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『天使』と聞いて、どんな姿を思い浮かべるだろう。
頭上に浮かぶ光の輪、小さな翼、白い衣装の少年少女……皆が思い描く『天使』は、大まかにはこんなイメージじゃないだろうか。
けれど、西洋美術史をひも解いてみれば、『天使』は様々な姿で描かれてきたことがわかる。鎧を着た男性だったり、翼まみれの化け物だったり、花冠をつけた女性だったり。パウル・クレーの『忘れっぽい天使』なんて、そう言われなければ天使かどうかもわからない。
さて、どうしてこんな話をしているのか?
それは、僕の前に現れた『天使』が、女子高生の姿をしていたからだ。
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「舞羽ナナセです。天界から来た天使です。よろしくお願いします」
五月三十日、火曜日。
奇妙な自己紹介と共に、『天使』が二年B組に転校してきた。
その転校生は、黒板の前でほほえみながら立っている。髪は銀色で柔らかそうなロングヘア。顔立ちはこれ以上ないくらい整っていて、瞳はきらきらと輝く金色。セーラー服を着た身体は華奢で、スカートから伸びる脚は白くてほっそりしている。
舞羽ナナセは文句のつけようがない美少女だった。人種不明で完ぺきな日本語を喋り、天使を名乗る不思議な女子高生。そんな人物が、どうして平凡な県立高校に現れたんだろうか。
「……あ」
一瞬、目が合った。
金色の瞳がぱちくりと瞬きをした気がした……けれど、そういうのはだいたい気のせいだと相場が決まっている。
はいはい、勘違い勘違い。
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まあ、本当に勘違いだったんだろう。
舞羽ナナセは一日中女子たちに囲まれていて、男子は近付くことすらなかったというオチだ。
そんなわけで僕は帰宅して自分の部屋にいた。時刻は十八時。不気味なほどに真っ赤な夕焼けが街を照らしていて、一日の終わりを無慈悲に告げようとしている。
「さて、宿題は……」
古文の教師は宿題を確認しない。これはやらなくて大丈夫。
数学の宿題は提出がしばらく先だ。これもやらなくて問題ない。
英語はちょっと自信がある。宿題をこなさずとも試験で挽回可能だ。つまりこれも何もしなくて良い。
「あとは、これか」
真っ白な進路希望調査票。提出は来月末だし、まだ真面目に考えなくても大丈夫かな。
「……よし、寝よう!」
労力は最小限に。実に効率的でスマートなやり方だ。
夕飯の時間には少し早いので、それまで仮眠をとろう。ベッドに寝転がって夕日に赤く照らされた天井を見上げる。正体不明の不吉な予感を覚えたのも束の間、すぐに眠気がやってきて目を閉じた。
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「舞羽ナナセです。天界から来た天使です。よろしくお願いします」
五月三十一日、水曜日。
銀髪・金眼・自称天使の舞羽ナナセは、再び転校してきた。昨日も全く同じ自己紹介をしていたし、黒板に書かれたお手本のような『舞羽ナナセ』の文字も昨日とほぼ同じ。
いやいや、おかしいじゃん。
舞羽ナナセは昨日もいたじゃん。なんで今日もう一回このクラスに転校してきた? ドッキリ? サプライズ? 一体なにが起きているんだ。
「と、いうことですので皆さん、舞羽さんにいろいろと教えてあげてください」
担任の中田が呑気に喋っている。
おかしいのは舞羽ナナセだけじゃなかった。中田もクラスメイト達も、まるで今日初めて転校生に会ったかのような反応をしている。少なくとも、そういう扱いでホームルームは進行している。
この状況をおかしいと思っているのは、どうやら僕だけらしい。他の皆はリセットでもされたみたいに、昨日のことをすっかり忘れてしまっているようだ。
スマホを取り出し、坊主頭の平井にメッセージを送ってみる。
『舞羽さんって昨日もいたよね?』
前から二列目に座る坊主がポケットからスマホを取り出す。すぐ返事がきた。
『どこに?』
『うちのクラスに』
『さすがにそれはねーよ』
『いやいたんだって』
平井が振り向き、怪訝な顔でこちらを見る。全く信じていない様子だ。
「廊下側の一番後ろに席を用意したので、舞羽さんはいったんそこに座ってくださいね」
「はい、わかりました」
スマホから顔をあげると、ちょうど転校生は割り当てられた席に向かうところだった。
これって僕がおかしいのか? 彼女の転校が二度目というのはただの妄想で、本当に今日この学校に来たばかり――
「……あ」
目が合った。
舞羽ナナセが、歩きながらちらりと僕を見た。気がする。
「それではホームルームを終わります」
いつの間にか舞羽ナナセは廊下側最後尾の席についていて、担任の中田が教室から出ていくところだった。直後、クラスの女子がその席に群がって、転校生の姿はすぐに見えなくなる。
これもまた、昨日見たのと全く同じ光景だった。
*****
歌声が聞こえる。
オルゴールのような、きらきらした優しい歌声。
いつの間にか眠っていたみたいで、突っ伏していた顔をあげてあたりを見渡す。放課後の教室が夕焼けに照らされて、オレンジ色に染まっていた。
そして隣の席では、舞羽ナナセが小さく歌を口ずさんでいる。机に腰かけたセーラー服の天使は、紺ソックスの両脚をゆらゆらと揺らしていた。風になびく銀髪がきらきらとオレンジに輝いて眩しい。長い髪が揺れるたび、甘い匂いがふわりと漂ってくる。
教室には舞羽ナナセしかいない。完全に僕と彼女の二人っきりだった。
「……なんで?」
もしかしたら僕は死んでいて、もうここは天国だったりするんだろうか。
その声で気付いたのか、舞羽さんは歌うのをやめて振り向き、間髪入れずに口を開いた。
「あ、やっと起きた」
「これってどういう状況? 死後の世界?」
「え……どう見ても違くない?」
舞羽さんは眉をひそめて小首を傾げている。そう言われても、状況的にいまいち現実感がない。そもそもこの転校生のビジュアルに現実としての説得力がないし、どうしてこんな時間まで無人の教室で寝ていたのかも全く思い出せなかった。
「夜見くんさ、授業中めっちゃ寝てるよね。どの授業も面白いのに。寝不足なの?」
「いや、別に。休めるときに休んどいたほうがいいかなって」
「ふーん。ぐうたらだね」
「違うって。効率だよ、効率。試験対策は試験前にすればいいんだし」
「違くないじゃん」
転校生は納得がいかない様子だ。そんなどうでもいいことより、聞きたいことが山ほどある。
「あのさ。まずはこの状況を説明してほしいんだ」
「あ、そうそう。ちょっと夜見くんにお願いしたいことがあるの」
少しだけ身を乗り出した舞羽さんは、世間話でもするかのようにとんでもないことを言い出した。
「わたし、また今日も殺されるっぽくて」
「……は?」
「だから、夜見くんに制圧躯体に乗ってもらって、虚像天使と戦って、わたしを守って欲しいんだよね」
「え? ちょ……待って待って、意味わかんなかった」
「だからね、夜見くんに制圧躯体に乗ってもらって、虚像天使と戦って、わた」
「あーストップストップ! わかったから! ちょっと待って」
「ほんとにわかったの?」
訝しむ舞羽さんを横目に思考を巡らせる。
この転校生に好きに喋らせていたら、謎は解けるどころかどんどん増えていく気がした。もう少しスマートな聞き方をしないと。
「まず一個いい?」
「なに?」
「舞羽さんって昨日もいたよね? うちのクラスに」
「そうだけど?」
あっさり頷く舞羽さん。やっぱり僕の感覚は間違ってなかった。
「なんで、こう……皆そのことを忘れてたの? 忘れてたっていうか、覚えてなかったというか」
「あーそれね。だってわたし、存在を抹消されてるから。昨日」
「……はい?」
「虚像天使にぐっちゃぐちゃに潰されて。うっ、思い出すとぞわぞわする……」
舞羽さんが自分を抱くようにして顔をしかめている。
『虚像天使に潰されて』か。何かがひっかかるフレーズだ。何か――。
瞬間、脳裏にイメージが閃いた。夕焼けに染まった校庭。息も絶え絶えに走るセーラー服の少女。走り迫る灰色の巨大なロボットが、まるで虫でも潰すかのように……。
「夜見くん? ねえ、どしたの?」
話しかけられて、イメージが霧散した。不気味なほどに真っ赤な夕焼けが照らす教室。舞羽さんは金色の瞳を瞬かせて僕のことを見ている。
「いや、今……! あ、あれ?」
イメージは一瞬で過ぎ去って、その断片すら頭に浮かんでこなくなってしまった。なんだったんだ。
「なに? なんのこと?」
「いや、いい。気のせいだった」
「そう?」
「うん。そんなことよりもう一つ聞きたいことがあって」
「なに?」
「皆が舞羽さんのことを忘れたのはいいとして、なんで僕だけは覚えてるの?」
「あー、そっか」
舞羽さんが「えーっとね……」と呟きながら首を傾げる。顔にかかった銀髪を手でよけながら、彼女はよくわからないことを口にした。
「それはね、わたしが天使であることを信じたのが、夜見くんだけだったからだよ」
「えっ?」
「夜見くんがわたしを覚えているのは、夜見くんだけが天使の実在を信じたから。……ねえ、教えて」
開いた両脚の間に手をついて身体を乗り出してくる舞羽さん。お行儀悪いな、この子。
「なんでわたしが天使だって信じてくれたの?」
「なんでって言われても、そんなの僕も初耳だよ」
金色の瞳がじっと僕を見つめている。
言われてみれば、『信じる』まではいかずとも、疑うこともなかったかもしれない。
「もしかして、夜見くんの知り合いにわたし以外の天使がいたりする?」
「んなわけないでしょ」
「じゃあ天使を見るのは初めて?」
「えぇ、なにその質問。そりゃそうで……いや、まあ、絵画でいいんだったらよく見るよ」
「かいが?」
「絵だよ、絵。昔はよく描かれてたんだよね、天使。宗教絵画とかで、モチーフとして」
舞羽さんは目をまるくして、おおー、と小さく歓声をあげた。
「そうなんだ。詳しいんだね」
「ちょっとは好きだけど、詳しいわけじゃ――」
「ねえねえ、じゃあさ。わたしみたいな天使もいる?」
返事を遮って、舞羽さんがさらに身を乗り出しながら聞いてきた。なんだこの食いつきようは。
「さすがにセーラー服を着た天使はいないと思うけど。ってかさ、それ今どうでもよくない? そんなことより、まだ聞きたいことが――」
言いかけた時だった。
がちり、という音が聞こえた。僕の中で何かの歯車が噛み合う音だ。
その音と連鎖するように、視界が急速に広がる。前と後ろ、右と左、上と下がいっぺんに見えていた。世界がどんどんのっぺりと平面に引き延ばされて、やがて時間すらもパラパラ漫画のように分解される。意識がそのうちの一コマに吸い寄せられて――
そして、『そいつ』と目が合った。
いや、厳密には『そいつ』に目はなかった。
目があるはずの顔にはつるりとした仮面があって、頭頂部には楕円形の光輪がくっついている。そいつは巨大な人型をしていた。一見でかい石像のようだったけど、よく見ると全身が鎧でできている。石像と言うよりは、エイリアンのロボットと言ったほうが正しいかもしれない。特に目を引くのが巨大な両腕で、天秤を思わせるシルエットをしていた。
こいつだ。
直感でわかった。昨日、舞羽さんを叩き潰して抹消したのはこの不気味な巨人で間違いない。さっき彼女が言っていた『虚像天使』とはこいつのことだろう。
教室の床を突き破って現れたそいつは、巨大な拳で舞羽さんを叩き潰す。そうして今日も彼女は殺されて、全てがなかったことにされるのだ。
『夜見くん』
天使の華奢な身体がめきめきと圧壊する。悲鳴をあげる時間すら与えられずに、骨はばらばらに砕け、肉は千切れて飛び散り――
「どうしたの、ねえ」
大きな声が聞こえて、意識が現実に引き戻された。目の前には、怪訝な顔をした舞羽さんが変わらず机に座っている。もうすぐ『虚像天使』が来る。舞羽さんはまだ生きている。まだ、間に合う。
「やばい。逃げなきゃ」
椅子が倒れるのも構わずに立ち上がる。びくりと震えた舞羽さんの手を取って、そのまま引っ張って走り出そうとしたとき、どてん、と鈍い音が聞こえてきた。
「いったぁ……もー、なんなの?」
振り向くと、机から落ちた舞羽さんが上目遣いで睨んでいる。我ながら焦りすぎた。前触れなしに手を引っ張ったらこうなるに決まってる。
「ごめん。でもさ、『虚像天使』ってやつが来る。だから早く逃げよう」
舞羽さんの細い手首を掴んで引っ張り起こす。
「あっ、待って」
不服そうにしている舞羽さんの手を引いて、今度こそ走り出した。廊下に出て階段の方に向かうと、背後で爆発音がする。さっき視たイメージ通り『虚像天使』とかいう灰色の巨人が教室に現れたようだ。続いて工事現場のような騒音が響き渡り、『虚像天使』が巨体を引きずってこっちに向かっているらしいことがわかる。
「やばいやばいやばい」
「待ってってば!」
背後で舞羽さんが何か言っているが、構わずに廊下を走る。幸い、三メートルを超える巨体では校舎内を動き辛いようで、徐々に『虚像天使』を引き離せている感覚があった。
「聞いて、待って……夜見くん、」
舞羽さんの手を引いて階段を駆け降りる。依然として騒音はこっちに向かってきていたけど、このペースなら逃げ切れるはずだ。
「待っ、て、ま……ってぇ」
「ちょ、うわ!?」
二階と一階の間の踊り場までたどり着いた時、舞羽さんが急に止まった。危うく二人して倒れそうになるものの、なんとか踏ん張ってつんのめった身体を元に戻す。
「もう、むりぃ……」
振り向くと、肩でぜえぜえと息をした舞羽さんが、今にも床にへたり込みそうになっている。工事現場のような音は徐々に近付いてきていた。こんなところで立ち止まっている場合じゃないのに、階段を二階分駆け降りただけでこの天使は体力切れを起こしているようだ。
「いや、体力なさすぎじゃない!?」
「もうだめ。ね、夜見くん、戦って」
「は? 戦う……!? ムリムリムリ、なに言ってんの!? だってアレだよ。見た、アレ!?」
「大丈夫……だから。目も良くして、あげたし」
「『目』? 確かにさっき変なのが見えたけど、なんだったんだ」
言われてみれば、『虚像天使』が来るのが事前にわかったし、実際その通りになった。まるで未来予知……いや、未来視とでも言うんだろうか。舞羽さんが息切れしながらも僕の疑問に律儀に答えようとする。
「夜見くんの……才能を、開花させた、から」
「才能? って違う。今はそれどころじゃ――!」
がちり。また歯車が噛み合った。
僕の視野が再び次元を越え、世界を俯瞰する。すぐ先の未来、迫る灰色の巨人が視える。そいつはさっきの『虚像天使』に似ていたけど、頭に光輪がなくて、腕も少し小さい。つまり、
「二体目――!?」
爆音が轟く。
壁を破壊して、階下に二体目の『虚像天使』が現れた。がらがらと音をたてて壁が崩れ、灰色の巨体が無理やり校舎の中に押し入ってくる。天井を破壊する騒音をたてながら『虚像天使』が廊下を横切って、あっという間に階段を砕きながら上ってきた。
あ、死んだな。
シンプルにそう思った。僕と舞羽さんめがけて急速に迫る『虚像天使』は、巨大で、異様で、今まで見たどんな存在よりも恐ろしかった。悲鳴をあげようにも声が出なかったし、逃げようにも足が竦んで動けない。
灰色の巨人はもう僕たちのいる踊り場に到達していて、目の前で大きな拳を振りかぶっている。きっと、気付いた時には僕は粉々になって――
「……っ!」
「え?」
突き飛ばされる。
顔を上げると、舞羽さんが僕を突き飛ばした状態でこっちを見ていた。そのままの姿勢で、彼女はぎゅっと目を瞑る。
次の瞬間、少女の身体はばらばらになった。
鈍い音と共に、『虚像天使』の拳を受けた舞羽さんの手足が千切れ飛ぶ。びしゃ、と僕の全身に温かい液体が付着した。太ももの付け根から千切れた少女の左脚がすぐ横の壁に叩きつけられて落下する。銀髪の頭がごろりと転がった。細切れの肉片になった少女の胴体がべちゃべちゃと床に落ちる音がしている。
そして、動くものはなくなった。
『虚像天使』は、拳を突き出した姿勢のまま静止している。ぽたり、ぽたりと、返り血を受けて真っ赤に染まった『虚像天使』から血が滴り落ちた。
解体された少女の身体は階段のそこかしこに散らばっている。蛍光灯の鈍い光を反射して、ぶちまけられた血がてらてらと輝いていた。
「……は、」
息ができず、ずるりと地面にへたり込む。視線を下げると、少女の細い脚が目に入った。上履き、紺ソックス、膝、太もも……そこから先がない。脚だけだ。股関節あたりで千切れた断面からは赤い血がだらだらと流れ出ている。
血で濡れた踊り場に座り込んだ僕は、その猟奇的な殺人現場を呆然と眺めることしかできなかった。