待たせてごめんね
サトリがアキノに会ったとき、アキノはすでに伸ばした髪を綺麗に切り落としていた。
向き合うと、サトリより少し背が高い。最近また伸びた。
「時間がない。さっさと着替えてもらおう。その前に、顔は洗ってね」
アキノのほっそりとした指がサトリの頬に伸びて、どこにも触れることなく結局下ろされる。
「アキノ様、男の子に見えます」
「知ってる。僕は男装も女装も似合うんだ。サトリ、君もぜひ。男装はもう十分見たから、今日は一番可愛い恰好をしよう。はじめるよ」
室内には、若い女官が三人控えていた。
アキノの合図に、「急ぎましょう」と言いながらサトリにとびかかって来る。
サトリはジャケットを脱いで女官に手渡し、ウェストコートのボタンも外しはじめる。
「そうか。見ない方がいいか」
思い出したように言うアキノに、サトリは笑みをこぼした。
「初めて着替えを手伝ってくれたときは、遠慮がなかったですよね」
「僕しかいなかったからね! さ、後ろ向いてるから、早く」
宣言通り、背を向ける。
ガタガタと椅子を引っ張ってきて、背もたれを抱えるように逆向きに座った。
今でもこんなにすくすくと伸びているのだ。いずれきっと、その肩も背中も広く、イズミのような凛々しい青年になるのだろう。
「あとでいろいろお話しましょうね」
「うん。様はいいよ、名前で呼んで」
「アキノ」
返事は、すぐにはなかった。
サトリは衣擦れの音を立てて服を脱ぎながら、差し出された熱いタオルで顔を拭く。
片づける女官と、コルセットを調節しながら装着させる女官、ひとりは髪を梳いて結いはじめている。
しずけさに響く小さな音にまぎれるように、ぽつりと呟かれた言葉。
「姉上」
躊躇いや戸惑いが滲んだ声。
周囲の女官は一見表情を変えていないように見えた。だが、堪えきれなかったように、瞳に感情をよぎらせてうっすら涙を滲ませていた。
(これ、今日買って王宮に届けてもらった服と装飾品かな。「可愛い人」用のはずなのに、サイズが全部わたしにあっていそう)
されるがままに任せながら、サトリはしずかに言った。
「遅くなってごめんね」
背もたれを両腕で抱えていたアキノが、頭を向こう側に垂らす。なおさら強く腕に力を込めたように見えた。
「僕も遅くなってごめん。もっと早く迎えに行きたかった」
声が濡れている。
「十三歳だよね。まだ生まれて十三年だよ。十分早いよ。きっと悩まなくていいことも悩んだよね。もっと違う十三年もあったはずなのに」
「それを言うなら。姉上が失った時間の方が……っ」
似合わぬ悲痛さを帯びた叫びに、サトリは顔を上げて少年の背中を見た。
「わたしは何も失っていないよ。必要なものはきちんと手に入れてきた。だから今こうして生きている。大丈夫だよ。自分の足で立っている。自分の頭で考えている。だから今ここにいるよ」
純白のドレスを着つけられながら、サトリは小さく笑った。
「一緒に遊戯盤で戦ったの、楽しかったね」
「姉上はすぐに腕を上げたから」
「タキ先生にはどうしても勝てなかった」
「先生は全然待たない。もっと段階を踏んで、姉上がルールを飲み込んでからと思っているのに、いつだって全力で叩きに行くんだ。ときどき本気で殺意を覚えた」
「おかげで腕が上がった」
くすりとサトリが笑みをこぼすと、アキノはガタンガタンと椅子を揺らした。
「笑いごとじゃないよ。あんな大人嫌だ。先生はだめだよ、先生だけはやめてよね!」
何が?
聞き返さずに、サトリはくつくつと笑い続けた。
やがて、すべてが整ってからアキノに振り返るように告げた。
完成品のサトリを、上から下まで何度も眺めて、アキノは破顔して言った。
「綺麗です、姉上」
*
アキノは広間へは遅れて入るとのことで、サトリはシュリとともに先に向かうことにした。
「ずっと何か言いたそうにしているよね。ひと思いにどうぞ」
肩を並べて歩きながら水を向けると、シュリは小さく吐息した。
「誤解が発生しているかもしれないので……。あなたを山道で見つけたのはオレなんですよね」
「それで?」
間を置かせないように、サトリは速やかに先を促した。
「十五歳やそこらのガキだったんですよ。自分で育てるって言ったら、周りが大反対。ま、そりゃそうだ。目を離したすきにうちが寄付して懇意にしている孤児院に放り込まれていた。それを突き止めるまで結構時間がかかりました。同じ頃、陛下が嵐の夜に連れ帰ったひとに、娘がいたんじゃないかという話は噂話となって耳に届いたけど、どうもうちの親がもみ消したらしい。事故処理を担当していたのでね。あまりに陛下が怪我をした女性を献身的に世話をしているから、色々小細工したみたいです。陛下の幸せだけを一番に考えてしまった、というのは言い訳なんですけど。だから罪は」
サトリはシュリの背中をばしっと叩いた。
「十五歳で親になろうとしたの?」
遠慮なくふきだして、笑いながら見上げると、シュリは片頬を引きつらせて言った。
「可愛かったのでね。嫁に出すときは泣くだろうなとか、相手の男は許さないってとこまで考えました」
「育てて自分が娶るとは考えなかったんですか」
「さすがに、育つまで自分が未婚という線を考えていなかったので。一緒に育ててくれる相手を見つけたいとはかなり真剣に考えました」
サトリは堪えきれずに、腹を抱えて笑い出した。
「いいですよ、笑ってください……」
王宮の女官たちに騒がれる色男は、苦み走った表情で目を閉ざした。
もう一度、勢いよく背中を叩こうと腕を振り上げて、思い直して、サトリはその背に優しく手を添えた。
「助けてくれてありがとう。つまりわたしがいま生きているのは、シュリがいるからなんだ」
*
大広間で、寄り添った国王夫妻に歩み寄ったのは、目にも鮮やかな金髪を短く刈り込んで、口ひげを生やした男。
普段人前に出て来ることの少ない王妃は、彼を見上げて穏やかに微笑んだ。
夫である銀髪の王の腕にゆったりと身を預けたまま。
「《幸せ?》」
ごく短い言葉で、彼は王妃に声をかけた。
「ええ」
頷きとともに王妃が肯定すると、笑みを深める。
「《良かった。その足は痛む?》」
「《古い怪我なの。今はもう大丈夫。少し歩きづらいだけ》」
「《そう。身体が健康なら一度ミスマルに遊びにおいで。陛下もぜひ。国を挙げて歓迎します》」
作り物ではないあたたかな笑みを浮かべた男に対し、王は頷きとも会釈ともとれる仕草で返した。
そのとき、広間にざわめきが起きた。
断続的に漏れ聞こえるひそやかな声、ゆるく開かれていく道。
顔を上げた三人の視線の先には、純白のドレスをまとった少女と、背の高い青年が二人立っていた。
青い瞳をみひらいて、王妃は少女を見た。
自分に向けられる視線のすべてを、うつむかないことではねのけつつ、受け入れながら。
目的の人物と、互いの視線が空で絡んだことをはっきりと認識した少女は、開かれた道を進んでくる。
一足歩くごとに、耳飾りがゆれて、髪を彩る青い花が香りをこぼす。
見る者が思わず息を止めるほどの超然としたうつくしい横顔をさらして、少女は進む。
王がかすかに唇を動かした。アキノ、と動いたが、ついにその名は呼ばれることはなかった。
「会いに来ました」
少女の口からもれたのは、高く澄んだ声だった。




