1-2
*****
どのくらい経ったのか、ふと我に返ると、全てがなかったことになっていた。
蛍光灯の明かりの下、僕は階段の踊り場に座り込んでいる。そこには既に、ばらばらにされた舞羽さんの身体や石像のような巨人の姿はない。あたり一面を赤く染めた少女の血液も消え、巨人が破壊した壁、階段、天井は何事もなかったかのようにきれいに元通りになっていた。
きっと、クラスメイト達も既に舞羽さんのことを忘れているんじゃないだろうか。多分、虚像天使はただ彼女を殺しただけではなく、『舞羽ナナセ』という存在を世界から完全に消したんだろう。
なんとなく理解できた気がする。舞羽さんは昨日もこうして殺されて、世界から忘れ去られて、それでまた転校してきた……ってことなんじゃないか?
「……なんだ、これ?」
ふと、右手に見慣れないものを握っていることに気付いた。七色に輝く小さな立方体に、長い紐が取り付けられている。プリズムキューブのペンダント、といったところだろうか。
流れ的に、この物体と舞羽ナナセが無関係なわけがない。いや、わかんないけど。この物体のことを推理しようにも、わからないことが多すぎる。舞羽さんの死体や虚像天使はどこにいったのか? そもそも舞羽さんはなぜ命を狙われているのか? 虚像天使とはなんなのか? 舞羽さんは明日も同じように転校してくるだろうか?
「あー、無理だ」
考えても意味がないので、考えるのはやめだ。転校生は明日もやってくると信じて、後のことはそれから考えればいい。
まあ、舞羽さんの身体がばらばらになる瞬間のことは、簡単には忘れられないだろうけど。
*****
「舞羽ナナセです。天界から来た天使です。よろしくお願いします」
六月一日、木曜日。
舞羽ナナセが再び転校してきた。これでやっと一息つける。
結局昨日は全然眠れなかった。実は全部僕の勘違いで、舞羽さんはあれで本当に死んでしまったのではないかと気が気ではなかったからだ。
ということで一件落着……なんてワケにはいかない。
当の本人は黒板の前で涼しげにほほえんでいるけど、舞羽さんが昨日と同じように転校してきたのなら、今日もまた夕方くらいに殺されるに決まっている。
「廊下側の一番後ろに席を用意したので、舞羽さんはいったんそこに座ってくださいね」
「はい、わかりました」
舞羽さんが銀髪を揺らしながら歩く。よく見ると頭頂部からはアホ毛が伸びていて、それもぴょこぴょこと揺れていた。
本人は昨日殺されたことなどまるで気にしていない様子。なんだろう、一晩中気にしてた自分がバカみたいだ。舞羽さんを心配するのにかけた労力を返してほしい。
というか、この感じならもう放っておいても大丈夫なのでは?
「……あっ」
昨日から視力がすこぶる良いので見間違いはない。今、転校生は確実にこっちを睨んだ。僕にだけわかるように顔をしかめてた。
よし、決めた。もう舞羽さんに関わるのはやめよう。放っておいても勝手に死んで勝手に生き返ってくるんだしいいじゃないか。そうだ、放っておいたらまた勝手に死んで、皆から忘れられて……。
*****
「あーもう、どこいったんだ、あの天使!?」
放課後。僕は舞羽ナナセを探していた。
だって家に帰って十八時くらいに『そろそろ舞羽さんが惨殺されてる頃かな』とか思いたくないじゃん。無駄にグロいし。いくら本人がケロっとしていようと、やっぱ忘れるのは無理だ。
それに、一応『借り』があるわけで。あのとき、僕は舞羽さんと二人仲良くバラバラ死体になっていたはずだった。それを免れたのは彼女が助けてくれたおかげだ。曲がりなりにも、彼女自身の命と引き換えに。
舞羽さんはまだ学校から出ていない、そんな気がする。
昨日は途中で舞羽さんが殺されてしまったので、最後まで話を聞けなかった。きっと、この状況を解決する手段があるはず。そのために僕が呼ばれたんだろうし、相談に乗ってあげるくらいはしてもいい。
「……って、思ってたのに、なんでどこにもいないわけ!?」
転校生の姿を探して放課後の校舎を走り回る。ぜんっぜん、スマートじゃない!
*****
「やっと見つけた……」
校舎にはもう誰もいない。不気味なほどに真っ赤な夕焼けが廊下を照らしていて、僕の両足からは黒々とした影が伸びていた。
時刻は十八時。学校中を走り回り、息を切らしながらたどり着いたのがここ、特別棟三階にある美術準備室だ。すりガラスの向こうに人の気配がある。というか、それが舞羽さんであることが視える。
「舞羽さん! って、鍵かかってんじゃん……!」
勢いで開けようとした扉はびくともしなかった。中から舞羽さんの声がする。
『夜見くん?』
「夜見くんです」
『え、来たの?』
「あっそういう感じなんだ」
『……昨日はぜんぜん話聞いてくれなかったのに?』
「あーはいはいわかりました。じゃあ僕は帰りますよ」
張り切っていたのは僕だけみたいだ。そう思って自分の教室に戻ろうとしたとき、どったんばったんがらがらがしゃんと部屋の中から激しい音がして、勢いよく開いた扉からにゅっと出てきたセーラー服の腕に学ランの裾を掴まれた。
「ま、待って、帰って欲しいとは言ってない、じゃん……」
右手で僕を摑まえた舞羽さんが、ぜえぜえと肩で息をしている。慌てて出てきたのだろう、部屋の中はめちゃめちゃに散らかっていた。この天使は中でなにをしていたのだろうか。
「……ちなみに、これからどうするつもりだったの?」
「今考えてたとこ。とりあえず隠れてた」
「えぇ……」
昨日と同じなら、もうすぐ虚像天使が来るはずだ。悠長にしている暇はないはずなのに、舞羽さんは気にした様子もなく質問してきた。
「昨日のアレで、もう付き合ってくれないかと思ってた。わたしバラバラになってたし、嫌われちゃったかなって。怖くなかったの?」
「正直めっちゃグロかったよ。吐くかと思った」
「そんな言い方する? ひどくない? だったらどうして来たの?」
「……あのさ、この話今じゃなくていいよね? 舞羽さんまた死んじゃうんだよ? どうにかしなきゃじゃん」
「うん、そう。そうなんだよ」
なんて言いつつも、舞羽さんは学ランの裾を掴んだまま、金色の瞳でじっと僕を見ている。
「そうなんだよ、じゃなくてさ――」
「わたしも夜見くんの友達みたいに、『ヨミ』って呼んでいい?」
「え? ……えっ?」
あまりにも唐突すぎて意味が分からなかった。舞羽さんは僕の返答を待たず、状況に焦ることもせずに、勝手気ままに話を進める。
「じゃあ『ヨミ』って呼ぶね」
「はい?」
「ヨミもわたしのこと、ナナセって呼んで」
「ななっ……!? 待って待って、勝手に話を――」
そこまで言いかけた時、がちり、と歯車が噛み合う音がした。
視界が拡張され、本来見ることのできない概念が可視化される。昨日と同じ、虚像天使が視える。数は二体。予想通りまた舞羽さんを殺しにやってきた。潰される。壊される。数分後か、数秒後か、それとも――
「……こんなことしてる場合じゃなかった! 逃げなきゃ!」
「わ!?」
舞羽さんの手を取って廊下を走り出す。
「ちょっと待って、どこに逃げるつもり?」
「確かに!」
そうだ、今更どこに逃げたって意味がない。足を止めて振り返ると、舞羽さんは浅い呼吸を繰り返しながら上目遣いで僕を見ていた。
「あのさ!」
「ヨミ、手。痛いんだけど」
「え?」
舞羽さんの左手を無意識に握りしめていたことに今更気づいて、僕は慌てて手を離した。
「ごめん、つい……いやそうじゃなくて! なんかない? この状況をどうにかできる作戦!」
「ある……けど。でもな」
そこで言葉を切って、ジト目で僕を見る舞羽さん。
「……なに?」
「絶対やだって言うし。やだって言ってたし」
天使が拗ねた表情でそっぽを向く。もう一秒後には虚像天使が来るかもしれないのに……!
「いいから! この際なんでもやる! だから早く!」
「ほんとに?」
「ほんとに!」
「じゃあ、戦って」
「……だと思ってたよ! いいよ、やるよ!」
もうヤケクソだ。スマートさの欠片もない。でも、ここまで来たらやるしかないじゃんか。
「そう言うからには方法があるんだよね?」
「もちろん」
即答だった。金色の瞳が、一瞬だけ真っ直ぐに僕を見る。そして右手を廊下にかざすと、天使はその名を呼んだ。
「来て、《ロゴス》!」
夕焼けの廊下に、紫色の雷が迸る。陽炎のように何もない空間が揺らめいて、次元を裂いて『それ』が現れた。
真っ黒の塊。
いや、違う。これは鎧だ。天使の前に跪いた、巨大な漆黒の鎧。それは虚像天使よりも小柄な、身長約三メートルの巨人だった。
アスリートのような引き締まった体格。左肩の鎧は大きく、左右非対称なシルエットをしている。複雑な幾何学模様が全身に刻まれたその姿は、やはりエイリアンが作ったロボットのように見えた。
そいつの顔には紫色に発光する物体がはめ込まれている。その物体は頭部を一周していて……そこで気付く。これは折れ曲がってはいるが、天使の輪だ。
「天使の鎧……?」
「そう。『制圧躯体ロゴス』。わたしが用意した天界兵装」
舞羽さんが言うと、跪いたロボットの背中が割れ、着ぐるみのジッパーのように開いていく。まるで『そこから中に入れ』とでも言わんばかりに。
「さっきヨミはなんでもやるって言ったよね。なら、これに乗ってわたしを守って」
背後の天井が軋みを上げた。虚像天使が出現したのだろう。
そんな時だというのに、
「できるよね?」
なんて、舞羽さんは悪戯っぽく笑っている。
「天使のくせにわがまますぎない?」
「じゃあやめる?」
一度だけ深呼吸をした。できるかどうかなんてわかんないけど――
「大丈夫、やるよ」
爆発音がした。天井を突き破って灰色の巨人が落ちてくる。僕はロゴスの後ろに回って、その背中に空いた『穴』……底なしの虚無に飛び込んだ。
〈収容開始〉
〈同期開始〉
背後で隙間が閉じ、完全な真っ暗闇となる。少しずつ明かりが灯るように、感覚が接続されていった。力強い両脚、しなやかな両腕、鎧を纏った胴体、そして光輪を頂いた頭部。視界が開けて、夕焼けに照らされたセーラー服の天使と、その背後に瓦礫と共に着地した虚像天使の姿が見える。
〈同期完了〉
〈躯体制御譲渡:深度2〉
虚像天使が動き出した。轟音をあげ、天井や壁を破壊しながら走り出す。
「ごめん!」
『わっ』
手を伸ばして舞羽さんを掴む。このロボット、いや『制圧躯体』は僕の思った通りに動いてくれた。ロゴスは巨大で、舞羽さんは猫くらいのサイズに感じる。胸の前で少女を抱きかかえて、迫る虚像天使に背を向けて走り出す。
『ちょっと、ヨミっ! むり、おろせーっ!』
「狭っ! 走りにくい!」
当たり前だけど、学校の廊下は三メートルの巨人が走れるようにできていない。少し頭をあげれば天井を突き抜けそうだし、こけたら壁を突き破って中庭に真っ逆さまだ。一人騒いでいる舞羽さんを抱えているので、下手なことはできない。
背後からは工事現場のような騒音が近付いてきている。光輪のない腕の小さい方の虚像天使は、障害物を破壊しながら強引に走り迫っていた。
「ちょ、速くない!? 待て待て待て」
このままじゃ追いつかれる。追いつかれたらおしまいだ。まずは外に出なければ――なら、向かう先は普通棟へ続く渡り廊下だ。三階の渡り廊下は吹き曝しになっていて、そこからジャンプすれば外に出られる。
『ヨミ、きてるー!』
「わかってるから!」
角を曲がる。すぐに壁が迫ってきた。渡り廊下に続く扉は人間用で、ロゴスが通れるほどの大きさはない……だったら、壁を壊すしかない。
『待ってヨミ、だめ――』
「せぇーのっ!」
全力の体当たり。ロゴスの左肩が爆音をあげて壁を粉砕し、そのまま外へと転げ出る。舞羽さんの悲鳴がうるさかったが、今は気にしている余裕がない。
吹き曝しの渡り廊下、その中央に立つ。
日は傾き、空の半分は赤、もう半分は紫だった。紫と赤が美しいグラデーションを描く、幻想的な空。風が吹いて、抱えた天使の長い銀髪がふわりと揺れる。
渡り廊下の入口に虚像天使が走り迫っていた。一秒後にはここに到達するだろう。逃げるなら上か下かだ。下は中庭で、すぐに接近戦になってしまう……それは僕には荷が重い。逃げるなら上だ。屋上から体育館の屋根に飛び移って、そこから広い校庭に出よう。
『ヨミ、待って、』
両脚に力を込める。こいつは天使が作ったロボットなんだし、少なくとも屋上までは跳べるだろう。舞羽さんが騒いでいるけど、構っている暇はない。
全力で屋上を蹴る。同時に聞こえたのは爆発に似た大きな音だった。
「……!?」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。気付けば周囲には何もなく、広がる田畑と黒々とした水平線が見える。
――飛んでる!
ごうごうと唸る風を切って、ロゴスは空中を猛進していた。凄まじいパワーだ。予想を超える爆発的なジャンプ力で、四十メートル、五十メートルと上昇している。
『わああーーっ!?』
悲鳴をあげた舞羽さんが必死にしがみつく。上昇を続けながら、ロゴスは徐々に勢いを失って減速していった。そして、体育館の真上あたりで完全に速度がゼロになる。僕は空中で静止して、束の間の浮遊感を味わった。
『あっ……』
落ちる。
放物線を描いて、校庭の方へと落下していく。
それだけならまだ良かったけれど、もうひとつまずいことがある。それは、虚像天使がこっちに向かって跳んできていることだ。僕は舞羽さんを両手で抱えながら無防備に落下していて、拳を振りかぶった虚像天使はとんでもないスピードで迫っている。
接触まで猶予がない。このままじゃ二人纏めて殴り飛ばされるのがオチだ。
『ねえ、まっ……』
即座に判断する。ごめん舞羽さん、今はこうするしかないんだ。右手で彼女の身体を掴んで――
『だめ、やああ―――っ!?』
勢いよく空中に放り投げた。セーラー服の少女が悲鳴をあげながら夕焼けの空を舞う。
〈光剣起動〉
僕の意思に応えて、ロゴスが武装を開放した。左肩の大きなアーマーが上下に展開し、中から直方体のグリップがせり出す。それを右手で引き抜くと、白銀の刀身がすらりと伸びて、紫色の炎に包まれた光の剣となった。
光剣ケオ・クシーフォス。それがこの武器の名前らしい。
僕はまだ空中にいて、あと数秒で地面に落下する。それよりも早く、空中を弾丸のように跳ぶ虚像天使に追いつかれるだろう。
がちり。歯車が噛み合う音がした。
世界がスローモーションに視える。放物線を描いて落下するロゴスの軌道、直線的な虚像天使の弾丸飛行、右手に握られた光剣、銀髪をたなびかせて落ちてくる天使。
光剣を逆手に構える。ターゲット補足。運動量測定、弾道計算完了。照準補正。射角固定。
――やれる!
投げ槍のように、光剣ケオ・クシーフォスを全力で投擲した。
光剣は紫色の軌跡を描いてミサイルのようにかっ飛んでいき、空中の虚像天使に勢いよく突き刺さる。鈍い音がして、次の瞬間には灰色の巨人がバラバラにはじけ飛んでいた。夕焼け空に爆散した虚像天使をよそに、落下しながら上を見る。
『ばかあああ――っ!』
両手両足を無意味にばたつかせ、スカートと銀髪をばさばさと波打たせながら、舞羽さんが真っ逆さまに落ちてくる。思った通り、ばっちりのタイミングだ。空中で姿勢を制御して両手を広げ、セーラー服の天使をキャッチ。彼女を胸に抱きかかえながら、校庭の砂の地面へと滑らかに着地した。
『もうやだ、おろして……』
「ちょっと待って、虚像天使はもう一体いるはずだから」
『ばかぁ……』
校庭を駆け、できるだけ校舎から距離をとった。虚像天使はまだ校舎内にいる気配がする。光輪付きの方は両腕が異常にでかく、校舎内では動きが鈍いんだろう。
校庭の端、テニスコートの近くで舞羽さんを下ろす。
『……』
すると、柔らかな銀髪をぼさぼさに乱れさせた天使は砂の地面に座り込み、膝を抱えてそっぽを向いた。もしかしなくても、たいへん怒っているらしい。
「ホントごめん。こんな方法しか思いつかなくて」
『……もっと優しくしてほしかった』
「ごめんって。一回こっち向こう? ね?」
舞羽さんは背中を丸めてだんまりを決め込んでいる。ちょうどその時、特別棟の屋上を突き破って、光輪付きの虚像天使が現れた。両腕が異常に大きく、ロゴスの胴体と同じくらいの太さがある。あんな腕で殴られたら、多分ロゴスでも耐えられない。
「やばいって、拗ねてる場合じゃないよ舞羽さん」
まだ虚像天使は二百メートル以上離れた校舎にいる。ここからでは米粒くらいの大きさにしか見えないけど、そいつは明確にこっちを見ていた。
一方、銀髪天使は膝を抱えてそっぽを向いたままだ。
「まじでやばい……ロゴス、他に武器は!?」
〈提案:掌底光〉
掌底光アクティノヴォロー。どうやら、掌から光弾を放つ短射程の射撃武器らしい。さっき光剣ケオ・クシーフォスは投げ捨てたし、残された武器はこれしかない。
一方、敵は両腕が太くて、明らかに接近戦を得意としていそうだった。正直なところ、正面から戦って勝てるビジョンが全く浮かばない。
「舞羽さん、ちょっと、聞いて!」
虚像天使が屋上の床面を蹴って跳躍し、空中に躍り出た。
「なんか他に武器ない? 僕向きの、銃みたいな、遠くから敵を倒せるやつ!」
『……』
灰色の巨人は体育館を飛び越して、校庭の砂の地面に着地する。
「やばい! 来てる!」
虚像天使が走り出した。
「舞羽さん、聞いて! ないならないで逃げないと!」
『……好きにすればいいじゃん』
体育座りのまま微動だにしない舞羽ナナセ。なんだこの天使、めちゃくちゃめんどくさい!
「いいから! こっち向けって、ナナセっ!」
『……シェキナー』
「え?」
『シェキナー・セヴディスって言ってみて』
虚像天使は猛烈な勢いで走り迫っている。ここまできたら、天使を信じるしかない。
「《シェキナー・セヴディス》!」
その瞬間、ロゴスの左腕が発光した。光の中、ロゴスのグローブが何かを掴む。ずしりと重い武器……巨大な弓だ。頭に情報が流れ込んでくる。こいつの名は『光弓シェキナー・セヴディス』。鋭角に湾曲したその弓は、本来は智天使ケルビエルが持つ高位の天界兵装らしかった。
〈外部天界兵装接続:許可〉
〈仮想熱量変換開始〉
バレルセット、精密射撃形態、限定制圧設定。開放型疑似光綱展開。焔火式縮光ドライヴ接続、バスターロック解除。目標到達距離測定確認。スタビライザ―駆動、照準補正開始。システムオールチェック。
〈仮想熱量変換完了〉
一瞬でシェキナーの起動手順が完了する。
がちり。歯車が噛み合う音がした。
全てが視える。全てがわかる。虚像天使はあと百メートルまで迫っていたものの、それだけ距離があれば十分だ。
思い切り弓を引く。右手から発生した光の矢がバレルに装填され、ぎりぎりと音を立てた弓が爆発的なエネルギーをチャージする。校庭を走る灰色の巨人に狙いを定めた。その間、コンマ一秒。
「――これなら!」
発射。
まるでレーザービームだった。
凄まじい熱量を持った一条の光軸が、甲高い音を発しながら夕焼けの校庭を飛んでいく。それは一瞬で虚像天使の胴体を食い破ると、一拍遅れて赤い光が膨れ上がり、爆音が周囲一帯に鳴り響いた。虚像天使は光の中で粉々に弾け飛び、強烈な爆風が校庭を囲む木々を騒々しくざわめかせる。
「……はは、すごい威力」
風が吹きすさぶ。
日は殆ど落ちきって、空にはいつの間にか星が出ていた。構えていたシェキナーを下ろすと、巨大な弓は光の粒となって消えていく。気付けば、僕の――いや、ロゴスの両腕も、光の粒へと還元され始めている。
「うわ」
電源が切れたかのように急に視界がブラックアウトし、身体が勝手に動いた。徐々にロゴスのではなく自分自身の体の感覚が戻ってきたかと思えば、背中の方でばらばらと鎧が解けていく音がする。多分乗り込んだときとは逆で、『降りろ』ってことなんだろう。
跪いたロゴスの背中から這い出ると、外はもう夜の雰囲気になっていた。六月に入ったものの、まだ夜風は涼しい。辺りは静まり返っていて、さっきまでの騒ぎが嘘だったかのようだ。
「おかげで助かったよ、ありがとう」
ロゴスの黒い鎧を叩くと、それに呼応するかのように巨人は光の粒となって消えた。
さて。
「舞は――ぐえ」
脇腹を勢いよくつつかれた。もちろん、舞羽ナナセにだ。
眉間に皺を寄せて明らかに不機嫌な顔をした天使は、夜の暗がりの中でもほんのり発光しているように見えた。乱れていた銀髪は元のふんわりヘアに戻っている。
「すっごい怖かったんですけど」
「それはごめんって」
「――でも、ちゃんと助けてくれた。ヨミ、えらい」
そう言った天使の横顔は、少しだけ微笑んだように見えた。かと思えば、彼女は僕の返事を待たず、「次からはもっと優しくするように!」なんて言いながら背を向けて歩き出す。
「ちょっと、舞羽さん」
セーラー服の天使は数メートル先で急停止して、しかめっ面で振り向いた。
「舞羽さん、じゃないでしょ」
金色の瞳がじっとこっちを見ている。
「……ナナセ」
「ふん」
少女はまた踵を返し、校舎に向かってずんずん歩き出した。怒っているのか怒ってないのか、よくわからない。こういう時、追いかけるべきなんだろうな――などと考えつつも、僕はぼんやりと夜空を見上げたまま、一歩も動けずにいた。なんかもう、持てる気力の全てを使い切ってしまったみたいだ。
「……めちゃくちゃ疲れた」
そんな感想が出てきたのは、ナナセの背中がだいぶ小さくなって、夜闇の中へと消えていく時だった。
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