風に吹かれて…(夏詩の旅人 「風に吹かれて…篇」5話) ※完結
渋谷 宮下公園
PM5:38
「お~い!、みんな無事だったかぁ~!?」
ギタリストのカズが、笑顔でみんなの元へ駆け寄って来た。
乱闘騒ぎのあったエッグメンから、バラバラに脱出して来た仲間たちは、既に集合場所である宮下公園に集まっていた。
「カズさん、ご無事で…」(ミッチー)
「あれ?、ミッチー…?、それとヤマギシさんも…?」
どうして、この集合場所が分かったのか?と驚きながら聞くカズ。
「私たち心配で、ずっとエッグメンの近くにいたの。外にいる野次馬に紛れて、状況を見守ってたのよ」
ミッチーのカノジョの、ヤマギシあゆみがカズに言う。
「それで、エッグメンから逃げ出すこーさんたちを見て、追っかけて来ました(笑)」(ミッチー)
「そうだったんだぁ…」(カズ)
「カズ~ッ!、お前のエアガン…、ホント助かったぜ…。あれが無きゃどうなってたか…」
バンドボーカルで剣道三段の彼が、ギターのカズに微笑んで言う。
「俺も、カズさんが池田に金蹴りしなかったら、マジやばかったッスよ…(笑)」
ロン毛で切れ長目のヤスも、カズに言った。
「それにタカも、よくエントランスを抑えててくれたな…、あれがなかったら今頃、俺たちも捕まってたとこだ(笑)」(彼)
「今回、自分は、あんな事しか出来なかったッスから…」
金髪ソフトモヒカンのタカが、苦笑いを浮かべながら言う。
「いやいや…、エントランスの封鎖は、とても重要だった。“あんな事”どころじゃないよ。ホントありがとうなタカ…」
彼がそう言うと、あまり人前で笑顔を見せないタカが、また微笑むのだった。
「それから、ブルマのジュンちゃんッ!、彼女の天井からのタライ落とし!、あの絶妙なタイミング!、あれも良かったなぁ~(笑)」(ヤス)
「そうそう!、まるでドリフのコントだったよなぁ!?(笑)、ミッチーにも見せてやりたかったぜ(笑)」
カズがそう言うと、ミッチーとヤマギシは、「へぇ~…」と言う。
その時、彼がヤスに聞いた。
「なんだ?、ブルマのジュンちゃんって…?、ドラゴンボールかよ…?(笑)」(彼)
「あのコ、脚立登る時、下から覗かれても大丈夫な様に、ブルマ穿いてたんスよ(笑)」(ヤス)
「なんだお前…、やっぱ覗いたんじゃねぇか!(笑)」(彼)
「俺、女子高生好きッスからぁ…」
ヤスはそう言うと、「ははは…」と照れ笑いをした。
※あの頃のヤスは、いつもそう言っていた。まぁ、あの当時はヤスも19歳だったから仕方ないのかな?
「あれ?、そう言えば、ジュンは…?」
逃げて来たみんなを見渡しながら、カズが言う。
「ああッ!、いっけねぇ~!、あいつの事、忘れてたぁッ!」
彼が思い出す様に言った。
「お前、どうすんだよぉッ!?」
カズが彼に言う。
「ま…、あいつなら大丈夫だろ…?」
苦笑いで彼が言う。
ヒュウッ……。
その時、公園の中を風が吹き抜けた。
「なんか風が強くなってきたわね…?」
青空を見上げるヤマギシあゆみが、みんなに言う。
彼女が見上げた空では、雲が押し流される様に、移動してい行く光景が見えた。
「今朝の天気予報で言ってた…。沖縄を通過する予定の台風が、こっちに向かって来てるらしいぜ…」
日本海へ抜ける予定だった台風が、偏西風に煽られて、太平洋から北上している事を彼は言った。
「ふぅ~ん…」
空を見上げながら、カズが言うのだった。
翌日 PM4:30
大学近くにある喫茶店「がらん堂」
授業が終わった彼は、カズと一緒に、いつもの「がらん堂」で珈琲を飲んでくつろいでいた。
「やっと終わったな…?」
珈琲を一口飲んだカズが、彼に言った。
「ん?」
何をだ?という感じで、彼が聞く。
「サドンデスとの抗争だよ」(カズ)
「ああ…?、そうだな…」(彼)
「弓緒たちも、ずっとライブ控えてたらしいぜ…」(カズ)
※ユミオとは、彼らと親交が深い青学の軽音サークルの女性である。
「そうか…」(彼)
「何だよ?、あまり嬉しそうじゃないな…?」(カズ)
「そんな事はないさ…、平和な街に戻って良かったと思ってる…」(彼)
「なんだよ?、マリノさんの事か…?」(カズ)
「ああ…、どうしても、彼女、今どうしてんのかなぁ…?って、考えちゃうんだよ…」(彼)
「今回は、ホンキだったんだな?、お前も…」(カズ)
「今回はホンキって…、なんだよそれ?(笑)」(彼)
「分かるぜ…、だって、いつものお前と違うもんな…」(カズ)
「いつもの俺…?」
何だそれ?という意味で聞く彼。
「だってよ、5月はヤスくんの紹介で、K大の女のコとBBQやる予定だったのに中止にしたろ?、それに6月は、東女のお嬢様とのBBQも中止したじゃねぇか?」(カズ)
「それでかよ…(苦笑)」
カズの言葉に彼は、ズルッと崩れるのだった。
その時、がらん堂の入口ドアの鐘が鳴った。
カラン、カラン…。
「あ!、ジュンちゃん…、いらっしゃい…」
がらん堂のマスターが笑顔で言う。
「こんにちは…(笑)」
制服姿のジュンは、笑顔でマスターに一礼すると、すぐに彼とカズに向かって怒鳴り込んで来た。
「ちょっとぉぉ~ッ!、ヒドイじゃない!、私だけ置いてきぼりにしてッ!」(ジュン)
「でも、大丈夫だったんだろ?」
ソファに座る彼が、詰め寄るジュンに笑顔で言う。
「大丈夫だったけど…ッ、でも、あのあと大変だったんだからぁッ!」(ジュン)
「ほぅ…?」(彼)
「渋谷警察に親、呼び出されて、お母さんに私、めちゃめちゃ怒られたんだからぁッ!」(ジュン)
「まぁまぁ…、落ち着けよ…」
彼の目の前で立つジュンに彼が言う。
「もう、あんな人たちと付き合っちゃいけませんって怒られたわッ!」(ジュン)
「また君の親の評判を落としちまったなぁ…」
彼はそう言うと、ははは…と笑い出した。
「笑い事じゃないでしょぉッ!」
全然堪えない彼にジュンが怒る。
「だけどこれで、バンドを辞める理由が出来たじゃないか…?」
ジュンへ彼がそう言った。
「え?」(ジュン)
「これでもう迷うことはない…。プロの道へ進むしかないってことだ…」
彼がジュンに微笑んで言う。
「……。」
無言のジュン。
「頑張れよ…、ジュン…」(彼)
「な…、何よ!?、何なのよ、もお…!」
ジュンはそう言うと、涙した。
「どうした?、プロの道に挑戦したかったんじゃないのか?」
笑顔の彼がそう言うと、ジュンは言葉を詰まらせながら言う。
「し…、心配なんだよ…。あなた、いつも無茶ばかりやるから…、私がいなくなっても、大丈夫なのかって…」
ジュンは目に涙を浮かべながら、そう言うのだった。
そのジュンの姿を見た彼とカズは、“ヤレヤレ…”と、笑みを浮かべながら、互いの顔を見つめるのであった。
その時、またがらん堂の入口が開いた。
カラン、カラン…。(ドアについた鐘が鳴る)
次に店に入って来たのは、バンドを辞めたマサシとハチであった。
「こーさん…」
彼の席の前に来た2人が、神妙な顔つきで言った。
「ん?」
2人を見上げながら彼が言う。
「あの…、もし許してもらえるなら、もう1度、バンドに入れてもらえないですか?」
マサシが言った。
「それはダメだ…」
彼が落ち着いたトーンでマサシに言う。
「やっぱそうですよね…?、許してもらえないですよね…?」
マサシが沈んだ声で言う。
隣に立つジュンは、その光景を黙って見つめていた。
「そうじゃぁねぇ…」(彼)
「え?」と彼を見る、マサシとハチ。
「許さねぇという意味じゃねぇ…」(彼)
「じゃあ何で…?」
ハチが彼に聞いた。
「今回は、お前らがチョーシこいて、こんな騒ぎになっちまったけど…」
「だが、お前らが始めたバンドは、それなりに評判を呼んでバウンス(タワレコのフリーペーパー)にも取り上げられた」
マサシとハチは、彼の言葉を黙って聞いていた。
「だからお前らは間違っていなかった…。お前らはお前らで、自分の信じる道を進め…」(彼)
「でも…、今回の件でフアンも離れちゃいましたよ…」
苦笑いでマサシが言う。
「だったらまた、イチからやりなおしゃ良いじゃねぇか…」
沈んだ表情のマサシに、笑顔で言う彼。
「それにな…、お前らが抜けたから、ベースとドラム、もうリキとハヤシに頼んじゃったよ」
リキとハヤシは、マサシやハチが加入する前に、ヘルプメンバーとして参加していた2人である。
「こっちから頼んでおいて、やっぱいいやとはあいつらには言えんよ…」
苦笑いで彼が2人に言った。
「そうですか…」
ハチが残念そうな顔で言う。
するとマサシが、神妙な面持ちで彼に話し出す。
「こーさん…、俺…、リーダー失格なんです。だから、俺みたいなやつがバンドなんかやっても、きっとまたダメになります…」(マサシ)
「なぜそんな風に思う…?」
彼がマサシに聞いた。
「テリーに言われたんです…。あ…!、テリーは、俺のバンドのギターの事です」(マサシ)
「知ってるよ…」(彼)
「そのテリーが、自分勝手に何でも決める俺の事を、リーダー失格だって…」
マサシの言葉を彼は黙って聞いている。(※勿論、彼の正面に座るカズも黙って聞いている)
「俺…、こーさんは、リーダーとして甘いと思ってました。リーダーってのは、もっと強引にメンバーを引っ張って行くもんだと思ってました…」
「でも、今回の件で、それは違うんだと、よく分かりました…」
「結局、無理やり自分の方に目を向けさせても、人は動いてくれないんだと…、リーダーってのは、メンバーが、この人の力になりたいって、自ら動いて貰える様な、懐の深さがなきゃダメなんだって…」
「こーさんは、1年坊の俺たちにでも、何かアイデアを持って来たら、必ず“やってみよう”と言って、反対しませんでした…」
「だから俺たちは、アイデアを出した責任と、また採用された事で、やりがいを見つけ、一生懸命になれました」
「俺は思いました。俺は中学や高校の頃は、打算的に物事なんて考えずに、文化祭や運動会とか、報酬なんかなくたって、みんなと一緒に夢中で頑張ってたのに、いつしか、何かやる度に、それに対するメリットや、対価ばかり考える様になってたって…」
「どうして、こーさんは、リーダーなのに、そんなに自由にさせてるんですか?」
「それは、俺一人だけの人生じゃないからだ…」(彼)
「え?」(マサシ)
「俺の人生に付き合わせるのなら、付き合ってくれてるお前らにも、同じ様に、楽しみや幸せを味わってもらいたいからだ…」
「そして、俺に付き合うよりも、もっと充実した人生が目の前にある時は、俺はそいつを無理やり付き合わす様な事はしない。そっちの道に進めと言う…。そういう事だ。分かったか?、マサシ…」
「はい…」
マサシが彼の言葉に頷く。
「だから、お前は、お前の進みたい道に進め。今のお前なら、リーダーとして、きっとやっていける。大丈夫だ」
彼はそう言うと、マサシに微笑むのだった。
「こーさんと、もう少し一緒にバンドやってたらと、今は後悔してますよ…」
マサシが彼に苦笑いで言う。
「なぁマサシ…、今日は風が強いだろ?」(彼)
「え?」(突然何を?と、マサシとハチ)
「帆がその風を受け、船はもう動き出したんだよ…。俺もカズも、そしてジュンもな…」
「みんなそれぞれの大海原に就航したんだ…。マサシ…、ハチ…、お前らもだ…」
「こーさん…」(マサシ)
「達者でな…」
最後に笑顔で、彼はそう言うのであった。
「はい…」
マサシとハチは静かにそう言うと、がらん堂を後にした。
2人が出て行った店の入口を見つめていた彼は、目の前で立ちすくんでいるジュンにボソッと言った。
「ジュン…」
「何?」
ソファに座る彼を見つめて、目を潤ませたジュンが言う。
「7月の最終金曜日…、2週間後…、いつもの村八でお前の送迎会をやる」
※村八とは、いつもバンド練習後にみんなで行った居酒屋である。
「……。」(ジュン)
「だから、もう明日からは、バンドの練習には来るな…」(彼)
「う…、うう…、ううう…」
ジュンは彼の言葉に涙した。
5月の学祭ライブでスカウトされた彼女は、歌手としてデビューする事に迷っていたが、この日、ついにプロとしてやっていく事を決意するのであった。
「じゃあ、俺…、バイトあるから…」
彼はそう言うと、カズとジュンを店に残し、渋谷のダイニング“D”へと向かうのであった。
PM4:05
渋谷、ダイニング“D”
ギィ…。
店のドアが開く。
ワイドレンズのサングラスをかけた、1人の女性客が店内に入って来た。
その女性客は、肩に髪が掛かるかどうか位のセミロングヘアー。
服装は、薄手の淡いライトブルーの半袖パーカーに、ブラックのスキニージーンズ。
足元は、ヒール高1.7cm程の、ベージュ色したフラットストラップサンダルを履いていた。
店長の“ドカチン”こと、永川ひさしが、その女性客の方へと向かう。
「い…、いらっしゃいまし…」
ドカチンが女性にそう言うと、その女性は彼見て、ニコッと微笑むのだった。
「うほほほほ…(笑)」
頬をピンク色に染めるドカチンの、ゲーハーセンサーが作動した。
そして女性は、大き目のサングラスを外すと、照れくさそうにドカチンへ、ペコリと頭を下げて挨拶をした。
「おお…ッ、オタクは…ッ!?」
女性の素顔を見たドカチンが言う。
女性は、髪が少し伸びた伴 茉莉乃であった。
サングラスを外したマリノの目の周りには、まだ少しだけ痣の跡が薄く残っていた。
「あいつなら、まだ来てないわよ…」
緊張したドカチンが、オネエ言葉になってマリノに、彼は居ないと言う。
「知ってます…」
マリノはそう言うと、微笑むのであった。
PM5:40
渋谷、ダイニング“D”
バイト先に着いた彼。
まだ勤務開始よりも少し早かったが、彼は店のバックヤードに現れた。
フロアでは彼と入れ替わる、ミマやチヒロ、そしてカワベが勤務に入っていた。
「おはよう…」
彼が、ウェイトレスのミマとチヒロに挨拶をする。
それに気づいた彼女たちも、彼に挨拶をする。
「あ…、おはよー」(ミマ)
「おはようございま~す♪」(チヒロ)
「さてと…」
彼はそう言って、フロアを見渡す。
店内は、まだ混み出す時間帯ではなかったので、空いていた。
「ちょっと…」
その時、彼の背後から店長のドカチンが小声で言う。
「ああ…、おはようドカチン…」
彼がドカチンに振り返り言った。
「あのさ…、さっきマリノってコ、ここに来たわよ…」(小声のドカチン)
「えッッ!?」
せっかく小声で言ったドカチンの気遣いも台無しに、彼は大きな声で驚く。
(それで…!?)という感じで、ドカチンを無言で見つめる彼。
そしてバイト仲間のミマたちは、大声を出した彼を(何だ?)という表情で見ている。
「これ…、オタクにって…」
ドカチンはそう言うと、行方不明中のマリノから預かったと思われる便箋を、彼に差し出す。
それを奪い取る様に手にした彼が、無言でその便箋を見つめる。
「中…、見たいんでしょ?、いいわよ…、早く戻って来なさいよ」
手紙を見つめる彼に、ドカチンがオネエ言葉で言う。
彼は無言でドカチンを見つめると、そのまま便箋を手にバックヤードから出て行った。
「あ!、こーさん、おはよ~♪」
丁度出勤して来たヤマギシあゆみが、通路ですれ違う彼に挨拶する。
「おう!、おはよー!」(彼)
「うす…」
その先にいたロン毛のヤスも、彼に出勤の挨拶をした。
「おはよッ!」
彼はそう言いながら、彼らの方を見もせずに通路を足早に行く。
「どこ行くんスかぁ~?」
後ろからヤスの声が尋ねる。
「トイレッ!」
彼は振り返りもせずにそう言うと、店の裏口から駐車場のある場所に出るのだった。
カサカサ…ッ
駐車場の縁石に腰かけた彼が、便箋から素早く、中の手紙を取り出す。
そして、その手紙を食い入るように読み始めるのであった。
こーくん、お元気でしたか?
突然いなくなったりして、ごめんなさい。
こーくんが、私のことを探してくれていると聞きました。
私はいま、東京から離れた場所で暮らし始めています。
それは、この東京での思い出が余りにも苦しくて、とてもここに住み続けることが、出来なかったからなのです。
あなたは何も悪くありません。
なのにあの日私は、あなたを責め続けました。
私の不注意で起こった事故なのに、私はあのとき、あなたを責めてしまいました。
本当にごめんなさい。
私はあのとき、どうかしていたのです。
だからどうか気にしないで下さい。
あなたは悪くありません。
むしろあなたは、とても私に優しくしてくれました。
なのに私は、あなたにあんな事を言って、きっと優しいあなたに甘え過ぎていたのです。
私は今でもあなたの事が好きです。
でも、好きであればあるほど、あのような事故が起きてしまい、それがあなたに知られてしまったからには、とてもあなたに私は顔向け出来ないのです。
ごめんなさい。
私も辛いです。
でも、どうしてもだめなのです。
あなたが優しければ優しいほど、私はあなたの顔を見る事ができなくなってしまったのです。
私は思うのです。
なぜ人生は、こんなにも遠回りばかりさせるのか?
神様は、どうしてこんなにも悲しい運命を私に与えたのかと。
だけど私は負けません。
新しく暮らし始めたこの町で、また一からやり直すつもりです。
いつか私の夢が叶うまで、頑張り続けます。
だからあなたも歌い続けて下さい。
私はあなたの書く歌詞が好きです。
いつも前向きな気持ちにさせてくれるあなた歌詞が、あなたの声で。あなたの作ったメロディにのって聴こえるとき、それはとても素敵な曲となって私の心に届いて来ます。
その歌を、いつか私の暮らす町にまで届くように、どうかあなたも歌い続けて下さい。
それでは、どうかお元気で
お体に気をつけて下さい。
あなたと過ごした時間を私は決して忘れません。
さようなら
茉莉乃
(※ほぼ原文ママ)
「ふふ…、マリノ…、やっぱ君は強いな…。やっぱり君は、福島の女だな…」
手紙を読み終えた彼は、目を潤ませてそう呟いた。
すると彼の目から涙がこぼれ落ちそうになった。
「ああッと…、やべやべ…」
彼は涙が流れない様に、慌てて堪える。
そしてその時、あの日、事件が起きる前の夜、マリノが彼に言った言葉を思い出すのだった。
「私は、辛かったり、悲しかったりしても、決して泣かないと決めてるの」
「涙って、悲しい時にだけ出て来るものじゃないでしょ?、嬉しさが感極まって、感動したりしても涙って出るじゃない?」
「だから私は、その時の為に涙を取っておくの…」
「だって勿体ないじゃない?、涙をそんなものに使ったらさ…。嬉しい時に出す涙が、足りなくなっちゃうじゃない?」
「だから私は決めたの。涙は嬉しい時に流すんだってね…」
彼はあの日、完成前のマリノのライブBARで、隣に座って話す彼女の顔が思い出された。
「そうか…、そうだったよな…?」
彼はそう独り言を呟くと、懸命に涙を堪えながら縁石から立ち上がる。
そして彼は、店の中へと戻って行くのだった。
「あれ?、こーさん、どこ行ってたの?」
ウェイトレスのヤマギシあゆみが、バックヤードに戻った彼に言う。
「トイレだ」(彼)
「長いッスね(笑)」
隣にいたロン毛のヤスが、彼に笑顔で言う。
「コウンだ…」(彼)
「何、コウンって…?」
ヤマギシが彼に聞く。
「早口で5回言って下さい…(笑)」
隣のヤスが、ヤマギシに言う。
「コウン…?コウン、コウンコウンコ、ウンコ…、きゃはは!、ヤダこーさんッ!、ここ飲食店なんだよ!、お客さんに聞かれたらどうすんのよ!(笑)」(ヤマギシ)
「ほらそこ!、またおしゃべりして!、仕事!、仕事!」
ヤマギシのはしゃぐ声に反応した店長のドカチンが、注意しに来た。
「はぁ~い…」
ヤスとヤマギシはそう言うと、フロアの方へと歩き出す。
それを見つめるドカチンの背中に、彼が言う。
「ドカチン…」
彼が言うとドカチンは、「ワシ…?」と、振り返る。
「さっきは、あんがとな…」
苦笑いで彼が言った。
「ふん…、そんな事よりも、早くオタクもオーダー取ってきなさい」
彼に感謝されたドカチンが、少し照れくさそうに言う。
「ほら!、あそこに座ってるカワイコチャン!、オタクが行かないなら、この店に来たカワイコチャンのオーダーは、全てワシが行っちゃうわよ!」(ドカチン)
「そうはさせねぇ…」
笑顔で彼はそう言うと、オーダーを取りにフロアに向かった。
笑顔で女性客のオーダーを取る彼。
その姿を見つめるドカチン。
窓際の席のオーダーを、笑顔で取っている彼の姿は、店の外からでも確認できた。
マリノ…。
確かに君の言う通り、人生ってのは回り道ばかりだよな…?
そして俺も思うよ。
『神様、あんた何考えてんだよ!?』って、時々言ってやりたくなるような出来事がな…。
でもさ…、俺、思うんだよ…。
それでも神様ってさ。
乗り越えられない様な試練を、その人に果たして与えるのかな…?ってさ。
俺さ。神様は、乗り越えられない試練は、きっと与えない様な気がするよ。
だから君も俺も、またそれぞれの道を歩き始められるんじゃないか。
マリノ…、どうか夢を諦めずに頑張ってくれ。
そして俺も歌を続けると約束する。
いつか君の暮らす町に届くまで、俺は歌い続けるよ。
それまでは、さようならだ。
元気でな
彼はマリノに届く事のないメッセージを、心の中で返信した。
外は近づく台風の影響で、渋谷の街には時折強い風が舞う。
その風は、あの日、こぼれ落ちた涙と、彼の歌を一緒に乗せて運んで行く。
マリノや、ジュン、そして、みんなの夢も舞い上げられ、あの青空の向こうへと消えて行った。
END