それぞれのバスケ
1
3月末。
中学校の卒業式も無事に終わり、春休みになる。学園通りの桜はまだ蕾。いくつかの慌てん坊が花開いているだけである。
璃々はそんな蕾たちの下で、トレーニングに励んでいた。このトレーニングは先日の閃き以来、毎日欠かさずやっている。
場所は自宅のすぐ近所にある『さくら公園』。
ここは広大な敷地の公園で、アスレッチック遊具あり、芝生広場あり、テニスコート、バスケットコートありと運動するのにもってこいの場所である。桜に囲まれた公園だから、春にはここで花見大会も開催される。あと、野生動物(璃々のお友達)がたくさん住んでいる。
取り組むトレーニングメニューは、図書館で読んだ様々なバスケ関連書籍を参考に、自分なりに考えた。
まずは入念なストレッチだ。公園の隅っこの芝生の上で、うーんと伸びをする。怪我はスポーツ選手の最大の敵だ。柔軟性は大事! 初心者にだってわかる。璃々の周囲に鳩や雀やカラス、野良猫、野良犬が集まっているが、気にしてはいけない。
次はジョギング。ウォーミングアップだ。公園をぐるりと10周。今まで帰宅部だった璃々にとって、これだけでも結構キツい。背後に続く動物の行列に、道行く人がギョッとしているが、気にしてはいけない。
そしてジョギングを終えると、いよいよトレーニングは『最後のメニュー』である。
短距離走200本――
たったこれだけである故に簡易に思えるかもしれないが、璃々はこのメニューを考えつくまでにそれはそれは頭を悩ませた。
璃々のバスケ知識の中に、『試合中に選手が走る距離の合計は、平均するとおよそ5キロメートルだ』というものがあった。
それを元に、当初、璃々は多摩川の河川敷を5キロほど走っていたのだが、果たして直線距離を走る体力をつけたところで意味があるのだろうか、と疑問に思った。
バスケというのはむしろ長距離走よりも短距離走の繰り返しだ。常にシャトルランのようにあっちへこっちへ全力でダッシュしなければいけない。
つまり、バスケとは長距離を走る体力ではなくて、コートを試合時間いっぱい、何本もダッシュできる体力が必要なのではないか。
そこで考えたのが、30メートルの短距離走200本だった(30メートルという距離は、だいたいコートの縦幅の長さだ。公式コートの実際の縦幅は28メートル。ちなみに横は15メートル)。
さらに、これは陸上競技のような走り方はしない。両足を揃えた状態からスタートして、ゴール地点はピタリと止まらなければいけない。バスケの試合中にクラウチングスタートなんてしないし、エンドラインを走り抜けるなんてことはありえないからだ。また、ダッシュの間に緩急をつけた。半分まで全力。残り半分は八割程度。理由は疲れるから(甘え)。
走る距離はほぼ同じ。でも使う筋肉は違う。きっと効果的な練習になるはずだ。璃々の素人考えではあるが、今までずっと見てきたバスケの知識から十分な考察の末辿り着いたものである。
これに取り組み始めた頃の璃々は、ダッシュからの急停止のコツが掴めず何度も転んだし、200本を走り終える頃には日が落ちていたが、最近は2時間程度で走り切れるようになった。
今日も璃々はこれに取り組む。走る場所に目印代わりに空き缶を置き、ゴール地点を見つめ、心のなかでスタートの合図を出して走りだす。
――よーい、ドン。
――よーい、ドン。
――よーい、ドン。
――――――――。
――――ズルッ、ベシャッ。ぐすん。
璃々は少しずつ傾いてきた太陽を背に、ひたすら走り続けた。
∞
薄暗くなり始めた頃、璃々はようやくノルマを終えた。
べンチに置いておいたカエルさんの形をした鞄からタオルを取り出し、汗を拭く。「ふぃー」と、年配のおじさんみたいな声を出し、一息つく。周囲を飛び回っていた動物たちは今はもう解散しており、巣に帰っている。
そこで、
「ん?」ふと、通りの方に目を向けてみると、不審な人物を発見した。
不審といっても別に犯罪的な不審さではない。
璃々の視線の先には同い年ぐらいの女の子がキャリーバッグをゴロゴロと転がしながら、あっちへウロウロ、こっちへウロウロとスマホを片手に歩いている姿がある。
この女の子が時折り、璃々のことをチラチラと見てきている気がするのだ。
璃々が彼女をじっと見つめていると、バチリと目が合った――ほら!
女の子は恥ずかしそうに顔をうつむかせ、再びスマホに目を落としてウロウロを再開していた。
あの子は何をしているのだろう。
旅行者だろうか。春休みだし若人が自分探しに一人旅なんてよくあることらしいし。
璃々は彼女をジッと観察する。
女の子の引きずるキャリーバッグには袋がぶら下がっている。網状の、中身が見える袋。そして丸い。
それは――バスケットボールだった。
「おお!?」
璃々は思わず声を上げた。
――あの子はバスケットマンだわ!
ギターケースを持っている人がバンドマンかヒットマンであるのと同じように、ボールを持っている人がバスケットマンであるということは、単純明快な答えである。
――仲間よ、仲間! バスケ好きな人はみんなトモダチ(双子除く)! これもう話しかけた方がいいのかしら? だってあの子、たぶん――、
あの女の子、見るからに道に迷っている。もしかして、チラチラとこちらを見てくるのは、助けを求めているからではないか――と、考えていればまた目が合う。絶対そうだ!
璃々はカエルさんの口にタオルを放り込み、それを背負うと女の子の傍にソロソロと近寄っていく。
そして背後から、
「ねえねえ、何かお困り? 璃々が手伝ってあげるっ!」
ニコニコと満面の笑みとともにでっかい声をかけると、女の子はビクリ、と肩を震わせた。
振り返った女の子。間近でその瞳を見て、璃々は思わず我を忘れて見惚れてしまった。吸い込まれるような魅力的な瞳と存在感。いわばカリスマである。
そんな女の子は瞳を潤ませる。そして唐突に、前置きもなくこういった。
「道に、迷った」
うん、だよね。
2
女の子の名前は五月女杏樹というらしい。どんな場所でも道に迷う、悲しい宿命を背負った子だ。
杏樹は璃々と同い年。それもなんと璃々と同じ高校に通うという。しかも噂に聞くバスケ部の特待生だったのだ――ああ、これを運命の出会いといわずして何をいうのか。
「璃々も日新学園でバスケやるの! 初心者だけどね!」
璃々が舞い上がって双子には絶対に秘密にしていたことをあっさりと告げ、杏樹のその手をギュッと握りしめて、ブンブンと上下に振った。杏樹は「よろしくね」と、静かなれども心地よいきれいな声と、微笑みを返してくれた。
「それで、杏樹ちゃんは何をしてたの?」
璃々が問いかけると、杏樹はこう教えてくれた。
「あの――」
杏樹は日新学園に通うため、親戚のおばさんのお家に下宿することになったらしく、そのお家を探して一人さまよい歩いていたとか。
「何度も家族ときた事があるの。矢川駅のそばなの……」とはいっているが、そりゃ見つかるわけがない。それはお隣の駅だ。璃々がいうと杏樹は「間違えた……」と、うなだれていた。
まあ、慣れない土地の電車に乗って降りる駅を間違えることは、ままあることだろう。とはいえ、そこから更に地図を持ちながら道に迷うコンボなんて、常人にはなかなかできないことである。
璃々は察した
――杏樹ちゃんは方向音痴さんなのね。
だから、璃々はいう。
「その辺なら歩いても行けるから、一緒に行こ!」
璃々はすでにやる気満々である。
杏樹の返答を待たずに、璃々はズンズンと歩き出せば、杏樹が親アヒルを追いかける小アヒルのように、とことことついてくるのだった。
∞
それから二人で並んで歩いて公園を抜けたのだが、璃々は汗が引いてきて寒くなったのか、通りがかった大豪邸の門扉に向けて「ふぇっくちょ!」と、くしゃみをして、盛大につばを引っ掛けた。
門扉がベットベトだ。表札には『芹沢』とある。つまり、ここは璃々の生涯の宿敵のお家だった。
いくら宿敵とはいえ、お家につばを引っ掛けるなんて悪い子である。
璃々もそれを自覚したのかしばし葛藤すると、結局、ポケットティッシュを取り出して拭い、「璃々が嫌いなのは、このお家じゃないの」などと供述していた。
そんなこんなで大豪邸を通り過ぎ、お隣の二階建ての小さなマンションの前にやってくると、璃々はふと立ち止まった。
「あ、そうだ。ちょっとだけうちによってもいいかな?」
璃々は自主トレを終えたばかり。頭のアンテナもヘナヘナと萎れているし、背中にあるカエルさんバッグもお疲れ気味に見える。だから、ちょっとだけシャワーを浴びたい。
杏樹はコクリと頷いた。
「私、どこで待ってればいい?」
杏樹が不安げに佇んでいると、璃々はニンマリと微笑んだかと思えば、自然な動作で杏樹の手をとった。
「遠慮せずに一緒においでよ! いや、来て! 来なさい!」
やはり返答を聞きすらせず、璃々は強引に引っ張るような形で杏樹を自宅に連れて行く。
友達が欲しいあまりにボッチが女の子をさらう事案が発生――というわけではないので勘違いしないで欲しい。
だって目を離したら、杏樹はまた勝手にどこかをふらついて、数分ぶり数十回目の迷子になることだろう。そして璃々は彼女を探しに行って、なぜか一緒に迷うという負のコンボが発生してしまうのだ。
――させるものか!
余談だが、璃々の危機回避能力もまた、幼い頃から培われたものだったりする。
∞
杏樹は璃々に手を引かれても、そのポーカーフェイスを崩すこと無く、素直についていく。
さて、璃々の強引さに杏樹が何を思っているかというと――
杏樹は今、無表情のその向こう側で、感涙に咽いでいた。
杏樹が道に迷い始めたのはかれこれ三時間も前である。
だから、これだけ迷ってしまったらもう、知らないおじさんにですらついていったかもしれないぐらい、杏樹は精神的に疲弊していた。
そもそも、どうして迷ったのか。その答えは一言でいえる。
――自業自得だ。
駅を間違えたとはいえ、本来ならスマホのナビに従ってちゃんと歩いていれば、とっくに目的地に到着していたはずだった。
しかし杏樹は衛星を介す緻密で正確なナビに、なぜか自らの『勘』というスパイスをぶちまける。そのせいでどんどん現在地がナビから離れていった。スマートフォンは何度も「ルートを再検索します」といってたけれど、一つも聞こうとしない。重症の方向音痴はもはや救いようがないのである。
それでもそのうち辿り着くだろうと、呑気に考えていた。だからコンビニを見つけては、道をそれてたち寄って、スイーツを買って、食べ歩くを繰り返していたら交通費が消えた。今日は小うるさいお母ちゃんがいないものだからって、調子に乗ってしまった。その辺りはやっぱり中学生なのだった。
お金もない。道もわからない。もう帰ることもできない。
絶体絶命だった。
しかし!
途方に暮れているところで、璃々を発見した。
杏樹は覚えていたのだ。数週間前の日新学園で行われた練習試合で、向かいの観客席にいた玉ねぎを。この瞬間の杏樹の目には、璃々が自分を助けるために現れた天の使いに見えたほどである。
そうして天使に連れられてやってきたのは天国――ではなく、八上さんち。
マンション2階の一番奥。角部屋。ちょっと広めの3LDK。キッチンにはなぜか電子レンジが4台もあって、それを見た杏樹は「コンビニみたい」と、思った。
ご家族は留守のようである。
「適当な場所に座ってて」といって、璃々がシャワーを浴びに行ってしまったものだから、杏樹はリビングに1人ぽつねんと取り残された。
杏樹はポケッとソファに座ったまま、ふと、こんなことを思ってしまった。
「……ちょっと、散らかってる」
失礼だとわかっている。それでもそう思ってしまうほど、すごく散らかっている。広いお部屋が狭く感じるレベル。でも、コンビニ弁当や生活ゴミはしっかりゴミ袋にまとめられている。
目につくのはバスケ関連のものだ。散らかっているように見える原因は全てこれにある。
写真だったりポスターだったりが無造作に壁に貼られ、試合のDVDが棚からあふれ、テーブルの上にはもはや物が置けないレベルでバスケ雑誌が積み上げられている。何度も何度も読み返しているのか、全ての雑誌が手垢とポテチの油でヨレヨレである。
しかしこの散らかり具合を杏樹は悪しとは思わない。むしろ、バスケグッズがたくさん転がっているこの部屋は、杏樹にとって、やっぱり天国といってもよかった。
そして、この天国に住む、知り合ったばかりの少女は――
「璃々ちゃんも、一緒にバスケやるんだ」
――やっぱり、天使。
なんだか、迷ったことも忘れてしまうぐらい、とても気分が良かった。
それを忘れるから、また迷うことを、杏樹はいつになったら気づくのだろう。
「璃々ちゃん、まだかなー」
まあ、これからは璃々というパシリ――ナビゲーターができたから、よしとしよう。
3
お風呂から帰ってきた璃々は、散々待たせてしまったお詫びに杏樹にお茶を用意した。
テーブルの上の散らかった雑誌をバサバサと適当に床に落とし、できたスペースにお茶を置く。
ちょこんと行儀よくソファに座る杏樹の隣に腰掛け、璃々は尋ねる。
「杏樹ちゃんはいつからバスケやってるの?」
「小学校2年生」
「おお! やっぱり特待生ともなるとバスケ歴が長いのね!」
「璃々ちゃんは初心者っていってたね」
「そうなの、初心者なの。高校からバスケ始めるのよ。今は、そのために自主トレ中!」
「だからずっと走ってたのね」
「ずっと? 見てたの?」
すると杏樹は頬を朱に染めて、ボソボソといった。
「あ、あの……道に迷ってる時に、公園で走ってる人いるなって思った」
「すぐに話しかけてくれればよかったのにー!」
「む、無理……」
恥ずかしげに俯く杏樹はこう続けた。
「一生懸命やってる人、邪魔できない……」
なるほど、杏樹はただ恥ずかしいという理由だけで、璃々に話しかけなかったわけではないようだ。
それを聞いて璃々は超ご機嫌である。
杏樹の第一印象は『クール』で、声も小さいし表情豊かとはいえない人だった。しかし淡々と語る口調の中の僅かな変化に気づいた時、とても可愛い子だと思った。コンビニスイーツの無駄知識からバスケの知識まで、璃々は聞いてるだけでも楽しめる。
しかも杏樹は、璃々がどんなにバスケのコアな話をしてもしっかり聞いてくれるし、乗ってくれる。もしかしたら、璃々は『初めて』友達ができるかもしれないと、心が踊っていた。
確認になるが、璃々は中学校ではずっとボッチだった。友達は公園に住み着く動物さんだけである。しかし別にコミュ症というわけではない。それなりにフレンドリーで優しい子なのだ。
それでもなお友達がいなかったのは、璃々が私生活を切り捨てて趣味に没頭してしまったことが要因である。それも物心がつく以前から今日まで、ずっとだ。
璃々の一日は『睡眠』と『学校』と『バスケ観賞』で構成されている。
放課後は速攻で帰宅して、ポテチ片手に暗い部屋に引きこもって、バスケの試合が映るディスプレイを眺めて独り言を呟いたり、腹を立てたり、ニヤニヤしているのだ。その姿はもはや『オタク』のそれだ。
璃々の持つバスケの知識もそれにふさわしく、バスケ選手ですらコートの各ラインの長さを知らない人のほうが多いのに、璃々は余裕でいえる。「センターサークルの直径? 3.6メートルだよ!」――そうですか。
そんな璃々が誰かとショッピングやデートに行ったことなんて、もちろんあるわけがない。口を開けばバスケの話しかしないのだ。だから同年代の少女たちと全く話が合わなかった。中学のバスケ部の子たちにすら「そこまで詳しいのはちょっと……」と引かれるレベル。
とはいえ、高校生になってもボッチはさすがに寂しい。だからこれからは趣味の方は我慢して、友達を作ろうと璃々は決意しているのだった。
それが同じくバスケが好きな杏樹ならば、すぐにでも友達になれるはずだ。うふふ。
「杏樹ちゃん、これからもよろしくね!」
「うん。よろしく」
杏樹の言葉は淡々としていたけれど、その微笑みは花のように可愛らしかった。
その後、璃々の携帯電話の電話帳に、初めて『お友達フォルダ』が出来た。
――しかし、
杏樹は、ただのお友達という枠で済ましてはいけない。
だって、杏樹は璃々が子供の頃から憧れ続けてきた、そして今は目指すべく『バスケットボール選手』のうちの1人なのだから――
∞
そろそろ行かないと下宿先に心配させてしまう。
璃々と杏樹がそれに気づいたのは時刻も19時を過ぎた頃だった。お喋りに夢中になりすぎたようだ。
マンションを出てしばらく歩くと学園通りとはまた別の桜並木が見えてくる。
そこを二人で並んで歩いていく。
少しずつ芽をつけ始めた桜の木に、璃々は春の訪れを感じ取っていた。フライング気味に咲いている桜の花弁を眺めたあと、高校生になる前にできた友達の横顔を見る。
「ねえ、杏樹ちゃんはどうしてバスケを始めたの?」
「どうしてだっけ? ちょっと待って、思い出す」
何の気なしの質問に、真剣に答えを考えてくれる。彼女の生真面目さに好感が持てる。
「始めた理由は覚えてない――でも、続けている理由はあるよ?」
「それは何?」
そして、杏樹は璃々としっかりと目を合わせ、こういった。
「バスケが、好きだから」
鈴の音のように心地よい声で紡がれたそれを耳にした璃々は、ふと、立ち止まった。
――バスケが好きだから。
たったそれだけの短い言葉。それは璃々の耳に深々と突き刺さり、何度も繰り返し響く。
ドクンドクン、鼓動が早る。
そして璃々は、なんとなく、悔しいと思った。
だってそうだろう――璃々だってバスケが好きだ。だから、どうしてバスケ観賞が趣味なのかを聞かれたら、「バスケが好きだから」と、同じように答えられる。しかし璃々が今、バスケットボール選手になろうとしている以上、同じ言葉をいっても、杏樹のそれとは重みも、意味も、全く違ってしまうのだ。
同じ音、同じ言葉。それなのに、どうしてこれほどまで――
「璃々ちゃん、どうしたの?」
立ち止まった璃々のことを不安げに杏樹が見つめてくる。璃々はそれに「なんでもない」と首を振り、笑みを返した。
それから璃々は杏樹を目的地にしっかり送り届けると別れを告げて、帰路についた。
帰りの道中。胸が騒がしく、ほっぺたもなんだか熱かった。
耳に響くは杏樹の言葉。
――バスケが、好きだから。
高校生活の中で、その一言に込められた幾千の想いを知ることができるのだろうか――
知りたいと思う。知らなければいけないと思う。璃々だって、ずっと小さい頃からバスケを見続けてきたのだ。
なればこそ、いつか杏樹と同じ言葉を口にするために、
「璃々、初心者だけど、練習いっぱい頑張るよ!」
お空に昇るまん丸お月様に向けて、固く固く、誓いを立てた。
いつか堂々と、その言葉をいってやるために――
∞
その翌日。
今日も今日とて、朝早くから璃々が自主トレに励もうとさくら公園にやってくると、杏樹が待っていた。
よくここまでこれたものだと、璃々は感心するのだが、どうやら杏樹は誰かに案内してもらった道なら記憶できるという習性を持っているらしい。逆にいうと一度通らない限り永遠に覚えられない。便利なのか不便なのかわからない機能である。
ともかく、
杏樹はベンチに腰掛け、空を見上げていた。ちょっと寝ぼけ気味なのか、口が半開きである。
「おはよう! 杏樹ちゃん!」
一拍遅れて、挨拶が返ってきた。
「おはぉ……」
杏樹は大きな欠伸をした。眼を半分にして、ジトッとした目つきである。朝に弱いのだろうか。眼力のある杏樹がジト目だと、睨めつけられているようで、璃々はちょっと恐怖を覚える。
ふと、気づく。
「あら? 杏樹ちゃん、どこかにバスケしに行くの?」
杏樹は明らかに「これからバスケしてきます」といったジャージ姿で、大きなエナメルバッグを袈裟懸けにして、使い込まれたバッシュを結いつけ。そして、自前のボールを二つ、袋に入れてぶら下げている。
杏樹は(決してそんなつもりはないのだろうけど)璃々のことを睨みつけて、こういった。
「推薦入学だから、春休みから練習参加しないといけない。だから日新学園に行きたい」
「へー、やっぱり特待生って凄いね! 頑張って! 璃々も学校が始まったら、一緒に練習するよ!」
「うん、楽しみ」
「それじゃあ、気をつけて、いってらっしゃい!」
杏樹はコクリと頷くと、璃々に背を向け、一歩、二歩、とフラフラと歩いて行く。
その背中を見つめて、璃々は思う。
――そういえば、杏樹ちゃんはここで何をしていたのかしら?
すると、その念が通じたのだろうか。杏樹がピタリと足を止めた。
しばし、彼女はその場でボーっとお空を見上げていたかと思えば、璃々のところへ戻ってくる。
そして唐突に、「これあげる」と、杏樹が差し出したのは、持っていたボールの一つだった。バスケの公式球。これもまた杏樹のバッシュと同じように使い込まれていて、革が剥げている。
「え? いいの?」
「うん。古いものだし、たくさん持ってるから。実家がスポーツ用品店なの。外で練習するのに使うといいよ」
つまり杏樹はわざわざ、これを璃々にあげるために、ここで朝早くから待っていたということか。そんなの、嬉しすぎて涙が出るじゃないか。ぐすん。
友達からの初めてのプレゼント! 大事にしよう。
「ありがとう!」
ただ、杏樹の話はそれだけではなかった。寝ぼけ眼で璃々を見て、頬を朱に染めこう続けた。
「ううん。いいの。でも、その……代わりに……――日新学園まで連れてって欲しい……」
「あっ……」――璃々は一瞬で察した。
そういえばさっき、「日新学園に行きたい」っていってたね。言葉尻からして願望だね。
すぐさま快諾し、杏樹を日新学園まで無事送り届け、帰りも必ず電話するように、と固く固く念を押した。初めてのお友達を『迷子』で失うなんて、そんなの悲しすぎるもの。
∞
璃々は雑事を終えて再びさくら公園に戻ってくると、せっかくボールを貰ったので、『ドリブル練習』をすることにした。
ドリブルの練習方法は知っている。
アキレス腱を伸ばすストレッチのように両足を前後に開いて、腰を落として、その脇でドンデンとドリブルをついていくのだ。
「……何回やればいいのかしら?」
とりあえず、たくさんやろう。
――1、2、3、4、5、6、7、8、9、10。
――1、2、3、4、5、6、7、8、9、20。
30――50――――100――――――300――
璃々の頭の中で、まるで呪文のように繰り返される数字。
ドリブルは低く細かくやれば、回数があっという間に増えることには早く気づくことができた。
しかし、これがかなり疲れる。
まだバスケのバの字に触れたばかりの璃々は、当然、ドリブルをつく筋肉などなく、低く細かいドリブルを続けるとあっという間に疲労がたまる。
ドリブルはただの鞠つきとは違ってボールをコントロールすることが重要だ。そのために腕の力全てを駆使しないといけないから肩が痛い。二の腕が痛い。指が痛い。何故か腰が痛い。人生で初めて『指をつる』という経験をした。
痛い痛い痛い! 何この新境地の痛み!?
油断をすればボールがあっちへこっちへ飛んで行く。顔にぶつけたのも一度や二度じゃない。
端から見るとボールを追いかけて一人で遊ぶアホの子。
そんな光景は三時間も続いた。
そして璃々は一段落をつけたところで、気づいた。
「ハァ……ハァ……ていうか、バスケって、練習しなきゃいけないこと……多くない?」
ドリブルの他にも、パスとか、リバウンドとか、スクリーンアウトとか――まだまだ、たくさん。
見るだけでは知り得ない苦労――
バスケって、もしかして、すんごいしんどいスポーツだったかもしれない。
小さい頃から見てきたバスケのヒーローたちの凄さを、今まで以上に理解できた瞬間だった。
5
春休みも残り僅かとなった日の早朝。
璃々が自主練習に励む公園から少し離れた場所からも、『ダンダンダン』と、規則正しく力強いボールの音が聞こえて来る――
その場所は人通りの少ない通り沿いにあり、地元のおじいちゃんおばあちゃんが日向ぼっこをしている姿ぐらいしか見られない小さな公園だ。
こんな場所にもバスケットゴールがあった。
やたら古めかしいゴールだ。支柱は錆付き、ボードは煤け、ゴールフープが板に張り付いているだけの簡素なゴール。
地面はコンクリート張り。街灯が丁度良く並んでいるせいか、夜に訪れてもまるでスポットライトに当てられたように明るい。
周囲に民家はなく、近隣にあるのは神社とコンビニぐらいだから、深夜にここでボールをついても騒音で怒られたりはしないだろう。
まさに『夜遊び』にうってつけの場所である。
だから、夜遊び大好きな双子姉妹が頻繁にここを訪れることも極自然な成り行きだ。
愛と勇気の正義の双子――愛羅と勇羅である。
「ううむ、この位置からだとシュートが中々入らない」
「ううむ、この態勢からのドリブルだと足がうまくついていかない」
ほら、今も、彼女たちは一生懸命『夜遊び』に励んでいる。
しかし今は早朝である。夜遊びというには時間も言葉の意味も間違っている。
だから、こういうべきだ――
彼女たちは、この場所でバスケの練習をしている。
それも今日に限らず、ずっと昔から、時間問わずに続けてきたことだ。彼女たちが『夜遊び』と称して夜な夜などこで何をしていたのか、その答えはここにある。
愛羅と勇羅がバスケを始めたのは9歳の頃だ。
きっかけは『璃々が引きこもってまで観るバスケとはどんなものか』という好奇心と、自分たちがバスケができるようになった時、璃々に見せつけて悔しがらせてやろうという悪戯心だ。彼女たちがバスケをやっていたことに璃々が気づかなかったのは、彼女たち自身もまた璃々に隠していたということもあったのだ。
ただ、中途半端な技術では、目の肥えた璃々を悔しがらせるには至らないということを、無駄に賢い二人はよく理解していた。
だから璃々への嫌がらせのためだけに、二人は来る日も来る日も練習を続けていたのだが、気がつけば、「何これ、楽しい」と、バスケにどっぷりとハマっていった。
それと同時に『てっぺんを取ること』が目標に変わっていった。
飽きっぽい性格をしている二人だが、一度ハマったらとことんやる。今やバスケを始めたきっかけのことなんて「そういえばそうだっけ?」という感じで半ば忘れかけている。二人の璃々に対する扱いはこんなものである。
今日までの人生のほぼ全てをバスケに費やし、技術を磨いてきた。
その費やしてきた時間故に、彼女たちは自分たちこそ『サイキョー』であると信じて疑わない。
しかし、バスケ以外の部分での素行が少々悪いのは事実であり、中学校ではそれを咎められ公式戦に出してもらえず、その技術を一度として披露したことがない。
だから実際のところ、彼女たちが上手いのか下手なのか、『サイキョー』なのか、知っているのは誰一人としていないのだった。
そんな二人は今日も練習の真っ最中。春休みに入ってからはほぼ一日中ここにいる。彼女たちもまた、高校に向けた準備を行っているのだ。
ボールを突く音は規則正しく力強い。そのしなやかな腕から放たれるシュートは美しい。
「あ、外れるわ」と、愛羅。
「勝負だ」と、勇羅。
ガン! と音をたててボールがリングに弾かれる。
それを合図に二人が駆ける。
転がるボールを二人で追って、奪い合う。ガシガシと身体をぶつけあい、そのボールの奪い合いは仲良し双子姉妹を思わせない激しいものである。
競り合いが終わった頃には二人の腕には赤い痣がついている。
そしてボールを奪いとった愛羅がオフェンス。
勇羅はディフェンス。
始まる一対一の攻防。
腰を落とし、手を大きく広げてディフェンスの構えをとった勇羅に向けて、愛羅はいった。
「そういえば、」
「そういえば?」
「最近、さくら公園の西側で、朝っぱらからバスケの練習をしているアホが居るらしい」
「バスケのボールが弾む音はうるさいのにアホすぎる。ご近所の迷惑を考えてないわ!」
「しかも、さくら公園の西側のご近所といえば私たちの家しかない」
「明らかに私たちに対する悪意を持っている! 睡眠妨害だわ!」
「でも、残念ながらこの時間に家で寝てるのはパパだけなのである」
「だから最近パパが寝不足なのね」
「つまり、こんな時間にそんな場所でうちの睡眠妨害を企むアホとは――」
「――リリーだ。地味に陰湿な真似をしよる」
愛羅は身体を振ってフェイントをかける。勇羅は引っかからない。
「でも、実は嫌がらせが目的ではないっぽい」
「確かにリリーはそういうことしない。しても家の門にくしゃみを引っ掛けるぐらいだわ」
「どうやらリリーはバスケを始めるつもりらしい」
「どこ情報?」
「本人の口から。昨日の夕方、タオル取りに帰ったら塀の向こうから声が聞こえた」
「さすがお姉ちゃん、油断も隙もない!」
フェイントを続けて、ドリブル一つ。愛羅の進行を勇羅が体幹でしっかりと防ぐ。
ガシッ! 汗が舞う。世間話をするような口調とは不釣り合いな力強い『当たり』。互いに姉妹に対する加減なんて考えない。
愛羅は体勢を整えるために後退する。
「リリーがバスケやるだなんて、今更感がある話よね」
「確かにもっと早くやると思ってた。なんでやらなかったんだろ?」
「『バスケは見るだけでも十分楽しいから、やろうという考えが浮かばなかった説』に一票」
「『バスケをやったらバスケを見る時間が減っちゃうから、やらなかった説』に一票」
「なにそのバカみたいな理論。リリーならありそう」
「でしょ。愛羅の説はありきたり過ぎるわ――っと!? 油断も隙もない!」
愛羅が更なる進撃を仕掛けると、勇羅は押し込まれ、ズズズと足元がふらついた。
勇羅の体勢が崩れた隙を突いて愛羅はドリブルをついたままターン。直ぐ様首を上に振る。
その仕草だけでシュートの気配を感じ取った勇羅はシュートチェック(※シュートを容易にうたせないように邪魔をすること)のため手を伸ばす。しかし、その腰が伸び上がった瞬間に愛羅がさらにドリブルを切り返し、ドライブ(※ドリブル突破)を仕掛ける。
それでも簡単には抜かれない勇羅。しっかりと体幹でついていく。
そして――ドンっ!
勇羅がアスファルトの上に吹き飛ぶようにして倒れ、愛羅は体勢を崩さずにレイアップシュート(※走った勢いを殺さずにボールを持って高く飛び、リングに置いてくるように放つシュート。ランニングシュートとも)。
ボールはゴールフープを通過して、点々と転がっていく。
勝敗は――
そこで珍しくも勇羅が先に口を開いた。
「強引過ぎ、チャージングだ。愛羅のファール。だから私の勝ち」
「ポジショニングがずれてた、ブロッキング。勇羅のファール。だから私の勝ち」
「肘で押された。イリハン(イリーガルユースオブハンズ)! 愛羅の負け」
「腕が絡んだ。ハッキング。勇羅の負け」
口々にファールの種類を挙げていく。
プッシング、ホールディング、テクニカルファール、アンスポーツマンライクファール、ディスクオリファイイングファール――今の短いプレーのどこにそんな反則があったのだろう。
しばし二人は睨み合うと――
「「ダブルファールでいいか。引き分けにしよう!」」
二人は納得したのか、同時に頷きあった。
愛羅の差し出した手を取って勇羅が立ち上がる。
「ところで、」
「ところで?」
愛羅は顎に手を当て、
「なんとリリーに友達ができてたんだけど、その相手があの『お姫様』だった」
「あの『お姫様』といえば日新学園の初の特待生ではないか」
「リリーが何をどうすれば『お姫様』と友達になれるのか、疑問で仕方がない」
「道端で見かけたところで勇気を出して、土下座したんだよ。たぶん月額制の友達だよ」
「なるほど、さすが勇羅だわ。そういうところは敵わないわね」
「愛羅はそういうところがまだまだよね」
それから「うーむ――」と、二人で唸り、
「羨ましい。『お姫様』と友達になれるなんて」
「妬ましい。リリーを独り占めできるなんて」
「「高校に入ったら私たちも『お姫様』に『お友達』になってもらおうじゃない!」」
二人は「うふふ」と嫌らしい笑みを浮かべる。
「そうともなればもっと練習だ」「もっと鍛錬だ」
「『てっぺん』は――」「――私たちのものよ!」
二人はさらなる高みに向けて練習を続けるのであった。
∞
そして数日の時が流れ――、
時刻は夕暮れ。
自主練から帰宅した璃々は、リビングに入るなりバタリと倒れる。するとテーブルに置きっぱなしだった雑誌が頭の上にバサバサと降ってきた。雑誌に埋もれた璃々は身動きせずに、ぐすん、と泣いた。
春休みももう終わる。璃々は今日までしっかり練習に取り組んでおり、体力だってそれなりについてきたし、ドリブルだって初心者にアンテナが生えた程度のレベルまで来ている。
今まで運動未経験だったものだから、この春休みはとてもとても過酷な日々だった。来る日も来る日もトレーニング。丸顔のぷにぷにほっぺがチャームポイントだったのに、なんだかやつれた気がする今日このごろ。でも、スリムになったのは、ちょっと嬉しい。
しばらくして、雑誌に埋もれた状態からようやく立ち上がった璃々は、フラフラとカレンダーの元へと歩み寄る。
そのカレンダーは璃々がバスケを始めようと心に決めた日からずっと付けてきた『大変良く出来ました』スタンプで埋まっている。
そこに今、最後の一つが押された。
「……いよいよだ」
期待と不安に胸の中が燃え上がり、度重なるトレーニングによる疲労が歓喜の声を上げる。
そうだ、バスケしよう――そう心に決めた日からずっとこの日を待っていた。
明日は入学式!
璃々は決意を胸に秘め、再びパタンと倒れて眠りに落ちた。またまた雑誌が降り注いできたけれど、今度は気づきもせずに夢の中へと旅立った。
∞
全国大会決勝。
残り数秒。一点差。璃々が相手からボールを奪い、華麗なドリブルとパス回しで攻めこむ。
最後の希望を込められたシュートを放つのもやはり璃々。
美しい放物線。会場が静まり返り、誰もがその行方に息を呑む。
そして当然が如く決まるブザービーター。
璃々が率いるチームの大勝利!
∞
――まあ、夢の話だけど。
さあ、いよいよ明日から高校生。その夢を現実にすることはできるのか。
春が、来る。
第一章『プロローグ』了