落ちていく
エミリアと一緒に執務室で過ごすようになった当初は、デュークは緊張でどうにかなりそうだった。
ひたすら執務をこなし、仕事に関する最低限の会話しかしていなくても、そう広くない部屋にエミリアと二人きりというだけで緊張なのである。
いつも以上に冷ややかな目付き、どこまでも低く冷たい声になっているのはデューク自身も分かる。
そんな失礼な態度を取ってしまっているのに、エミリアはいつも変わらない態度でにこやかに接してくれる。
役に立ちたいと意気込み、仕事を精一杯こなす姿。そんな姿を見ている内に、自分はなぜ緊張しているのだろうとデュークは疑問に思うようになった。
彼女は部屋の隅で黙々と頼まれた仕事をこなし、完璧に仕上げたものを纏めて提出するとすぐに退室する。
時間を忘れて集中している時もあり、こちらから休憩するよう言わない限り、目の前の仕事に没頭している。
緊張で夜も寝付けず、仕事に支障をきたしている自分は何て愚かなのだろう。彼女のように目の前の事に集中すれば良いだけではないか。
緊張したところで彼女は自分の事など意識していないのだから。
そう思うと気持ちがすっと楽になった。もちろん全く緊張しないだなんて事は無理だが、自然体でいられる時間が少しずつ増えていく。
いつしか、質問をしに自分の元を訪れる彼女と話す時間さえも、緊張せずに対応できるようになり、二人で過ごす静かな執務室で居心地よく過ごせるようになった。
デュークは人付き合い全般が苦手だが、年の離れた落ち着きのある女性、幼い子供、男性と接する時はさほど緊張しない。
もちろん無表情で口数は少なく、自分の意見を全て伝えることはできないけれど、必要最低限の付き合いはできるのだ。
自分と年の近い女性と関わることは、いつまで経っても苦手なままでいる。その為、オースティン侯爵家には年頃の若い女性の使用人はいない。
自分に恋愛感情を向けられ、熱をもった瞳で見つめられると困ってしまい、どうすれば良いのかと狼狽えてしまう。
甘えた声や甲高い声でグイグイ迫られてしまうと頭が混乱してしまう。
女性に興味が無い訳ではないが、それ以上に迫られる恐怖とプレッシャーで緊張が最高潮になる。結果として全身から冷酷なオーラが滲み出てしまい、相手を冷たくあしらってしまう。
エミリアは彼にどれだけ冷たい態度をとられようとも、気にする素振りは全く見せずにいつも自然体で接している。
子供好きな為、昔から小さな子供と接することの多い彼女の話し口調はやわらかく穏やかだ。
デュークは彼女から落ち着いた優しい声で話し掛けられることに、心地よさを覚えるようになっていた。
時たま表情を和らげるようになり、口数は少ないけれど優しい声で言葉を返せるようになっていった。
* * *
エミリアは苦悩していた。
デュークとは適度な距離感を心がけ、挨拶と仕事内容の確認以外は話しかけないよう徹底していた。
彼の表情や声色から察するに、自分が近くにいる事で不快感を与えてしまっていると感じながらも、しっかり役に立てている実感はある。
間にダフマンを通すことなくする仕事は実にやりやすく、デュークの執務室で過ごす時間はエミリアにとって有意義な時間となった。
彼とは仕事のパートナーとして良い関係を築けているように思う。
役に立てているという充実感で、清々しい気持ちでシリルと遊べた。
オースティン侯爵邸に客人が来ることは滅多に無い為、女主人としての立ち振舞いもさほど求められない。楽だけれど手持ち無沙汰に感じていたことが解消されて、より楽しく遊べるのだ。
ある日、不意打ちでデュークから笑顔を向けられ、優しく話し掛けられてしまった。
ざわつく心。
しかしその後は、何事も無かったかのようにいつもと変わらない態度に戻っていた。
なるほど、あれは見間違いだったのだ。腹の虫が鳴いたせいで恥ずかしさのあまりに見た幻だった、そうに違いない。
エミリアは無理やり理由をつけて忘れることにした。
しかしいつからか、デュークから向けられる視線に温かみのあるものが混じるようになった。
自分の質問に優しく答えてくれるようになり、胸が締め付けられてしまう。
それが日常的になっていくと、忘れようにも忘れられない。
ずっと羨ましく思っていた視線を自分にも向けられて嬉しくないはずがない。けれどもそれは信頼を得たというだけ。仕事のパートナーとして認めてもらえただけだ。
そこに愛情が込められる事はないのだから、心を乱してはいけない。分かっているのに……
「エミリア」
「っっ、はい」
「これを」
すっと手渡された資料を受け取る。
いつからか、『君』から『エミリア』と呼ばれるようになっていて、それも胸がざわついてしまう要因の一つだ。
淡い気持ちは胸の奥からじわじわと染み出ていく。
いつしか、エミリアがシリルと遊ぶすぐ近くにはデュークの姿があるようになった。今までは執務の合間に遠くの方で眺めていたのに、近くまで来て見守るようになっていた。
「ちちうえー見てくださいっ! かくせいの石をみつけました! これでみっつです。しんりゅうをめざめさせて悪をうちほろぼすことができます」
「そうか。良かったな」
「はいっ」
家族三人で一緒に過ごす時間が増えて、シリルはごきげんだ。大好きな冒険小説に登場するアイテムに似た石を集めて楽しんでいる。
今までは童話の絵本ばかりを読んでいたシリルは、エミリアが好きで読み聞かせた冒険小説の虜になってしまった。
余計な事をしたと咎められるかもしれないと覚悟をしていたけれど、デュークは何も言わずに見守っている。
シリルは今日も元気いっぱい駆け回る。もちろんエミリアも一緒にだ。シリルにだけ向けられていた穏やかな眼差しを自分にも向けられる度、エミリアは堪えきれずにときめいてしまう。
* * *
エミリアが侯爵夫人となって三ヶ月が過ぎた。
吐く息白く、冷たい風に手がかじかむ季節。分厚い雲からは今にも雪がちらついてきそうな、そんな日でも子供は元気いっぱい外で駆け回る。
そんなこんなで相変わらずエミリアとシリルは庭で鬼ごっこをしていた。
デュークが執務の合間に様子を見にくれば、頬と鼻先を真っ赤に染めながら走り回る二人の姿。そんな二人を愛しく思うと、デュークの目尻は自然と下がり、口元にも笑みが浮かぶのだった。
そんな表情を自分にも向けられる事にいつまで経っても慣れはしない。エミリアは走りながらも内心穏やかではなく、シリルを追いかけながらも上の空だ。
そして注意散漫になってしまったエミリアは、またやらかしてしまう。
「っっあっ……!」
バッシャーーン
「きゃー! ははうえー!!」
エミリアは池の縁の大石に躓き、ぐらりと横に落ちていった。侯爵家に来てから二度目の池落ちである。
前回と違う事といえば、池の水が凍えるほど冷たいということ。そして落ちた時に足首を捻り、腰を水底に強く打ち付けてしまった。
「痛っっ……」
さっきまで走り回っていて温かかった身体も、冷たい水のせいで凍えていく。早く水から出ないといけないのに、痛くて立ち上がれない。
目を閉じて苦痛に顔を歪める。あまりの痛みと冷たさに動けずにいると、バシャバシャと水音が聞こえてきた。
誰かが水の中に入ったようだ。自分を助けようとシリルも入ってしまったのかもしれない。それはいけないと思った瞬間に、水の中から身体が抱き上げられた。
上を見上げれば目を細めたデュークの顔。とてつもなく不快そうな顔である。
「大丈夫……ではないな」
どこまでも低く冷たい声でそう言い放つ。
「申し訳……あり、ません……」
寒さで口が思うように動かないが、震える声で何とか謝罪を口にする。
それからデュークは一切口を開くことなく、エミリアを抱き抱えたまま足早に屋敷へと向かった。すぐに駆け付けたメイドに湯船の支度を急がせ、医者を手配させる。
浴室前の脱衣場までエミリアを運び終えると、後の事はメイドに任せてデュークはそのまま去っていった。
エミリアはメイドの手を借りながら脱衣を済ませ、何とか湯船で身体を温める。
その後、自室のベッドで横になっているとすぐに医者が部屋を訪れた。
診察の結果、怪我は大したことは無く、捻った足首は布でしっかりと固定され、腰の打ち身には塗り薬を塗布された。
手当てが済み医者が帰ると、エミリアはようやくホッと息を吐いた。
足は歩きさえしなければ痛まず、腰の痛みもじんわりと痛い程度に収まってきた。
そしてようやく思考を再開する。
「どうしよう……」
やってしまった。
醜態をさらし、デュークの手を煩わせてしまった。びしょ濡れの自分を抱き上げた彼は当然濡れてしまっただろう。
さすがに呆れているに違いない。二度も池に落ちるような妻など呆れられて当然だ。もう要らないと言われるかもしれない。
「どうしよう……」
不安に押し潰されそうになりながら、頭まですっぽりと上掛けを被る。そしてそのまま眠ってしまった。