壊して
がさがさと庭園の茂みに分け入っていく小さな背中を、タキは一定の間隔で追跡していた。
無軌道な動き。
目的地などない。
しばらく歩き回って道なき道を進んでいるうちに、わずかに開けた場所に出た。
忙しなく進み続けていた足が、ついに止まる。
その背に、タキは声をかけた。
「殿下」
返事はなかった。
雨はやんでいたが、辺りは暗い。
辛うじて庭に設置された灯りが朧げに届いている程度。
「アキノ様の私室はこちらではありません」
「……っ」
ひくっとしゃくりあげるような息遣いが聞こえた。
葉露に濡れているであろう背中が微かに震えている。
「……っ。やだっ……。行かない。どこにも行かない。もうどこにも行かない……!」
タキは黙して待った。
「行かない。もう嫌だ。嫌だ。全部嫌。みんな嫌い。大っ嫌い。だーーーーーいっきらい」
叫びながら、振り返る。
両目から、次々と涙が零れ落ちる。
タキを睨みつけながら、不意に唇に歪んだ笑みを浮かべた。
「先生。壊してよ。わたしを。跡形もなくなるくらい、滅茶苦茶にしてよ。ここから動かないから。どこにも行かない、もう何もしない。もう嫌だ、いやなの。全部いやなの!!」
目に奇妙な輝きがある。唇がわなわなと震えている。
涙は流れ続けている。
「先生。早く。愛も恋もいらない。そんなもの一つもいらない。何もいらない。ここで死にたい。消えてしまいたい。全部終わらせたい。先生……」
不規則な息遣いの合間に、しゃくりあげながら、こわして、と繰り返す。
先生。壊して。
「我慢しすぎだ。いつ怒る気なのかと思っていた。ようやく来たか」
タキのしずかな物言いに対し、サトリは二、三歩進んできた。
タキの目を睨みつけ、さらに歩み寄る。ジャケットの合わせ目に手を伸ばして、ぐしゃりと掴む。
「つべこべ言ってないで。わかんない? わたしを無価値なゴミみたいに殺せばいい。誰からも愛されない人間に相応しい、物以下の扱いをしてよ。捨てられるべき人間だったって、よくよく思い知らせてよ……!!」
「それを俺に願うのか」
「先生しか思いつかない。他の人じゃだめ。先生ならできるよ……お願い。……わたしのお願いは聞けない?」
タキは眉間を中指から小指まで指三本使ってガリガリとかいて、小さく溜息をつく。
細い肩。握りつぶせそうな首。涙が湧き続ける碧眼。
壊すかよ。
悟られぬよう横を向き、声に出さずに唇だけ動かす。
「先生……? こんなにお願いしてもだめなの? どうすればいいの?」
「何もしなくていい」
「そんなの……、そんなの嘘だよ。男装しろって言った。王子になれって言った。色々身に着けろって。王宮に行っても簡単に見破られないために? だけどやっぱり無理だよね。わたしはアキノ様じゃない。同じじゃない。どうしたって、わたしは『捨てられた方』だよ……! いつまで生かしておくの? 馬鹿じゃないの? その頭はなんのためについているの。少し考えればわかるでしょ? 生かしておくべきじゃなかったって。なんで殺さなかったの? それが一番いいでしょ。そうしたら……っ」
ジャケットを握る手にぐっと力が加わる。
(弱い)
引っ張られている感覚はあるのに、こゆるぎもできずに、タキはサトリを見下ろす。
ついに目を閉じてしまったサトリが、むせび泣く合間に言った。
「何も知らないうちに死んでいたら。ううん、生まれてさえいなかったら。そしたら……、アキノ様だってきっと辛くなかった。わたしだって、こんなに……胸がつぶれそうな」
しゃくりあげ続けていたが、ややしてくぐもった声で何か言い出した。
「胸はつぶれていようがいまいが、無いですけど。イズミだって女かどうか今日聞くまで確信を持てなかったって言ってるし。つぶれて」
タキはとにかく破格の溜息をついて注意をひいた。
「俺にはずっと女性に見えている。はじめからずっと」
「わたしの努力をいま、全部『無』にしましたね……」
大きく目を見開いたサトリを見下ろし、タキはぼそりと続けた。
「あの時、イズミ様とは何もなかったのか」
「あの時?」
「いや、いい。なんでもない。騙された。髪と服が乱れていたから」
決して目を合わせぬよう横を向いたタキの顎から頬をじっと見上げて、サトリは今一度聞いた。
「もしかしてあの冬の夜ですか」
忌々し気にどこかへ視線を投げて、タキは観念したように告白した。
「口づけくらいされたかと。イズミ様の、アキノ様への執心は度が過ぎているし、手も早そうだし」
「タキ先生」
不意に、サトリが声をひそめた。
「耳を貸してください」
近くで人の気配でもしたのかと、タキは聞き返さずに咄嗟に軽く身をかがめる。
ジャケットを掴んだまま顔を寄せたサトリは、軽く目を瞑るとタキの唇に唇を寄せた。
* * *
全身の毛が逆立つほどの衝撃ながら、なんとか避けたタキは目を見開いて硬直する。
「こんな簡単なこともイズミはしませんでしたよ」
タキはサトリを、そら恐ろしいものを見るような目で見た。
「簡単だと? 殿下は何を言っているんだ!?」
背筋を伸ばし、ジャケットを掴んだサトリの手に手を重ねた瞬間、サトリが声を低めて言った。
「わたしが死のうとしても、先生には止めさせませんよ」
「はなせ」
サトリの手をもぎ取るようにジャケットから外させて、はなす。
タキは気合でその場に踏みとどまった。
いつの間にか涙をおさめたサトリは、ふいっと視線を逸らして呟く。
「それがだめなら、わたしに、ここにいてもいいんだってわからせて。誰も、わたしを好きになってくれない。アキノ様は完全にきょうだいを意識してましたし、シュリなんか……。シュリは……」
サトリは、月も星もない空を見上げてぽつりと言った。
「人攫いがシュリじゃなかったら、もっと怒っていましたよ、わたし。とっくに怒っていました。だけど、わたしはシュリを『知って』いました。わたしは王宮に入る前に見たことがあるんです。孤児院にいた頃」
涙に泣きはらした横顔は、あるか無きかの夜風を受けて、奇妙なまでに凪いでいた。
「変じゃないですか。わたしが王宮に就職できたことだって。偶然じゃない。誰かがずっと見てた。捨てたくせに、ずっと見ている人がいたんです。おかげでそんなに辛い目にも合わなかったし、今だってこんなに健康です。それで……、捨てたひとのことを、恨むに恨み切れない」
捨てた、と言った。
おそらくサトリの中では、山道での一件からすべてがつながった。つながってしまった。
(聡い人間だ。そこに気付かないわけがない)
「恨んでいいし、憎んでいいし、子々孫々祟ってもいいんだぞ。全然いい。もっと怒ってもいい」
闇雲に言葉を重ねたタキの頬にサトリは手を伸ばして、むに、とひねりあげてから、手を離して吐息した。
「やめてくださいよ。そんな風に『君はかわいそうなんだ』って教えられたら本気にするじゃないですか。そんなの、自分で決めますから。実際、わたしって精神安定してるでしょう? 図太いっていうか。子どもの頃からね、そんなに不安になることがなかったんです。本当の親がいるなら会ってみたいと思ったことはありますけど、いなくても大丈夫でした。生き延びて、運が良かったんだろうなって思える人生だったんです。だから、『かわいそう』って塗り替えないで。ありもしない憎しみの種をわざわざまかないで」
(ありもしないと、君がそれを言うか)
「わたしは怒ることもありますけど、冷静さが取り得なんです。今だって、本当は何をすればいいのか考える余力があります。だから変なこと言わないでください。地獄には先生一人で落ちてください」
飛んできた流れ矢が不意打ちすぎて、タキは目をしばたいた。
「なんで俺……?」
ぼやきに耳を貸すつもりはないらしく、サトリは満面の笑みを浮かべた。してやったりという爽快感に溢れるその顔を見ていたら、何もかもどうでもよくなった。
「……ああそう。もう好きに言ってくれ。こんなことでそんなに笑ってくれるなら安いものだ。笑顔が一番似合う。もっといつも笑えばいいのに」
「え?」
「なんでもない」
タキは方角を確認するふりをして周囲を見回しつつ、話を逸した。
「さてそれでは、改めてお誘い申し上げようか。アキノ様のもとへ向かいます」
「もちろん。行こう。きっと、待ってる。僕が逃げ出さないで向かってくるのを、アキノは待っている」
歩き出す直前。
ジャケットの袖で涙を拭きとろうとして、汚すことに躊躇したサトリに、タキはハンカチを差し出した。
思いもかけなかったのだろう、きょとんとしたサトリは、タキと目が合うと淡く微笑む。
タキは手荒にハンカチでサトリの頬をぬぐい、涙の痕跡を消そうとした。




