うしがえる
ものすごく大きい蛙さんに遭遇した。
館の前の石段を下りたところに、それはいた。
あまりの大きさに、置物かもしれないと思った。
(道の真ん中に置物はだめですよタキ先生。危ないです)
茶色っぽくて、蛙として考えるととても大きい。
成猫と比べるとやや小さめだ。
トニさんと比較するとネズミくらいかもしれない。
ただしトニさんは一般的な猫さんではない。
やはり、大きすぎる。
睨み合ったまま、サトリはごくりと唾を飲み込んだ。
蛙さんのいぼいぼとした喉も震えているように見えた。生きている。絶対に生きている。
(鈍そうに見えるけど、もし俊敏に飛び跳ねたらどうしよう。わたしの身長くらい飛べそう。首から上にヒットしたらそれだけで失神する自信がある……)
ものすごく弱っていた。
睨み合いだなんておこがましい、勝負ははじめからついている。
負けだ。
動きの予想がつかないばかりに依然としてその場にくぎ付けにされている。逃げられるものなら逃げたい。
しかし、相手は野生の獣だ。
蛙は獣なのだろうか。
とにかく、獣だ。
目を逸らしたらやられるかもしれない。
さんざん余計なことを考えながら、石段を後ろ向きのまま上ろうとする。
まず一段。もう一段。このまま館の中に逃げ込め……!
「何をしているんだ、サトリ殿下」
「うわっ」
突然ごく近くで声をかけられ、サトリは石段を踏み外した。
転げ落ちても大した高さではないが、足が宙をすべった感覚にぞっと悪寒が抜けていく。身体のどこかを打ち付けることを覚悟した。
しかし、いつの間にか腕を身体にまわされて、捕らえられていた。サトリが軽すぎたのか、捕捉者の力が余っているのか、足がぶらりと宙に浮いている。
慌てて身を捩って逃れてはみたものの、前面の蛙さんに見られているのに気付いて、途端に動きがぎこちなくなる。
「タ、タキ先生。どうしてあんなところに蛙さんの置物が!」
「生きている。あんな邪魔なところに、置物なんか置かない」
それはそうだと思いつつも、サトリは恐慌寸前で言い募った。
「大きいんですけど。どうしてですか。なんであんなに大きいんですか。この森の生態系はどうなっているんですか」
「確かに大きいが、それはあれがそういう種類だからであって」
げろ。
それまで沈黙を保っていた蛙さんが、何を思ったのか一声鳴いた。
その瞬間、サトリは飛び上がってタキに両腕でしがみついた。
「タキ先生、人外語で何か言ってください!!」
「離せこら。言えって何をだよ」
タキが嫌そうに身じろぎをするが、サトリはなおさら強くしがみついた。
「『森ヘカエルがいい!!』こんな感じのことを蛙さんの言葉で言ってください!! 今すぐ!!」
頭上で、タキが溜息をつく気配があった。
(呆れてる呆れてる絶対呆れてる。でもわたし、蛙さん苦手なんですよ)
声に出さずに言い訳しつつ、タキの背後に逃げようとしたところ。
「げろげろ。げろげろ。げこ……っ!!」
タキが何か言った。
「先生っ。本当に蛙さんの言葉まで!!」
蛙さん相手に交渉が出来たら尊敬するなんてものじゃない。
羨望の眼差しをタキに向け、ついで状況を確認してみたのだが。
げろ。
依然として蛙さんはそこにいた。
ただし、視線はタキに向いていて、呼応するように鳴いていた。
(……通じた?)
様子を伺うサトリをさておき、ぐいっとサトリの腕を強制的に外させると、タキはすたすたと階段を下りていった。その勢いのまま、でんと居座っていた蛙さんを捕まえる。素手で。
そのままさっさと道を外れて森の方へと進んで行き、蛙をぶん投げた。
涼しい顔で戻ってくると、目を眇めてサトリを見る。
「これでいいのか」
「投げた!? 絶対にあとで復讐されますよ!?」
「大丈夫だ。あっちの池に落ちるように投げた」
近づいてくるタキの手を恐ろしいものであるかのように眺めるサトリに対し、タキは低く抑制のきいた声で言った。
「今にも『その手で触るな』とでも言いそうだが、俺から進んで君に触ることなどない。君ももう少し慎んでくれ。いきなりしがみつかれた俺の身にもなってみろ。よっぽど君に蛙さんを押し付けて俺の気持ちを味わわせてやろうかと思ったくらいだ」
(あなたにとってのわたしは、わたしにとっての蛙さんですか、なるほどー)
よくわかった、とサトリは頷いた。
怯え切っていたとはいえ、本当に悪いことをしてしまった。
「それにしても、すごい蛙さんでしたね。この辺の主さまでしょうか。春になったから挨拶? アキノ様だったらちゃんと歓待したのかな」
ぶつぶつと言うサトリを、タキは胡乱げに見つつ口を開く。
「あれ、この辺の普通だ」
「普通?」
「ああいう種類の蛙なんだ。春になると冬眠からさめて地下から出て来る。森の中に入ってみると、穴だらけで壮観だぞ。この穴の数だけ蛙が、ってな」
「何を言ってます? なんでいまちょっと楽しそうでした?」
「別に。楽しがってなんかいない。ありのままのことを言っただけだ。一匹でそんなに怯えている君には悪いが、森と言わず道にもうじゃうじゃ出て来る。夜は鳴き声もする。『包囲されているな』って気分を存分に味わえる」
「タキ先生?」
無表情で淡々と言う割には、言う内容が過度に想像を喚起させるものだ。
サトリが蛙さんが苦手とわかった上で言っているなら邪悪すぎる。
呆然とするサトリの前を悠々と過ぎて、タキは空を見上げた。
「良い天気だな。山菜摘みにでも行くか」
陰鬱な青年であるところの彼らしくない、晴れやかな声。
(絶対にわたしに意趣返しして、良い気になっている!)
つくづく性格の歪んだ男だ、と思いながらサトリはその背を睨みつけた。
澄んだ青空と、芽吹き始めた緑。
日陰には雪がまだあるものの、目の前の道はすっきりとしていた。
サトリが館に来てから季節がひとつ巡り、春が訪れた。




