6-1
六月十九日、月曜日。
ナナセは欠席だった。
閏間さんも同じように登校していない。
「進路希望調査票は今月末までに提出ですからね。まだの人は早めに出してください」
担任の中田が喋っている間、僕は頬杖をついてぼんやりと窓の外を眺めている。
あれからナナセとは会っていなかった。メッセージのやり取りも止まっているし、閏間さんが言っていた通り、本当にもうナナセと会うことはないのかもしれない。
まあ、多分それが自然なんだ。
これからは不気味な巨人とバトルすることもないだろうし、埒外存在を管理する秘密組織やら人類から感情を消したい思想集団やらのゴタゴタに巻き込まれることもないだろう。
その方が、無駄な労力を使わずに済む。身の丈にあった道を選ぶこと――きっと、それが賢く生きるってことなんだ。
「進路希望かあ……」
やっぱり、適当に無難な進学先を書いて提出しよう。
*****
ずきりと胸が痛む。
またいつの間にか寝てたみたいだ。少し顔をあげると、数学の授業が何事もなく進行している。
なんだろう、今の。気のせい?
*****
ずきりと胸が痛む。
その痛みで再び目が覚めた。
数学の授業はだいぶ進行していて、黒板には全く別の内容が書かれている。教師は白熱した様子でいかにその公式が素晴らしいかを語っていた。
気のせいじゃないみたいだけど、なんなんだろう。
*****
ずきりと胸が痛む。
痛みは少しずつ弱く、小さくなっているようだった。さすがにおかしいと思って、胸に手を当ててみる。
「……あっ」
その状態に慣れすぎていて、気付くのが遅れてしまった。シャツ越しに触れたのは小さな立方体だ。
――プリズムキューブのペンダント。
痛みの発信源は多分これだろう。
三週間も持っていたというのに、結局この物体がなんなのか、未だに詳しくは知らない。最初の頃はナナセに聞いてみようと考えてはいたものの、会うたびに様々な事件が起きて聞きそびれ、いつしか持っているのが当たり前になり、聞こうと思うこと自体少なくなっていた。
それでも、この物体がナナセと繋がった大切な何かだと、そう確信してもいる。
ずき、と胸が痛む。
さっきよりほんの少し、痛みが小さくなった気がした。なんだか嫌な予感がする。だって、『痛い』のがいい兆候なわけがない。多分、きっと、いや絶対、ナナセに何かあったんだ。
ナナセに近付くのは『禁止』らしい。僕はどこにでもいるただの男子高校生でしかなくて、天使とか、秘密組織とか、そんな大それた存在からすればお呼びじゃないのはわかってる。
でも、それがどうした。
そんなの関係ないじゃんか。今この瞬間、頭の中にあるのは進路のことでも数学のことでも公式の素晴らしさのことでもなくて、舞羽ナナセのことだけなんだから。
ずき、と胸が痛む。
「すみません!」
思わず立ち上がっていた。クラス中の視線が僕に向かい、中年の数学教師が怪訝な顔を向けてくる。
「保健室行ってきますっ!」
「おい、夜見!」
制止の声は聞かずにダッシュで教室から出る。最初からこうしておけばよかったんだ。
*****
今日に限って、空は嘘みたいに晴れている。見渡す限り青一色だった。
一足先に夏になってしまったかのようなじめじめとした暑さの中、校内履きのまま自転車を全力で漕いで車道を爆走する。
真夏のような暑さに体力を奪われる。吹き出た汗が全身を滝のように流れ落ちていく。信号をすべて無視して、何度も車に轢かれそうになりながら車道を走り続ける。
どうやら頭がおかしくなったらしかった。
冷静に考えて、正体もよくわからない小さな立方体の様子が変だったからって、豪快に授業を抜け出して学校を飛び出してきたり、靴を履き替えることもせずに自転車に乗ったり、交通ルールを守らずに街を爆走したりするなんて正気じゃない。
そう、正気じゃないんだ。
もうこれは誤魔化しようがない。僕はナナセを――。
*****
「……ここっぽいな」
小一時間走り回ってたどり着いたのは、駅前にある県立高校だ。
その校庭で、飛び降りるようにして自転車を乗り捨てる。プリズムキューブの反応が一番大きくなるのはここだった。平日の日中だというのに全く人の気配がしないし、何かがこの校舎で起きているのは間違いなさそうだ。
多分、中にナナセがいる。
彼女がどんな状態になっているにせよ、とにかく会って確かめないと。
*****
校舎に侵入し、焦燥感に突き動かされるようにして廊下を走る。
思った通り誰もいなくて、教職員の一人も見かけない完全な無人状態だ。空っぽの廊下に、荒い息遣いと足音だけが反響していく。
ふと、ポケットの中で、入れっぱなしだったスマホが振動しているのに気付いた。
〈非通知設定〉
出た方がいい。
そう直感して、足を止めて通話ボタンをタップする。スマホを耳に当てると、聞き覚えのある声が僕を呼んでいた。
『ヨミくん』
「閏間さん!」
『……ごめん。あんな言い方をしたのに、約束を守れなかった』
「ナナセのこと?」
『そう……時間がない。スマホからあなたの現在地を逆探知した。でも多分、私達では――こに入れない。強力な天使――域が妨害し――る』
通話が途切れ途切れになり聞き取り辛くなっていったものの、入れない、という単語は聞き取れた。閏間さんは来れない、そう言っているらしい。
『――も詳細な状況は――らない。座標がわか――もそこ――どり着けない。可能な限りの支援を――。通話――数秒しか――ない。――の電源――入れ――音が鳴る――』
閏間さんの言葉はどんどん聞き取りづらくなっていったけれど、最後の一言だけはハッキリと聞こえた。
『――に必要なのは勇気。がんばれ』
通話がぷつりと切れる。
正直言って、最後の精神論のところ以外、細かいことは全くわからなかった。
電源を入れて音が鳴る、のところは、多分スマホのことを言っていたんだろう。何の関係があるのかはわからないけど、とりあえずスマホの消音モードを解除して音が出るようにしておく。
それでも、閏間さんが連絡してきたってことは、ナナセに何かが起きていることは確実だ。
深呼吸をする。
「――よし」
少し冷静になった。ナナセに起きているのは、きっといいことじゃない。落ち着いて、よく考えて、スマートに行動するべきだ。
*****
一年C組と書かれた三階の教室を通りがかったとき、微かな違和感を覚えて立ち止まった。何かがいる気がして、警戒しながら窓を覗いてみる。
「――!」
そこから見えた光景に、思わず扉を開けてしまった。教室の中は殆どの物が後ろ半分に下げられていて、前半分に四つだけ机が取り残されている。その前側、教卓の近くに銀髪の天使がいた。
いや、置かれていた。
椅子に座らされたセーラー服姿のナナセは、艶のある緋色のロープ状の何かで拘束されている。紺ソックスを履いた細い足首と膝はそれぞれが椅子の両足に硬く括り付けられていた。太もも、お腹にもロープがきつく巻き付いていたし、両腕は頭の後ろで手を組むように縛られていて、全身が徹底的に椅子に固定されている。
金色の瞳は長い睫毛の下に閉じられており、ぐったりとした様子で項垂れていた。微動だにしないその姿は、生きているのか死んでいるのかすらわからない。
「やはり来たか、ヨミ」
「……高鳥」
そして、教室の中央で腕を組んで座っていたのは高鳥テンリだった。
「それ以上近付くなら、お前を排除しなければならない。わざわざそうせずに済む方法を用意したというのに、命を無駄にしたいのか?」
「ナナセを返せ」
「無理な相談だ。もうじき天使アレフは消滅する」
「……は?」
「簡単なことだった。器である天使アレフの肉体から、お前が持っている聖霊匣にアクセスして聖霊を構成する奇蹟を回収している。ようは端末からのハッキングだ。既に九十六パーセントは剥奪したから、もう十数分で天使アレフの自由意思は消滅するだろう」
「《ロゴ――」
がちり。歯車が噛み合う音がする。
高鳥が手をあげるのが視えた。咄嗟に尻餅をつくと、すぐ頭上を光線が擦過していく。
「やはり、回避能力だけは優れているか」
座ったまま右手を向ける高鳥。まずい、次は避けられない――そう感じて、とにかく思いついた言葉を叫んだ。
「説明っ!」
「……説明?」
「せめて詳細な説明が聞きたい! そのくらい、いいだろ」
「見え透いた悪あがきだが、いいだろう。どの道お前には何もできまい」
メガネの学ラン男はあっさりと許可を出すと、僕を教室の中へと招き入れた。