DOG×RUN
走り込みながら低い体勢からの横薙ぎの一閃。わたしはそれを後ろに跳んでかわした。金属すらも易々と切り裂くライトブレードの直撃はなんとしても避けなければいけない。
厄介な武器だ。
すぐさま右手で構えた散弾銃を青葉に向けて放つ。しかし、気づいた時にはそこに青葉はいなかった。
「もらった!」
「はやいっ!?」
声がしたのは背後から。と、同時に青い光が二度煌めく。
ガシャンガシャンと何かが落ちる音。青葉が、わたしが背中につけていた武装を斬り落としたのだ。その気になれば急所を狙うこともできたはずなのに……。
――勝てない
このわたしが。トップ天使のわたしが勝てない? 癒姫以外にもこんなに強い奴がいたなんて……
振り向いたわたしの目の前に、青いライトブレードが突きつけられる。
「まだやる?」
「……ごめん愛留」
わたしは手に持っていた散弾銃を地面に捨てると、両手を上げて降参の意を示した。
「別に大丈夫ですよ?」
しかし愛留は全く焦った様子はなく……
「ポポ、お願い!」
背後に隠れていたポポの背中を軽く叩くと、わたしが預けていたリードを離した。
――ワンッワンッ!
と青葉に向かって吠えたてるポポ。
「っ!? い、犬はやめてぇぇぇっ!?」
それを見た青葉は唐突に慌てだした。端正な顔が恐怖で引き攣っている。……もしかしてワンちゃん嫌いなのかな? これは面白い。
――ワンッワンッ!
なおもしつこく吠えるポポ。
「チッ! 今日のところはこれで勘弁してやるわ! 覚えてなさいよ!」
青葉はくるっと踵を返すと、全速力で逃げ出し始めた。その後を遊んでくれると勘違いしているのか、嬉々としてポポが追いかける。
「やめてぇぇぇっ! こないでぇぇぇっ!」
住宅街にしばらく女の悲鳴と犬の元気な鳴き声がこだましていた。
「……なにあれ」
わたしは呆然としながら呟いた。愛留はふっふっふと意味ありげに笑いながら説明を始める。
「あたしがなんで今まで捕まらなかったか、だいたい分かりました? ポポのおかげなんですよ?」
「いやー、まさかあんなに強い天使が、可愛いワンちゃんに怯えて逃げるなんて、わたしも思わなかったよ……」
「おかげで登下校の時はポポと一緒にいたいんですよね。だからうかがみちゃんがいなかった時は、授業中はそこら辺に放しておいたりして、帰る時に拾って帰るとかしてました」
なるほど、だからわたしと出会った時に、下校中にも関わらずポポを連れていたわけね。
「うーん、じゃあうかがみちゃんがいる意味って……」
護衛役としてはわたしよりもポポのほうが断然役に立っていると思う。
「あたしを追っているのは青葉だけじゃありませんからね。雑魚天使相手はうかがみちゃんにお願いしますね」
トップ天使のわたしが雑魚天使相手……? それはちょっと……というかだいぶ屈辱的だね。
それよりも今は愛留に問い詰めなきゃいけないことがある。
「ていうかさ、青葉が犬苦手ってことが分かってるならもっと早くポポをけしかけてよ」
「あー、だって目の前で天使の戦いが見られるんですよ? 見たくなりません?」
そうだ、こいつは天使オタクだった。
「……死ぬかと思った。勝てないって思った。……わたしじゃあ愛留を守れないんだって」
活躍してきたわたしにとって、自分の力が通用しないということはあまり経験したことの無い出来事であり、癒姫との戦い、青葉との戦いで自分に自信が持てなくなりつつあった。結局わたしは劣等生。機装の性能でしか勝てない。誰かの上には立てない。誰も守れない。そんなコンプレックスの塊、伺見 笑鈴に戻りつつあった。
「……はぁ」
項垂れながらため息をついたわたし。そんなわたしの背後から、温かい感触が包み込んだ。
「あたしは、うかがみちゃんのこと可愛くて強くて、誰にも負けない天使だと思ってますよ」
わたしのぴっちりしたボディスーツ越しに、愛留の体温と吐息を感じる。……これ、本当に小学校のやることなの!?
「頼りにしてますよ。あたしのお姉ちゃん♪」
「……はい」
そう答えるのがやっとだった。なんだかよく分からないけど、心臓がすごくドキドキしている。なにこの感覚……相手は小学生で女の子なのに……どうなってるのわたしの体。
「せっかくこんないいものを持ってるんですから、ね?」
「はぅっ!?」
背後から愛留の手が伸びてきて、ボディスーツ越しにわたしの胸をムギュっと掴んだ。思わず変な声が出てしまう。路上でなにしてんの愛留ちゃん!
「ふふふっ、お姉ちゃんの心臓がドキドキしてるのを感じます。喜んでくれて嬉しいです♪」
「ちょ、だめ! それ以上は有料コンテンツ……じゃなくて、18歳未満は禁止!」
わたしが慌てて愛留を振り払おうとすると、彼女は「えーっ、けちぃ」などと笑顔で言いながらも、素直にわたしの双丘から手を離してくれた。ふぅ、油断も隙もない。
と、そこへポポがリードを引きずりながら全力疾走で戻ってきた。どうやら青葉を追い払って帰ってきたようだ。一番のお手柄だ。
「ポポ、いい子いい子♪ さあ、お家に帰りましょうか」
愛留はポポを愛おしげに撫でると、リードを手に取って歩き始めた。わたしはそんな愛留の後ろを少し離れてついて行くしかなかった。
*
倉橋家には暗黙の上下関係が存在している。誰から言い出したわけでもないが、なんかそんな感じの雰囲気があって、例えば夕飯のメニューの決定権とか、風呂の順番とかがそれで決まってくる。
現状、家主のはずの慎二郎ではなく、愛留が倉橋家の上下関係トップに君臨している。訳が分からないが、愛留の意見や希望は基本的に通ってしまう。続けて家主の慎二郎。さらに飼い犬のポポ。居候のわたしは最下位だ。まあ別に虐げられているわけではないので不満はない。
家に帰ったわたし達は、とりあえず風呂に入って汗を流すことにしたのだが、風呂に関しては慎二郎が気を遣って、女の子のわたしに順番を譲ってくれる。よって、愛留、わたし、慎二郎の順で入ることができる。
風呂に家族で順番に入るなんて経験したことないわたしにとって、それはとても新鮮な体験だったし、毎日が新発見の連続だった。
「お待たせしました。入っていいですよ」
愛留がバスタオルで自分の髪の毛をわしゃわしゃしながら風呂から上がってリビングにやってきた。ピンク色のうさぎさん柄のパジャマを着ている。可愛い。こういうところは年相応だなって思う。
おまけに火照った首筋、雫が伝ううなじが――
「視線が不審者ですよ? 早く入ってください。お風呂でえっちなことしたらお父さんに言いつけますから」
「す、し、しないよっ!」
まさか……まさかね? 相変わらず愛留はマセガキだ。
わたしは着替えと手ぬぐい、バスタオルを持って風呂場に急いだ。
倉橋家の風呂場はごく一般的な一軒家の風呂場だ。狭い脱衣場があって、体洗うところがあって、湯船がある。が、湯船は足を伸ばせば結構窮屈だし、前のわたしの部屋みたいにジャグジーとか露天風呂はない。それが当たり前なんだよね。
脱衣場で服を脱いで手ぬぐいを持って風呂場に入る。わたしはまず髪から洗う派なので、シャワーのお湯を頭からかぶっていると、今まで見かけた事のないものが、シャンプーやらボディソープに混じって置いてあった。
小さなピンク色のプラスチック容器。不思議に思って手に取ってみると、側面に油性マジックで「愛留専用」と書いてある。愛留が片付け忘れたのだろうか。彼女にしては珍しい。
少し興味がある。いけないとはわかっているけど、わたしはその容器の中身を少し左手のひらに出してみた。
黒いクリームのようなものだ。シャンプーだろうか。愛留の匂いがするのかな。
クリームを顔に近づけて匂いを嗅いでみる。独特のすぅーっと鼻に通る匂い。間違いない、愛留の匂いだ。途端に、今日の出来事が脳裏にチラつく。背中に感じる愛留の温もり、優しい吐息、そしてわたしの胸を――
「……愛留」
いけないとはわかっていても……ごめんなさい。なんでわたし……愛留は4歳も歳下の小学生なのに、女の子なのに、なんでこんなに気持ちの整理がつかないの?
「はぁ……はぁ……」
気づいたらわたしは愛留のことを考えながら、自分の胸にクリームを塗りたくっていた。愛留の匂いに包まれて、幸せな気分に……とんだ変態だ。わかってはいるんだけど。……なぜ、わたしは今までこんな気持ちになったことはなかった。親友の彩葉と過ごしていた時だって。
わたしは愛留が好きなんだ。支配されていることが落ち着くんだと、初めてはっきりと気づいた。
「愛留……こんな変態お姉ちゃんでごめんね……」
すっかり真っ黒になってしまった両手を眺めながらわたしは後悔の念でいっぱいになった。……なにやってんだろわたし。
ん? 待てよ……? これって、この色ってもしかして?
「あぁぁぁっ!」
一気に頭が冴えてきたわたしは思わず叫び声を上げてしまった。そんな可能性を考慮していなかった自分がいかにバカだったか思い知らされる。もしわたしの仮説が正しいのだとしたら……。
「あの子はとんでもない子ってことに……」
わたしはいてもたってもいられなくなって、大急ぎで体を洗うと、湯船につかることなく風呂場を飛び出した。