04.環境
こちらの世界に来てから、随分とこちらの生活に慣れてきた。というよりも慣れ過ぎた。
過分な配慮だとは思いつつも与えられるものをそのままに享受してきた。平民としての生活を希望していたが、この世界の常識を学べば学ぶほど、平民として生活出来る自信が薄くなる。
「(生活レベルが以前と違い過ぎるわ・・)」
まず平民は貴族に比べて衛生状態が悪い。食の保存もバリエーションが少なく原始的なものが多い。
「(文明レベルはかなり低いのかしら・・)」
与えられた本を信じるのであれば、生活水準は元の世界の中世ヨーロッパ程度だ。しかしその割には城内は清潔に整えられているし、立ち上る悪臭もない。そもそも召喚術という魔法が存在する世界なのだ。見た目は中世でも中身は発展している可能性は高い。それともその恩恵が受けられるのは王侯貴族のみなのだろうか。
「(そういえば、魔法を使っている人を見たことがないかも・・)」
忙しかったり他の事に気を取られたりで気にしていなかったが、最初の召喚術以外、魔法らしい魔法を見た記憶がない。
「(もしかして、召喚術以外の魔法はないのかしら・・ああ、でも聖女はいるのよね。浄化とか言ってたし、魔法はあると思ってもよさそうね)」
良くある転移モノでは巻き込まれた方も何らかの能力を持っていたりするのだが、体にこれと言った変化はない。期待するだけ無駄な気がする。
「(エントヴァ様に許可を貰って城下に降りてみるべきね)」
そうなると当然理由が必要になるだろう。まあ上げるとするなら当然ながらいずれ城下で生活をするからその下見というのが最たる理由だ。分かり切った理由ではあるが、頭の中で整理はしてから提案するべきだろう。
城下へ降りるにあたって指摘されるのは治安の悪さだと思う。元の世界とは勝手が違うだろうが、おそらくこの国にもスラムというものは存在する。それに伴って犯罪集団や孤児、物乞いなどもいるだろう。そういった者達のターゲットと言えば観光客、つまり外部からの入国者だ。ぱっと見で外国人だと判断できるであろうカエデは恐らく格好の餌食だ。
ただそれについては現在ついている二名の護衛兼見張りをそのまま活用させて頂く事で解決する。屈強な護衛の付いた上流階級を態々襲うような愚か者は滅多にいない。何かあるとすれば、護衛の指示を無視して自分自身が愚かな行動を起こした時だろう。
「そういえば、ラルガ様は平民とおっしゃってましたよね」
「はい、そうです」
「私はいずれ城下で暮らす予定なのですが、実はこの国の方がどういう暮らしをしているのか、本でしか知らないのです」
「平民の生活が書かれた本ですか?」
「どちらかというと文学小説なのですけど・・貴族の三男坊が娼館で働く女性に恋をする話です。その中にその女性の家族の暮らしぶりも描かれていますの」
「そうなんですね」
「その暮らしぶりが、ちょっと想像出来なくて・・・」
作者の名前は恐らくペンネームだろう。名前自体は貴族のようにファミリーネームまであるが、貴族がここまで平民の生活を知っているとは思えない。仮に貴族だとしたら平民の生活は完全にフィクションの可能性も考えられる。貴族でないとすれば、平民でも本が書けて出版できる程度には文明が発達しているという事になる。そんな中でこんな生活をしている人が存在するのだろうか。
「(ああ、でも作者が富裕層だとすれば貧富の差が激しくて、こんな生活をしている人もいる可能性もあるのか)・・これを読んだことはありますか?」
「・・申し訳ありません。私はまだあまり字が読めなくて・・」
「・・そうなんですね」
ラルガの返答に少し驚いてしまう。字を読めなくても兵士になれるのであれば、この国の識字率は低いのかもしれない。
「音読しますので、いろいろと教えてくださらないかしら」
「私でお役に立てるのであれば」
「ありがとうございます」
気になる部分を音読すれば、ラルガは静かにそれに耳を傾けてくれる。
「実際にこの国の方はこんな暮らしをされているのでしょうか」
「・・スラムの一部地域であれば、この話は当てはまると思います」
「スラムですか、ひと際貧しい方が住まう余り治安の良くない場所という認識でよろしいのでしょうか」
「そうですね、治安は悪いです。女性が行く場所ではありませんね」
「一般的な家庭はどのような生活なのですか?」
「スラムに比べれば格段に良いですよ。貴族様程ではありませんが」
ラルガの話によれば、街中であれば上下水道も整っているし、街中の清掃は国の管轄で馬車が通る割には馬糞等で汚れておらず綺麗な街並みだそうだ。
「道端に排泄物があるのはまさにスラムの話ですね」
「どうしてスラムだけそうなのですか?」
「さあ、どうしてでしょう・・」
「区画整理による弊害ですよ」
「ライオネル様はご存知なのですか?」
「はい、スラムは元々旧市街地で一番栄えていた場所だったんです。でもその時代は上下水道もなく街中が汚くて臭かったんです。先代の聖女様がそれを改善しようと立ち上がったのですが、発展しているが故に整備が難しかったのです。だから未発達で再開発がしやすく王城にもさらに近い場所を選んで設備を整えたんです」
「そうなんですね・・」
「だから場所だけ見ればスラムは結構いい立地なんですよ」
「移動が済んだ後に取り壊して再開発という手もあったのではないのですか?」
「その前に聖女様が儚くなり、計画が立ち消えてしまったのです」
そうこうしている間に浮浪者や犯罪者が住み着いて、手が出し難い場所になってしまったらしい。
「結構最近の話なんですか?」
「再開発自体はもう50年以上前の話ですが、何分街の移動ですからね、費用もそうですが、かなり時間がかかったと聞いています。スラムだと認識されるようになったのは30年前くらいからですね」
最近と言えば最近だ。
「(私が6歳くらいの時にはスラムか・・ライオネル様は私より年上だったわよね)ライオネル様は旧市街地を見たことがあるのですか?」
「4歳の時まで住んでいたんです」
「住んでいらしたんですか?大丈夫でしたの?」
「まあ、その時はまだ殆どの住人が移住していませんでしたから、多少の悪臭はあったそうですが治安は悪くなかったと思いますよ」
「まだ幼い時ですのに、よく覚えておいでなのですね」
「いえ、ほとんど覚えていませんよ。親がそう話しているのを覚えているだけです」
「そうなのですね・・それにしても、貴族の方々も移住だなんて・・随分と大規模な再開発でしたのね」
「ああ、いえ、あー・・貴族街は土地が広いのもあって設備を整えやすく、場所は変わっていません。私は少し事情があって幼少の頃は市街地で暮らしていたのです」
「ああ、それでお詳しいのですね」
他人の事情には首を突っ込まない。知り合って間もない上に仕事で付き合いがあるだけの相手にそう簡単に聞かれたくはないだろう。
「それにしても、街ごと移動だなんて・・良く成功しましたね」
「国からの補助金もありましたし、新しい制度も幾つかありましたから」
日々の生活もギリギリという経済状況でもない限り、大抵の国民は移住が出来たのだという。
「つまり本当に貧窮している方たちはそのまま残ったのですね」
「はい、だから解体できなかったと聞いています」
聞いている感じだとスラムは宮殿に比較的近い場所に存在するらしいが、そんなに近くて危なくないのだろうか。それとも近いからこそある程度目が届いて管理がしやすいのだろうか。
「地図を見せてもらう事はできますか?」
「防衛の関係上、地図は機密事項です。ただ大まかな位置でしたらお教えする事はできます」
「お願いいたします」
王城は基本的に塀に囲まれている上に、部外者であるカエデは全体を把握できていないので外の様子は一切知らない。恐らく城内の高くて見晴らしの良い場所へと行けばある程度は見渡せるかもしれないが、そこに行くルートも知らなければ、許可も下りないだろう。
「王城の形は大体覚えておいでですか?」
「お手伝いで伺った場所は何となくですが覚えています」
「どんな形をしていると思いますか?」
「そうですね、いくつか吹き抜けの中庭があるのだとは思っています。いくつかの塔が繋がっており、概ね左右対称に造られているように思います」
「そうですね、中央は謁見の間や玉座の間、貴賓室、戴冠の間、王族方の居殿、王室礼拝堂、閣議の間等の主要な施設があります。左右にはそれぞれの部門の執務室があり、それに伴う仮眠室や客間、控えの間、衛兵の間などがあります。王城の裏手には広大な庭園が広がっており、管理するための屋敷と王女殿下の離宮に幾つかのサロン、そして休息所があります」
「庭園は城内から見た事がありますが、端が見えないほどに広いですものね。まさか離宮もあるなんて思ってもいませんでした」
「何代か前の聖女様がお建てになられたのです」
聖女というのは随分な権力を持っているらしい。
「(だから聖女の周辺の警護は厳重なのね)」
そんな権力を持つ相手に取り入らないわけがない。しかも相手はそういった手練手管を知らない年端もいかない子供だ。掌で転がすのはこの世界の子供を相手にするよりもはるかに簡単なはずだ。
「兵士の訓練はどこでされていますの?」
「王城に入る手前に門があるのですが、その門の左右が兵舎ですよ。その裏に訓練場もあるんです」
「そうなんですね」
兵舎の向こうが所謂貴族街で、王城に出仕しているほとんどの貴族がそこで暮らしているらしい。
「王城ほどではありませんが、どのお屋敷もとても大きいですよ」
「ここから出る日には見る事が出来るでしょうか」
「城下に降りるには貴族街を通るでしょうから、見られるでしょう」
貧民街は王城から貴族街に降りて、まっすぐに進むと本来であれば着くそうだ。
「今はその場所につながる門は使われていません」
「危険だからでしょうか」
「それもありますが、その通りを使わなくなったからというのが大きいですね」
以前は正面ばかり栄えていたそうだが、今では王城を囲もうとするかのように左右がそれぞれ栄えているのだそうだ。
「左の城下が細工の街、右の城下が宝石の街と呼ばれています。一応貧民街となった場所の先もある程度栄えていて、花の街と呼ばれていますが、治安が悪いですので近寄らない事をお勧めします」
花の街、というのは恐らく吉原とかそういった意味だろう。そういう場所には裏社会というものが深く関わっている。貧民街という隠れ蓑が近くにある事も勝手が良いのだろう。ライオネルの忠告通り、城下で暮らす事になっても近寄らない方がいいだろう。
「エヴァンシュ様がおいでになられました」
「お通しして差し上げてください」
興味のある事柄だったからつい長話をしてしまった。準備を終えてからの雑談だったからよかったものの、その前であればエヴァンシュにとても失礼だった。
今回の授業内容は決まっているから、次回の授業でもう少し詳しくこの街で行われた政策等を学ぶのも良いかもしれない。城下街についてはエヴァンシュやエントヴァに聞くよりも、ライオネルやラルガに教えて貰った方がよさそうだ。仕事だからと思って必要最低限の交流しかとっていなかったが、今後は積極的に交流を図るべきだろう。幸いにもまだ仕事が決まる気配はない。時間はまだある。
「ごきげんよう、カエデ様」
「ごきげんよう、エヴァンシュ先生」
すでに習慣になりつつある日課をこなすために、カエデは今日もまたエヴァンシュを迎え入れる。
「(こうして貴族の習慣を学ぶ事は後々の就職に必ず役に立つわ。エントヴァ様には感謝してもしきれないわね・・)」
仮にあの時王子が他の貴族にカエデを任せたとして、現状と同様の環境が与えられるとは思えない。多分これはエントヴァの自己判断による待遇なのだと思う。それは好意や親切心からくるものではなく、何かしらの思惑があってからの行動だとは思うが、今のところ私にとっての損は何もない。
「(いつか、この恩は返さなくては)」
誰に語ることもない決意を、カエデは心の内で反芻する。