薄暮のお茶会
「寮長は、一般の生徒が立ち入り権限のない区画まで自由に出入りできる。秘密の話をするにはうってつけの部屋もある。シュリ先生は在学時代寮長を経験しているから、その辺はぴんとくるとは思うけど」
イズミはサトリに説明しつつ、寮の廊下を足早に行く。
すれ違った学生たちが興味深げに挨拶をしてくるが、すべてイズミが愛想よく返し、なおかつ立ち話ほどの隙は与えない。ひたすら道行きを急いでいる。
(シュリがぴんとくる場所では意味がないんですけどっ)
校舎は恐ろしく年季の入った建物に見えていたが、寮も負けてはいない。
二、三百年は経過しているであろう頑健そうな石造りの二階建て。石壁が剥き出しの内部はひんやりとしている。
構造は入り組んでいて、広い。
イズミは迷いなくどんどん角を折れて奥に進む。
橋のような連絡通路を通って別棟の建物に乗り込み、廊下を進んで階段を上る。
「奨学生寮だ。学費の免除にも段階があって、貴族階級の『奨学生』は名誉みたいなもので免除されても寄付金をおさめているけど、こっちは完全に免除の、平民出身の学生が住んでいる。授業は一緒に受けているが、暮らす場所は別なんだ。私は色々把握していないと気が済まないのでこちらにも顔を出しているけど、そんな寮長は今までいなかったって言われている。シュリ先生はどうかな」
我が物顔で廊下を進む。人の気配は感じられない。
「この辺は生活区域から離れているし、特別室が多い。今の時間帯は誰も使っていない」
目的地らしいドアの前に立つと、耳をあてて中の様子を伺う。
サトリに一度頷いてみせてからドアを開け、中に入るように促してきた。
薄暗い。
薬品のような鋭い匂いと、甘ったるい匂いが混ざり合って嗅覚を刺激してくる。それほど嫌な臭いではない。慣れれば平気そうだ。
足を踏み入れて周りを見回すと、まったく気配はなかったのに部屋の隅に人影があった。
息を呑んだサトリが後退すると、背後に立っていたイズミの胸に頭をぶつけることになった。
「石膏像に驚いた? 安心して、誰もいないから。ここは絵を描くのが好きな学生が使っているんだ。今日明日は他の用事で忙しいから来ないはず」
カチリと小さな金属音。イズミが後ろ手で鍵をかけた。
薄暗さに目が慣れると、そこかしこに額縁にはまっていない剥き出しの絵や、イーゼルにのったままの描きかけの絵があるのが確認できた。
「散らかっているから気を付けて」
言われたそばから何か踏んだ。
小さなものがいくつも落ちている。
サトリが目を凝らしながら歩いていると、ひょいっとイズミがその腕を掴んだ。部屋奥、腰高窓の下の木製のベンチまでエスコートし、流れるように腰かけさせる。
「さてどうしよう。まずいお茶ならいれられるけど。お茶にする?」
立ったままのイズミに軽い調子で言われ、サトリはふきだした。
「僕がいれましょうか」
「それには及ばない。最近は真面目に手順を踏んでいれるようにしているんだ。少し反省してね。だから前ほどまずくはないはず。私の舌はまずいお茶に慣れているので、うまくいれすぎると逆に飲みごたえを感じないんだけど、普通の味覚向けのひとにもお茶をいれることはできると思う。あれは特別な技術じゃない。科学実験と同じ、形式と様式美だ」
立ち上がりかけたサトリを手で制して、イズミは早口にそう言った。
それから、気まずそうに咳払いをする。
「イズミ様?」
「ごめん。ちょっと舞い上がって変なこと言っている気がする。自分のためにもまずいお茶が必要みたいだ。早急にいれてくる」
大股に部屋を横切り、廊下に出るのとは別のドアに向かう。続きの間があるらしい。
追いかけて手伝おうか悩んだが、ひとまずサトリは背後の窓へと視線を向けた。
もともと曇り空だったせいで、すでに辺りが薄暗い。
窓は建物の裏手に面しているらしく、なだらかな草地の向こうにぎっしりと木が生い茂っているのが見えた。
建物全体が石造りのせいか、冷えている。
片手を反対の肩にのせて、わが身を抱きしめるようにしていると、湯気の立つカップを持ったイズミが戻って来た。
お茶会で使われるような瀟洒なものではなく、装飾のない持ち手だけがついたもの。
「寒いよね。冷めないうちにどうぞ」
差し出されたカップを受け取り、サトリは唇を寄せて一口飲んでみた。
熱い。
香りも申し分なく、味も渋過ぎずにきちんと出ている。
「美味しいです。まずい要素が何もない。ご自分用にはきちんとまずいのをいれました?」
立ったままのイズミを見上げて言うと、ぼんやりとしていたイズミは、思い出したように自分のお茶を一口飲んでから、いつもより早口に言う。
「まずいのは、いれそびれた。君と同じのを飲みたかったから。美味しく感じてくれたなら良かった。私が今まできちんとお茶をいれられなかったのは、飲ませたい相手がいなかったせいだと思うんだ。だけど、君に会って、お茶をいれてもらったときにすごく手際がよく見えて。自分も誰かの為ならきちんといれられるんじゃないかって思ったんだ」
イズミのような完璧な人間にそんなことを言われても、サトリとしてはなんと答えて良いかわからない。
褒められている気はするが、あれはサトリの手柄というより、タキの特訓の成果なのだ。
「僕にお茶のいれ方を教えてくれたのはタキ先生ですが、あの人は誰かの為に腕を磨いているとは思えないんですが。しいていえば、全部自分のためじゃないかな。人と関わるのが嫌だから、全部自分でできるようにしているみたい。発想が限りなく自給自足」
僕がお茶を覚えたのは、あの日イズミ様をもてなす為ではあったのですが。
笑って言い添えて、お茶を一口飲んで見上げると、イズミは沈んだ表情でサトリを見ていた。思いつめているようにも見える。
「座りませんか」
カップを片手で持ち、もう片方の手で空いていた右隣をぽんぽんと軽く叩くと、イズミは頷いて腰を下ろした。
それから少しの間、静かにお茶を飲んでいた。
ちらりと見上げた横顔はひどく端正だったが、わずかに寄せられた眉が悩ましげに見えた。
ごく小さな音が耳に届いて、サトリは背後を振り返る。
ぽつぽつと雨垂れが窓を掠めて涙のようにあとをひいていた。
「暗いと思ったら、雨が降ってきてしまいましたね」
「そうだね。雨の日はみな早々に建物に入ってしまうから外も静かだ。『世界中に二人きりしかいない』と錯覚しそうになる」
口調は穏やかだが、声には奇妙な緊張感がある。
サトリは心持ち、身体ごとイズミの方へと顔を向けた。
「僕が何者か気にしていますか? 怪しいのは確かですけど、イズミ様に危害を加えるつもりはないので、ご安心ください」
イズミは無言のまますうっと視線を流した。
サトリの手の中のカップに目を向け、飲み干しているのを確認すると引き抜くように奪い取る。
自分のカップと一緒に、手近な小テーブルに置いた。
「『何者か』気にはなっているけど。私のことを『イズミ様』と呼ぶ君のことを、私は名前も知らないわけだ。二人になりたいのもどうしてなのか、実はよくわかっていない。何か話があるのかな」
窺うように目を細められて、サトリは今更ながらに緊張しつつ頷いた。
イズミのまとう空気がいつもと違う。圧し潰されそうな圧迫感。だけど、負けてはいられない。
「はい。まず一つ確認なんですけど、イズミ様はアキノ様の味方だと考えて良いでしょうか。何があってもアキノ様の為に最善の方法を考えてくださいますでしょうか」
イズミは手を伸ばしてサトリの手の上に手を重ねた。
包み込むように軽くおさえながら、サトリの目をのぞきこんだ。
「私のことを呼ぶときは、イズミでいい。私は君が何者かわからないけど、一人の人間として話したいと考えている。質問に関しての答えは『もちろん』だ。少し年が離れているけどアキノは大事な友人だし、今目の前にいるアキノによく似た君にも同じく真摯な気持ちを抱いている。これで大丈夫?」
「ありがとうございます。安心しました。僕はアキノ様のことを知りたいと願っていますが、知らないことがある為に、アキノ様の代わりを果たせないことに不安があるからです。アキノ様の不利益になるような情報はいりません。正直なところ、シュリは誰の味方かわからないから、こういう状況でなければ聞けないと思って」
イズミの目が見ている。手は捕らえられたまま。
互いに向き合っているせいで、軽く身じろぎした拍子に膝と膝がぶつかった。
身を引こうとしたら、イズミの手に力が込められた。
その強さに少しだけ驚いて見上げると、翠眼がサトリをまっすぐに捉えていた。
「私からも一つ確認があるんだけど。君は女の子?」
ほとんど闇に沈んだ中で、イズミの瞳だけが光っているように見えた。
しずかな雨の音がしていた。




