第5章 哲学の道―影に支えられる弱き者たち
こうして、私は「哲学の道」を散歩する機会を得たわけであったが、ただ漫然と木々の葉のこすれる音や草むらに潜む虫の音を聞きながら石畳の上をコツコツと歩くというのでは、どこか勿体無い気がしてくるのであった。別世界への入り口を前にして、私は再びはたと立ち止まった。
哲学とは、などという過度に抽象的で高尚な議論は私にはできようもない。
しかし、私のようなしがない学生にも日々の生活において思うところはあるのであって、こうした日常的な「感想」も分析され論理的体系的な再構築を経て、自身の内に確固たる信念を提供するに至れば、これもまた哲学と呼びうるのである。
このような意味で私には哲学があった。
群れや集団で活動する人間―街中に一歩踏み出せば、これらを目にすることは少なくない。多くの人は、彼らを見て不快に思うこともあるにせよ、明るく楽しそうな表情を浮かべていると感じるであろう。少なくとも、賑わう様子を見て彼らが陰鬱たる人間であるとは考えまい。
実際、集団で過ごすことで内に湧き起こる充実感が、彼らの表情や動作となって目に見える形として現れている。そして、集団には正のエネルギーが流れ出し、ますます集団としての利益を志向する。他方、集団に属さない者は相対的に負のエネルギーを帯びるようになり、遂に集団から「疎外」され「こぼれ落ちて」いく。こうした一連のメカニズムは一般に了解されているに違いない。
しかし、これも批判的に観察すれば、実は集団というものに対する肯定的評価が先に存在し、次第に集団としてまとまっていること自体が尊重に値するかのような外観を呈するようになる。他方で集団に属さない個人はいよいよ除け者にされ、遂には、和を乱す者との烙印を捺されていく―この厳然たる事実に気がつくのである。我々の通常の認識とは正反対の連関が、群れと孤独の真の姿なのである。
ここで、かかる現象に対して私は否定的評価を下さざるをえない。集団に属する者が得る充実感とは、光に照らされぼんやりと明るむ煙のように、中身のない幻影に過ぎない。手を伸ばして触れようとしても、掌や指は虚しく空を掻くことしかできない。みすぼらしい身なりの人間が、地面に映る自身の影を見て、豪奢な衣服に身を包んでいる自己の姿を空想しているに等しい。
集団に属することで人が充実感に包まれるのは、集団自体が虚構だからである。集団、充実感、正のエネルギーの生産という連関において着目すべきは、連関の始点たる集団には実のところ何の根拠も存在しないことである。
弱き者は、群れを形成し、集団という幻影を自己の背後に構えることで、見かけ以上に大きく見せなければならない。いわば虚構が彼のアイデンティティである。彼にとっては影が全てである。そんな集団の構成員たる彼の姿はきっと、角張ったみすぼらしい膝を両腕で抱き、周囲の人間の顔色を窺いながらちょこんと地べたに座っている哀れな人間に違いない。彼はあまりに弱く、集団という虚構に頼りない身をすり寄せなければ呼吸さえも危ういのに違いない。彼の実体は彼自身の影によって支えられているに過ぎない。
そうして私は、集団の中でニコニコとして黄色い笑い声を上げながら充実した生活を送っている彼を見て、感じ取るのである。笑顔の彼が、その目や耳や口から垂れ流す「弱さ」の液体をしかと確認するのである。その無味無臭のドロドロとした液体は、名残惜しそうにボトボトと滴り落ち彼の足元に固まってゆく。次第に積み重なり固体化した「弱さ」によって身動きが取れなくなり、遂に行き場を失う。そして呆然と立ち尽くしたまま、忽ち醜い殻に閉じ込められ、脱出不可能の殻に身を包み際限なく埋没していく―群れや集団の中に見るのは、こうした無惨な姿の個人である。独りでは何もできない、痩せさらばえた非力な人間だけである。
こうして、私は自分自身に対して、集団に埋もれない単独での活動を最善の理念として提示してきたのであった。群れの中にあって異彩を放つ、それでいて周囲から批判を受け付けない―否、孤独の権化たる人間を批判するという発想にすら至らせない―空気を滲ませる。私の一挙手一投足が周囲を威圧し、瞼を閉じていても、二つの眼が戦慄く群れを鋭く射る。これが私の理念である。そして、この理念だけが私を突き動かす力を持っている。理念を持たぬ弱気な者に後ろから背中を強く押されれば、その者が孤独の力に耐えきれず、反動で突き飛ばされ忽ち視界から見る影もなく消え去ってしまうであろう。私はこうあらねばならない。もしこの理念を放棄すれば、私は瓦解し存在しなくなるであろう。理念の放棄は社会的自殺に相当するからである。私という存在は、内なる信条と不即不離であった。そして私の外には私を支えるものは何もない―虚無の影に寄りかかることなく、自らの足で地を踏みしめ、自らの筋肉で体躯を支える。この自己完結を生み出す力が、物事を成すのに必須の要素である。この事実を認識していることが私の自信の源泉である。そしてまた同時に、認識を現実化することが私の向かうべき終着点でもある―いついかなる場面においても、私は常に独りでなければならない。決して影に支えられてはならない。