第2章 清水寺へ―ある京大生とのやりとり
五条のホテルに到着した私は、今後の予定を練った。予定とはいえ、当初から予定など立てない予定であったから、その時々の気分で行き先を決めることとした。
東大生には、勉強と同じ要領で、かっちりとスケジュールを組む人間が多い。この点に関しては、私は見習わなければならないであろう。気分で気分を変えていては、今回の旅の目的は達せられまい。
私は、清水へ向かうこととした。すでに3時を回っているため、電車で遠出するのは控えるべきであるし、何よりも五条通りを東へ突き進めば清水であったからである。
市内は碁盤の目状に道が走っており、建物の高さも低く抑えられていて見渡しも良いから道に迷うことなどもあるまい。
京都の街並みは、景観が損なわれないよう、建物の高さ、傾斜、配置、色と何から何まで計算されているのであった。「山紫水明」とは山川の美しさを表すが、これは京都の東山と賀茂川がその由来であるらしい。京都の人々のこだわりのお蔭で、今なお我々は山紫水明を拝めるのであった。コンビニやファーストフード店の看板の色さえも変えてしまう京都人のこだわりは、もはや執念というほかない。私は素直に畏敬の念を抱いた。
そうして私は、ホテルを出て五条通りを歩き出した。間もなく五条大橋に差し掛かると、私はふと、ある探偵物のアニメ映画を思い出した。
京都を舞台にして縦横無尽に駆け回る―数々の名所が紹介されるたのを見て、幼いながら京都への憧れの気持ちを抱いたのであった。今こそ私はあの映画に感謝しなければならない。
ところで、かの映画について、以前京大生の友人と話をしたことがある。議論の争点は、トリックでもなく、犯人の負う罪責の法律構成、でもなかった。それは、一部のキャラクターの発する関西弁についてであった。
彼曰わく、「真犯人は下手クソな関西弁やったなぁ。他にももっと下手クソな人おったけど、早々に退場させられてホッとしたわぁ。確かにイントネーションは難しいし巧拙は仕方ないけど。何とかならんかったんかなぁ」らしい。
私は何故彼が関西弁にこだわるのか聞くと、「関西人にとっては関西弁が標準語や。関東弁話者の方が多いかもしれんけど、方言の話者の多寡なんかしゃべってる当人には無関係やろ。自分の使う言葉に敏感なんは他と一緒やで」と。
そして続けて彼は言った。「認知バイアスって知ってるやろ。自分は客観的に見てると思ってても認知レベルで常にバイアスかかってるからな。自分の見て聞く世界が全てとちゃうで」
彼とのやり取りを想起するうちに、私は五条坂にまでたどり着いていた。ここまでは終始緩やかな登り坂であり、暑さも手伝って想像以上の疲れであった。もっとも、先ほどの彼は、大学の帰りに「ちょっと散歩がてら」世界遺産の清水に参ることもあるそうである。私が大学の帰りにコンビニに立ち寄るのと同じ感覚なのだろうか。
溢れる観光客を掻き分け掻き分け登り詰めた私に待っていたのは、派手な色合いの浴衣を着た自撮り棒集団であった。彼ら彼女らはおそらく外国人であろう。私は愚かにも「得意の英語を披露するチャンスだ」と思ってしまった。
―私が彼らに英語で話しかける。彼らは私の英語力に驚嘆する。そして、私と彼らを取り巻く他の旅行客たちもみな、私が流暢な英語で外国人と交流するのを目の当たりにし、舌を巻くであろう。そう、私は東大生なのだ―
彼らに歩み寄ろうとした私は、旅の目的に思いを馳せ、はたと立ち止まった。私は何のために京都へ来たのか。外国人や旅行客たちに私が教養豊かな人間であると誇示するために来たのか。
否、私が京都へ赴いたのは、まさにこうしたペダンチックな態度を捨て去るためであった。「吾が輩は東大生である、お前は敵ではない」と鼻高々に教養をひけらかす。悪しき東大生からの脱却を試みるために京都へやってきたのである。私は我に返った。私は、もっと自分自身を客観的に、そして批判的に分析しなければならない。私は、漱石の小説の、かの名前のない猫にならねばならぬ。この刹那に私はそう決意したのであった。
こうして私は、思いもよらぬ場面で、思いもよらぬ形で自らの欠点に向き合う結果となった。しかし、自身の欠点に向き合い克服を試みるという誰にとっても不快極まりない試練に否応なしに挑まされた私は、それでもなお欣喜雀躍したのであった。そう、ちょうど嫌いな食べ物を、意を決して呑み込むことができた幼い子どものように。
私は早速自分への褒美として、清水の舞台から市内の眺めを満喫することにした。
舞台上には、その舞台の高さを確かめるため身を乗り出す者、市内を背景に記念撮影する者で溢れていた。
私は欄干に身を凭せかけ、京都市内を見下ろした。小さいものの、白い胴と赤いラインが象徴的な京都タワーはすぐさま目に入った。そのバックにはガラス張りの雲母のような京都駅ビルも聳えていた。
舞台の上の人間は、自分たちが一方的に風景を楽しんでいると感じているであろう。しかし、ちょうどここから京都タワーや駅ビルが見えるように、あの京都タワーの展望台や駅ビルからも、こちら側を眺めている人々がいるはずであった。清水の舞台に立ち景色を楽しむ自分たちが、実は景色の一部に過ぎないということを知るときがいつかはやってくるのだろうか。