3-1
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六月七日、水曜日。
ナナセは前の席の辻村さんと楽しげにお喋りをしている。
「ヨミ。ニヤニヤして気持ち悪いぞ。鏡を見せてやろうか」
隣の席のメガネ男である高鳥が話しかけてきた。
「まじ?」
「ああ。スマホを見て一人でニヤニヤしている奴、いるだろう。あんな感じだ」
「そんなに」
「舞羽ナナセか。昨日もなにやら話していたな。いつの間に仲良くなったんだ」
「……別に?」
「本当にそうか?」
「うるさいな。そんなに好きなら行ってきなよ、ナナセのとこに」
高鳥は、ふむ、と呟いて腕を組む。
「ようくわかった」
それきり、メガネ男は黙り込んでしまった。変なやつ。
*****
今日は部活の日なので、普段通り部室へと向かった。特に何も考えず、いつもと同じに見える扉を開ける。
「失礼しま……あっ!」
中には下着姿の閏間さんがいた。
今回は両手にジャージの短パンをもって立ち竦んでいる。やっぱり着替え中で、やっぱり無表情だった。相変わらず胸がだいぶ大きいので本当にありがとうございました。
「ごめん、まちがっ――うわ!?」
何かが起きる前に扉を閉めようとして、閉めきれなかった。隙間から伸びた閏間さんの腕が、ホラー映画のように僕の腕を掴んでいたからだ。
「待って」
「ごめん。ごめんなさい。また間違っちゃいました」
「それは構わない」
「えっなに。じゃあ逆に入れってこと……?」
「着替えるから、そこで待っていて」
「あ、ハイ」
閏間さんの腕が引っ込んで扉が閉まる。
色々あってすっかりこの部屋のことを忘れていた。でもさ、着替えるなら鍵は閉めておこうよ。
*****
「入って」
部屋の中から声がかかって、恐る恐る扉を開いた。
「失礼しまーす……」
閏間さんは学校指定の赤ジャージに着替えていた。袖まくりした長そでの上着と膝上までの半ズボン、そして灰色のくるぶしソックスに上履き。黒髪ポニテの頭部には相変わらず一切感情のない鉄の無表情が貼り付いていた。
「座って」
閏間さんに椅子を勧められる。
部屋はそれほど広くない。所謂『準備室』というやつだろう。真ん中に机と椅子がセットで置かれており、その対面に急遽引っ張ってきたらしいパイプ椅子が置かれていた。まるで面接だ。そのパイプ椅子に腰かけると、閏間さんも対面の席につく。
ここまできたらもう見て見ぬふりはできない。僕は思わず質問していた。
「ごめん、聞いていい? 何、この部屋」
部屋の中はツッコミどころ満載だった。
まず閏間さんの机の周囲。様々な種類の黒光りする銃火器がラックに収まって整然と並べられていた。というか、机の上にも拳銃が置いてある。
そして、部屋に備え付けられた棚の中には、何に使うのかもわからない多種多様な機材が所狭しと並べられている。ギターアンプみたいな形の箱とか、パラボラアンテナみたいな円盤とか、とにかく様々な形のものだ。
閏間さんはロボットのような無表情で僕のことを見ている。暫しの後に、彼女は口を開いた。
「ちょうど、夜見くんと話がしたかった」
「そうなの?」
「舞羽ナナセのこと」
「……なんで?」
一瞬だけ、部屋がしんと静まり返った。閏間さんが表情を変えずに口を開く。
「そのためには、まず私自身のことを説明しなければならない。この部屋のことは後で説明する」
「あ、なんだ。スルーされたと思ってた、さっきの質問」
「順番に説明させてほしい」
「わかった、聞くよ」
閏間さんは小さく頷くと、淡々とした口調で話し始めた。
「本来、私はこの学校の生徒ではない。閏間莉明は、遺失技術管理機構SHELF第十五蒐集室の実働蒐集員として活動している。現在は埒外存在への対処のため、この学校で潜入調査を実行中」
「……はい?」
「遺失技術管理機構シェルフとは、世界中のあらゆる埒外技術を蒐集、管理する組織。一般社会からは認知できないよう完全に秘匿された、人間世界の影に潜む巨大な管理機構」
「遺失……技術……かん、り?」
「遺失技術管理機構シェルフ」
「あっはい」
閏間さんのガラス玉みたいな瞳がまっすぐに僕を見ている。冗談って感じじゃないな、これ。
「ごめん、待って。いきなりすぎて……」
「もう一度始めから説明した方がいい?」
「いや! いい、いい。もういい。大丈夫。つまり、閏間さんは……」
「遺失技術管理機構シェルフ」
「――のメンバーで、この学校に潜入していると」
「そう」
「シェルフっていうのは、なんかの秘密組織?」
「その認識で問題ない」
「……へぇー」
普通はクラスメイトにこんな話をされたら『ちょっとやばい人かな』と思って距離を置くだろう。ただ、もっとやばい女子高生(命を狙われている天使)がクラスにいるので、秘密組織の構成員くらいいても不思議じゃない気がする。
「いったん、閏間さんの話を信じるとして。じゃあ秘密組織の人がうちの学校にきた理由は?」
「シェルフの目的は、『ヒトの世界』を維持すること。この世界にあってはならないものを秘匿、排斥、保全し、管理することを目的とした組織」
「あってはならないものって?」
「世界の表舞台にそぐわない存在のこと。分かりやすい例としては、神話や伝説として語られる神々、竜、妖精、悪魔などが挙げられる。私達はそれを『埒外の存在』と呼んでいる」
「……なるほど」
神々だの竜だのがいるわけないじゃん、そんなの作り話だよ。って、言えたらよかったんだけど……いるんだよな、天使。どこからともなく現れて天使を殺しに来る巨人というオマケつきで。
「シェルフは『埒外の存在』を許容しない。目に見えるもの、触れられるもの、数式で表せるもの……つまり物理法則に支えられた現代文明に、『埒外の存在』の居場所はない」
「埒外の存在、ね……」
「そう。シェルフの目的は、そういった存在や物品を蒐集、ときには排斥し、ヒトの世界を保護することにある」
閏間さんは、そこで一度口を閉じた。
この世界にあるはずのないモノを、集めたり排除したりする組織。ここまで説明されれば、閏間さんが話したいこと、その論点が見えてくる。つまり――
「ここからは、天使……舞羽ナナセの話をさせてほしい」
「……だよね」
窓から差した午後の光が、黒髪の少女を背後から照らしている。窓の外、グラウンドの喧噪が遠く聞こえて、部屋に満ちる静謐な空気をいっそう際立たせていた。
「舞羽さんが本当に天使であることは、もう説明しなくても大丈夫?」
「……まあ、うん」
「わかった。それなら、私達の認識から説明する」
閏間さんの無機質な瞳が、僕の目をじっと見つめている。
「舞羽さんは天使であり、天界に属する存在。それが、何故か彼女は天界からの攻撃を受けている。先週の木曜日、校舎には複数体の『制圧躯体』が交戦した形跡があった。また、昨日は上空で『制圧躯体』が交戦している様子、その経緯を観測できた」
「……」
「シェルフは各種の分析を実施し、天界の攻撃から舞羽ナナセを保護しているのは夜見府容である、そう結論付けた」
ひやりとした感覚を覚える。
誰にも話したことのない、僕とナナセしか知らないと思っていた一連の事件。それを、閏間さんは事もなげに説明してみせた。
閏間さんは嘘をついていない、そう実感する。『秘密組織』というのは冗談じゃなくて、彼女は本当のことを言っているんだ。計り知れない巨大なものがすぐそばで蠢いている……背筋が凍るような、不気味な感覚だった。
「安心してほしい」
「……え?」
気付けば、黒い瞳が僕の顔を覗き込んでいる。
「シェルフは、あなた達に危害を加えるつもりはない。どちらかと言えば逆」
「逆?」
「夜見くんは舞羽さんと仲良しだから」
「えっ」
「昨日も二人で会話を楽しんでいる様子が確認できた。夜見くん以上に舞羽さんと親密な関係を築けた人間は存在しない」
「待って待って、急になんの話!?」
「つまりシェルフは、舞羽ナナセとの交渉役として、夜見府容に期待している」
「……交渉?」
意味が分からず、聞き返してしまう。閏間さんは相変わらずの無表情で続けた。
「シェルフの目的は、『埒外の存在』を秘匿、排斥、保全すること。しかし、『埒外の存在』にヒトの力で対抗するのは容易ではない。夜見くんも天使の性能は知っているだろうから、理解してもらえると思う」
「性能って……」
「だから、シェルフは舞羽ナナセの力を管理・運用したいと考えている。彼女のようにヒトの世界に理解を示す『埒外の存在』は珍しい。交渉次第では、その力をシェルフの目的のために運用できると、現時点では判断されている」
「ちょっと待って、『運用』とか『管理』とか……ナナセを道具みたいに言うのはやめない?」
閏間さんが口を噤んで、空気が固まったかのように停止する。
「……ごめん、言い過ぎたかも」
「問題ない。シェルフの意図を可能な限り客観的に説明したつもりだった」
そう言った閏間さんが、少し申し訳なさそうにした――ように見えたのは気のせいだったか。やっぱりその表情に変化はなく、ロボットみたいに無機質な印象のままだった。
「で、交渉だっけ?」
「そう」
「ナナセに『シェルフを手伝ってほしい』って頼むってことだよね?」
「その認識で問題ない」
「……だったらさ、わざわざ僕を通さないで、ナナセに直接聞いてみれば?」
率直な疑問をぶつけると、閏間さんは少しの迷いもなく即答した。
「もし舞羽さんとコンタクトを取れたとしても、きっと協力してもらえない。九十パーセント以上の確率で拒否される」
「あー……まあ、そうだね」
今の話をナナセにしても、『イヤだ』と言われておしまいだろう。
「上位存在である天使に拒絶されてしまえば、再接触はほぼ不可能。慎重に交渉を進める必要がある」
「僕が頼んだって断られると思うけど」
「あくまで可能性の一つとして考慮されているだけ。むしろ、私は……」
そこで、閏間さんは言葉を切った。彼女はゆっくりと瞬きをしてから、再び口を開く。
「警告、させてほしい」
「……警告?」
その言葉で、空気が重くなるのを感じた。少女の言葉は淡々と続いていく。
「これは本来、夜見くんのような一般人が関わるべき案件じゃない。あなたの人生に取り返しのつかない影を落とす可能性がある。非常に危険。一刻も早く、手を引くべき」
それきり、閏間さんは口を噤んでしまった。
遠くで吹奏楽部のラッパの音が聞こえる。窓の外からは、運動部の掛け声が辛うじて届いていた。僕は雰囲気に圧されて何も言うことができず、時間が止まったような沈黙だけがこの部屋を支配している。閏間さんは無表情のまま、『説明は終わった』とばかりに黙り込んでいた。
「えっと……」
黒い瞳は、瞬きもせずにこちらを見つめている。
「じゃあ、もう行くよ。……部活あるし」
「うん」
重苦しい空気に耐えきれず、仕方なく部屋を出る。結局、この部屋については教えてもらえなかったけど、今更そんな説明を聞こうとは思わなかった。
*****
『たすけて』
『今駅前のショッピングモールにいるから』
そんなメッセージがナナセから送られてきたのは、日曜日の午前十一時のことだ。
その通知音で目覚めた僕は、この前の閏間さんの話もあって、返事もせずに慌てて家を飛び出した。
「これ、どう? いい感じ?」
そんな僕を待っていたのは、私服姿の天使だった。
それはナナセが火曜日に買った服だ。萌え袖になるくらいのオーバーサイズの白パーカーに、黒のホットパンツ、薄めの黒タイツにスニーカー。目立つ銀髪はポニーテールにして、頭には黒のキャップを乗せている。
うん。意見を求められた結果ちょっと僕の好みが入っているのもあって、とてもいいと思う。
「似合ってるよ。似合ってるけどさ」
「けど?」
「ナナセさんね、メッセージで嘘つくのやめない? 心臓に悪いから」
「別に嘘はついてないでしょ」
「いやいや。だってほら、『たすけて』って書いてあるじゃん」
「だから、今日も虚像天使が来るってこと。助けてほしいのは本当だし、間違ってなくない?」
「……そういうことね」
虚像天使か。この前、秘密組織がナナセを利用しようとしているみたいな話を聞いたばかりだから、無駄に焦ってしまった。
「なんか安心してない?」
「いや、してないしてない!」
シェルフのことも心配だけど、虚像天使だって十分やばい存在だ。気を引き締めないと!
「とりあえずさ、ご飯食べに行こうよ。お昼ご飯」
そんな僕にはお構いなく、心なしか上機嫌なナナセは萌え袖をぶんぶん振って、小さく歌を口ずさみながら歩き出したのだった。
*****
最近、やたらと眠い。
元々よく寝る方だし、授業中の居眠り常習犯ではあったけれど、それは寝るのが好きだからだ。ただ、最近は不可抗力的に眠いというか、起きてられないことが増えていた。いろいろあって疲れているのかもしれない。
つまり、二、三時間ナナセに連れまわされた僕は、体力の限界が来たのか眠すぎて歩きながら寝そうになっていた。
「ごめん、ナナセ……ちょっと寝ていい?」
「え、今? せっかく遊びに来てるのに? 夜寝ればいいじゃん」
「違うんだって……一時間でいいから……」
ナナセは立ち止まってしげしげと僕を観察すると、「……ほんとに眠そうだね?」と聞いてきた。
「わかる?」
「もー、しょうがないなあ。じゃあ一時間ね! 午後四時にここに戻ってくるから!」
そう言い残すと、ナナセは一人でどこかに遊びに行った。ちょっと心配だったけど、僕は眠気に負けてエスカレーター横の休憩用ソファーで静かに目を閉じた。
*****
「……んぱい、ヨミせんぱい。起きてくださいよー」
なんだろう。誰かに肩を揺すられている。まだ約束の時間じゃないはずだし、それまでは寝かせてほしいんだけど。
「あと五時間……」
「もー、あと五分みたいなノリで言ってもダメですよ!」
起こしに来たのはどうやらナナセじゃないらしい。がくがくと頭が揺れて眠ろうにも眠れなかったので仕方なく目を開けると、少女が僕の顔を覗き込んでいた。
「やっと起きましたね」
敬語で喋る、吊り目で茶髪ツインテールな低身長女子。
「……あ! あの時の!」
「こんにちは、ヨミせんぱい! ヒナノですっ」
少女は満面の笑みで答えた。月曜日、公園で写真撮られた時のあの女の子だ。
「なんで僕の名前知ってるの?」
「調べましたから。そのために写真撮ったんですよ」
「……ストーカー?」
「違います、ヨミせんぱいの後輩、です」
にひ、と悪戯っぽく笑うヒナノ。身長は百五十センチくらい。前に見たときと同じ恰好で、制服の上に灰色パーカーを着て、短いスカートからは素脚が伸び、くるぶし丈のソックスとスニーカーを履いていた。まさに元気っ子、って感じだ。
「後輩って……中学生?」
「しつれーですね。あたしこれでも十五歳ですよ? 高一です、高一」
「そうなんだ」
「ほら、ぼけっとしてないで行きますよ。時間もないですし」
「え? 行くって、どこに?」
「そんなの決まってるじゃないですかぁ」
ヒナノはにやりと笑った。
「虚像天使のところ、です」