ローラースケート場
「ねえ、今日はクラブ休みなんでしょ」
「ああ」
ヒソヒソ声で喋り合うのにも慣れていた。
義父が帰ってきてからコマチは押入れでほとんどの時間を過ごしている。いつでも隠れられるようにしていなくてはいけないからだ。まるで未来から来た狸型ロボットの漫画みたいだ。
狭いのはへっちゃらだそうだが、一日中部屋にこもっていては気が狂いそうになるだろう。大きな声だって出せないのだ。
「だったらどこかに出掛けようよ。デートしよ」
「デート? コマチと?」
少し声が大きくなってしまったかもしれない。慌てて口を押さえる。
「うん。鷹人の思い出の場所に行きたいな」
……小さい頃からそんなに楽しい場所に行った覚えはない。旅行だって小学校の修学旅行くらいしか行ったことがない。
それに、コマチの銀色全身タイツ姿で列車にのるのは厳しい。遠出なんて絶対にできない――。
「楽しいところなんかじゃなくてもいいの。鷹人の思い出がいっぱい詰まったところ」
「思い出がいっぱい……?」
この近くで思い出の場所といえば、市営のローラースケート場かなあ。小さい頃よく母に連れて行ってもらった。今はもう営業していないから誰もいないのだろうが、もう一度だけ行ってみたいと思っていた。
「ここから少し小高いところにあるローラースケート場かなあ。母がいつも連れて行ってくれた。今はやってないから楽しくはないけれど……」
思い出はいっぱい詰まっている。
「じゃあ、そこに行きたい」
「楽しくないぞ」
「いいのいいの」
軽い感じで答えるコマチに少しがっかりする。……よほど暇なのだろう。それか、二〇八八〇円も貰っているから、その分、毎日なにかしらの仕事をして報告しなくてはいけないのかもしれない。
久しぶりに通学路以上の距離を歩いた。小学生の頃の遠足を思い出す。ペットボトルと買ってあった菓子パンをショルダーバックに入れてきた。
国道以外の道は農道で、田植えのシーズンにはまだ少し早い今は、まったく車も人も通らない。
湖を背にして田畑以外になにもない一本道をコマチと二人でブラブラ歩く。これが本当にデートなのだろうか。
「男子と女子が二人っきりなんだから、これはデートなのよ」
「……コマチとデートって、思った以上にドキドキしないなあ」
「あ、それは失礼だわ」
ペシッと背中を叩かれる。
「痛いなあ、本当のことを言っただけなのに……」
「わたしだって、鷹人よりも素敵な人と初デートしたかったわよ」
「初デート?」
「あ、今のは冗談。嘘よ嘘。そう言ったほうが男子って喜ぶでしょ」
「お前なあ……」
ガックリくる。嘘か本当か分からないが、だったら「初デート」でいいじゃないか。
一時間くらい歩くと、目的地のローラースケート場に着いたのだが、僕が想像していたよりずっと酷い状態だった。
錆びた手摺には蔦が巻き付いている。綺麗だった芝生は伸び放題の雑草だらけ。一周百メートルもない小さな8の字のスケート場には、小さなヒビがところどころにできて雑草が亀裂から芽を出している。
「小さい頃の楽しい思い出が、色褪せた写真のように思い出の一ページになってしまった……な」
ひどい状態になっているのが悲しかった。
来るんじゃなかった。ここは父と母が一緒に手を繋いで楽しんだ思い出の場所だったと……幼い僕にいつも言い聞かせてくれていた……。
「でもね、わたしと鷹人が二人でここに来るのは初めてでしょ」
「え」
「だったら、思い出の一ページが二ページ目に繋がるじゃない。だから、楽しい思い出を作ればいいじゃない」
コマチがそっと手を差し出してくる。
銀色全身タイツのコマチの手。握ってもドキドキしないと思っていたが、そっと指先が触れ合うと温かさが伝わってきて……目頭が熱くなった。
コマチのくせに……ドキドキした。
「よーし、じゃあローラースケートやってみるか!」
コマチの手を握ってそう自分に言い聞かせる。くよくよしていたって仕方がない。楽しくない!
「ええ? この草が生えたところでローラースケートなんてできるの」
「その気になればどこだってできるさ」
誰もいない事務所の隣にある倉庫に鍵は掛かっていない。一日五百円と書かれた貸し出しローラースケートが、二重線で消されて無料と書かれていた。
埃をかぶって錆びだらけのローラースケートに手を伸ばす。靴の下に履くタイプと、靴と一体になっている2つのタイプがあり、できるだけ綺麗なのを選んでコマチにも渡した。
「わたし、ローラースケートって滑ったことないんだけど……」
「ああ、大丈夫。アイススケートよりも簡単だから」
「わたし、アイススケートも滑ったことないんだけど……」
「大丈夫。誰だって最初は初めてなんだから」
誰もいないローラースケート場は、僕とコマチだけの貸し切り状態だ。
ガ―ガ―! ローラーからの振動が足の底から伝わってくる。数年ぶりにコースを周ったが、小さい頃にやっていたことは体がよく覚えている。
いっぽうコマチは、生まれたての小鹿のように立っている。手摺をしっかり握って。
「鷹人だけ楽しそうでずるい! ちょっとは滑り方を教えてよ」
「ああ、ごめんごめん」
急いでコマチの方へと向きを変えた。
「じゃあゆっくりと時計周りですべろうか」
「ままっままっまま、待って! 手を貸してよ」
自然に僕の手が出て、当然のようにそれを掴むコマチ。父と母がローラースケートを楽しんだのも、ひょっとするとこんな感じだったのかもしれない。
ゆっくり歩くぐらいのスピードでコースを周った。
短いコース。周りは雑草ばかりで決して眺めもよくない。いいのは天気とコマチの笑顔と風を切る爽快感……。
ひょっとすると……コマチとなら、どこに行っても楽しいのではないだろうか。
気を遣う必要もなく、思ったことを言い合える。
手を繋いで数周すると、コマチは一人でもなんとか滑れるようになった。飲み込みは……決して早い方ではない。コツコツ真面目に努力して、やっと人と同じくらい滑れるタイプなのだろう。僕より運動神経は鈍そうだ。
「初めてなんだから仕方ないでしょ。わたしは鈍くなんかないもん」
「一日目でそれだけ上達すれば上出来だよ」
もう日が西に傾いて夕焼け空になっている。今日はいい天気だったから夕焼けもきっと綺麗なはずだと思っていた時、
――ガガッ!
「きゃあ!」
ローラースケートから妙な音がしたかと思うと、コマチが短い悲鳴を上げてその場に尻もちをついてしまった――。
「いってて~」
「大丈夫……か」
慌てて駆け寄った僕は、咄嗟にコマチに背を向けた。なぜならば……尻餅をついたところが、ちょびっとだけ濡れていたからだ――。
……ひょっとして、尻餅を付いた時にちょっと漏れたのだろうか……。ここは、見て見ぬふりをするべきなのだろうか……。
「ちょっと、違うわよ! これは、ちょっと破れたのよ!」
――ちょっと破れたってなんだよ~! なにがちょっと破れたら地面が濡れるんだ――? 頭の中が「?」マークで埋め尽くされていく。なぜか僕の顔が夕焼けよりも赤くなる――。
「あいたたた、それより手を貸してよ。このコロコロ付けてると上手く立てないじゃない!」
「あ、ああ。ごめん」
近づいて手をとって引っ張り起こすと、コマチはまたバランスを崩し、僕に体を預けてくる。
「キャア!」
「ほら、しっかり掴まってバランスをとって!」
いつの間にかコマチの体をギュッと抱いていることに気が付いた。放したら、また尻餅をついてしまう。
「……ちょっと、鷹人。誰かに見られたら恥ずかしいじゃない……」
小さい声にハッとした。
「――あ、ご、ごめん」
直ぐに手を放して離れようとすると、
「いやだ、鷹人の意地悪。支えてよ!」
「どっちだよ」
手を出すとギュッと握りしめて、わざと体重を掛けてくる。
「重い重い重い――!」
バランスを崩してこけてしまいそうになる――。
「ああ、女子に重いだなんて言ったらいけないんだからね」
「重い」
「……」
アハハっと笑っていると、コマチもクスクス笑いだす。
帰りに教えてくれたのだが、コマチの銀色の全身タイツのお尻のところが少しだけ破れてしまい、中に溜まっていた水が出たらしい……お風呂のお湯か?
そういうことにしておこう……。
白い錠剤を飲んだら銀色全身タイツの穴も塞がるらしい。
そういうことにしておこう……。
ちなみに、破れたところを見せてとは口が裂けても言えなかった。