取り返せない時間
山田が目が覚めると、目の前には頬杖をした美香子の顔があった。
「おはよ」
と美香子はにっこりと笑っていった。
山田は飲みすぎてボーとした頭でぼんやりと美香子の顔を見ていた。
「ああ、おはよ。」
といって、山田はベットから起き上がった。
顔と髪がべたついていたので、そのままバスルームへ向かった。
シャワーを出して、熱いお湯で交感神経を目覚めさせ、ひげを剃って全身を洗った。
50歳も過ぎると、さすがに加齢臭が出てくる。
背広も独特の匂いがしてくる。
なかなか自分では気が付かないが、人と会うことが多い営業では、他人の匂いに気が付くことがある。
山田もさすがに自分でも気を付けなればと思う年になっていた。
ドイヤーで頭を乾かして、スエットに着替えてバスルームを出た。
食卓には、みそ汁とご飯に鮭がのっていた。
「料理とくいなの」
「わりと自分でやるよ。だってもったいないっしょ。外食は高くつくし」
「でも俺は鮭は買っていないぞ」
「閉店間際で2割引きになっていたから」
と美香子は明るく言った。
山田は生活力のある子だなと思った。
山田は美香子が作った圧ご飯を平らげると
「いつも悪いな、朝ごはんばっかり作ってもらってるな、これ材料費とお礼」
と5千札をだした。
美香子は、だまってそれを受け取りながら
「怒んないの? 勝手に部屋に入って」
と伏し目がちに言った。
「別に、いったろ深夜徘徊でもして、歩道されても心が痛むし、ここに居ればとにかく安心するし」
「じゃあさ、一緒に住む、同棲する」
といたずらぽくいう美香子に、げんこつを落とすと
「ふざけんな、自分娘みたいな子と同棲する奴はいない。帰る家があるやつが同棲してどうする」
「じゃあ、帰る家がなかったら、山田さんは一緒に住んでくれるの」
「ばかか、そん時は自分でアパート借りてすめばいいだろう。うしろ向いてろズボン履くから」
「私、気にしないから」
「俺が気にすんの、年頃の娘の前では、とりあえず俺も人の親だから」
と山田は言った後、娘の梨香の顔が浮かんだ。
美香子が後ろを向いている間に、ズボンとワイシャツを着てネクタイを絞めた。
「やっぱ、ネクタイを絞めて背広着ると、かっこいいね」
山田は美香子の言葉に妙な懐かしさを覚えた。
幼稚園の時の、梨香の自分を描いてくれた絵にネクタイだけが妙に誇張されていたこと思い出していた。
「そろそろ、会社いくけど、お前はどうする」
「バイク便の仕事があるから、もう少ししてから部屋で出もいい」
「かまわないけど、今度来るときには電話かメールしろよ」
といって、プライベートにしか配らない、個人携帯の電話番号、プライベートアドレスが記載されたカードを渡した。
「それと、あんまり頻繁にはくるなよ、一応会社の借り上げだから、家族以外がくると面倒になる」
と山田は、美香子にくぎを刺した。
「わかった、今度から電話かメールする」
といって、カードをスマホでスキャンしていた。
山田は部屋を出て、駅までの道のりを歩きだした。
振り返ると玄関前に、美香子がまだ見送っていた。
山田は、すこし照れくさくなって、速足で駅まで歩いた。
会社に着くと、すぐに重役室に呼ばれて、例の投資の件での資料の提示を求められたので、為替損失のシュミレーションを説明し、田代からの新たな調査結果を提示しながら、早期撤退を進言した。
重役たちも、事の次第を理解し始め、責任問題へと目を向け始めているようだった。
山田にとっては、関係がないことで、説明を終えて部屋を出た。
いつものことだ、だれも責任を取らない。
責任を薄めるために、稟議をして階層の印鑑を押して自分の責任を回避しているだけだ。
会議室からアイデアを生まれない。
それでも会議をするのは、会議を重ねた分だけ、印鑑を押した人の数だけ責任が薄まるからだ。
だから、今回も誰も責任を取らない。
会社の損失だけが計上される。
計上の仕方で、損失にも資産にもなる。
また、経営の中心にいない人間には、会社のそんな事象は関係ないことで、毎月決まった日に自分の勤務年齢にあった給与を受け取れさえすればいいとしか考えていていない。
山田の会社は、債務超過ではないが、キャシュフローはあまりよくなかった。
手形が長期のため資金繰りにはやや難があり、いつも海外の為替差益には敏感だった。
国内での現金取引のおかけで、小切手、手形を飛ばすことはないが、ここ数年は売り上げが前年割れを続けていた。だから、今回の投資は、一発逆転を期していたのだ。
まっそれも駄目になった以上、何らかの対策を講じなければ銀行融資が厳しいことは分かっていた。
今回の損益を一括計上すれば、かなりやばい。
有休資産の売却と人員整理しかないと思われた。
最近の人員整理は、給与の高い人材から切っていくのがセオリーだ。
そうすれば、会社の若返りと人材の育成につながるからだ。
山田達、高額給与取得者を数人切れば、おつりがくるというわけだ。
経験と知識はノウハウとして、蓄積されているので会社としては困ることはない。
今、自分だけは会社から切られることはないと考えるのは、幻想だ。
過去の栄光の利息で食えるほど社会は甘くない。
グローバル化とは、どこで活動しても同じ結果を得られるということだ。
人は自分の価値を認識しなればならない。
山田の思いの中には、どんな状況の中においても慌てずに次の一手を考えて行動ができるようになることが重要だと考えていた。
たとえそれが、100年に一度のことでも、それに備えることで人は成長すると思っていた。
山田がボーとしていると、スマホがバイブで震えていた。
「山田、k国の政権が倒れたぞ、ニュースを見ろ」
と田代からだった。
すでにオフィスでは、テレビがつけられていた。
K国の首都に向かってトラックや装甲車、戦車が向かう姿が映されていた。
兵士が空に向かって発砲していた。
空港では海外へ避難することたちでごった返している様子か映し出されていた。
取締役は呆然と部屋から出てテレビを見ていた。
おそらく投資した額の回収は不可能だろう。
逆に、引き継いだ政権からの投資続行がなされた場合の損害のほうが恐ろしかった。
一方では、米国が機動艦隊の派遣の準備をしていることが報道されていた。
山田は"ドル安に振れる"と感じていた。
為替損が増えると予想した。
重役たちの顔は蒼白だった。
今回の損益をカバーするには、その4倍以上の売り上げが必要だった。
山田はやれやれと思った。
今まで以上に営業は売り上げ無ければならない。それも国内での売り上げを、頭の痛い問題だ。
午後から山田は、得意先への営業に出かけた。
どうせ残っていてもすることはなかった。
あとは経理で処理内容の検討が始まって、会議が繰り返されるだけの話だ。
夕方近くになって、日報を会社のクラウドに放り込んで、電話で直帰することを告げた。
田代に状況の報告だけと思い電話を入れた。
「田代、いろいろありがとうな、間に合わなかったけれども」
「仕方ないさ、お前の責任でもないし、どうせ上は責任回避の会議真っ最中だろ」
「そうだな、俺はできることをするだけだ、こんどお礼するよ」
「いや、それはいい。請求書の額を増やしておくから、ところで、例の調査の件中間の報告が来てるがどうする」
山田は少し考えて
「わかった、今からいくよそっちに」
「ああ、待っている」
山田は近くでタクシーを止めて乗り込んだ。
山田は、田代の事務所の前でタクシーを降りた。
事務所をドアを開けると田代だけが事務所にいた。
山田がソファーに座ると田代は、コーヒーを両手にもって山田の前に座った。
「覚悟はいいか」
という田代の問いかけに山田はうなづいた。
田代はテーブルの上に、ファイルされた報告書を置いた。
山田は、それを手に取って読み始めた。
報告書は一日の行動が時系列につぶさに記載されてあり、妻の裕子の行動が目に浮かんだ。
別冊の写真には、マンションに入っていくところと、相手の男と買い物をしている姿や食事をしている写真があった。
「辛いか」
という田代の問いかけに山田は首を振った。
「はじめて、こんな裕子の顔を見たよ。あいつこんな顔するんだな」
と山田はしみじみといった。
「状況的に相手の有責で、慰謝料が取れるといっている。もっとも不貞の証拠がまだなので、あとはDNA鑑定をするかどうかだそうだ。・・・・まだ調査を続けるか」
山田はすこし考えて
「いや、もういいよ。これですっきりした。裕子と話してみる」
山田の態度に田代が
「俺もついて行こうか」
といったが、山田は首を振った。
「大丈夫、暴力沙汰はないよ、これで冷静に話せる。諦めがついた。」
「ほんとか」
「ああ、ほんとだ。うすうすは気づいていたんだ。単身赴任して会話がなくなって今では電話もかからない。時々メールが来るくらいだ。おれも煩わしいと思ってもいたし。これでいいよ。でも田代、夫婦ってあっけないもんだな。やっば所詮は他人ということだな」
田代は何も答えなかった。山田も下手に慰めはいらないと思っていた。
「調査は、ここまでて゛いいと先方には伝えてくれ、請求書を送ってくれれば支払いはすぐにすると、それから、この報告書もらってもいいかな」
山田の言葉に田代はうなづいた。
「田代、世話掛けた。まっもうすぐお前の仲間入りすることになりそうだな」
「離婚するのか」
「それしかないだろ」
「そうなるか、わかった。後は山田の思い通りにやればいい」
「そうするよ」
といって、山田は書類を鞄入れて、事務所を出た。
「24年か、長いのか短いのかわからないな。俺は裕子をどう思ってたのかな。裕子はどんな気持ちで俺といたんだろう」
と山田はつぶやいた。
時間いう流れの中を山田も妻の裕子も同じ船に乗っていたのだろうか?
それとも、もともと別の船で並走していたのだろうか。
どちらにしろ、過ごした時間は後ろにしかない。
前を向けば未来のはずなのに、山田の前にはそれかなかった。
壁ではなくぷっつりと時の川が無くなっていた
そして、周りを見てもだれもいなかった。
一人で、ふねに乗っていた。
流れもない、凪の真っ暗な湖の真ん中にいるようだった。