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肺とマドレーヌ

 本物のアキノはこの広すぎる館のどこかの部屋にいる。


 イズミの客室同様、数日前から掃除に入ったり、暖炉に火を入れたりしていたようだが、サトリにはそれがどこか知らされていない。


「知らないことに関しては、嘘もつけないからね。もしイズミに探られても答えられなければ、それで大丈夫だから」


 アキノは簡単に言っていたけれど、おそらく音を上げたサトリが泣きついてこないように警戒していたのだと思う。


(もし知っていたら、リタイアを願い出ていたかも)


 晩餐は惨憺たるものだった。

 シュリの愛想は良かったし、タキがさして明るくないのも普段通り。

 もはや招待主の役割を投げ出して沈み込んでいるサトリに代わり、イズミが場を取り仕切ってくれていた。

 誰がどこから見てもサトリの様子はおかしかったはずだが、無理に話を振らず、けれど疎外感を与えない空気の作り方がイズミは上手過ぎだった。

 そして食後。

 理由をつけてサトリが部屋に引き揚げようとすると、イズミは「積もる話でも」と言いながら後を追ってきた。


「先生たちとお茶とか、ゲームとか。色々揃ってますよ。冬の夜は長いから」


 逃れられるものなら逃れたかったが、イズミは「私は君に会いに来たんだ」と譲らない。

 結局、小さなランプを掲げて、暗く冷え切った廊下を並んで歩く。 


「今回のお誘いはお茶でもいかがですか、だったよね。アキノにお茶をいれてもらえるの?」

「はい。部屋でも、暖炉でお湯を沸かすことはできるので……」


 言いながら、先程から素が出ていたかもしれないと気付いて咳払いでごまかして口調を改めた。


「美味しくないかもしれないけど。イズミ、まずいお茶を飲んだ経験は」

「たくさんあるよ。私はそんなに器用じゃない。三歳の子だって私よりは上手にお茶をいれられると思っている」

「まさか」


 こんな完全無欠超人にそんな弱点があるなんて、アキノから聞いていない。

 サトリの手からさりげなくランプを奪いつつ、イズミはすねた調子で言った。


「本当だ。寮では自分でいれるけど、飲ませてって言ってきた知り合いにはたいていひどいことを言われるし、二度と飲みに来ない。イズミの味覚は少し変わってる? って聞かれることもあるけど『格別ひとと違うとは思っていないし、これがまずいことくらいはわかる』と言えば結構同情されるね」

「お茶が苦手?」

「せっかちなんだ。茶葉を蒸らす時間なんか計っていられないし、お湯が沸いているかどうかもあまり気にしない。ああ、だけど誰かが私のためにお茶をいれてくれるならいくらだって待てる。信じて」


 真に迫った調子で言い添えられて、サトリは小さく噴き出した。

 これほど気遣い魔人なのに、自分自身の扱いは思った以上に雑らしい。

 嘘を言っているわけではなさそうなところが、好感を持てた。

 笑いながら進んでいるうちに、サトリの部屋にたどり着いた。

 イズミが手元を照らしてくれているのでノブに手をかけ、そっと押し開く。部屋の中にはいくつか灯りが燈されており、暖炉で火が赤々と燃え盛っていた。

 ほっと息を吐き出してから、サトリはイズミを振り返る。


「どうぞ。お茶をいれるから、少し待ってね」


          *


 二人分のお茶をいれて銀盆にのせて運ぶと、ジャケットを脱いだイズミが暖炉にほど近いソファで寛いで待っていた。


(この部屋の主みたい)


 座っていても、足が長く均整の取れた体つきがわかる。ほどよく厚みのある肩幅や、ほっそりしているのに頼りなさが微塵もない上半身を見るに、かなり鍛えていそうだ。


 わからないのは、そんなイズミを苦もなく凌駕しているタキの技量だ。

 自分でもびっくりするくらい無礼な言葉を投げつけた覚えはあるが、まさかイズミにタキが勝つなんて信じられなかったのだ。あんなに強いなんて、という気持ちはまだしつこく心の底にこびりついている。


 サトリが低いテーブルにお盆を置くと、イズミが手に持っていた小さな包みをお盆の上に置いた。


「それは?」

「マドレーヌだよ。先生が作るものには及ばないかもしれないけれど、私のお気に入りのお店のものだ。バターが多くて、柑橘類が香りづけ程度に少しだけ入っている。一緒に食べよう」

「どこから出したんですか?」


 魔法みたいだと思って聞くと、イズミが部屋の奥の方へと視線を投げた。ベッドに添えられたフッドベンチにいくつかの箱が積み重なっている。


「君が湯浴みしている間に運び込ませてもらった。勝手に部屋に入ったけど、シュリ先生に手伝ってもらったし、他には何も触ってない」

「それは構わないんですけど、あんなにたくさん。中身はなんですか?」


 乏しい明かりに目を凝らして箱を見ていると、イズミがくすりと笑い声をたてた。


「可愛い服やアクセサリーを見ると、アキノが好きかなと思って。王宮に問い合わせてアキノが着られるサイズを買ってきたつもりなんだけど。その姿ならもう必要ないかもしれないけど、気が向いたら使ってみて」

「ありがとうございます」

「どういたしまして。さっきから敬語になってるけどどうしたの? アキノ」


 イズミが選んだものを、アキノが着たらきっと可愛いんだろうなあと思っていたサトリは、イズミからの思わぬ問いかけにはっと息を呑んだ。


「最近この館にいる人とばかり話しているから。タキ先生に親し気に話すくらいなら、敬語がいいかと思って」


 苦しい言い訳をすると、イズミが腰をわずかに浮かせて座り直し、サトリの場所を空けた。どの程度の距離が適切かわからないまま、サトリは反対の端に腰かける。


「タキ先生、ね。何かあった? アキノ、先生のこと避けていたでしょ」


 かなり顔や態度に出ていた自覚はあるので仕方ない。


「先生のことがわからなくて。なんであんなになんでも出来るのに、自分は出来損ないみたいなことばかり言うんだろう」


 イズミは繊細な青い花模様の描かれた陶器のカップに唇を寄せて「すごく香りがいいね」と言いながらお茶を一口飲んで、カップを置いた。


「気になるの?」

「今は僕のせいでこんな隠遁生活を送っているわけだけど、恋人もできないでしょう、この暮らしじゃ」

「どんな生活をしていても、先生は恋人を作る気はないと思うけど」

「どうしてなんだろう」


 アキノは薄く柔らかそうな紙に包まれたマドレーヌを指でつまみあげると、自分の口ではなくサトリの口に押し込んできた。

 驚きつつ一口噛み、飲み込む。濃厚なバターの風味に爽やかなオレンジの味が溶け込んでいて、くどくない甘さがふんわりと口いっぱいに広がった。


「美味しい?」

「美味しい」


 イズミはまるで自分が誉められたかのように幸せそうに微笑んだ。


「アキノは先生にどうなって欲しいの? 恋人と愛を育んで結ばれて、子どもの顔を見せて欲しいと思っているの?」

「そこまでの興味はないし、好きにすればいいと思うんですけど。なんか気になって」

 横顔に、イズミからの視線を感じる。

(また敬語っぽい話し方をしたせいかな。だめだな)

 後悔を胸に、マドレーヌを食べ続けていると、だしぬけにイズミがぼそりと言った。


「好きなんじゃないの?」


 飲み下そうとしたマドレーヌの最後の一かけらが、喉の変なところに引っ掛かった。

 げほ、ごほ、とサトリが涙目になるほど滅茶苦茶に咳込んでいると、ソファの上で距離を詰めて来たイズミが大きな掌で背中をさすってくる。


「大丈夫?」

「はい。マドレーヌ、すごく美味しかったんですけど、うっかり一部肺に向かったみたいで」

「食いしん坊な肺だね」


 自分でも何を言っているのかわからなかったけど、イズミには通じたらしい。良かった。

 イズミはそのまま、ゆるゆるとサトリの背中をさすってくれていた。

 呼吸が落ち着いてからも手を休めないので、サトリが「もう大丈夫ですよ」と言うと、軽く目をみはって「何が?」と返された。口元が笑っている。


「背中。落ち着いたから。ありがとう」

「遠慮しないでいいのに。細い背中でびっくりした。本当に鍛えているの?」


 イズミはおどけた調子でそう言うと、背中に回していた手で素早くサトリの肩を抱き寄せた。

 

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