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朝のホームルーム前、坊主頭の平井が話しかけてきた。
「なあヨミ、聞いた? 学校のあちこちが昨日の夜のうちに破壊されてたって話。誰一人目撃者がいなくてさ、宇宙人の仕業なんじゃねーかって言われてんのよ」
「……宇宙人ねぇ」
宇宙人じゃなくてごめん。それは僕と天使の仕業です。
六月二日、金曜日。
廊下側最後尾の席にはナナセが座っている。クラスメイトたちも昨日の記憶を持ち合わせているらしく、転校生は女子たちと会話に興じているところだった。
平井の言う通り、学校には昨日の戦いの爪跡が残っている。例えば特別棟三階の渡り廊下へ続く扉が壊れたままになっていたり。それでも、本来であればもっと派手に天井や壁が壊されていたはずだ。
ナナセが殺された時、虚像天使が破壊した場所は完璧に修復されていた。だから今回はどうも状況が違う。まるで誰かが慌てて修復して、間に合わなかったかのようだった。
でもまあ、どうでもいいか。
転校生が再び転校してくるようなこともない平和な朝。問題の解決には結構な労力を使ってしまったけど、平穏な日常が帰ってきたのであれば結果オーライだ。
「中田が来たぞー」
クラスの誰かが言う。中田は三十すぎくらいの女性教師で、このクラスの担任だ。反射的に振り向いた平井につられて、僕も扉の方を見た。
「……?」
ふと目に入った窓の向こう。廊下で、担任の中田とスーツの男がすれ違った。黒い短髪に色付きの丸眼鏡をつけて、ダークグレイのスーツを着こなした黄色ネクタイの男だ。
チャイムが鳴り、ほぼ同時に扉が開いて中田が入ってきた。
「はーい皆さんおはようございます~」
男の姿はもう見えない。あんな教師、うちの学校にいただろうか。
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『ロゴス』とは、ギリシャ語で『理性』という意味らしい。
高一のとき倫理の授業で習った気がする。どうして唐突にこんなことを思い出したのかと言うと、僕は今まさに自分の『理性』を試されているからだ。
事の発端は一、二分前に遡る。
僕は一応、写真部の部員だ。写真部は月、水、金を活動日としているものの、基本的には任意参加のゆるい部活だった。付き合いで入ったけど、そのゆるさも含めて割と気に入っている。
で、今日は金曜日なので、普段通り部室へと向かった。特に何も考えず、いつもと同じに見える扉を開ける。
「失礼しま……え?」
そこは写真部の部室ではなかった。どういうわけか部屋を間違えたらしい。
扉の向こう、目に入ったのは一人の女子。
それも、下着姿で半裸の女子だった。着替え中だったのか、手にスカートを持っている。下着は黒。髪も黒。瞳も真っ黒。
「うわ!?」
その女子と目が合ったかと思うと、僕の身体は勢いよく部屋の中に引っ張りこまれた。同時にぴしゃりと扉が閉まって退路を断たれる。背中側はすぐ壁。目の前には下着姿の少女。
「なになになに、どういうこと!?」
「……」
女の子は黙って僕のことを見ている。見覚えがあると思ったら、同じクラスの閏間莉明さんだ。
ポニーテールにした黒髪と、吸い込まれそうなくらい真っ黒な瞳。その顔には一切表情がなく、何の感情も読み取れない。
閏間さんは壁に手をついて僕の身動きを完全に封じていた。そのせいで、僕と彼女の距離は二十センチもない。正確には閏間さんの胸がだいぶ大きいのでそこだけもっと近かった。
「どうしてここがわかったの」
「えっ? なんのこと?」
僕を見上げる閏間さんは完全な無表情だ。その瞳は無機質で、真っ黒のガラス玉が両目にはめ込まれているみたいだった。
「通常の手段ではこの部屋を発見することはできない。この部屋には三重のプロテクトをかけている。そもそも夜見くんは指向性シミュラクル結界の影響を受けていない可能性が高いけれど、霊的性質の上書きは容易じゃないはず。先天性特異体質? それとも過去に事象干渉を経験した? いずれにせよ専門設備での調査が――」
「ちょ、待って待って、なに!?」
黒々とした瞳を一切揺らすことなく、閏間さんが意味不明の単語を羅列している。
「ゆっくり、わかるように説明してほしいんだけど……」
「夜見くんはなぜこの部屋に来たの」
急に質問がシンプルになった。閏間さんがずいと接近してくる。
「なぜと言われても。……間違えて入っちゃいました」
「間違えて? 自分の意志ではないということ?」
さらに閏間さんの身体が接近する。全体的に圧がすごい!
「そ、そう! そうです! ごめんなさい!」
「なら最近、非日常的な事象に巻き込まれなかった?」
むにゅ、という幻聴が聞こえた。
つまり、閏間さんの胸が押し付けられていてめっちゃ柔らかい。温もりがあったかい。
「ほんとごめんあのね、当たってるんだ。いや、閏間さんがいいならいいんだけどね?」
「……?」
「閏間さんの、胸が、当たってます。あと近い」
「あ」
閏間さんが無表情のまま一歩後ろに下がる。その『あ』に続く言葉はなく、感情の抜け落ちた黒い瞳で僕を見たまま黙り込んでしまった。
「……え、これってどういう状況? そういう……そういうやつ?」
「ごめん、違う。想定を大きく超える事態に混乱した」
「うん、そうだよね。とりあえず服は着てください」
正直肌色の谷間がちらちら目に入るので話すどころじゃない。目が良くなってしまったので仕方ないけどね。目が良くなってしまったので。
「そうする」
言いながら、床に落ちていたスカートを拾い上げようとする閏間さん。今更ながら彼女の下着姿を見ていることに罪悪感を覚えて、慌てて後ろを向いた。
「ちょい待った待った! とりあえず僕は出ていくよ。で、もうこの部屋には来ないようにするし、誰にも言わないようにする。それでいい?」
「……わかった」
背中にじっとりとした視線を感じる。ツッコミどころは大いにあったけど、今から閏間さんは着替えるんだろうし、この部屋に居座るわけにもいかない。あと、何が起きても完全に無表情なのが怖い。
「扉開けていい?」
「問題ない」
「じゃあ開けるよ? ……お邪魔しましたっ!」
人間が一人通れるくらいのギリギリの隙間を開けて可能な限り素早く外へ出る。
外に出て気付いたけど、どうやら間違えて一個下の階に来ていたらしい。道理で部室ではなく別の部屋だったわけだ。
それはともかく、閏間さんはこの部屋に誰も入れたくなかったに違いない。そして、僕もこの部屋のことは見なかったことにしておきたい。
なぜなら、部屋の中には大量の銃火器が整然と並べられていたからだ。
*****
六月五日、月曜日。
ナナセが転校してくることもなく、一日が過ぎていく。
あれからナナセとは一言も話していない。当然だけど、ナナセはずっと他の女子たちと一緒にいるので話すタイミングもなかった。付け加えるなら閏間さんとも会話はない。
先週は色々あったはずなのに、なんだかもう遠い昔の話みたいに思える。今日登校したら校舎も修復されていたし、全部夢だったとしてもおかしくない。
まあ、プリズムキューブのペンダントはまだ手元にあるし、目はいいままだけど。せっかくなので、例の未来視的な能力で小テストの内容を先に視ておこうとしたものの、うまくいかなかった。別にいいんだけどさ、こういう時に使えないなら意味なくない?
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目が覚めると、自宅のベッドだった。部活が終わって帰宅した後すぐ寝たんだっけ。外はすっかり暗くなっているので、そろそろ夕飯の時間なんじゃないだろうか。
時間を確認するために枕もとに放置したスマホを手に取る。
「……え」
メッセージの通知が来ていた。送信者名は『舞羽ナナセ』。連絡先を交換した記憶は一切ないのに、いつの間にか勝手に登録されていたらしい。不審に思いながらメッセージを開いてみる。
『並木公園にいる』
『きて』
時間を確認すると、メッセージの送信時間は十七時四十二分で、現在は十八時五十分。一時間以上前、僕が熟睡している間にメッセージは送られてきていたようだ。もしやと思い、返事をしてみる。
『まだ待ってたりする?』
数秒で既読マークがつく。あー、これは。
『まだ待ってる』
「ですよねー……」
正直ぜんぜん行きたくない。眠いし、もうすぐ夕飯だし、もちろん約束だってしていないわけだし。一時間も待たせたのは少し可哀そうだけど、一旦断ってみよう。
『そろそろ夕飯の時間だし、今日はお帰りください』
一瞬で返事がきた。
『むり』
『きてほしい』
だよね。だと思った。
「もー、しょうがないな……!」
このまま放っておいたらナナセは何時間でも待ち続けるような気がして、そう思わされた時点で僕の負けだった。こうなったらもう行くしかないじゃないか。
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自転車を飛ばして並木公園につくと、ベンチに座ったナナセが目に入る。ぽつぽつ配置された電灯はあまり意味をなしておらず、公園は林に囲まれていて薄暗かった。そんな中で、ナナセの銀髪だけが柔らかくきらめいている。半袖の夏服セーラーを着た少女は退屈そうに頬杖をついていた。
「……おっそ」
顔をあげたナナセは眉間に皺を寄せてこっちを睨む。
「来てあげただけいいじゃんか……で、どしたの急に」
「はい」
ナナセはジト目のまま、両手を僕の方に伸ばした。
「え、なに?」
「遅かった罰。座り疲れたから、起こして」
「……はぁ」
思わずため息をつく。ダメだ、ナナセのわがままにいちいち抗議していたら身が持たない。
「はいはい、わかったよ」
細くて白い手首を掴んで引っ張り上げてやる。銀髪をふわりと揺らしながら立ち上がったナナセは、皺になったスカートを整えながらこんなことを宣った。
「直前になってわかったんだけど、虚像天使が顕現したみたいなの。だからまたよろしくね」
「えっ、あれで終わりじゃなかったの?」
「うん」
「もう一回?」
「そういうこと」
「なにそれ、初耳なんですけど」
ナナセは相変わらずのマイペースさで話を進める。
「ヨミにもロゴスを呼ぶ権限を付与しておいたから、いつでも使っていいよ」
「いやいやいや、もうやんないよ?」
「でも、あの時なんでもするって言ってたじゃん」
「あれはヤバい状況だったからで……っていうかさ、一つ聞いていい?」
「なに?」
「なんで自分で戦わないの?」
どうして早くこれに気付かなかったんだろう。ロゴスがあるなら僕じゃなくていいじゃん。なんて思っていたら、ナナセは心底呆れたような顔をしてこう言った。
「わかんないかな。わたし、すっごく弱いんだよ? ロゴスを使ったところですぐ死んじゃうよ」
「……あー」
つい納得してしまった。階段を駆け降りるだけで息切れしてたくらいだし、ナナセがロゴスに乗ってバリバリ戦っているイメージは確かにわいてこない。
「でもそれ、偉そうに言うことじゃないでしょ」
「別に偉そうにはしてないじゃん」
言いながら、ナナセが口を尖らせている。
虚像天使は簡単に人間を粉砕できる危険なヤツらだし、正直もう関わりたくない。もう関わりたくないんだけど……結局、また僕が戦わなくちゃいけない流れなんだろうか。
「うーん、隠れてたらなんとかなったりしない? 外にいる方が危険そうだし」
「屋内にいても関係ないってわかってるでしょ。わたし、近くのマンションに住んでるから、もしそこに虚像天使が来たら他の人に迷惑かかっちゃうし。元々誰も住んでいない学校なら、人払いもしやすいんだけどね」
「ナナセにも他人を思いやる気持ちがあったのか――ぐえ」
脇腹を勢いよくつつかれた。ぷいとそっぽを向いたナナセはそのまま歩き出し、ローファーで芝生の地面を踏みながら広場を横切っていく。
「でも、ここなら大丈夫でしょ。人払いも簡単だし、虚像天使が来たらすぐにわかる」
ナナセが五メートル先で手を広げている。公園はしんと静まり返っていて、確かに僕たち二人以外は誰もいない。
「人払いって……ナナセが?」
「そうだよ」
「もしかして、あのとき学校に誰もいなかったのは、ナナセが何かしたから?」
「うん。奇蹟を使って全員家に帰ってもらってた」
「なにそれすごい……えっほんとに?」
「ほんとに決まってんじゃん」
廊下を走ろうが壁を破壊しようが誰一人出てこないのはおかしいとは思っていた。けど、ナナセにそんな能力があるなんてにわかには信じ難い。
「ちなみにヨミも使えるよ、奇蹟。しかも、天界にもわたしにも繋がっていない独立したリソース確保をしてあるの。これはすっごく困ったとき用ね」
「え? それってどういう――」
言いかけた時、重く鋭い風切り音がした。
ばたりとナナセが倒れる。あまりにも唐突すぎて、目の前で起きた出来事を理解するのに時間がかかってしまった。
「……は?」
ナナセの左足が、太ももの半ばからなくなっていた。
芝生の地面に転がったナナセが呻いている。その両手は途中で千切れた真っ白の太ももを抑えていて、断面からはどくどくと赤い液体が漏れ出していた。
「あ……っ、あ――、」
真っ赤な液体がナナセを中心に広がっていく。血だ。血が止めどなく溢れ出ている。
再び風切り音が響いた。
同時に、ナナセの右肩が弾ける。肉が千切れる嫌な音がして、ぱたぱたと血が飛び散った。目の前の少女は右腕を肩口からごっそりと失っていて、白い夏服セーラーに血がにじんで黒く変色していく。
「―――、―――!」
ナナセが声にならない悲鳴をあげていた。その左手は制服の胸あたりを強く握り、右脚は血だまりで溺れるかのように不規則に蠢いている。
耳鳴りがする。自分の呼吸音がやけに大きく聞こえて、視界がぼやけていく。ああ、これで二回目だ。同じような状況で、同じように何もできなかった。
「っあ……」
息を吐いたナナセの首から上が破裂した。ばちゅ、と嫌な音を立てて、ナナセの頭部を構成していた器官が血液と共に飛び散る。
がちり。歯車が噛み合う音がした。
言語化できない衝動が身体中を駆け巡って、半ば本能的にその名を口にした。
「《ロゴス》ッ!」
夜闇に紫電が奔って、黒い鎧を纏った巨人が姿を現す。その背中に間髪入れずに飛び込み、同期した。
〈躯体制御譲渡:深度9〉
周囲には誰もいない。なら、これは公園の外からの遠距離攻撃だ。ナナセの身体が弾けた方向、そして公園が林に囲まれていて外からは視認し辛いことを考えれば、敵の居場所は――
「――上か」
見上げると、遥か上空を飛ぶ円盤、そしてその上に立つ人型を視認できた。目が冴えていて、数百メートル上空を飛ぶその物体がハッキリと見える。そいつは左手に巨大な弓を持ち、右肩に大きなマントを羽織った、頭部に光輪を戴く灰色の人型だった。
虚像天使だ。
先週戦ったのよりスリムな体型で、姿かたちはロゴスとも似ている。そいつはちらとこちらを見たかと思うと、身を屈めて円盤に貼り付き、スピードをあげて飛び去ろうとしていた。
――逃がすものか。
「《シェキナー》!」
バレルセット、精密射撃形態。焔火式縮光ドライヴ接続、バスターロック解除。左手に出現した弓を即座に発射すると、レーザービームのような金色の光が、空を飛ぶ虚像天使に向かって伸びていく。
「!?」
空中で爆発が起きた。
しかし、マントを羽織った巨人には傷一つない。着弾の直前で別の飛行体が割り込んできて、代わりに爆散したのだ。もう一度弓を引くものの、視界の隅、全く違う方角で何かが光って反射的に振り向く。
「別の――!」
あの時と同じだ。光輪をもたず、マントのない別の虚像天使がそこにいた。いや、それだけじゃない。光輪なしの虚像天使はさらにもう一体いる。多分、さっき爆散したのも光輪なしの虚像天使だったんだろう。つまり、敵は全部で四体だったんだ。一体は撃墜しているので、残りは三体。
光輪なしの虚像天使は円盤に乗って上空を飛び、ロゴスを狙って光の矢を放った。
それは赤い光線だ。ナナセが狙撃されたときは何も見えなかったから、発射地点を悟られないように出力を絞っていたのだろう。光は瞬く間に迫ってきていて、回避をするには遅すぎる。
――なら、撃ち落とせばいい。
目標変更。コンマ秒で狙いを定め、シェキナーを発射した。赤と金色の光軸がぶつかり、激しい音と共にストロボめいた光を爆ぜさせる。
視線を戻すと、光輪つきの虚像天使は遥か彼方に飛び去った後だった。光輪のない虚像天使たちも高速で離脱しており、地上を這うしかないロゴスで今から追いつくことは不可能だ。
「逃げられた……」
シェキナーをおろす。漆黒の巨人は、途方に暮れたように公園の中央に佇んでいた。