5-2
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『舞羽ナナセです。天界から来た天使です。よろしくお願いいたします』
ナナセが黒板の前で自己紹介をしている。
教室が崩れ落ちていく。がらがらと音を立ててナナセ以外の全てが奈落の底へと落下し、いつの間にかそこは夕焼けに赤く染まった校庭になっていた。
『ヨミ』
名前を呼ばれる。差し出された右腕が宙を舞った。左脚が千切れてナナセが校庭に倒れる。夕焼けの中にあってなお赤い鮮血が地面に広がって、天使は血だまりの中で溺れるように蠢いた。その口からは痛々しい悲鳴と嗚咽が漏れて、金色の瞳は恐怖と苦痛に歪んでいる。
身体が動かなかった。そもそも身体がなかった。目を瞑ることもできず、ボロボロになっていくナナセを見つめ続けることしかできない。
『舞羽ナナセです。天界から――』
「――っ!」
六時三十二分。
勢いよく上体を起こして、ゆっくりと深呼吸をした。
「またか……」
最近はさらに頻度が増したナナセが死ぬ夢。もうその印象は薄れ始めているけど、今日のはいっそう具体的だった気がした。間違いなく、昨日のアレが原因だろう。
だらりと力なくもたれかかる、人形のようなナナセの死体の感触。どうすることもできずにずっと抱えていたら、前に見た時と同様に砂のようになって消えていった。プリズムキューブのペンダントもここにあるし、きっとナナセは生き返ってくるはずだ。
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今日は六月十四日、金曜日。
ナナセは転校してこなかった。
つまり、彼女は普通に登校していた。リセット現象は起こっていなくて、ナナセは朝から自席で辻村さんと談笑している。それ自体は不幸中の幸いというか、少なくとも悪いことじゃない。
けど、どうしていつもと違うんだろう。
虚像天使がナナセを殺すのは、存在を抹消するためのきっかけのようなものなんだと思っていた。彼女が世界に実在しないことで、その痕跡、記憶や記録が抹消される。つまりリセットだ。
だとすれば、ナナセが死んだのに皆が覚えているこの状況はおかしい。情報の抹消に失敗したのか。それとも、元からナナセを抹消することが目的ではなかったのか――
ざらりとした違和感を覚える。なら、『敵』の目的はなんなんだ?
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「今日はもう大丈夫です! なのでヨミは帰ってちゃんと寝てください。明日は駅前に十時だから、遅刻しないでくださいね!」
放課後、ナナセは敬語モードのままそう言い残すと、返事を待たずにどこかへと去っていった。どういうわけか、学校にいるときのナナセは基本敬語で喋る。二人でいるとき以外、ナナセのタメ口を聞いたことはなかった。
「しまった……」
周りの目なんて気にせずにダッシュで追っかければよかったけど、そう思ったときには銀髪天使の姿はなく、もうどこに行ったかもわからない。結局ナナセの家がどこなのかはわからずじまいだったので、先回りして摑まえることもできない。
それに、ここ最近ずっと眠いのは事実で、今も身体がだるい。今日は『大丈夫だ』というナナセの言葉を信じて、言われた通りに大人しく帰るしかなかった。
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「ヨミせんぱいおかえり~」
「えっ……なんでいんの」
帰宅すると、ヒナノが僕のベッドで漫画を読んでいた。
「せんぱいは少女漫画も読むんですね?」
「それは妹が置いてったやつだけど」
「へえ~」
以前と同じく、制服にパーカーを羽織った恰好のヒナノは、うつぶせに寝転がって枕に顎をのっけていた。枕に垂れている茶髪ツインテも前と同じ。くるぶしソックスを履いた両足をぱたぱたと上下させ、まるで自分の家かのようなくつろぎ方だ。
「ねえヒナノ」
「なんですかー?」
ヒナノがぺら、とページをめくった。雨が小さく窓を叩く音が聞こえている。どうやらしっかり漫画を読んでいるらしく、ヒナノは目線すらこっちに向けてこない。
「……面白い?」
「はい。あたしはヤマケンくんが好きですね〜。かわいいし」
「そっかぁ」
また一つページがめくられる。
ヒナノはあまりにも堂々とくつろいでいたので、驚いたり質問したりするタイミングを逃してしまった。デスクから椅子を引っ張り出して、ツインテ後輩に占拠されたベッドの前に座る。ぺらりとページがめくられる音や小さな雨の音が、沈黙をより長いものに感じさせた。
「……話しかけてもいい?」
「いーですよ」
ぺら、とページがめくられた。やはりヒナノは漫画を読み続けている。
「それ、そんなに気にいったなら貸そうか? 全巻あるし」
「ヨミせんぱいの部屋で読むから大丈夫です」
「読むのはいいけど、まさか少女漫画読むために不法侵入したわけじゃないよね」
「……もー、今いいとこなのにぃ」
そう言うと、ヒナノは枕に顔の半分をうずめながらこっちを向いた。
「そーですよ。今日はせんぱいにアドバイスがあってきました」
「アドバイス?」
ヒナノが「んーっ」と言いながら伸びをする。短いスカートから伸びた生脚がもぞもぞと動いて、彼女はベッドの上で起き上がった。その場であぐらをかいたヒナノは、一息ついてからようやく口を開く。
「まず、聞きたいんですけど」
「うん」
「最近、身体の調子がおかしいってことはありませんか? 食欲がないとか、少し歩いただけで疲れるとか、眠れないとか」
「なにその話。急だね」
「どーですか?」
「うーん、特には――」
ない、と言いかけて、一つ思い当たる節があることに気付いてしまった。
「強いて言うなら、最近めっちゃ眠い。疲れてるのかなーくらいに思ってたけど、前はこんなんじゃなかった気がする」
「あー。多分気のせいじゃないですよ、それ」
ヒナノの吊り目が僕の両目を覗き込んで、ひとしきり観察した後で再び喋り始めた。
「おかしいと思ってたんですよね。せんぱい、目が良すぎますもん」
「え、なんか知ってるの? この『目』について」
言われてみれば、その力に慣れすぎてしまって、すっかりナナセに質問するのを忘れていた。
「天使の奇蹟で、無理やり潜在能力を引き出された感じですかね」
「なんかナナセも似たようなこと言ってたかも。才能? とかだったかな」
「そーなんですか?」
ヒナノが再び僕の目を覗き込む。
「……これは厳密な表現じゃないですけど。ヨミせんぱいには『目』で世界と繋がる資質があったんでしょーね」
「えっなにそれ、超能力的なやつ?」
「そんなんじゃないですよ。個性みたいなもので、誰にでもそーいう可能性はあります。ヨミせんぱいの場合はたまたまそれが『目』だったんでしょう。で、舞羽せんぱいはそれを無理やり事象の根源と繋げてしまったんだと思います……まあ、人体改造ですよね」
一瞬、ヒナノが遠い目をしたように見えたけど、気のせいだろうか。
「人体改造?」
「人間にもともとなかった機能を、無理やり付け加えたってことですよ。だから不都合が起きる。眠くなるのは、簡単に言えばその機能を使った反動です」
「あー、そういう……」
「今は眠くなるだけかもしれませんけど、使いすぎればどんな問題が起きるかわかんないですよ?」
ナナセによって与えられた機能、世界を視る力。
確かにやたらと眠いのは困りものだけど、それ以上にこの『目』の力には助けられている。これがなかったらナナセはもっと沢山死んでるだろうし、その前に僕自身が死んでいたかもしれない。
「ありがとう、また一つ謎が解けたよ」
「えー、反応薄くないですか?」
「だってさ、これがなかったら僕はとっくに死んでるだろうし。逆に納得したよ、だからこんな眠いんだなって」
「……はぁ~」
ヒナノはこれ見よがしにため息をつく。あぐらを解いてベッドに腰かけなおすと、彼女は前触れなしに僕の膝を蹴ってきた。
「痛っ! え、なに?」
「せんぱいはバカですね。加減を考えるべきです。そんなんじゃすぐ死んじゃいますよ?」
「えぇ……」
呆れた表情でこっちを見たヒナノが、さらにこう付け加える。
「今日来たのは教えてあげるためです。危険なので、数日は舞羽せんぱいと会うのをやめたほうがいいですよって」
「いやそれ、前にも同じこと言われたし。わかってるけど、僕だってどうしたらいいのか……」
事実、閏間さんが助けに来てくれなかったら一昨日は確実に死んでいた。かといってナナセを放っておくわけにはいかないし。というか、ヒナノだってその危険要素の一つなんじゃなかったか。
「あのさ、気になってたんだけど」
「なんですか?」
「調律ナントカってナナセを摑まえに来たんでしょ? ヒナノって……敵だよね、どっちかと言うと」
「そーですねえ」
ヒナノが少しだけ考えてから言う。
「あたしは調律教院の目的なんて全くキョーミないんです。なんというか、あたしはあたしですっごい昔に失くしたものを探してて、仕方なくあの人たちの指示に従ってただけで……」
「なくしたもの?」
「でも、天使を追ってきたこの街で、その手がかりを見つけた。だから、あたし自身は舞羽せんぱいを捕獲する気なんてさらさらないんですよ」
「へー」
よくわからなかったけど、とりあえず相槌を打つ。雨が窓を叩く小さな音が聞こえていた。いくら待っても、その先の説明が始まらない。
「……え? 終わり?」
「終わりです」
「いや、全然わかんなかったけど」
「細かいことはいいじゃないですか~」
ヒナノは笑ってはぐらかすと、おもむろに立ち上がった。
「もしかして帰ろうとしてる?」
「とにかく舞羽せんぱいと会うのはやめたほうがいいですよ。目の力もあんまり使わないほうがいいと思います」
言いながら、ヒナノは床に置かれていた例のロボ入りバッグを拾い上げてこっちに歩いてくる。バッグに吊り下げられていたスニーカーを手に持つと、僕のすぐ横のデスクに飛び乗って窓を開けた。
「ちょっと待って、そっから帰るの!?」
「この街にいる調律教院のメンバーは二人。あたしともう一人――律師って呼ばれてる立場の人です」
風が吹いて、茶髪のツインテールが揺れていた。ヒナノはデスクの上でしゃがみこんで、雨の匂いと一緒に女の子っぽいいい匂いが流れてくるのを感じる。
「もう言いましたからね。死んじゃっても知りませんから」
両足にスニーカーを履いて、しゃがんだまま窓枠に立ったヒナノが笑顔で僕を振り返る。
「ばいばいヨミせんぱい。今度、漫画の続き読ませてくださいね」
「待っ――」
返事を待たずに、ヒナノは窓枠から跳んでいなくなる。一応外の様子を確認したものの、灰色の空と雨の降る住宅街に、ツインテールの後輩少女の姿は見当たらなかった。