王宮へ
三人で学校を出たら雨は細かな霧になっていた。
帽子だけかぶって、辻馬車を拾うことも無く王宮まで急ぐ。
月も星もない夜。
街路にはガス灯が並んでいて、石畳をぼんやりと照らし出していた。
「思ったより、人が歩いていますね」
サトリが呟くと、イズミが素早く答えた。
「ガス灯は遅くまで点いているから、観光客が最後にこの辺を歩いてから宿へ向かったりする。今度また一緒に出掛けよう。お店に興味がないなら、美術館か観劇がいいかもしれない」
声につられて見上げると、イズミがこの上なく優しい顔で見下ろしてきていた。
吸い込まれそうな瞳。
その翠眼が、大切な人の為には涙を零してしまうのを知っている。
(アキノ様……)
少女のように振る舞う王子が、何を背負って生きているのか。
学校を出て来る前に、雨に閉じ込められた暗い一室で、イズミとタキが、言葉に詰まるたびに互いを補い合うようにしながら話してくれた。
* * *
――王妃様には記憶がない。
若き日の王が、嵐に見舞われた狩猟の帰りに見つけて連れてきた、という。
おそらく山道を強行していた馬車が、折からの悪天候に耐え切れず、転落事故を起こしたのではとの見方が濃厚だった。
王の一行が探った限りでは、他に生存者は見つからなかったという。
助け出された娘もしばらく生死の境をさまよった。
その傍らには懸命に看護する王の姿があった。
やがて、身体は回復したものの、記憶には曖昧な部分があり、ついに自分が何者かはっきり思い出せない娘に対し、王は周囲の反対を押し切って求婚した。
イズミがそこまで話したとき、腕を組んで立っていたタキが微かに眉を寄せたことにサトリは気付いた。
わずかな変化だったが、サトリが「タキ先生?」と声をかけると、イズミも唇を引き結んで黙ってしまった。
ややして、タキが暗い声で言った。
「美談だ。表向きのな。本当に記憶がなかったのか、はっきりとわからない。王妃は外国人だ。この国の言葉をうまく扱えなかった。周囲の者とうまく意志疎通ができなかったんだ。通訳くらい用意できただろうに、王がそういった対応をした形跡がない」
サトリもまた眉を寄せて黙り込んでしまった。その意味を考えようとした。だが、なかなか思考がうまく巡らない。
イズミが彼には似合わぬ諦念のようなものを表情に浮かべて、乾いた声で言った。
「手段を選ばなかった、とも言える。陛下は恋に落ちていた。『幸い』その女性は外国からの旅行中だったらしく、身元がわからないことにするのは、さほど難しくなかった。八方手を尽くして痕跡を消してしまえば、捜索もかわせるとふんだのだと思う」
二人の重苦しい語りに対し、サトリは顔を上げ、澄んだ声で尋ねた。
「どうしてそんなことをしたんですか?」
距離を置いて立ったままのイズミもタキも、顔を合わせることはなかった。
長い沈黙の後タキが話し始めようと口を開くと、イズミが「私が」と手で制した。
「おそらく、その時すでにその女性は、既婚者だったんだ。夫にあたる人物が事故で命を落としたのか、どこかで生きているのか。そこまではわからない。あくまで私の推測だが、生きていたのだと思う。少なくともその当時は。それが発覚してしまえば、さすがに陛下も結婚には踏み切れない。だから、王妃様には正しい情報を決して与えず、周囲との意思疎通もできない状態に置いた」
「それは卑怯なのでは?」
責めるべきはイズミではない。タキでもない。
わかっていたのに、サトリの声はどうしても鋭いものになってしまった。
「卑怯だ。恋など言い訳にもならない」
タキが重々しく頷いた。
イズミの反応はやや鈍かった。
「私は陛下の昔を知らないけれど、アキノのようなひとだったんじゃないかと思う。わがままらしいわがままを言わない聡明な少年だったと、誰もが言う。おそらく王妃様にしたことは、人生で最初で最後の、大きな……」
そこまで言って、イズミは拳を唇にあてて声を殺してしまった。
その直前、ひそやかに、あやまち、と呟いたのをサトリの耳はとらえてた。
見つめていればもう一度話してくれるのではないかと、サトリはじっとイズミを見た。
話を引き継いだのはタキだった。
「心細い異国の地で、優しくしてくれる青年王にほだされたその女性は、やがて求婚を受け入れた。自分の中で折り合いをつけたんだろう。おそらく夫は死んだと伝えられたに違いない。だが、異変はアキノ様を産んだ後に現れた。『自分の子どもは女の子だ』と言い出して譲らなかった。頑なに、子どもは女の子だと言い続けた。そのうち、成長したアキノ様が、王妃様に合わせることを思いついた。王妃と会うときは少女の姿に……。ただ、アキノ様の中にはずっと疑問があっただろう。何故『女の子が欲しかった』ではなく『女の子だ』なのか。何か理由があるのではないか」
「アキノ様がお可愛らしかったからではなくて?」
自分が何か言うたびに、沈黙が重くなることにサトリはさすがに気付いていた。
「陛下は」
話す気はあるのだろう、イズミは口を開くも、変なところで絶句してしまう。
ここは人間じゃない方に任せよう、とサトリは決めた。
「タキ先生? わたしの男装はどう関わってきますか?」
「陛下は、女装姿でアキノ殿下が王妃様と面会するのを禁じた。もともと王妃様は王宮の奥にいらしてあまり人にお会いにならない上に、『アキノ様』が王妃様に会うには男装する必要が生じたわけだ。つまり、『君を王妃に会わせる』為には、君が『男装のアキノ様』になる必要があった」
しんみりしてずっしりとした空気。
サトリは一度瞑目した。
人間十回目の大天使様と、人間一回目のうじ虫が、おそらくまったく同じ懸念から沈み切っている。
目を開ける。
サトリは腰かけていたベンチから立ち上がった。
「お二人ともひどい顔しているんですけど、自覚はありますか」
断罪を待つかのようにうなだれて消沈しまくりの男二人を眺めてみた。
二人を交互に見てから、タキへと視線を定めた。
(イズミが落ち込むのは仕方ない。親戚的で、関係者だ。アキノ様のことが大好きで心が綺麗な大天使様。でもタキ先生は、雇われ隠遁学者で前世も来世も人間じゃない。今回たまたま人間になっただけの人が、なんでそんなに他人の事情で落ち込めるんですか?)
八つ当たりなのは重々理解していたが、イズミに八つ当たりをするわけにはいかない以上、仕方ない。
目の前にいたタキが悪い。
音も無くタキに歩み寄る。伏目がちにちらりと見られた。
サトリは腕を組んだままのタキに正面からぶつかって、軽く腕を身体にまわしてみた。
抱き着いた、ともいえる位置関係や接触具合だった。
「おいっ、間違えてる!! 俺だぞ!?」
「それが?」
「こういうときはあっちだろ!! 俺じゃなくて」
暗い表情に、焦りが取って変わる。目の動きで示した相手はイズミ。
サトリが振り返ると、イズミは強張った笑みを浮かべつつ両手を開いて「おいで、こっちだよ」と言っていた。
サトリはにこりと微笑み返した。
「タキ先生に嫌がらせをしているんです。イズミにはそんなことしません」
「嫌がらせ? ん? なに? 私にもわかるように言って欲しいかな」
「見ての通りですよ。タキ先生、若い女の人がこの世で一番苦手なんです。ほら、いま死にそうな顔をしているでしょ? さっきまで深刻ぶっていたのに、今ははっきり自分が可哀そうでたまらないって顔をしているでしょう? タキ先生なんかそれでいいんですよ。もっと苦しめばいいと思います!!」
高らかに言い切ったサトリに、イズミは笑みを強張らせた。
タキが情けない調子で言う。
「俺が悪かった。頼むからあっちに行ってくれ。それが自然だろ」
「イズミに嫌がらせをするのが自然だなんて、よくそんなことが言えますね!? もっと痛めつけてやる!」
「いい加減にしろ」
サトリの暴挙を止めたのは、後ろからサトリの肩に手をおいたイズミだった。
「先生は卑怯な男だ。『ショコラが怖い』といえばみんなが自分にショコラをくれるという理屈を、本当にふりかざす人がいるなんて。驚きました。恥知らずにもほどがありますよ」
かつて聞いたことがないほど冷淡なイズミの声。
一方のタキも、珍しく剣呑な目つきとなってサトリの背後のイズミを見据えた。
「俺に逆恨みですか。いつもの余裕はどうされましたか」
タキのおとなげない怒りを察したサトリは、タキに手を伸ばす。
拳を胸に軽く叩きこんだ。
「先生こそその喧嘩っ早さはどうにかなりませんか。だいたい、今なんの話をしていたかお二人とも覚えてます? この場で一番気まずい思いをしているのは実はわたしだって思いません?」
二人が曰く言い難い思いを抱いているのをひしひしと感じつつ、サトリは厳然として言った。
「アキノ様の女装の秘密と、わたしの男装の件はわたしの出自に関わっていることはわかりましたよ。わかりましたけど、それで『男装しなきゃ王妃様にお目通りができないから男装の特訓しなきゃ』とか。あの、言ってもいいですか。いや、言います」
イズミとタキを順番に見て、姿勢を正し、表情を引き締めて言った。
「馬鹿ばっかり」
* * *
あまり時間が押すと王宮に潜入が難しくなるということで、その後は速やかに学校を出て王宮に向かう運びとなった。
アキノに酷似したサトリと本物のイズミを目にした門衛は「この雨の中、ささ、お早く」と通過させてしまう。
三人はひとまず、王宮に入り込むことに成功した。




