配と、視覚情報が、僕の思考を鈍らせていく。
アイボウは、さらに情報を追加する。「おそらく殺害した犯人が抜き取ったものと思われる」。その機械的な声は、淡々と、しかし確かな結論を導き出していた。
だが、僕はその即断を許さない。「そうとは限らないだろう」。僕の脳裏には、別の可能性がよぎった。「殺された後、カラスか何かがついばんだのかも…」。荒廃した世界では、動物が死体を漁ることは珍しくない。
アイボウは、僕の言葉をきっぱりと否定した。「それはありえない」。
そして、僕の疑念を打ち砕くような、決定的な情報を提示した。
「出血の量から考えて、眼球が抜き取られたのは被害者の生存中であることは明らかだ」。
その言葉が、僕の心臓を鷲掴みにした。
「つまり、生きながらにして目玉をくり抜かれたと…」。
僕は、口の中でその残酷な事実を反芻した。被害者が味わったであろう、想像を絶する激痛と恐怖。その想像が、僕の胃の奥から込み上げる吐き気となって、喉元まで迫ってきた。
メリーゴーランドの中心で横たわる死体。その顔を、僕はズームモードで詳細に調べていた。眼窩の虚ろな穴から、生々しい血の筋が、まるで涙のように頬を伝い落ちている。その悍ましい光景に、僕は思わず身震いした。
「左の眼球がない」。アイボウの無機質な声が、その事実を淡々と告げる。「犯人に奪われたらしい」。
僕の脳内では、すでに幾つもの推測が渦巻いていた。アイボウが最初に言った通り、犯人が持ち去ったのだろうか。
「そうか」。僕は短い言葉で相槌を打つ。
「今のところ、この現場の近くから眼球が見つかったという報告はない」。アイボウの言葉は、その可能性を裏付けるものだった。
僕は問いかけた。「犯人が持ち去ったっていうのか?」。
「その可能性が高い」。アイボウは、僕の問いに明確に答える。
頭の中に、次の疑問が浮かび上がる。「なんのために?」。目玉をくり抜くだけでなく、持ち去る。その行為に、理解しがたい異様さを感じた。
「それを調べるのがおまえの仕事だ」。アイボウの声は、僕にそう告げる。それは、僕の役割を思い出させる、冷静で的確な指摘だった。
さらにアイボウは、死体への分析を続けた。「胸郭前方面部に有尖刃器による複数の刺創を確認」。その言葉に、僕は思わず身震いした。尖った刃物で、何度も刺されたというのか。その想像が、僕の胃の腑を締め付ける。
「死因はこれによる失血死」。アイボウの声は、淡々と、しかし確かな結論を突きつけた。
そして、その死の残酷さを、決定的な情報が裏付ける。「死体温、および死後硬直の進展状況から、死亡推定時刻はおよそ6時間前…」。アイボウの分析は、僕がこの現場に到着する、ほんの数時間前の出来事であることを示していた。
生きながらにして目玉をくり抜かれ、そして、刺殺された。その想像は、僕の心を深く凍りつかせた。これは、単なる殺人事件ではない。
その時、再び、あの奇妙な音が耳に届く。金属が軋むような、微かな、しかし確かな響きだ。それは、メリーゴーランドを支える中央の柱の中から聞こえてくるという。
「柱の、中…?」 僕は思わず呟いた。この中から物音がするというのは、どういうことだ。
「伊達、中を透視してみよう」。アイボウの声が、僕の脳内に響く。「『X線モード』に切り替えるんだ」。
僕は、アイボウの指示に従い、視覚モードを切り替えた。周囲の色彩が失われ、世界は青みがかったモノクロームの線画へと変わる。メリーゴーランドの柱が、その内部構造を露わにした。
「マジかよ…」。
僕は、思わず声に出していた。X線モードで透視された柱の内部には、確かに何かがある。それは、まるで人間の骨格のような、奇妙な形状の影だった。
「中に誰か、いるようだな…」。
アイボウの声が、僕の思考を肯定した。柱の中に、人間がいるというのか。この状況は、僕の理解を遥かに超えていた。
外は、雨が降り始めていた。冷たい雨粒が地面を叩く音が、僕の心臓の鼓動と重なるように響き渡る。
僕の思考は、もはや理屈では追いつかない。僕は手に持っていた傘を無造作に投げ捨てた。黒い傘は、音もなく地面に転がり、雨に濡れていく。
僕は、衝動的に柱のもとへ駆け寄った。
「あ、ちょっとまだ…!」。
背後から、鑑識官らしき男の焦った声が聞こえた。しかし、僕は立ち止まらない。
「うるさい!」。
僕は、苛立ちと焦燥が入り混じった声で、その声を遮った。この奇妙な音の正体、そして柱の中にいる「誰か」の存在が、僕の理性を掻き立てていた。
そして、僕は、メリーゴーランドの中央にある柱の前に立ち、鋭く一喝した。
「おい、誰かいるんだろ!答えてくれ!」。
僕の声は、雨音に掻き消されそうになりながらも、地下通路の奥へと響き渡る。
しかし、返事はなかった。
柱は、ただ沈黙している。
メリーゴーランドの柱の中から聞こえる奇妙な音。僕は、X線モードで透視したその内部に、まさしく人間の骨格のような影を確認した。得体の知れない不安が、僕の胸を締め付ける。雨足は強まり、冷たい雨粒が顔を叩きつける。
僕は衝動的に、柱のすぐそばまで駆け寄った。雨に濡れて冷たくなった金属の感触が、僕の指先に伝わる。よく見ると、柱の一部分に、わずかな継ぎ目のようなものがあり、そこに小さな取っ手が取り付けられているのが目に入った。まるで、この柱が扉であるかのように。
僕はその取っ手を掴み、開こうと試みたが…。重い金属が、びくともしない。
「ダメだ…」。
僕は、歯噛みした。予想通りの結果ではあったが、苛立ちが募る。
「どうやら内側からロックされているらしい」。アイボウの声が、冷静に告げる。その事実が、僕の焦燥感をさらに煽った。
「くそっ…!」。
僕は、苛立ちと無力感に苛まれながら、柱を睨みつけた。中に誰かがいる。しかし、開けることができない。このままでは、時間が経つばかりだ。
その時、柱の内部から、再び音がした。今度は、先ほどよりもはっきりと、何かが動くような、擦れるような音だ。そして、その影が、より鮮明にX線モードの視界に映し出される。それは、明らかに人間の動きだった。
「おい、中の奴、危ないから下がってろ!」。
僕は、柱に向かって叫んだ。中にいるのが誰であろうと、このままでは危険だ。焦燥と、かすかな予感が、僕の声を荒げる。
僕は、さらにその影に焦点を合わせる。その輪郭が、ゆっくりと、しかし確実に明確になっていく。そして、その影が、僕のよく知る人物の輪郭を象っていくのを見て、僕は息を呑んだ。
その姿が完全に露わになった瞬間、僕の喉から、掠れた声が漏れ出た。
「みずき…」。
まさか、こんな場所に。僕の思考は、完全に停止した。メリーゴーランドの柱の中に、あの、みずきがいたのだ。この信じられない状況が、僕の心を激しく揺さぶった。