6-5
アルコーンが踏み込んで、超加速の前兆を見せた。
思わず後ろに下がろうとして、気付く。
もうネメシアウォールは失った。ロゴスを守れるものは何もない。
次の攻撃は絶対に避けられないし、こっちの攻撃は当たらない。
「――あ」
負ける。
やっぱり僕じゃダメだった。
ただの一般人で、部外者で、ナナセには手が届かない。
なら、もし夜見府容じゃなければ。
これが閏間さんやヒナノだったら、上手くやれていたんだろうか?
ああ、そういえば。閏間さんは一度アルコーンを倒しているんだっけ。ロゴスよりもぜんぜん弱い、フィンドレイとかいう二脚兵装で。
「……!」
そうだ。
閏間さんはアルコーンを倒した。
どうやって?
雨の降る、灰色の校庭の景色がフラッシュバックする。
白亜の天使に走り迫るフィンドレイ。泥と雨にまみれたモスグリーンの陸戦兵器は、手にした戦車砲のような大型の武器を、アルコーンに触れさせて発射した。
『必要なのは勇気。がんばれ』
そういうことを言っていたのか。
『せっかく目がいいのに。せんぱいにもうちょっとだけ度胸があればなあ』
そう、度胸だ。
アルコーンを倒す方法は一つしかない。
無意識に選択肢から外していた、シンプルで明快で、僕にとって一番難しいたった一つの方法。
――近接戦闘。
でも、できるわけがない。十七年間平和に生きてきた一般人が、そんなにうまくやれるわけがない。勇気とか度胸とか、言葉にするのは簡単でも、現実はそんなに易しくない。
アルコーンがとんでもないスピードで迫っている。
ほら、やっぱり怖い。
足が竦む。視界が歪む。思考が止まる。怖い、怖い、怖い――
『それで怖がってたら、楽しいことも楽しめないじゃん。せっかく楽しいことがいっぱいあるんだから』
ふいに、そんな言葉を思い出した。
ナナセが笑っている。
一緒に歌ったカラオケ店で。
並んで歩いた雨の道で。
放課後の静かな図書室で。
私服を自慢されたショッピングモールで。
ずぶ濡れになった夜の池で。
色々話した喫茶店の片隅で。
夕日が差し込む、オレンジ色の教室で。
「――ああ、」
たしかに、彼女の言う通りだ。
怖いものは怖い。けど、怖がってたってしょうがない――!
目を開いて、迫るアルコーンを凝視する。
踏み出す。
踏み出せ。
怖くない、僕ならやれる。
引くな、身体を押せ、一歩踏み出せ!
「いっ、けええええッ――!」
『何!?』
恐怖心に全力で抗って、前に踏み出す。
全てが視えた。アルコーンは目の前にいて、超接近戦闘距離だ。メイルブレーカーはすぐそこに迫っている。近接格闘戦を仕掛けるとき、アルコーンは実体として確かにそこに存在している!
目標運動量測定。姿勢を下げる。
挙動予測計算完了。すれすれでメイルブレーカーを避けた。
いける。そのまま、シェキナーを超近接照準。
がちり、がちり、がちり。歯車が回りだす。勢いよく歯車を回す。
「当たれっ!」
白と黒が交差して、光が爆ぜた。シェキナーを射た姿勢のまま、床面を踏みしめて即座に振り返る。
『バカな!?』
アルコーンの左腕が、メイルブレーカーと共に宙を舞っていた。胴体を狙った光矢は寸前で回避されたようで、シェキナーの一撃はアルコーンの左肩に当たったらしい。
まだだ。まだやれる。
シェキナーを構えながら再び踏み込む。
しかし、アルコーンの方が早かった。鋭い回し蹴りがロゴスの左手からシェキナーを叩き落とす。
床面に落ちたシェキナーには目もくれず、歯を食いしばって、浮きかけた躯体を地面に押さえつけた。正面に視線を戻すと、アルコーンは残った右腕を振りかざし、握った拳で殴りかかろうとしている。
避けられない。その光景が視えた。
「だとしても!」
さらに、踏み込む。
アルコーンの右ストレートがロゴスの左腕を食い破り、黒い鎧がバラバラと砕け散る。構うものか、もう左腕は必要ない!
『まさか――!』
無防備なアルコーンの胴体に、右手で握ったそれを叩きつける。それは柄だ。ロゴスの基本兵装、光剣ケオ・クシーフォスの柄――
「ナナセを返してもらうぞ、高鳥!」
重低音が鋭く響く。発生した光の刃が、真直ぐにアルコーンの胴体を貫いた。
あらゆるものが停止する。
紫色に輝く光の剣に貫かれ、白亜の制圧躯体は拳を握った状態のまま固まっていた。世界はしんと静まり返って、時間が止まってしまったかのようだ。
『なるほど』
高鳥の声が聞こえた。
光剣を引き抜くと、アルコーンは力を失ったように床面に倒れ伏す。焼け焦げた光剣の貫通跡から、びきびきと音を立ててひび割れが広がっていった。
『裁定は下された。責任を取れ、ヨミ。俺は、お前が示した気概を認めよう』
アルコーンが割れていく。その割れは校舎にも伝わり、瞬く間に周りを取り囲む校舎全てに伝播した。世界が揺れて、ひび割れは大きく、悲鳴のように響き渡る。
瞬間、全てが崩壊した。
何もかもが割れて、落ちて、隙間から青色が覗く。
がらがらと大きな音を立てて校舎が崩れ、無数の瓦礫が降り注ぐ中、どこまでも青い空が徐々に露わになっていった。
足元の校舎も例外じゃない。粉々に砕けたアルコーンともども、自重に耐えられなくなったかの如く床面が崩壊する。ロゴスも空中に放り出され、校舎の残骸と共に青空へと落ちた。
「ナナセは――」
視界の端に、きらりと輝く何かが視える。
見間違えようもない。銀色のロングヘアに金色の瞳、青空を逆さまに落ちるセーラー服姿の天使。舞羽ナナセは真っ逆さまに落下しながらも、金色の瞳でこっちを見ていた。
「今行く! 待ってて!」
聞こえたかどうかはわからない。
手近な瓦礫を蹴った。瓦礫を次々に経由して、蹴って蹴って進んでいく。空を駆けるような軽快さで、漆黒の巨人が天使の元へ向かっていった。
ロゴスが崩れ落ちる。空中に投げ出された僕は、勢いのまま青空を一直線に進んでいく。
「ナナセっ!」
そのまま、銀髪の天使に飛びついた。
思わず抱きしめようとした僕に抗って、ナナセは無理やり体勢を変えた。スカートから伸びた両脚が左腕に乗っかってきて、彼女の細い腕が首に巻きついてくる。いつかと同じお姫様抱っこだ。
「助けに来るのおそすぎ! すっごく怖かったんだからね、落ちるの」
で、第一声がこれだった。
彼女の銀髪やスカートがばたばたと揺れている。大きな瓦礫は先に落ちたらしく、周囲にはきらきらと輝くガラスの破片が舞っていた。まるで、季節違いの雪が降っているみたいだ。
そんな感想を抱いていると、ナナセが口をとがらせて僕の顔を覗き込んでくる。
「聞いてる?」
「ごめんごめん」
「でも助けてくれたし、許してあげてもいいよ。ヨミ、えらい」
このなんとも言えない自由さも相変わらずだ。ナナセはほんのり温かくて、弱っていた状態から元に戻り始めていることがわかる。ひとまず、彼女の消滅は防げたみたいで安心した。
「ナナセさ」
「なに?」
「なんで高鳥に捕まったの? 閏間さんと一緒にいたんじゃ……」
「リアなんか別にいいでしょ。色々言ってきてうるさいし」
「えっ……待って、それで逃げてきたってこと?」
「違うよ。たしかにリアのことは撒いたけど」
「ダメじゃん」
「ヨミに渡し損ねたやつがあったから、学校で渡そうと思っただけだし」
「『渡し損ねたやつ』?」
尋ねると、ナナセはセーラー服の内側に手を伸ばして、何かの冊子のようなものを取り出した。
「えっ、なに。どっから出したの今」
「失くしたらイヤだし、概念化しておいたの」
ナナセがその冊子を両手に、金色の目をこっちに向けた。僕たちは未だに青空を落ち続けていて、銀髪やスカートと一緒にその冊子もバタバタと揺れており、それがなんなのかイマイチわからない。
「これ、あげる」
「ごめん、よく見えないんだけど。なにこれ?」
「芸術大学のパンフレット。今から勉強してここに行けばいいじゃん」
「……はい?」
「進路希望、今月末までだよ。忘れたの?」
金色の瞳がぱちくりと瞬きをしている。
確かに、先週の木曜日にそんな話はした。それからナナセはわざわざこのパンフレットを現地まで取りに行って、土曜日に渡し損ねたからって、閏間さんを出し抜いて登校してきたってこと? で、高鳥に捕まって消滅しかけてたってこと?
「えぇー、うっそでしょ……」
もはや、呆れを通り越して笑えてきた。
「バカだなあ、ナナセは」
「あ、ちょっと! なに笑ってるの? ひどくない?」
笑いが止まらなかった。そうそう、こうでなくちゃ。
体力ないし、すぐ死ぬし。
それがわかってるくせに自由で、前向きで、楽しそうで。
だから憧れた。
だから助けたいと思った。
だから――
「好きだよ、ナナセ」
「えっ……え?」
「だからさ。ナナセのバカなとこが好きだって、そう言ってんの」
「……もー! わたし、知らないっ」
ナナセがぷいとそっぽを向く。
僕たちはそんな取るに足らない会話をしながら、眼下に広がる一面の青空に向かってどこまでも落ちていった。