彼氏が来た
でも、とりあえずは檜菜穂をデートに誘わないと始まらない――。
ゴールデンウィーク初日、午前中のクラブが終わったあと、吹奏楽部が練習を続ける音楽室へと足を運んだ。
校舎の3階の一番端にある音楽室の重々しい扉。僕の心臓は告白した時と同じようにドキドキしていた。
うちの吹奏楽部は全国大会に毎年出場している強豪校だ。中学に入学して吹奏楽部に入らない女子は、「なんで」と周りから噂される。女子バレー部も女子柔道部も存在せず、百人以上の部員で男子はわずか数パーセント。大きな楽器は必然的に男子が受け持つことになり、ハーレムのようで羨ましいとは思えない現実がそこにはある。
様々な管楽器の音が途切れると、話し声やガタガタと物音が聞こえてきた。午前の練習が終わったのだろう。昼休憩の僅かな時間を狙い、音楽室の扉を少し開けて中を覗くと――いた!
扉から奥、窓際に檜菜穂がフルートを持って立っていた。
中に堂々と入っていけるわけもなく、遠くから気付いてくれないか必死に覗いていると、偶然にも檜は僕の存在に気付いてくれた。
「あ」
「よ、よお」
照れながら言う僕の声はそよ風にもかき消されるほどの小さな声だ……。小さく手を振ってみる。
するとゆっくりこちらへ向かい歩いてきてくれる。
「あれ? 菜穂、どこいくのよ?」
「うん、ちょっと彼氏のとこ」
耳を疑った――。
彼氏? 彼氏? 彼氏? 彼氏?
それがミー? 僕の事?
まさかなと思ったのだが、真っ直ぐに僕の目の前まで歩いてくる檜。直視できないような美しさ。磨かれた銀色のフルートよりも綺麗な指。
まったくブレない。お金のためには真っ直ぐな性格だ――。千円のためだとしても、その割り切りの凄さに感服してしまう――。他の男子や女子からヒソヒソと冷やかされても動じる素振りすらない。檜は見事なくらいに彼女役を引き受けてくれている。
「あ、あのさあ、ゴールデンウィーク中に、遊園地に行かないか? 僕と……」
二人だけでと声が出せない――。
「ゴールデンウィーク中は、ちょっと厳しいな。部活も休めないし」
「そっか……」
やっぱりそんな契約じゃないんだ。
断られたと思ったのだが、
「その次の土曜日だったらいいわよ。練習だって自主練習の予定だから、休むわ」
「――え」
目を輝かせて見つめてくる。
「鷹人君と遊園地に行けるんだもん。嬉しいわ」
「ぼ、僕もさ」
たとえ全額自腹でも嬉しい。プラス千円でも凄く記念になる。
「で、どこどこ? 東京ディズニーランド? 大阪USJ?」
――え、東京? 大阪?
どちらも移動距離だけでお小遣いがなくなる。入園料が高額過ぎて払えないかもしれない。いったい幾らかかるのかすら知らない……。
「あの……ごめん。僕、お小遣い少ないから、近場の遊園地でもいいかなあ」
より一層小さな声になってしまう。
「てへ、本気にした? 冗談よ。カンコドリ遊園地ね」
「うん。カンコドリ遊園地」
まさに閑古鳥が鳴く近くの遊園地で、乗り物すべてを二回以上乗っても時間が余るほどのこぢんまりとした遊園地だ。このあたりの中学生では、デートの登龍門になっている。小さなタワーと大きな観覧車だけがうりで、湖際なら遠くからでもよく見える。
「いいわ。鷹人君と二人っきりで行けるなんて、ワクワクしちゃう」
「あ、ああ……僕も」
ああー、こんな彼女が欲しいなあ……。知らぬ間に僕の視線は檜の唇へと移っていた。――慌てて視線を逸らす。
「じゃあね。昼からも練習あるから」
「ああ。頑張って」
スカートを翻して奥の方へ去って行く檜。僕も出来るだけ格好よく颯爽と回れ右をして廊下を歩いた。
もしかして、本当に千円払い続ければ僕の結婚相手にだってなってくれそうだ。
よからぬことを考えてしまう。一日千円。ひと月……三万円か……。ひょっとして、大人になれば払えない金額じゃないのかもしれない。真面目に進学して真面目に就職したら……。大卒の初任給って、いったい幾らくらい貰えるのだろう。
――いや、もし一日あたり二千八百円払うって男が出てきたらどうなる。檜は尻尾を振ってそっちに行ってしまうのだろう。それか、まさかの二股とか……。ひょっとして、もう既に僕と同じような「彼女のフリ契約」を交わしている男子がいるのかもしれない……。
ウジャウジャいるのかもしれない――。いーやーだ~!
なんか悲しい。さっきまでの檜が、僕の檜菜穂が、みんなの檜菜穂なのかもしれない。小さい頃に想い続けていた、「歌のお姉さん」のように……。
……まあともかく、そうなっていても仕方がないか。現状を受け入れることも時には必要だ。僕だけではどうにもできない問題。今は割り切って、どうやってキスしたフリを見せるかを考えなくては……。
キスか……。