緊張とまどろみの中
デュークの執務室にエミリアが直接出向き、彼の執務を手伝うことに決まった。
そうと決まればさっそく環境を整える。使用人にエミリアが使用する机と椅子を運ばせ、さてどこに置こうかとデュークは悩む。
彼女が視界に入れば仕事に集中できないのは間違いない。かといって背を向けるように机を配置するのは彼女に失礼だ。
ほんの少し視界に入る程度で近すぎず遠すぎずの絶妙な距離で……いや、そもそも彼女は男嫌いだ。そして自分は女嫌いで通っているのだから、部屋の端と端でも良いのではないか。
いやしかし、さすがにそれはあからさますぎて気分を害するのでは……
などと悶々としているうちに、エミリアの机はダフマンによってデュークの机のすぐ横にぴったりと置かれた。
「……近すぎる」
「近いほうがお互い仕事がしやすいでしょう」
「いや、しかし」
「デューク様、あなた方二人はこの部屋で仕事をするのですよ。彼女はもっとあなた様のお役に立ちたいと思い、仕事の効率を考えて提案したのです。ですから効率性以外何も考える必要はございません。考えるだけ無駄というものです」
「……そうか」
ダフマンにさっぱりきっぱりと言いきられてしまい、デュークはこれ以上は何も言えなくなった。
もちろんダフマンは、効率性などどうでも良く、二人の仲が進展する事しか考えていない。
これからどうなる事かと心を躍らせているのだ。
そして翌日、デュークは緊張で死にそうになりながら、エミリアを執務室に迎え入れた。
「身勝手なお願いを聞いていただき感謝いたします。本日よりよろしくお願いいたします」
「ああ、よろしく」
深々と頭を下げて挨拶をするエミリアに、いつもより低く冷たい声になりながらも、何とか言葉を返した。
『ああ』だけでなく、『よろしく』まで言えたのは奇跡とも言える。
側で見ていたダフマンも主人の成長ぶりに感動し、胸がじーんとなる。そして後は二人でごゆっくりどうぞ、と心の中で呟きながらそっと退室した。
エミリアは執務室を見渡す。壁際には本や資料に埋め尽くされた大きな本棚が並び、窓寄りに置かれた立派な大きな机、そしてその横には一人で使うのに程よいサイズの机と椅子が置かれている。
デュークは緊張でエミリアを席に案内すらしていないが、一見するだけで彼女が使用する机がどれかは分かる。
エミリアは机に近付くと、確認をとることにした。
「この机を使わせていただけるのですね」
「ああ、そうだ」
「では端の方に移動しますね。こんなに近くてはご迷惑でしょう」
そう言うと返事も待たずにエミリアは机を運んだ。これ以上は離れられないというギリギリ、部屋の一番隅っこまで持っていく。
「これでもご不快かとは思いますが、できるだけ気配を消して精一杯仕事に臨みますので、ご安心を」
「……ああ」
抱くのは不快感などではなく緊張感なのだが、それを説明する事はもちろんできない。
やる気がみなぎり強い意志を宿した琥珀色の瞳に気圧され、デュークは短く返事をした。
残念なような、距離ができたことにより緊張が少し和らいでホッとしたような、複雑な想いがデュークの胸に渦巻く。
お互いの心境など知る由も無いが、同じ部屋で二人で執務にあたる事は実に有意義であった。
デュークは口数少なく要点しか言わないにもかかわらず、エミリアはしっかりと理解する。
質問や確認は一度にまとめてさっと済ませ、必要最低限しかしない。
今日も執務室で二人、一切のむだ話をすることなく書類仕事を進めていく。
雑談など有り得ないと言わんばかりに、資料をめくる音とペンを走らせる音しかしない静かな部屋は、心地良さと心地悪さが絶妙に混ざりあっていた。
仕事ははかどるが、デュークはここのところずっと寝不足気味だ。緊張でなかなか寝付けないからである。
この書類を片付けたら仮眠を取るべきか……
集中力が切れた頭で何とか思考を巡らせる。さすがに仕事にならなくなってきた。
クゥーーー……
ふいに空腹を告げる小さな音が静かな部屋に響いた。音の出所であるエミリアの顔はみるみる赤く染まっていく。
「もっ、申し訳ありません……」
ちらりと薄目で自分を見ているデュークに対し、エミリアは肩をすくめながら小さく謝罪を口にした。恥ずかしくて死にそうである。
デュークは今にも閉じてしまいそうな重い瞼を持ち上げ、時計に目をやった。
「すまない、休憩時間が過ぎていたな。行ってくるといい」
「はっ、はい。ありがとうございます。あの、デューク様は……」
「私はいい」
「そうですか、ではこちらにお飲み物を運ぶようにお伝えしましょうか?」
エミリアの提案にデュークは回らない頭で何とか考える。
飲み物という単語しか理解できなかったが、恐らく飲み物が欲しいかと聞かれたのだろう。
「そうだな、頼む」
眠気が限界になり、緊張することも忘れたデュークはそっと微笑んだ。そしてシリルに語り掛けるような優しく穏やかな声で返事をした。
「っっ……!」
まさかの不意打ちにエミリアは息を呑んだ。そして追い討ちのように優しく言葉が続く。
「ありがとう」
「っっ、いえ……! かしこまりました。では失礼します」
居たたまれなくなり、一礼するとさっさと退室し、執務室の扉をパタンと閉める。
部屋から出たエミリアは、大きく息を吸って吐き出した。心を落ち着かせようと深呼吸を繰り返し、自身に言い聞かせる。
落ち着け、落ち着くんだエミリア。少し笑いかけられただけではないか。
優しくお礼を言われるだなんて普通のことのはず。その程度で動揺するなんておかしい。
普段の態度と違いすぎて驚いただけだ。あんな風に不意打ちで笑いかけられたら誰だって驚くはず。
心がざわついてしまう理由を並べ立てながら、足早にラウンジへと向かった。
「ははうえー!」
辿り着いたラウンジでは、勉強を終えたシリルが一足先に寛いでいた。
「ははうえっ、お仕事はどうです? 『ぶつりてきなきょりがちかづくことによって心のきょりもちかづくものです』ってダフマンが言いました。よくわからないけど、なかよしですかっ?」
「ンンッ、おほんっ」
シリルの斜め後ろでは、ダフマンが咳払いをし、震えながら微笑んでいる。
ダフマンがシリルに何やらおかしなことを吹き込んだようだ。エミリアはすぐに悟りながらも、シリルの前の席に腰を落とす。
「お仕事はとても楽しいですし、もちろん仲良しですよ」
「わぁい!」
取りあえずは目の前の息子が喜ぶ返事をする。深く考えてはいけない。自分達は表向きは仲の良い夫婦なのだから。
メイドのマーシャが運んできた紅茶を一口飲み、ホッと気持ちを落ち着かせる。大丈夫、大丈夫だ。
クッキーを食べながら可愛い息子とのひとときに癒されて、何とか落ち着きを取り戻す。
そして危うく忘れかけていた事を思い出した。
「マーシャさん、デューク様の紅茶は執務室に運んでいただけますか」
「はい、かしこまりました」
危なかった。せっかく感謝の言葉をもらえたのに、がっかりさせてしまうところだった。
エミリアは焦ったけれど、デュークは今頃眠っていて、紅茶のことなど全く覚えていなかったりするのだった。