Antithese
ある命題に対する意見をアンチテーゼという。
血のつながりだけを家族と定義するのならば、その反対にあるもなんなのか、山田には理解できなかった。裕子のとのわだかまりは、時が解決するものなのかもしれない。
たた゜し、過ごした時間は戻せない。
進んだ後ろを過去と呼ぶには、長すぎる。
その過去の長さが、裕子を壊していった。
あの日以来、裕子は精神を病んでいた。
梨香は、状況から事の次第の大体を推察したようだった。
山田は本当は、怒りを裕子や森に対して、ぶつけるのが筋なのだろうが、裕子の抱えてきた思いを考えればそうもできなかった。
家族としての体裁をしていないことを、修復するべきなのだろうが山田にはその勇気がなかった。
後は弁護士を立てて、離婚に向けてことを進めた。
ただ、森とだけは一度会って、話をしなければならないと思い、今日待ち合わせをしていた。
山田が、待ち合わせの場所に時間どおりに着いたが、すでに森はその場所にいた。
山田に気づくと深々と頭を下げた。
「お待たせして、もうしわけございません」
「いえ、こちらこそ、きちんとお会いしてお話がしたかった。」
森は、再度深々と頭を下げた。
柔らかな日差しが、オープンテラスのカフェを照らしていた。
山間にある、カフェを山田は森との話し合いの場所に指定した。
そこは、かつてよく裕子と訪れていた場所だった。
そして、結婚を申し込んだ場所でもあった。
「裕子は元気ですか」
と山田は、運ばれてきたコーヒーにミルクを入れながらだずねた。
「そうとう、まいっています。精神的に不安定なので仕事は、休職して入院させています。いまだに、あなたに対する罪の意識にさいなまれているようです。しかし、その原因を作ったのはこの私です。裕子さんに罪はない。」
山田は、森の話を聞きながらコーヒーに角砂糖を一つ入れた。
「森さんのどのようなお望みにても、お答えしよう思っています。」
山田は、目の前のコーヒーを森の前に差し出した。
「裕子のいつものコーヒーの飲み方です。あなたも覚えていたでしょう。私は、コーヒーに何も入れない。医者のあなたの飲み方だ、ストレートは胃酸を増やして胃に対してよくないからだ。やっと理解しましたよ、裕子はあなたを愛していた。」
「・・・・・・」
森は、目の前のコーヒーを眺めながら無言だった。
山田は、森に意地悪をしているわけではなかった。
裕子と過ごした時間をさかのぼれば、そのしぐさの一つ一つに意味があるとわかった。
山田も全く裕子が、山田自身に対して愛していなかったとは思っていない。
愛情を感じる時もあった。
二人で、娘の梨香と過ごした時間のすべてが空虚なものではなかった。
それなりに家族の時間を過ごしてきたと思っていた。
「森さん、私は不思議と裕子を責める気になれない。むしろ私と過ごしてくれたことに感謝している、私にはもったないくらいの出来た妻だ。」
なおも、山田は言葉を続けた。
「一緒に暮らした時間が少なくなっていくと、夫婦とは脆いものだと思った。いつもそばにいないと不安になることもあるんだ。金だけ入れることが、夫の役目でもない。俺たち時代は、金を稼ぐことしかできなかったんだ。時間の共有が必要だったんだ。今の裕子に必要なのは、そうした人物だっただけで、私ではなかったと気づいた。森さん、私からの望みだ。どんな形であれ、裕子のそばにいてほしい。」
と山田は頭を下げた。
「山田さん、頭をあげてください。私は卑怯な手で裕子との時間を戻した。裕子も随分と苦しんだことは分かる。それでも、私は自分が許せない。やはり、私が身を引くべだ。」
と今度は森が頭をさげた。
「森さん、出会いがどうであれ、起こった事象を変えることはできない。私はこれ以上、裕子を苦しめたくはない、これは私なりの裕子のことを思っての考えだ。それに、・・・私の前で見せたことのない笑顔をあなたは、裕子に与えることができる。」
「本当に、申し訳ございません」
といって、森は頭を下げた。
「それに、たぶん いや 梨香はあたなの娘だ。DNA鑑定するまでもない。娘を傷つけたくはないので、いまさら、親子関係不存在確認などしません。私の娘として認識しています。血のつながりなど関係ない。過ごした時間の総量で築いた関係もあります。ただ、あなたが本当の父親ならば、娘を頼みます」
といって、山田は席をたった。
その山田の後ろ姿に、ずっと頭をさげている森の姿があった。
その後、裕子のほうも弁護士を立て、双方の弁護士の元で協議離婚が成立した。
何度か、電話やメールを裕子からもらったが、特に返事はしなかった。
特に請求はして請求はしていなかったが、裕子側から8桁の金額が山田に振り込まれた。
暫くして、梨香が山田を訪ねてきた。
会社の玄関を出たところで、声をかけられた
「おとうさん」
懐かしい響きだった。
梨香はどう話していいか迷っているようだった。
「腹へってないか」
「うん ペコペコ」
と梨香は笑った。
山田は、会社の近くの良くいく、ステーキハウスに梨香を連れて行った。
ステーキを注文すると、ワインが運ばれてきたので、乾杯をした。
「元気だったか」
という山田の問いかけに梨香は、寂しく笑った。
「お母さんはどうしている」
梨香は首をゆっくりと横に振った。
「私は、お母さんが許せない。お父さんは何も悪くないのに、どうしてお父さんが出ていかなくちゃいけないの」
「お母さんの具合でも悪いのか」
「毎日ポーとして過ごしている。私も口をきかないし、私もどうしていいか、わかんない」
と梨香の目が少し潤んでいた。
目の前にステーキが運ばれてきたので
「さっ、食べよう。ここのは美味いぞ」
と山田は梨香を促して、ステーキに手を付けた。
梨香もステーキに手を付けた。
最後のデザートが出できて、食後のコーヒーが出てきた。
「梨香、お母さんを責めないでほしい。お父さんは今でもお母さんが大好きだ。大好きなお母さんが悲しむのは見たくないんだ」
「でも、お父さんをすっと裏切っていたのよ。結婚する前から、そんなの許せない」
と梨香はすこし興奮してしゃべった。
「そうしたら、梨香はこの世に生まれなかったとしたら、どうする」
「それは・・・・」
「お母さんは、梨香を生まないという選択肢もあったと思う。それでも梨香を生んでくれた。梨香が生まれたとき、お父さんはとてもうれしかったことをよく覚えている。」
梨香は複雑そうな表情を浮かべていた。
「お父さんは、梨香が生まれてきたことに感謝している。お母さんの覚悟も今は分かる。梨香は、お母さんが嫌いか」
と問いかけた山田に梨香は答えなかった。
「お父さんが、お母さんと別れたのは、このまま一緒にいたらどちらかが壊れると思ったからだ。お母さんは、罪の意識に、お父さんは怒りでいつか、お互いに傷つけてしまうと思ったからだ。お父さんも聖人君子ではないから、心の奥底で思っていることがでて来ることもある。そんな、お父さんやお母さんを梨香は見たいかい」
梨香は首をふった
「男と女の間に、どっちかにだけ原因があることはないんだ。所詮他人が一緒になるんだ、うまくいかないことのほうが多いはずだ、それでも相手を思いやる気持ちが大切なんだ。」
「それでも、お父さんが可哀そうよ。血のつながらない娘の私を一生懸命に育ててくれたのに、お母さんは、お母さんはお父さんを裏切って・・・・」
「それは違うな、たぶん、梨香の為だよ、梨香の本当の父親のことを知ってほしかったんだと思う。」
「わたしは、お父さんだけでいい。いまさら、本当の父親なんて実感がわかない」
「お父さんは、梨香は本当の娘だと思っている。血のつながりだけが親子ではない。過ごしてきた時間がとても大切なんだ。」
梨香は、なんとなく不服そうな顔を見せた。
「今日は、帰らないのだろう。少し、梨香と飲もうかな」
といって、山田は梨香を促すとステーキハウスを出た。
山田は、駅近くのホテルに梨香をチェックさせると、そのままホテルの最上階にあるバーに梨香を誘った。
「お父さんの夢が叶ったな、こうして梨香と酒が飲めるなんて」
少しアルコールが弱めのショトーカクテルを梨香に頼むと、山田はターキーの50度をチェイサーを付けてた頼んだ
「乾杯」
といって、グラスを鳴らした。
「もう、戻れないの」
と梨香がまどの外の夜景を見ながら呟いた。
「たぶん、お父さん自身がお母さんの傷を広げてきたから無理だと思う。」
「私が生まれなかったら、どうなってたのかな」
「さあな、タラればの話に興味はない」
梨香はグラスを飲み干した。
「私は、本当のお父さんのことは認めたくはない」
山田は、梨香の怒りももっともだと思った。
梨香と裕子は姉妹のように、仲の良い親子だったからだ。
「梨香、すこし話をしてもいいかな」
山田の提案に梨香は頷いた。
「お母さんと、梨香の本当のお父さんは本当に愛し合っていたんだ。でも、森さん、これは梨香の本当のお父さんな、森さんは地方の個人病院の一人息子だ、いつかは帰って病院を継がなければならない。そして、地元で結婚しなければいけない事情があったらしい。お母さんとの交際で本気でった森さんは、実家と大喧嘩になったらしい、そして、実家の母親がお母さんに会いに来て、息子と別れくれと泣いて頼んだらしい。そんな時にお父さんに出会った。森さんは、失意のうちにアメリカに研究のために行ってしまった。そして、梨香が生まれた。お母さんもどっちの子供だと確信が出来なかったと思う。それでも梨香を生んでくれた。これには感謝しないといけない。」
梨香は神妙な顔で
「どうして、そんなことを知っているの」
山田をグラスをあおると
「調べた。探偵さんを雇って、客観的に考えたくて、そして分かったのは、お母さんは決して裏切ってはいなかったことはよくわかっんだ。でも、お父さんはお母さんの本当の笑顔を見ることはできなかった。森さんといたときに見せた笑顔は、本物だった。お父さんはそれを見たときに、打ちのめされた気がした。お父さんは、負けたと思った。本当に好きな人の前では、女の人は素直になれるんだとわかった気がした。森さんもそうだ、お母さんのことを本当に好きだったから、結婚していなかった。アメリカで成果をあげて帰国しても、実家の病院は継がなかった。僻地の病院を転々としながら病気の人を数多く救ってきてた立派な人だ。そして、運命はそんな二人をめぐり合わせたんだ。お父さんはかなわない。梨香の本当のお父さんは、立派な人だよ。だからお父さんは、お母さんを安心して任せることができると思った。」
梨香は、涙を一杯にためた瞳で山田を見つめていた。
「時間がかかるかもしれない。梨香がお母さんを理解するようになるまで、それでもお父さんは、梨香はいつかわかってくれると思う。お父さんの娘だから。」
梨香は泣き出してしまった。山田は梨香にハンカチを渡した。
「やっぱり、お父さんはお父さんだね。私はお父さんの娘でよかった。」
梨香は泣きはらした目で、山田を見上げていった。
山田は、梨香の頭をくしゃくしゃに撫でながら
「当たり前だ。人の気持ちもわからん娘に育てた覚えはない。」
と笑った。つられて、梨香も笑った。
そのあとは、がっこうの話や、最近出来た彼氏の話なんかをした。
ラストオーダーが来たので、バーを出た。
バーを出て、梨香の止まる部屋まで送った。
「あした、寝坊すんなよ」
「うん、今日はありがとう。またお母さんと話してみる。大好きな、私を生んでくれたお母さんだから」
「そうしろ」
「おとうさん」
「ああ」
「大好き」
といって、梨香は山田の胸に飛び込んだ。
「お父さんも、梨香が大好きだ」
と山田はいって強く抱きしめた。
「おやすみなさい。」
といって、梨香がドアを閉めるのをみ届けると、エレベーターでフロントまで降りた。
ホテルのロータリーに止まっているタクシーに乗りこんだ。
アパートまで帰り着くと、また電気がついていた。
ドアを開けると
「お帰り」
という声えが出迎えてくれた。
「また来てたのか」
「うん」
「しょうがないな」
と言ったが、山田は美香子を追い返す気はなかった。
「なんか、香水の匂いするよ」
「下種な勘繰りするな、娘に会ってたんだ。」
「ふうーん、娘ね。娘」
「嘘じゃないぞ」
「わかってますよ、山田さんが女遊びをするほど馬鹿ではないと」
と美香子は軽口を叩いた。
背広を脱いでハンガーに掛けように美香子に背を向けたときに、美香子が背中から抱き着いてきた。
「辛くなかった」
と美香子が遠慮がちに言った。
「ああ、辛くなかった。娘は娘だ、俺が育てた。」
「そう、良かった」
と美香子はいって山田から離れた。抱き付かれたとき美香子がすこし震えているのを感じた。
「大丈夫だ、美香子を見捨てたりはしない」
「ほんとに・・・」
「本当だ。それに俺はお前にみっともないところを見られたから、嘘はつかない」
美香子は何度もうんうんと首を縦に振っていた。
山田は、美香子もまた梨香のように愛しく覚えた。
山田は、美香子の頭に手をのせると髪をくしゃくしゃに撫でた。
やっと、美香子が笑顔を見せた。
それは、近しい者にしか見せないものだった。




