2-2
*****
ナナセの死体は砂のように風化して夜風に溶けていく。
胸が痛む光景だった。芝生に広がった血だまりも、衣服に付着した血液さえ、跡形もなく消滅する。ナナセが存在した痕跡は徹底的に排除され、塵ひとつすら残らない。
いや、待てよ。
ポケットに入れっぱなしにしていたプリズムキューブのペンダントを取り出す。これがナナセと関係のある物体なのだとしたら、これは唯一消えない天使の痕跡なんじゃないか。もしかして、ナナセが生き返ってこれるのはこの物体のおかげなのか……?
「……帰ろう」
いくら胸を痛めてもナナセが消された事実は変わらないし、一人で考えたって答えが出るわけでもない。僕にできるのは、ナナセが帰ってくるのを信じて待つことだけだ。
そう思って歩き出したとき、ふと視線を感じて振り返った。
「――っ!?」
ぞわ、と背筋が粟立つ。
公園を囲む林の陰に、巨大な塊が鎮座しているのが視えた。それは人型のマシーンだ。虚像天使でも、制圧躯体でもない。明らかに人間が造ったものとわかる、多面体で構成された人型の戦闘兵器。その頭部では、四つの目がぎらりと輝いていた。
見られている――いや、見られて『いた』。これは少し前、過去のイメージだ。改めて見ると、そこにはもう何もない。けれど、少し前までは確実にいたはずで、多分ずっと僕とナナセを見ていたんだ。
「なんなんだ……」
気味が悪かった。逃げるように、急いで公園の出口に向かおうとして――
「はい、チーズ」
「うわ!?」
悲鳴をあげるのと、カシャ、というスマホの撮影音が聞こえたのは同時だった。
「えっなに!?」
「うーん、我ながらいい感じに撮れました」
ようやく状況が把握できた。いつの間にか目の前に見知らぬ女の子がいて、写真を撮られたらしい。
「……なんで? ってか誰!?」
「突然すみません、どんな人なのか確認しておきたくって!」
にこにこ顔で両手を合わせた少女は、中学生か高校生か。アーモンド型の目をした、あどけない顔立ちの小柄な少女だった。明るい茶髪を肩にかかるくらいのツインテールにして、他校の制服の上にグレーのパーカーを重ね着している。
「じゃ、あたしはこれで!」
「待って待って、何!? 確認って?」
「天使と仲良くしてるふつーの男の子が、どんな顔だったか覚えておかないとですから」
「えっ……!?」
僕が目を白黒させている間に、少女は元気よく駆けだしてこっちに手を振っていた。
「写真のお礼に、名前だけ。あたしはヒナノっていいます! また会いましょーね!」
「ちょ、待っ……はっや!」
ヒナノと名乗った少女は、あっという間に公園から姿を消した。
「『天使』って言ったよな、今……」
頭が痛くなってきた。もうこれ以上、謎を増やさないでほしい。
*****
「舞羽ナナセです。天界から来た天使です。よろしくお願いいたします」
六月六日、火曜日。
「はぁ……」
ナナセがちゃんと転校してきて、安堵のため息をついてしまった。
「どうした、ヨミ。悩みごとか?」
「うっさいなあ。ほっといてよ」
隣に座った長身メガネの男、高鳥が怪訝な顔で僕を見ている。メガネに心配されることなんてなにもない。ナナセが生き返っていて安心したのは、そうじゃなきゃ夢見が悪いからだよ。
*****
授業が終わり、ホームルームも済んで、クラスメイト達がばらばらと教室を出ていく。僕は頬杖をついて全員が出ていくのを待っていた。
「今日は帰らないんだね」
ナナセがやってきて、隣の机に寄りかかった。ふわりと甘い匂いがする。半袖セーラーの天使はスクールバッグを肩に提げており、帰宅準備万端といった様子だった。
「わたしのこと待ってたんでしょ?」
「まあね」
「じゃあ、ロゴスに乗って虚像天使をやっつけてくれるんだ」
「そうだよ」
「あれ。なんか、急にやる気になったね? どしたの?」
ナナセが小さく笑いかけてくる。
可哀そうだから――そう言おうとした。けれど、いざナナセの顔を見たら何かが違う気がして、思わず口を閉じる。なら、どうして僕はナナセを助けてあげようと思ったんだろう?
「じゃ、いこっか」
返答に迷っているうちに、ナナセはバッグを肩に掛けなおしながらそんなことを言ってきた。
「え? どっか行くの?」
「行くよ」
「どこに?」
「デートに」
*****
「……もう一回聞くけど、なんで?」
「虚像天使が来るまで暇じゃない? せっかくだし遊ぼうよ」
僕とナナセは駅前のショッピングモールに来ていた。虚像天使が昨日と同じ時間に来るんだとしたら、確かにまだ三時間ほど猶予がある。あるにはあるけどさあ。
「暇って……ナナセさんね、ちょっとマイペースすぎない?」
「もー、いいから! はい、こっちきて」
ナナセの柔らかくてひんやりした手が触れた。銀髪の頭頂部から生えたアホ毛がぴょこぴょこと揺れる。されるがまま、ナナセに手を引かれた僕はショッピングモールの中へと歩き出していた。
*****
「うーん、これかな? それともこれ? ねえヨミ、どう思う?」
アパレルショップの店内をナナセが落ち着きなくうろついている。
『一緒に服を選んでほしい』なんて言われたものの、銀髪の天使はあっちへいったりこっちへきたりと忙しなく、もう僕は付いていくのを半ば諦めていた。
「ねえ、ちゃんと話聞いてる? ほらこれ見てよ」
「……いいんじゃない?」
「絶対テキトーじゃん」
「決めらんないんだったら、とりあえず着てみれば?」
「え、着ていいの?」
「別にいいと思うけど」
すると、ナナセは「へー、そうなんだ」とか言いながら、持っていた服を僕に持たせた。そして、自分が着ているセーラー服のスカーフを外して、胸当てを外して、胸元のホックを外して、
「……ナナセさん?」
腰横のファスナーをあげたところで確信する。この天使、ここで着替えようとしてないか?
「待って待って、ストップ! なにしてんの?」
「え?」
ナナセはきょとんとしながらもセーラーの裾に手をかける。ちら、と真っ白ですべすべなお腹が見えたところで、僕はナナセの手を掴み、上がりかけた裾を元に戻した。
「ちょっと、なに? 脱げないじゃん」
「脱いじゃダメなんだって」
「脱がないと着替えらんなくない?」
「だから……一旦待って、無理やり脱ごうとしないで」
ナナセは不服そうにしながらも手を下ろしてくれた。そういえば、前に学校でも似たようなことをやっていた気がする。体育の時いきなり教室で着替えだそうとして、辻村さんに止められていたっけ。
「あんま人前で脱ぐのはやめようね。変な子だと思われるよ」
「そうなの?」
「辻村さんにも言われなかった?」
「……あー、あれってそういう意味だったんだ」
得心がいったように、ナナセが「なるほどー」と呟いた。彼女は天使を自称するだけあって、たまにこんな感じですっぽりと常識が抜け落ちている。僕からすれば立派な『変な子』だ。
「試着室があるから。そこで着替えて」
「ちゃんと脱ぐ場所があるんだ。よくできてるね」
そして、なんだか妙に感心している。
「……そんなんでよく生活してこれたなぁ」
「どういう意味?」
「まずさ、その制服はどうやって買ったの? そのときに試着とかしなかった?」
「あー、これね。なんか貰った」
「……誰に?」
「知らない人。最初はね、天使の規定値装束を着てたんだけど、目立つからこれにしなさい、って言われて。それで貰った」
「待って、どういうこと?」
「で、これが『普通の服装』なんだって思って、同じのを沢山作ったんだよね。だから細かいこと言うとこれは貰ったやつじゃなくて、自分で作ったやつ。結構すぐ汚れちゃうし、まだ家にいっぱいあるよ」
「???」
自分で作った?
それにしては、他の女子たちが着ているものと同じすぎる。もしや、ナナセの言う『作った』はハンドメイド的なことじゃなく、天使の不思議な力で全く同じものをコピーした、みたいな意味か。
よく考えると、服どころか自分の身体をバラバラにされても元通りになってるし。当たり前だけど、さっきちらっと見えたお腹とか、スカートから伸びる太ももとか、ナナセの身体に傷跡や継ぎ目は見あたらない。
よし、この際はっきりさせておこうか。
「あのさ、聞いていいのかわかんないけど」
「うん」
「ナナセっていつもどうやって生き返ってんの?」
「それまだ話してないんだっけ」
ナナセは何気ない会話みたいに言葉を続けた。
「この身体はあくまで器みたいなもので、わたしの本質は聖霊なの。聖霊は隠してあるから壊されない。だからもし身体がめちゃくちゃにされたとしても、時間があれば作り直せるんだよね」
「聖霊って?」
「魂、っていえばわかる? 厳密にはちょっと違うけど」
「なるほど」
つまり、殺されても魂が残っているから身体は復活できるということか。もはや服どころの騒ぎじゃないし、なんかSFみたいな話になってきた。
「そんなことより行こうよ。ナントカ室」
「試着室ね……あ、ちょっと待って」
「ん?」
「一旦ちゃんと着よっか、それ」
ナナセが振り向く。ボタンやらホックやらを外した脱ぎかけセーラー服がずり落ちて、肩とか胸元とか普段見えない場所がちらちら見えていた。さすがにこの状態でうろうろするのは良くないね。
*****
その後ナナセは本当に服を買っていた。で、今は喫茶店で休憩中。利用者はそれほど多くなく、僕たちはがらがらの店内で対面のソファー席に座っていた。
気付けば結構時間が経っていて、もうあと一時間もすれば虚像天使が来てしまう。戦いになる前に、聞けることは聞いておきたい……というか、さっきの『制服貰った』話とかも含めて、いまだに舞羽ナナセのことを知らなすぎる。逆に謎が多すぎてどっから聞けばいいのかわからないくらいだ。
「どしたの? 渋い顔して」
当のナナセ本人が、ミルクティーを飲みながら呑気に質問を投げかけてくる。
「いや、ナナセのことをもっと知りたいなって」
「えっ」
さて、どこから聞いたものか。
「ナナセって天使なんだよね?」
「う、うん。そうだよ」
「根本的な質問なんだけど……天使って、なんなの?」
「え、そんなの聞かれてもわかんないよ」
「自分のことなのに?」
「じゃあヨミは『人間ってなんなの?』って聞かれて、答えられる?」
「……や、そういうんじゃなくて」
「じゃなくて、なに?」
ナナセが天使だっていうのは別にいいんだけど、じゃあ天使ってそもそもなんなんだ。ナナセがもっとわかりやすく天使だったら、シンプルでよかったのに。
「『これなら天使に違いないね』って納得できる特徴とかないの? 翼とか、光輪とか」
「こうりん?」
「頭の上で光る、輪っか的なやつよ」
「ああ、これ?」
ナナセが言った瞬間、銀髪のアホ毛の少し上に、光る輪っかが出現した。ただし、イメージしてたよりもずっと細い線でできた輪っかだ。発光色もイラストでよく見るような金色じゃなく、紫っぽい。光は強弱があって、よく見ると強い光がゆっくりぐるぐると回っているようだ。
「ホントにあるんかい」
「これで満足?」
「うん、ありがとう。すごく天使だと思う。……もうそれ消していいよ」
むすっとしたナナセは僕の言葉を無視し、輪っかを光らせたまま両手で頬杖をついた。めちゃめちゃ目立ってるけど、この際しょうがないか。
一旦、ナナセの言う『天使』がなんなのかは保留にしといた方がよさそうだ。どう聞けば期待通りの答えが返ってくるのか……そもそも僕が期待している答えがなんなのか、自分でもよくわかってないし。知りたいことはそれ以外にもまだまだある。
「じゃあ、別の質問していい?」
「なに?」
「もうすぐ虚像天使が来るじゃない」
「そうだね」
「なんでナナセはあいつらに狙われてるの?」
「んー」
ナナセが小首を傾げて考え出す。しばらく天使の頭上でぐるぐる回る紫色の光を眺めていると、返ってきた答えはこれだった。
「うん。それもわかんない」
「えぇ……」
「アクセス権がほとんど剥奪されてて、そもそも虚像天使を運用するレイヤまで辿り着けなかった」
「……え、今の説明なに?」
「え?」
ナナセと目を見合わせる。どうやら話が噛み合っていないらしい。
「ごめん、もっと簡単に説明して」
「こっちが聞きたいくらいだよ。なんで殺されてるんだろうね。わたしかわいそう」
当事者だというのに、随分と軽い物言いだった。ずっと疑問だったけど、ナナセは自分が死ぬことをどう捉えているんだろうか。
「あのさ」
「なに?」
「ナナセはさ、怖いとか思わないの?」
「死ぬのが?」
「そう」
「大丈夫だよ。だって、ヨミがなんとかしてくれるんでしょ?」
ナナセはそう言うと、悪戯っぽく微笑んだ。
「あ、別に昨日のことは気にしなくていいよ。わたしが殺されること自体はそういうものだと思ってるし、身体は修復できるから」
「……でもめっちゃ痛いよね?」
「うん。もうね、痛いとかそういうのを超えてる」
「やっぱり?」
「手足がぐちゃぐちゃになったときは、なんでわたしがこんな目にあわなきゃいけないんだーって、さすがに思っちゃった」
言いながら、ナナセはミルクティーのストローをくるくるとまわす。
「でもさ、それとこれとは別っていうか。それで怖がってたら、楽しいことも楽しめないじゃん。せっかく楽しいことがいっぱいあるんだから」
「……楽しいこと?」
すぐには理解できず、聞き返してしまう。
ナナセが「どう言ったらいいかな……」と小さく呟いた。窓から差し込む夕方の光が、彼女の銀髪をきらきらと輝かせている。伏し目がちにされた金色の瞳は、宝石みたいでとても綺麗だった。
「わたしね」
顔をあげたナナセが話し出す。
「この世界が好きなんだ。現代のヒトの世界……ヒトの在り方が好き。明るくて、温かくて、にぎやかで。天界のデータバンクにある旧い景色よりも、ずうっときらきらして見える。だからね、もっと知りたい。もっと全霊で感じたい」
そう言って、ナナセは心の底から楽しそうに笑った。
「たくさん教えてほしいの。この世界のこと。この街のこと。学校のこと。それに、あなたのことも」
その笑顔が可愛くて、どきりと心臓が跳ねる。
ああ、そっか。
ナナセには笑顔が似合う。こうして笑っていてほしいから、僕はこの天使を助ける気になったんだろう。
「なるほどねー」
「なにが?」
「でもまあ、その話はまたあとにしよう」
「……?」
きょとんとしたナナセが首を傾げている。もちろん、話せることはいくらでもあった。学校の話でも、家族の話でも、最近見た映画の話でも、好きな音楽の話でも。
けれど、それは今じゃない。先に虚像天使をなんとかしなきゃいけないからだ。
「ねえナナセ、聞いていい?」
「なに?」
「ロゴスって飛べる?」
「なんで?」
「今回の虚像天使さ、空飛ぶのよ。しかも弓を使うんだよね、ロゴスみたいに」
「あー。それでわたし、あんなふうにバラバラにされちゃったんだ。じゃあ多分それ、『虚像天使トルカン』だね」
「……ん?」
今、ナナセが妙なことを言った気がする。虚像天使『トルカン』? まるで虚像天使に名前があるみたいな言い方だ。
「ちょっと待って。虚像天使って名前あるの?」
「名前じゃなくて、識別記号みたいな感じかな。最初に戦ったのは『虚像天使シャマリ』ってやつ」
「えっ、最初のやつも名前あったんだ」
「だから名前じゃないってば」
確かに、前に戦ったのは両腕が異常に大きかったけど、今回はマントを羽織っていて形が違った。それぞれ個別の呼び方があっても不思議じゃない。
「そうだ。なら、光輪がついてないやつにも名前ってある?」
「こうりん? ……ああ、『ツェール』のことね。あれは本体をコピーして生まれた分身体だよ。頭が光ってるやつが本体」
「そうなんだ……」
なら、光輪があるやつがボスで、光輪がないやつは手下みたいなことか。今回は『虚像天使トルカン』が一体、『トルカン=ツェール』が三体。きっと、ボスである『トルカン』を倒したらゲームクリアになるんだろう。
「それで、ロゴスが飛べるかどうかだったよね」
ナナセが話を戻す。そうだ、空飛ぶ敵を倒す方法を考えていたんだった。
「そうそう。飛べるよね? 天使の鎧なんだし」
「むりだよ」
「……いやいや、そこをなんとか!」
「えー?」
眉をひそめたナナセは、腕を組んでうーんと唸りだした。
「天界との接続が切れちゃってるから、今からロゴスの出力仕様を超える調整をするのは難しいんだよね。飛行機能を追加する装備を作ることはできても、それを運用するだけの余剰出力がなくて。ロゴス本体としてはシェキナーという規格外の天界兵装と強制接続するシステムの運営で手一杯だし」
「待って、なんもわかんなかった」
びっくりした。ナナセが今までで一番長くて難しい文章を喋っている。結局ロゴスは飛べなそうだということは理解できたけど、それ以外はさっぱりだ。
そんな僕を置いて、ナナセは勝手に喋り続けている。
「そのせいでリソースを圧迫されたロゴスは基本兵装の運用以外に割ける出力が殆どない。でもシェキナーには独立した光界駆動機関があるから、接続と運営さえできればいいという設計思想で……あっ」
ナナセのアホ毛がぴょこんと跳ねた気がした。
「……ナナセさん?」
ゆっくりとこっちを見た天使は、一言だけ呟いた。
「飛べるかも」