5-1
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六月十五日、木曜日。
昨日まで『高鳥テンリ』という人物がいたはずの隣の席には、現在は誰も座っていない。
それどころか、クラスの誰も、担任の中田すらも高鳥のことを覚えていなかった。
「高鳥って誰?」
坊主頭の平井もこんな感じ。
「……もしかして、平井も天使だったりする?」
「は? なに? 気色悪っ」
「な、わけないかーははは」
うん。平井は天使じゃないな。絶対に違う。
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休み時間、廊下で閏間さんを見かけた。
彼女が歩くのに合わせて揺れる黒髪は、肩にかからないくらいに切り揃えられている。いわゆるボブカットというやつだ。前髪の一部が外ハネしているのは昨日と同じだった。
あと、右のこめかみあたりに、昨日まではなかった銀色のヘアピンが留められていた。今までは飾り気がなかったし、結構なイメチェンだ。
せっかくなので、「それ、似合ってるね」と声をかけてみた。閏間さんは一瞬こっちを見たかと思うと、すぐに目を逸らして小さく口を開く。
「ん」
そんな返事だか何だかわからない言葉を残し、彼女は歩き去った。
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放課後、僕はナナセと図書室にいた。
珍しく『一緒に宿題をやってから帰ろう』なんて提案されたからだ。
「ヨミはもっと真面目に勉強したほうがいいと思うよ」
「すみません……」
そしてナナセにいじめられていた。
だって試験勉強は試験前にまとめてやったほうが賢いじゃん。毎回平均点くらいはとっているし、赤点を取ったこともない。高校の成績なんてそれで問題ないと思う。
「あーほら、そこも間違ってる」
「はい……」
さらに心を抉るのは、ナナセさんがお勉強をたいへん得意としていることだ。それも奇蹟を使ったインチキではなく純粋に勉強が好きらしい。天使らしいナチュラル優等生っぷり。どっちかといえば勉強はできないタイプかなと思っていたのでちょっとショックだった。
「全然わかってないじゃん。もー、そうじゃなくて……」
向かいに座っていたナナセが立ち上がる。その拍子に何かの紙がひらりと机の下に落ちた。
「ナナセ、なんか落ちたよ」
「そっちいっちゃった。とって」
足元に滑り込んだそれを拾い上げる。
「『進路希望調査票』? あー、そういえば今月末提出とかだっけ」
「うん」
「……天使の『進路』ってあるの? 天国とか?」
「なんかバカにしてない? ぜんぜん違うよ」
ナナセのそれは白紙だった。様子を見るに、本人としても天使としても特に決まっていないらしい。
「そう言うヨミこそどうするの。美術館で働きたいんでしょ?」
「えっ、その話したっけ?」
「前に言ってたよ。二人で遊びに行ったとき」
金色の瞳にじーっと見られている。
確かに、ショッピングモールのアートギャラリーを通りかかったとき、『学芸員っていいよね』みたいな話はしたかもしれない。
「うーん、楽しそうではあるけど。まず美術館自体少なくて、採用人数が少ないじゃん? で、大きい美術館で働くにはちゃんとした芸術系の大学を出なきゃいけないじゃん……ムリじゃない?」
「そうかな?」
「今から勉強したところで間に合うのかなぁ……。だいたい、そこそこの大学行ってそこそこの企業で働いたほうが、楽にお金も稼げそうだしさ。そっちのが賢いよね」
金色の目が瞬きをする。
「でも、美術館で働きたいんでしょ?」
「そりゃそうだけど、僕には無理そうな気がする。効率も悪いし。適当に無難な進学先を書こうかな」
「ふうん」
僕は宿題を再開する。ナナセがそれ以上質問してくることはなかったけど、隣に移動してきて問題集の進め方にはちょくちょく口を出してきた。
そんな感じで一方的に教わりながら宿題を進めていた時、ナナセがこんなことを言い出した。
「ねえヨミ。関係ない話なんだけど」
「ん?」
「閏間さんと何を話してたの?」
「……え?」
わけもなくぎくりとする。いやいや、やましいことはないはずだ。堂々としていればいい。
「別に? なんもないよ」
「別にって、なんなの」
「そんなに気になる?」
「何を話したのか聞いてるだけじゃん。言えないことなの?」
「……いや、髪型が……」
「髪型が?」
「変わってたから……」
「変わってたから?」
「似合ってるね、と」
「……」
「……」
金色の瞳と見つめ合う。眉間に皺を寄せたりジト目になったりしないスーパー無表情が逆に怖い。沈黙に耐えられず、宿題を再開する。勉強って楽しいね。明日から真面目に授業聞こうかな。
しばらくして、ナナセが呟くように言った。
「デート」
「え?」
「土曜日デートに行こうよ」
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時刻は午後六時半。空は真っ暗になっていて、さめざめとした雨がコンクリートを濡らす匂いがした。
小さく歌を口ずさむ天使が、僕の隣を歩いている。
ゆっくりと丁寧に歌っていたのでわかりにくかったけど、それは去年大ヒットしたアニメ映画の主題歌だった。アップテンポに愛を歌う、キャッチーなロックナンバー……が、ナナセによってバラードっぽくアレンジされている。
まばらな電灯の明かりに照らされた住宅街を、ナナセと二人で並んで歩く。聞こえるのは小さな歌声と降りしきる雨音だけ。他に路地を歩く人影はなく、帰り道は奇妙なくらいに静かだった。
「ねえヨミ、もうちょっとつめてよ」
「……もうさ、だいぶ肩が濡れてるんだけど」
「別にいいじゃん。わたしも濡れてるし」
ナナセは『傘を忘れた』とか言って僕の傘に入っていた。つまり相合傘だ。セーラー服の天使が距離を詰めて、肩を押し付けてくる。シャツ越しにナナセの体温を感じてほんのり温かかった。
「突き当りで左だからね」
「……え?」
「突き当りで左!」
「あ、うん」
図書館で宿題を終わらせた後、ナナセを家まで送ることになった。
前にも一度だけ聞いたことがあったけど、彼女はこのあたりのマンションに住んでいるらしい。ナナセにも家があってそこで生活しているというのは、なんだか妙な感じだった。天使が普通にマンションに住んでるって、世界観的にアリなんだろうか。
「ナナセの家ってどんな感じ? やっぱ床は雲みたいになってる?」
「ねえ、やっぱバカにしてない? そんなわけないでしょ、普通の家だよ」
「割と気になるんだけどさ、ちょっとだけ見てもいい?」
「……う」
珍しい。ナナセの顔が引きつっている。
「今日はダメ。また今度ならいいけど……来たいなら先に言ってね。できれば二日以上前に」
「嫌なら別にいいよ」
ナナセも一応女の子なんだし、無理に押し入ろうとも思わない。いや、女の子って言っていいんだろうか? 天使って人間と同じ基準で考えていいの?
そんなことを考えている内に突き当りにたどり着く。
「左だっけ」
「うん」
弱々しい街灯が照らすT字路。住宅街は静まり返っていて、アスファルトを叩く雨の音だけが耳につく。ナナセの肩が当たっているのを感じながらゆっくりと道を曲がって――
「……! ヨミっ!」
「うわ!?」
急にナナセが抱きついてきた。
次いで彼女の身体にどすんと衝撃が加わったので、危うく二人一緒に倒れるところだった。
「なにが……ちょ!」
ずる、とナナセの身体が落ちていく。慌てて傘を捨て両手で抱きとめると、ぬめりとした何かに触れた感覚があった。
「え?」
赤い。
それは血だった。ナナセの背中から血が出ている。
天使の手が落ちた。雨が彼女の銀髪を濡らし、てらてらと輝く。
「ナナセ!」
前髪が張り付いた端正な顔を、雨が伝っていく。金色の瞳は開けっ放しのまま、何も映していなかった。彼女の全身は力なくだらりと垂れさがって、雨がセーラー服を濡らしながら滴り落ちる。
油断した――!
遅まきながら顔をあげる。ナナセを攻撃した何者かの痕跡は残っていない。集中して視ると、遠くの家屋の三階でなにかがきらりと光ったことだけはわかった。
角を曲がるとき、ナナセの方が外側にいたせいだ。内側にいた僕は、どうしても曲がった先を見るのがナナセよりも遅くなってしまう。
「ごめん……」
思わずそんな言葉が口をつく。
ナナセの死体は冷たく、返事はない。眠るようにしてもたれかかる細い身体を、雨がしとしとと濡らしていた。