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六月十二日、月曜日。
穏やかな雨の音が聞こえる、平和な朝だ。
僕は頬杖をついてナナセの席をぼうっと眺めている。
「ナナちゃん、今日部活見学行く? 私も付き合うよ」
「本当ですか? とっても楽しそうです。是非お願いします」
ナナセとその前に座った辻村さんとの会話。思えば、何度リセットされても辻村さんは積極的にナナセの世話を焼いていた。めちゃくちゃいい人じゃん。
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六月十三日、火曜日。
虚像天使が来ることもなく曖昧に時間が過ぎる。
逆に、虚像天使が来なければ、僕とナナセが会話することはほとんどない。
だからなのか、起きている間は無意味な思考をぐるぐると巡らせてしまう。ヒナノはシェルフのことを知っているようだったけれど、閏間さんは調律教院のことを把握しているんだろうか。
『せんぱいは耐えられそうですか?』
『責任に、です』
ヒナノの言葉が脳内で無限リピート再生されている。
「あああぁ~~」
思わず奇声をあげて机に突っ伏すと、坊主頭の平井が気味悪そうにこちらを見た。
「どうしたんだよ。なんかお前キモいぞ」
「ああ、キモいな。ついに頭がおかしくなったか」
メガネ男の高鳥が余計な一言を付け足す。揃いも揃って心配どころか罵倒してくるとは、とんだ薄情者だ。まあ、心配されても困るけどさ。
そんなことを考えているうちに、また眠くなってきた。
「ごめん、ちょっと寝るわ……」
「またかよ。ちゃんと夜寝て来いよな」
「ああ。規則的な生活を心がけた方がいい」
平井と高鳥が何かを言っていたけど、全部無視してやった。
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六月十四日、水曜日。
昨日も虚像天使は来なかった。ナナセは無事登校して楽しげに女子達と会話中だ。
もしかしたら、もう虚像天使は来ないのかもしれない。
今までのことは全部僕の妄想で、埒外の存在を人知れず管理している秘密組織だとか、人類を変えようとしている思想集団だとか、そんなやつらも本当は存在しないのかも。
「……んなわけないか」
思わず口内で呟く。シャツ越しに、首に提げたプリズムキューブのペンダントを触ってみた。この物体が、今まで色々な事件が起きていた何よりの証拠だった。
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三、四限の授業科目は美術だった。
今日の授業内容は校内スケッチ。学校の敷地内であればどこでもいいとはいえ、梅雨真っ只中のこの時期にスケジュールがずれたこともあり、半数以上のクラスメイトが校舎内の風景を選んでいる。
僕はといえば、どうにもやる気が起きず中庭のベンチに座ってぼうっとしていたものの、さすがに課題がやばいので良さげな場所を探して外を歩いていた。頭上には灰色の曇り空が広がり、何人かの生徒が思い思いの場所で鉛筆を走らせている。
「……あ」
そんな中、見覚えのある黒髪のポニーテールを見つけた。閏間さんが一人地面に体育座りをして、抱えた画板の上の白い紙にセミナーハウスを描いている。
「めちゃ上手いじゃん……」
画面の半分は建物で、半分は空。知っている場所なのに、知らない風景に見える――多分、切り取り方が新鮮なんだろう。閏間さんには、景色がこんな風に見えているんだろうか。
よくよく考えてみると、天使がどうとか組織がどうとか変な話題ばかりで、閏間さんと普通に話したことはなかった気がする。
「閏間さん」
思わず声をかけると、振り向いた閏間さんの黒い瞳が僕を見据える。相変わらずの無表情だったけど、こうして授業に参加している姿は、他のクラスメイトと変わらない普通の高校生に見えた。
「それ、上手だね」
「課題を遂行しているだけ。私の絵に美術的な価値はない」
「そうかな? 僕は好きだよ、その絵」
「……そう?」
一瞬、ガラス玉みたいだった瞳が揺れた気がした。
「素朴な雰囲気が、僕の好きな作品に似てるっていうか」
「好きな作品?」
意外にも会話が続きそうな雰囲気だ。それがなんだか嬉しくて、気付けば口が勝手にぺらぺらと喋り出していた。
「そうそう。こういう感じでね、見たままの景色を魅力的に描く絵画様式があって」
「写実主義のこと?」
「……え、わかるの?」
「蒐集員には幅広い知識が求められる。基礎的な内容であれば一通り知っている」
「ほんとに? 個人的にはミレーが好きでさ、『落穂拾い』とかの」
「うん」
「こういう、建物が主役の風景画もいくつかあるんだよ」
「それも把握している。建造物を描いた作品なら『グレヴィルの教会』とか、ぐりゅ――」
「『グリュシーの村はずれ』でしょ!?」
閏間さんがびくりと震えた。無表情ではあったけど、若干引かれてる気がする。
「……ごめん、なんかテンション上がっちゃって。一番好きなやつだったから……あ、はは……」
黒い瞳が瞬きをして、乾いた笑いを浮かべる僕の姿を映した。一人ではしゃいでたみたいでめっちゃ恥ずい。閏間さんは続けてなにかを言いかけたようだったけど、すぐに口を噤んで絵を描く作業に戻る。
そして、彼女はこんなことを言い出した。
「私に気を遣う必要はない」
「え? いや、別に……」
「私に友人は必要ない。これは任務。授業に参加しているのも、円滑に任務を遂行するため」
もう閏間さんは僕の方を見ていない。その目は、紙と風景の間を行き来している。
「あなたは私に関わらないほうがいい」
そう告げた後、閏間さんが再び口を開くことはなかった。
「そっか」
それ以上話を続けられる雰囲気ではなくなって、仕方なくその場を後にする。課題を進める気にもなれずに辺りを徘徊していると、ぽたりと雫が落ちてきた。ぽつぽつと周囲にも水滴が落ちてコンクリートの地面を濡らしていく。
雨が降ってきた。
ふと気になって閏間さんがいた場所を振り返ると、そこには既に誰もいなかった。
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目が覚めると、写真部の部室だった。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。他には誰もいなくて、しんと静まり返った教室に、ぽたぽたと落ちる雨の音だけが響いている。
今日は参加人数も少なかったし、皆早めに切り上げて帰ったんだろうか。それならそれで、僕を起こしてくれたっていいのに。
「うわ……」
いつもは壁にかかっている部室の鍵がない。最後に部室を出るメンバーは部屋を施錠して職員室に鍵を返す決まりだ。それがないということは、誰かが間違って持って帰ったか、それとも職員室に返却したか。
あと、持ってきていたはずのバッグもなかった。大した中身は入っていなかったとはいえ、手ぶらで帰るわけにもいかない。教室に置き忘れたんだろうか。
「めんどくさ……」
まずは教室に寄ってバッグを回収して、その後職員室に部室の鍵があるか確認しに行く。あれば施錠しに戻って、なければ教員に報告するしかない。
なんとなく気になって、シャツの胸元を触った。首から提げたプリズムキューブのペンダントはちゃんとそこにあって、何故か少しほっとする。
それにしても、異常なほどに誰ともすれ違わない。誰の声も聞こえてこない。
一人、無人の廊下を歩く。
学校はまるで廃墟になってしまったかのように静かで、ぽつぽつと窓を叩く雨の音だけがやけに耳に残る。通りすがる教室は全て無人。まだ午後五時前だというのに、今日は誰もかれもが下校しているようで……こんな状況は、前にもあった気がした。
ぽたり、ぽたりと雨粒が落ちる音がする。
景色はモノクロだった。窓の外の灰色が伝染したかのように校内の全てが色褪せている。廊下、教室、階段、壁の掲示板に貼られたポスターでさえ、全てが色を失って見えた。
少し肌寒い。誰もいない校舎は不気味だ。
「うっわ、なんだよ……」
二年B組の教室がある廊下に差し掛かったとき、一人分の人影があることに気が付いた。
誰かいてほしいとは思っていたけど、実際にモノクロの世界にぽつりと人が立っていると、その光景は一層不気味で背筋が凍るようだ。
その人物は静かに窓の外を眺めている。
長身、七三分けにした髪型、そしてメガネ。生徒会長かと思わされる風貌の男子生徒は、間違いなく高鳥テンリだった。