契約結婚、喜んでお受けします
短編版と少し違います。変更した箇所有り。説明不足なところなど、4割ほど加筆してあります。
少したれ目がちな瞳に泣きぼくろ、分厚めのぷるんとした下唇、豊満な胸にくびれたウエスト。
男受けのする容姿。そんな自分になりたくてなったわけじゃない。
いつしか『誰とでも寝る女』だなんて言われるようになり、そんな噂を鵜呑みにした男ばかりが近付いてくるようになった。
私は素敵な恋愛がしたいだけなのに。
心を通わせた相手とゆっくり仲を深めていきたいだけなのに。
思い描いたような恋愛はできなかった。
誠実さに惹かれて恋をしても、自分の性格が好みだと言ってくれた人に出会っても、結局は私の身体目当てだった。誰も彼もが下心ばかり。私をそういう目でしか見てくれない。
いつしか男なんて大嫌いになっていた。恋をして傷付くのはもうこりごり、もう誰も好きにならないと決めた。だから結婚なんて一生する気はない。
だけど、叶うのなら……
* * *
モートン子爵家の長女である私の朝は早い。
太陽が熱く地面を照りつける前に庭の野菜畑へ足を運ぶ。
大切な大切な、丹精込めて育てた食料への愛情を欠かしてはならない。こまめに状態をチェックし、すくすく育つように手掛ける。
豊作に感謝しながらカゴを片手に野菜を収穫していると、父がにこにことしながら軽やかな足どりでやって来た。スキップをしているつもりのようだが、全く出来ていないのはいつものことである。
「エミリア喜べ。お前にとっていい縁談が来たぞ!」
開口一番、父はそうのたまった。この男はまたろくでもない話を持ってきたようで、うんざりとする。
「……お父様、縁談という時点で、いいもクソもないと思うのですが」
私はギロリと睨みつけるが、人の悪意に鈍感な父は顔色一つ変えずに言葉を続けた。
「こらこらエミリア、クソだなんて汚い言葉を使ってはいけないよ。そんなこと言わないでほら、取りあえずはこれを読んでごらん」
にこやかにそう言って差し出された紙を、私はしぶしぶ受け取り目を通す。
それは婚姻を結ぶにあたっての条件なるものが記載された紙のようだ。まだ顔合わせすらしていない相手に条件を突き付けるだなんて……
きちんと内容を確認する前からもうお断り決定である。どちらにせよ結局はお断りなのだけれど。
ふむふむ、え、何だこれは。
婚姻の条件を綺麗な文字で息が詰まりそうな程に堅苦しく書き連ねてあるけれど、要約するとこうだった。
『結婚後、夫婦間の閨事、スキンシップは一切なし。公の場でのみ接するだけに留めること』
『前妻の忘れ形見である息子を愛情を持って育てること』
『上記を厳守できるのならば、持参金は不要。借金返済の為の援助をする』
何だろうこれ。こんな婚姻条件は有り得ないでしょう。
「…………お父様」
「ああ、エミリア」
私と父はガシッと熱く握手を交わす。
「素晴らしいですわお父様、ポンコツなだけだと思っていたのに、こんなに好条件な縁談を見つけて来てくださるなんて!」
「こらこらエミリア、父に向かってポンコツだなんて言ってはいけないよ」
いやいや、あなたポンコツ以外の何物でもないでしょう。
早くに亡くした母の分も愛情を持って育ててくれたことには感謝している。
けれども、お人好しにも程があり、騙されお金を奪い取られた回数は数えきれないほど。このポンコツのせいで我が子爵家の家計は火の車だ。
幸い領地は肥沃な大地と温暖な気候に恵まれていて、農作物の収穫も家畜の飼育も良好、領民の暮らしは安定している。だからヒーヒー言っているのは我が家だけに留まっている。
兄が早々に父の跡を継いで子爵となり、何とか借金返済に駆けずり回る毎日。
そして私は二十歳になっても結婚する気はなく、メイドの仕事に明け暮れている。
借金の返済が完了すれば、兄は結婚して幸せな家庭を築くだろう。そうすれば私は小さな家に移り住み、一人慎ましく生きていくつもりでいる。まだまだ先は長そうだけれど。
私は男なんて大っ嫌いだ。だから結婚なんてする気はないが、実は子供は欲しかったりする。私は子供が大好きだ。
養子を貰うという手もあるけれど、女手ひとつで養っていけるとは到底思えず。半ば諦めていた。
そう思っていた矢先にこの縁談、まさかの好条件に思わず飛び付きそうになる。
でも待てよ、冷静になって考えるんだ。これはポンコツの持ってきた縁談である。そもそも信用してはいけないのではないか。
そう、これはきっと……
「お父様、これは詐欺では?」
契約したが最後、私は隣国にでも売り飛ばされるのではないか。もしくは娼館とか。
今までの経験上、こちらの方があり得る話だ。
「こらこらエミリア、これはオースティン侯爵からの縁談だよ。そんなことを言ってはいけないよ」
「オースティン……侯爵!?」
オースティン侯爵という人物は、噂で聞いたことがある。
確か奥さまとは数年前に死別したとか。言い寄る女性達をクールでそっけない態度でかわしている為、社交界では孤高の美丈夫と言われているだとか。
私は社交界からは離れているので、噂しか知らず、実際に会ったことはないけれど。
いやいや、それこそおかしな話だ。なぜそんな方から縁談が来るのかと父を問い詰める。
父によると、オースティン侯爵は大の女嫌いらしい。しかし世の女性達が独身となった彼を放っておく訳もなく、我こそを後妻に! という申し出が後を断たずうんざりしているそうだ。
新しい妻など必要としていない。しかし彼には四歳の息子がいて、母親という存在を与えてあげたいと思い、どうしたものかと悩んでいたようだ。
私は夫はいらないけれど子供は欲しい。つまり、私にとっても相手にとってもこの縁談は利害が一致するもの。
愛の無い契約結婚だなんてむしろ大歓迎だ。私はオースティン侯爵と結婚をすることに決めた。
* * *
オースティン侯爵と書面でのやり取りを幾度か交わし、代理人とご子息との顔合わせを何度か済ませ、結婚生活をする上での条件を記した婚前契約書にサインをし、婚姻も済ませた。
そうやってあっけなく私はオースティン侯爵夫人となったのだ。
「エミリア、本当に後悔しないのか?」
契約結婚を受け入れると決めてからモートン子爵家で過ごす最後の日まで、兄は私を心配し続けた。
ポンコツでお気楽な父と違い、真面目で優秀で優しい自慢の兄だ。
「しませんってば。それにもう婚姻も済みましたし、今さら後戻りはできませんよ。大丈夫です、ご子息も執事の方もとても素敵な人ですから」
「そうか……君がそれで良いのならもう何も言わないよ。でも辛くなったらいつでも帰ってきて構わないからね」
「はい。お兄様もお体に気を付けて。ポンコツの管理をよろしくお願いします」
「ああ、やらかさないようにしっかり見張っているよ」
オースティン侯爵のお陰で、ポンコツのこさえた借金は無くなった。借金さえ無くなれば、子爵家のことは優秀な兄に任せても大丈夫だろう。
翌日には侯爵邸への荷物の運び入れも完了し、私自身も侯爵邸にやって来た。初めて訪れる場所、今日からここが私の家だ。
実にあっけない。結婚ってこんなものなのか。
ここまで、まだ夫となった侯爵様本人には会っていない。本当に女嫌いなようだ。
自室となる部屋の整理をしていると、侯爵様の代理人として顔合わせをしていた老執事のダフマンさんが部屋を訪れてきた。
「エミリア様、今よろしいでしょうか?居間にてデューク様とシリル様がいらっしゃいまして、ご挨拶をと仰せです」
「はい、かしこまりました」
侯爵様との初対面の時がついに来た。本当にようやくなのだが、さすがにちょっと緊張しながら向かった。
「失礼します」
ドキドキしながら居間の扉を開け、入室する。
「エミリア!」
私の姿を見てすぐに立ち上がり声をかけてくれたのは、オースティン侯爵のご子息のシリル様。……いや、もう書類上は私の息子になったのだから、ご子息ではないのか。何だか照れる。
「こんにちは、シリル様」
笑顔で話しかけると、すぐに駆け寄ってきて私に抱きついたので、ふんわりとした銀色の髪を優しく撫でた。
「エミリア! 今日からいっしょにくらせるんだよね!」
「はい、よろしくお願いいたしますね」
「うんっ!」
シリル様はにこにこしながら元気よく返事をしてくれた。数回会っただけなのにこんなに懐いてくれて、可愛くてたまらない。ぎゅっと抱きしめたいけれど、まずは侯爵様に挨拶をしないといけない。
目の前の相手を真っ直ぐ見据える。
「お初にお目にかかります侯爵様。モートン子爵家が長女、エミリアです。この度は……」
「ああ、堅苦しい挨拶は結構だ。私はデューク・オースティン。書類上は君の夫となったが、私のことは居ないものとして扱ってくれ。君はシリルのことだけを考えていてくれたらいい。できるだけシリルの要望に沿うよう努力をしてくれ」
椅子から立ち上がり対面した銀髪の美丈夫が、冷ややかな目で私を見下ろしながら、冷ややかな声で言い放った。
「……そうですか。かしこまりました」
侯爵であるデューク様から疎まれることは初めから分かっていた。それでもある程度は関わらないといけないと思っていたのに、それすらも必要ないだなんて……
なんて有難い!
「ではシリル様、今から一緒に遊びましょうか」
有難いお言葉を頂戴したことだし、すぐにシリル様とのふれ合いを開始させていただく。目の前の天使にだけ愛情を注げばいいなんて、ここは天国だろうか。
「わぁい! それじゃ、おにごっこしよっ!」
「はい分かりました。ではシリル様、着替えて参りますので、少しお待ちくださいね」
「うんっ! まってるー」
デューク様に向かって一礼し、居間から退室した。
るんるん気分で自室に戻り、動きやすいパンツスタイルに着替え、長い黒髪を一纏めにする。
「お待たせしました。では遊びましょう」
「わぁい!」
ダフマンさんに案内されて侯爵家の中庭にやって来た。
広い中庭をシリル様と駆け回る。小さな体のシリル様はどんなに狭い隙間でもするりと通り抜けていくので、私はちょっと大変だけど。
一時間は遊んだかな、というところで、メイドのマーシャさんが飲み物を用意してくれたので、テラスに向かった。
丸テーブルをシリル様と囲って休憩する。
「エミリア! つぎはね、かくれんぼしようね!」
「はい、その為にはしっかり水分を取って休憩しましょうね」
「うんっ!」
シリル様は遊び相手ができて興奮ぎみのようだ。元気よく返事をすると、グラスを両手に持ち勢いよくジュースを飲んだ。
「━━っごほっごほっ」
「ほらほら、ゆっくり飲みましょうね。かくれんぼは逃げませんよ」
むせた小さな背中を優しくトントンとし、べたべたに濡れた口元をタオルで拭う。
「こほこほっ、うん、えへへ」
ちょっと恥ずかしそうに笑うシリル様に、私のみならず、マーシャさんもダフマンさんも心を鷲掴みにされた。
休憩後も元気いっぱい遊んだシリル様は疲れて眠り、ダフマンさんの腕の中だ。
「ダフマンさん、シリル様が天使すぎて幸せすぎるのですが、ここは現実ですよね?」
「現実ですよ。エミリア様は本当にシリル様がお好きですね。本日はデューク様にお会いになりましたが、いかがでしたか?」
いかがでしたかと言われても、ほんの少し顔を合わせただけである。言葉も少ししか交わしていないから、いかがも何もないんだけど。
「そうですね、噂通りの孤高の美丈夫という感じでしたね。本当に女性がお嫌いのようで安心しました」
「くっ、くくくっ……そうですか。それはようございました。くくくっ……」
何かがダフマンさんのツボに入ったようだ。震えながら笑っているけれど、シリル様を落とさないかと不安になった。
夕食時になった。
夕食は一応家族で取るらしく、デューク様、私、シリル様の三人で長テーブルに着いた。
さすが侯爵家、モートン子爵家の食卓とはまるで違う。
肉汁あふれるソーセージに分厚いハムだなんて久しぶりにお目にかかった。兄にも食べさせてあげたいな……ついでに父にも。
「ちちうえっ、ちちうえっ、今日はねっ!」
シリル様が今日あった出来事をデューク様に嬉しそうに話している。
デューク様は、私に向けるような冷ややかな目ではなく、優しく目尻を下げて話を聞いている。ちゃんと父親としては優しいようで安心した。
私には一切話しかけずに、ちらりと冷ややかな視線を向けただけ。うん、問題はない。実にストレスフリーな空間だ。
デューク様は、シリル様が話しかけていない時は黙々と食べ進め、早々に食事室から立ち去った。
私も食べ終えて紅茶をいただいていると、ダフマンさんが近付いてきた。
「エミリア様、お食事はいかがでしたかな? 食の好みやリクエストなど、いつでも何なりとお申し付けくださいませ」
「ありがとうございます。とても美味しかったです。何かありましたら言わせていただきますね」
「かしこまりました」
この家に来てまだ半日だけれど、これ以上は何も望むことなど無い程の厚待遇だ。
湯浴みを済ませ就寝の準備を終えると、ベッドにごろんと仰向けになった。
広いベッドに分厚いマットレスは実に快適で、今までのことをぼんやりと考えた。
学生時代は私も人並みに恋をした。
仲が良かったクラスメートの男の子に連れられて行った空き教室では、急に胸を触られて、思い切り頬を叩いた。
ここからの人生は散々だった。
憧れていた先輩と観劇に行けば、暗がりでスカートの中に手を入れられて下着に手をかけられ、足を思い切り踏んづけてから頬を叩いた。
夜会で話しかけてきて意気投合した男性にはジュースだと言ってお酒を飲まされ、密室に連れ込まれそうになった。何とか股間を蹴り上げ難を逃れたけれど。
その他にも数え上げればキリがないほど。ろくでもない男達にひどい目に遭わされかけてきた。
そして皆が皆、私の方から誘ってきたんだろう、そんなエロい体をしているのが悪いんだ、どうせ何人もの男と経験済みだろう、あばずれのくせに勿体ぶりやがってと言った。
何を言ってるんだ。私はまだ処女だっての!
そう声を大にして言いたかった。さすがに恥ずかしくて言えないけれど。
素敵な男性と出会って結婚して、その人に私の初めてを捧げる。そんなことを夢見ていた自分はもういない。
男なんて大嫌いだ。
* * *
次の日からも、デューク様とは食事時に顔を合わせるのみで会話は一切無し。たまに廊下でばったり会っても、私が会釈している間に彼は通りすぎていく。
なんて快適なんだ!
……とか思っていたけれど、そんな様子を変だと感じ取った四歳児が、不安げに眉を下げて質問をしてきた。
「ねぇエミリア、エミリアとちちうえは仲良しじゃないの?」
「えっ? そうですね……」
どうしよう、何て答えればいいのだろう。
ダフマンさんに視線で助けを求めると、彼はすぐに反応してくれた。
「シリル様、エミリア様とデューク様は恥ずかしがり屋なのですよ。だから皆の前では仲良くできないのです」
おお、さすが有能な執事だ。さらっとそれっぽい返答で誤魔化してくれた。
「そっか、そうなんだ。ほんとは仲良しなんだね!」
シリル様は安心したようで満面の笑みになった。
「そっ、そうなんです、えへへっ」
本当のことなんて言える訳がない。
ううぅ、心が痛い。天使に嘘をつかないといけないなんて。
心を痛めつつも、シリル様と遊んだ。
今日も全力で遊んだシリル様は、ダフマンさんの腕の中で眠っている。
「シリル様の前でだけは最低限の会話をした方がいいのでしょうか……」
「そうですね。デューク様にも聞いてみましょう」
「お願いします」
結局、シリル様の前では最低限の会話をすることに決まり、次の日からはデューク様と会話をするようになった。
一言二言だけ、『いい天気だな』とか『今日は何をしたんだ?』とか。一度返事をしたらそれで終わりの短い会話だ。
相変わらずそっけないけれど、シリル様の為にも何とか会話をしようと努める彼は、私のことを下心のある目では決して見ない。
それは少し嬉しかった。
彼は、私とシリル様が庭で遊んだり一緒に過ごしているところを、たまに遠くの方から眺めるようになった。ちゃんと二人のことを見守っているよというアピールだろうか。
シリル様はそんなデューク様を見つけると、すごく嬉しそうに手を振る。
こんな家族の形も何だか良いな。
* * *
「ああっ!」
シリル様と紙飛行機を飛ばして遊んでいると、風にさらわれて木の枝に引っ掛かってしまった。彼が小さな手で一生懸命折ったものだ。
「大丈夫ですよ、待っていてくださいね」
「ええっ? エミリア様?」
狼狽えるマーシャさんを横目に、私はするすると木に登っていく。ど田舎な子爵領で育った私には、木登りなんて朝飯前だ。
今日もズボンとシャツを着ているので、軽々と登って行き、無事紙飛行機を救出する。
「エミリアすごーい!」
「シリル様、落としますよ」
「はーいっ!」
下で両手を差し出すシリル様に紙飛行機を落とす。
「わっ、わわっ!」
ひらひらと落ちてくる紙飛行機を、ぱしっと無事に受け止めた。
「エミリアー! とれたよー!」
「はい、上手に受けとれましたね」
「えへへー!」
受け止めたのを確認すると、するすると下に降りていく。
地面に足を着けてくるりと振り返ると、目の前にはなぜかデューク様の姿。
「えっ? なんっっ」
何でいるの? という言葉を何とか呑み込んだ。ここは彼の家。自分の家の敷地内のどこにいようと彼の自由だ。
だとしても、なぜ目の前に?
シリル様の側ならまだしも、なぜ私の目の前にいるのだろうか。
「……大丈夫みたいだな」
一言だけぼそっと呟くと、そのまま屋敷の方へと戻って行った。
デューク様は息を切らしていた。おそらくここまで走って来たのだろう。『大丈夫』というのは、私が木に登っていたからだろうか。
もしかして心配して来てくれた?……そうだとしたら、少し嬉しいかもしれない。