5-8
*****
閏間さんの家はごく一般的なマンションの七階にある部屋だった。秘密組織、兵器を満載したトレーラーときたら、武装集団のアジトのような場所なのかと身構えていたけど、どうやら無用の心配だったみたいだ。
閏間さんは七〇五号室の扉を開けて振り返った。
「入って」
「お、おじゃまします……」
中に入ると自動で電気がついた。物が殆ど置かれていない、生活感ゼロの廊下が目に入る。立ち尽くす僕の横でスニーカーを脱いだ閏間さんは、手際よく来客用らしいスリッパを用意してから靴下のままぺたぺたと廊下を歩いていく。
「ヨミくん、どうしたの?」
「あ、いや、ごめん。すぐ行きます」
「うん」
揺れるボブカットの黒髪や赤ジャージの女子っぽい後ろ姿を見て、今更ながらに女の子の家に来てしまったことを意識させられる。
まあでも、状況が状況だしどうもこうもない。靴を脱いで用意してもらったスリッパに履き替え、複雑な心境のまま閏間さんの後を追った。
*****
この部屋はリビング・ダイニング・キッチンというやつだろうか。西側はリビングで、四人掛けのL字ソファーやテレビが置かれている。東側にはダイニングテーブルが置かれ、その奥にカウンターキッチンがあった。
家具はぴかぴかで新品みたいだ。一人暮らしにしてはだだっ広く、モデルルームみたいに小綺麗な部屋。リビングの大きな窓からは夕焼けが差し込んで、オレンジ色の光が優しく室内を照らしていた。
「どうぞ」
「すんません、わざわざ……」
閏間さんが麦茶のペットボトルと新品らしいグラスを持ってきてテーブルに置いた。僕が腰かけていたソファーに彼女も座り、L字部分を利用して向かい合う。その構造上、お互いの膝がくっつきそうな距離感になっていた。
閏間さんはTシャツの上に赤ジャージを着て、膝上丈の赤い半ズボンを穿いている。白いくるぶしソックスを履いた足はちょっと内股だった。
「それで、なんで僕は閏間さん家に呼ばれたの?」
「シェルフの施設では話しにくいこともあるかもしれないから」
「話しにくいこと?」
「そう。ナナちゃんのこと」
「……その前に一ついい?」
「うん」
「ずっと聞きたかったんだけど、『ナナちゃん』って、何?」
勘違いじゃなければ、ナナセも閏間さんのことを『リア』と呼んでいたような気がする。
「昨日の昼休み、ナナちゃんが私の部屋に侵入した」
「ああ、あの武器だらけのやばい部屋ね。言い忘れてたけど、鍵はかけといた方がいいよ」
「奇蹟で開錠された」
「あっはい……」
「ナナちゃんからは、『リア』と呼ぶので『ナナセ』と呼んでほしいと提案された」
「あー」
その流れは身に覚えがある。三週間前、ナナセと出会った頃に同じようなやりとりをしたはずだ。
「それで、なんでナナちゃん?」
「呼び捨てに少し抵抗があって……『ナナちゃん』が第二希望らしかったので、そうなった」
珍しく閏間さんが言い淀む。少し気になったけど、これ以上突っ込むのはなんだか気が引けた。
「そっか。じゃあどうしてナナセと仲良くなったの?」
「情報提供と協力の依頼があった。シェルフとしては、舞羽ナナセの側からコンタクトをとってきたのは好都合。普段は彼女と接触することすら難しい」
「なんで? クラスにいるじゃん」
「彼女はずっと前から自身を監視する存在に気付いていた。彼女はフェノメナシフト――奇蹟を行使して、いつでもシェルフの目を逃れることができた」
「えっ、そうなの!?」
「普段は問題ないけれど、シェルフが積極的にコンタクトしようとした途端、ナナちゃんは観測不能になる。彼女の事象改竄能力はとても高く、私たちの装備では追いきれない」
「結構すごいんだね、ナナセって」
閏間さんが小さく頷いた。少し間を置いてから、彼女は再び話し出す。
「今回の件もそう。ナナちゃんはぎりぎりまで私たちの観測を阻害していた。協力を持ちかけてきたのは彼女の方だったのに」
「協力って?」
「ヨミくんが狙われているかもしれないから、状況を調査し、安全を確保してあげたい。ナナちゃんはそう言っていた」
「……そうなんだ」
「なのに、今日どこに行くつもりだったのか事前に教えてくれなかったし、痕跡を消してトレースできないようにされた」
「それはまた、なんで?」
「『わたしたちのデートを邪魔しないで。助けて欲しいときは連絡する』と言われた」
「……」
「結局、連絡をくれたのは本当にぎりぎりのタイミングだった。もし間に合わなかったら、取り返しのつかないことになっていた」
ナナセには最初から全部わかっていたのかもしれない――シェルフのことも、僕が狙われていることも。その上で、彼女は自力で対策をとって、閏間さんと協力関係まで結んでいた。
一方で、閏間さんの言うことが本当なら、ナナセは今日のことを楽しみにしていたんだろう。ぎりぎりまで閏間さんを呼ばなかったのは、きっと僕のことを信頼してくれたからだ。
「そうだったんだ」
「うん」
真っ黒の瞳が探るような目を向けてきた気がして、僕は慌てて付け足した。
「あ、ごめん、まだちゃんと言えてなかった。ありがとう、助けてくれて」
「別にそういうことじゃ……」
「助けられてばっかだよね。迷惑かけて、ごめん」
「そんなことない」
それきり会話が途切れてしまい、二人の間に気まずい空気が流れた。
しばらくして、閏間さんが再び口を開く。
「少し、説明しておきたいことがある」
「うん。なに?」
「ナナちゃんのこと」
閏間さんは無表情のまま、淡々とした口調で説明を始めた。
「シェルフの分析では、舞羽ナナセは約三か月前に発生した天使とされている」
「三か月前に、発生?」
「そう。ヨミくんが高校一年生の終業式を終えたあたりになる。三月末に、情報室が天使の発生を観測。高度予測演算によって私がこの高校に配置され、他十数名の蒐集員も各々の役割を与えられた」
「閏間さんは高校生役ってこと?」
「高度予測演算によって導出されたシナリオでは、舞羽ナナセが高校生として活動する想定がなされていた。だから私がこの高校に潜入した」
「そんなことまでわかってたんだ」
「あくまで予測だから、その通りにならない可能性もあった。舞羽ナナセが実体として顕現したときに制服を渡すことができた影響もあって、彼女は予測通り高校生となった」
「……あ!」
確かに、ナナセは制服を『誰かに貰った』と言っていた。ナナセが閏間さんのいる高校に入ったのは、ある意味で仕組まれたことだったんだ。
「しかしその接触以降、シェルフは舞羽ナナセに避けられるようになってしまった。だから、未だ彼女については謎が多い」
「そうなんだ」
「観測上、天使には様々な種類がある。詳細は省くけれど、天使には必ず存在理由があるはず」
「存在理由?」
「たとえば、契約に基づき人間を導く旧い天使。天の意思を伝令し、ときには代行する新しい契約の天使。裁定者として悪性を滅ぼす戦いの天使、などが挙げられる」
「うん」
「舞羽ナナセは、今のところどの天使にも該当しないらしい。だから、どのような目的で顕現したのか、なぜ天界からの攻撃を受けているのか、更に詳しく調査する必要があった。そして現在、彼女は十分交渉可能な状態になったと、本部も判断してくれた」
そこまで説明すると、閏間さんは一度言葉を切った。
夕暮れの柔らかな光で照らされた部屋に、束の間の沈黙が訪れる。
ふと、先の展開が読めた気がして、この場から逃げ出したい衝動に駆られた。そんな僕を見つめる黒い瞳が揺れ、閏間さんは堰を切ったように喋りだした。
「ヨミくん」
「……なに?」
「もう私はあなたにこれ以上の危害が加わることを看過できない。ヨミくんは有力な交渉手段として観察対象になっていたけれど、保護対象への変更を申請し、受理された」
「……」
「あなたをこれ以上舞羽ナナセに関わらせない。本当は、今日みたいなことが起きる前にこうしておきたかった。今回の件で私は確信した。二人の関係性の進展を観察し交渉の機会を伺うだけでは、取り返しのつかない事態に陥りかねない。その状況は私の望むところではない」
「待って、閏間さん」
「もう一つ理由がある。ヨミくんが制圧躯体を使用するたびに何らかの負荷がかかっていることは明白。これまでも授業中の睡眠時間は明らかに増加傾向にあったし、さっきも突然昏倒していた。これ以上、制圧躯体を使用して欲しくない」
閏間さんが身を乗り出す。
ソファーに右手をついて、彼女の身体がぐっと近付いた。前を開いた赤ジャージの裾が揺れて、銀色のジッパーが柔らかな光を反射する。短く切りそろえられた黒髪や、まっすぐにこっちを見た丸い瞳がすぐ目の前に突き出された。
「故に私は提案、いや、禁止する。ヨミくんは舞羽ナナセに近付かないで。これ以上はあなたの命を保証できない」
閏間さんの顔は真剣だった。
きっと、こうして説明してくれるのは閏間さんの優しさなんだと思う。学校に潜入したり、校舎に武器や二脚兵装を持ち込んだり、派手に学校設備を破壊しても隠蔽できるような秘密組織だ。僕に黙ってナナセを隔離することくらい容易いはずだった。
「禁止、かぁ……」
何も知らなかった。
ナナセは僕が勝手に想像してた以上にいろんなことを考えていたらしい。彼女が僕を頼ったのは、自分の力だけではどうしようもなかった虚像天使を、夜見府容なら追い払えると判断したからなんだろう。
「……そうだよね」
説明を聞いて、わかってしまった。僕では釣り合わない。ナナセの期待に、ナナセの信頼に、ナナセという存在の大きさに。
「うん、薄々感じてはいたんだよ。僕ってただの一般人で、なんにもできない凡人だし。ナナセを助けるなんてできるのかなって思ってた」
そして、やっぱりダメだった。
「ナナセは、僕を助けるためにメティンの前に出ていったんだ。自分の力じゃ敵わないってことも、酷い目にあうだろうこともわかってたと思う。それでも、閏間さんが来るまでの時間稼ぎにでもなればって、迷わずに飛び出してきたんじゃないかな」
そんなことをさせてまで、僕が一緒にいる理由ってなんだ?
「でも閏間さんなら。なんでも知ってるし、めっちゃ強いし、困ったときはいつだって助けてくれそうだし、ナナセが痛い目にあうこともきっとないよね」
だから当然だ。
「だいたい、僕はもともと効率重視というか、いろんなことに労力を割きたくないタイプだし」
むしろ好都合だ。
「ナナセも、僕なんかが一緒にいるより、閏間さんと一緒にいた方がよっぽど効率的でしょ」
それが一番賢いやり方だ。
「そもそも最初から閏間さんたちがナナセの面倒をみてたようなもんだし。別に僕が――」
「ヨミくん」
「……なに?」
「これ、使っていいから……」
おずおずといった様子で、閏間さんがティッシュ箱を差し出している。
「泣いてるから。これで拭いたほうがいい」
「え? あれ、やべ……あはは、めっちゃださいじゃん」
「そんなこと、ない」
「ごめん、ちょっと待って……うっわ、ぐしょぐしょだ。待って、すぐ終わるから」
「ヨミくん」
「あ、いいよ、気にしなくて。なんか止まんないけど……大丈夫だから――」
「でも、私……ごめん。ごめんね」
いつも読んでいただきありがとうございます!
いいね、ブクマなど励みになっております。
↓の評価ボタンを押していただけたらさらにとても嬉しいです!