第5章 哲学の道―いつか、またここへ
疎水と疎水沿いの石畳の道の間には、転落防止のための柵などはない。3、40センチ四方の石畳は2列におおざっぱに並べられており、隙間も多く、高さもまちまちであった。万一足を引っ掛け、体勢を崩そうものなら疎水に落ちかねない。
しかも、この哲学の道沿いは民家が建ち並ぶが、電灯らしい電灯はごくまばらにしかない。日が暮れれば、鬱蒼と生い茂る木や黒々とした植え込みのためにかなり暗いのに驚いた。私は、僅かな電灯と民家の明かりを頼りに注意深く歩いた。
私の左に疎水は流れている、はずであった。暗闇のために、そしてせせらぎすらも聞こえないために、そこに疎水が流れているのかどうかも分からない。
民家や電灯の明かりを水面が微かに反射すると、一瞬煌めきが目に入る。私はその控えめな光を蛍の光かと見紛うた。蛍は梅雨時に見られるに過ぎず9月のこの時期に見られるはずもないのだが、川面が小さく輝きを放つその刹那に、私はほんの少し神秘を感じたのであった。
視界に注意し、川面に目を凝らしていた私は、この辺りが非常に静かであるのにしばらく気が付かなかった。ここは、先ほど私が渡った交差点の横断歩道からそれほど離れているわけではない。車が頻繁に行き交うあの道から、やや奥まった所に位置する哲学の道には、車の走る音など聞こえない。耳に入ってくるのは、私が石畳の上を歩いたときに聞こえるコツコツという音、疎水のさらに左に広がる山の中に潜む野鳥や昆虫、蛙の鳴き声だけである。
そして不思議なことに、山の奥から聞こえる野鳥や昆虫の鳴き声は、辺りの静寂を一層深めるのであった。何の音もしない空間よりも更に静かなこの小道―静寂とは、全ての音を取り去った後に残る空白ではない。静寂とは、音そのものであった。野鳥や昆虫が生み出す透明な何物かが空間に満ち満ちている。私は、この透明な何物かを体全体で聴くのであった。そして静寂の存在に気付いた私にとって、暗闇は次第に暗闇ではなくなった。暗闇とは空間に光が欠けている状態をいうのではない。暗闇とは光であった。私は、遥か遠くにかすかに煌めく星々を認めながら宇宙を歩くように、暗闇で溢れる空間を自身の目と耳と体で掻き分け、次なる暗闇へと歩んで行くのだった。
疎水には、ところどころ小さな橋が渡されている。橋の向こうには民家や寺などかあった。ここに人間が住んでいるのかと疑いたくなるほどの静けさである。真っ暗なこの辺りでは、民家が自然に溶け込んでしまっていた。京都市内にこのような秘境があったのかと驚きを隠せなかった私は、夜の哲学の道を選択したことに我ながら運とセンスの良さとを認めざるを得なかった。
左から順に民家、疎水、小道、民家という同じような配列の景色がしばらく続いたのち、疎水が少しカーブを描いて曲がる地点に至った。この辺りからは従前の景色が変化した。風景の趣が転換したのに驚いた私は、思わず後ろを振り返り、歩いてきたはずの道を確かめた。私は間違いなくこの1本の散歩道を歩いてきたのだった。
ここから民家や寺は途切れていた。暗闇は消え去り、頭上には空が広がった。空には小さな雲がポツリポツリと僅かに浮いているだけであった。そして、右手にやや見下ろせる角度で市内の街並みが広がった。私は少し立ち止まってこの静かな夜景を眺めることにした。まるで、夜景を緻密に描いた絵画を鑑賞しているかのようであった。
景色を見ると、たしかに鴨川近くの出町柳駅から哲学の道までは緩やかな登り坂であったが、思いのほか高いところを歩いていたことが分かった。街並みに目を遣ると白や黄や赤や青の光を灯した建物で溢れていた―それでも夜の京都は意外にも光り輝いて色鮮やかな都市であった。昼間とは異なる現代の京都の光を、静寂の溢れる哲学の道という、現代から取り残されることを選んだ歴史的空間から眺望した私は、ずっと昔に、まだ私が生まれる前にここを訪れたことがあるように思われた。この捉えがたい不思議な感覚は一体何であろうか。あまりの夜景に陶酔しているのだろうか。
とまれ、色々な地を訪れ様々な想念を巡らせた京都は、私にとってすでに思い出の地となっていた。私が京都という環境から得たものはすでに私の体を構成するに至っていた。私は、はるばる東京から京都までやってきたことに思いを馳せながら、澄んだ空気を体の奥深くまで吸い込んだ。吸った空気が体の隅々まで行き渡り浄化してゆくのを感じつつ、ふうっと静かに吐いた。
哲学の道―この道を歩む人は皆、固有の哲学を持っているに違いない。ここで目を閉じ、疎水の流れや動植物の音に耳を済ませ、彼らは己の哲学を楽しみにくるのであろう。暗闇の道を歩いた私もまた同じ体験をしたのであった。ここはまさに哲学の道であった。そしてまたいつか、ここへ帰って来よう。ここに満ちている何物かを目や耳、体全体で感じ取るために。銅像が風雨に晒されるごとに高貴な輝きを増すことができるように、積み重ねた経験によってほんの少し成長した証を自分の中に見出すために。