迷子の特待生と赤い髪の妖精
↓初登場↓
五月女杏樹 ――日新学園史上初のバスケ特待生。
赤い髪のちっちゃいお姉さん(22歳)――謎の人。バスケに詳しい。
1
日曜日。お日様の光が眩しく、風は冷たくとも心地よい。毛玉のようなすずめがチュンチュンと歌唄う。そんないい朝。
ここは日新学園高等学校。東京は国立市と府中市の市境。雄大な田園風景が広がる余り余った敷地に、デンとそびえ建つ広大な領地を持つ学校である。
その校庭の隅っこ。野球部の男子数名がヒソヒソと話をしていた。
(なんか見たことない子がいる)
(誰か話しかけてこいよ)
(お前が行けよ)
彼らの視線の先にいるのは1人の少女。
長い黒髪がキラキラと輝き美しい。背負うエナメルのバッグには、むき出しのバスケットシューズが紐で結ばれて、ぶらぶらと揺れている。
五月女杏樹という名の少女だった。
彼女は手に持つ学校案内パンフレットを穴を空けんばかりにじっくりと見つめて、この日新学園の敷地内をあっちへこっちへ歩いている。
その姿はこの日新学園という敷地の中で、妙に浮いていた。制服も違えば、どこか立ち振舞も高校生らしくない。
それもそのはず、杏樹はまだ中学3年生だ。加えて杏樹は身長が173センチと、女の子にしては高い方だから余計に目立つ。
しかし、杏樹がここにいることは何もおかしなことではない。何を隠そう、彼女は日新学園史上初のバスケで推薦入学が決まったバスケットボール選手なのだ。
そんな杏樹は今日、日新学園で女子バスケットボール部が近隣の他校を招いて練習試合を行うと聞き、入学前に、実家のある神奈川は横浜市から、はるばる見学にやってきたのだった。
杏樹が日新学園にやってきてまず思ったことは「広い」ということだ。
推薦の話を貰った際に親と一緒に1度来ているのだが、その時は親の後ろをついて歩いていただけなので感じなかったが、1人で歩くと別世界である。自身が通っていた市立中学校に比べると、おそらくは3倍以上の広さがある。体育館だけでも第1から第3体育館まであり、校庭は人工芝が敷き詰められていて、別に野球場まである。校舎も3棟。『私立』って凄い。
田舎町の有り余る土地を存分に使った学園は『油断』すると迷子になってしまいそうになるほど広かった。
そんな広い広い日新学園の敷地内の外れのほうで、杏樹は何をしているのかというと、体育館を探しているのである。第3体育館という、最近、完成したばかりの施設だ。そこで女子バスケ部の練習試合は行われているらしい。
しかし、地図を片手にそこを目指しているのだが、これがなかなか辿り着かない。
――ほんと、広すぎる。
杏樹は何度目になるかはわからないが、キョロキョロと周囲を見回し、「……」と、黙々と佇む。
本当に、広い学校だ。これならば、確かに迷子になってしまう人がいても仕方がないかもしれない。
これはもう、『油断』とか関係なく、この学校が広いのが悪い。
――そうよ。そうなのよ。私は悪くない。
つまり、
杏樹は、絶賛迷子になっていた――
本当に迷った。全力で迷った。学校案内に載ってる地図には右上の方に第3体育館がある。しかし、右上とは方角でいうとどっちの方向なのだろう。この十字のマークはなぁに? そもそも自分の現在地がわからないから動こうにも動けない。
誰かに道を聞いてしまえば万事解決だが、杏樹は高校生のゲラゲラした笑い方が怖くて誰にも話しかけられない。先程からこちらの様子を伺っている野球部なんて、特に怖い部類だし(偏見)。
野球部がいるからここが野球場だと思う杏樹なのだが、実際は違う。ここはグラウンド。彼らはここでランニングをしているだけである。それは杏樹を貶める卑劣な罠(?)だった。
このままでは八方塞がり、絶体絶命である。
「困った」
しかし杏樹の声は小さくはあれど、どうしてか人の耳に吸い込まれるように響くらしい。
だからなのだろう。杏樹が現状の解決に悩んでいるところに、
「よお。どうかしたんかー?」
と、声をかけてくれる人が現れた。
杏樹がふいと振り向くと、そこにいたのは、
小さな女の子――というには、あどけなさが全くない女性だった。
スーツ姿だ。その服装も顔立ちもスタイルも大人っぽいのに、背が低い。しかし1度会ったら2度と忘れられないぐらいインパクトのある『赤い髪』のちっこい女性だった。
赤髪のちっこい女性は杏樹のことをしげしげと眺めて、、
「その制服、ここのじゃないね。他所の高校から来たの?」
「中学生」
「ああ、学校見学?」
「そんな感じ。です」
「そう。で、こんなところで何やってんの? ここらへんは見るもんないだろ?」
バカなの? ――とでも続けそうな口調だ。
女性はちっこい身体に似合わず、その口調や、腕を組んで訝しげな表情作る姿は、ずいぶんと横柄な感じの人だった。
杏樹は女性の顔をジッと見つめ、静かな声で答える。
「第3体育館に行きたい……です。でも道がわからない。のです」
「ああ……そう――」
すると女性はしばしの黙考。やがて、一転、女性はケラケラと人懐っこい笑みを浮かべた。
「つまり迷ったのか。おう、いいよいいよ! 案内してあげる!」
まさかの天啓。
意外にいい人だ――と杏樹はホッと胸をなでおろす。
「ありがとう。……ございます」
「別にいいさ。第3体育館に何しにいくの?」
その質問に杏樹は「女子バスケの練習試合を見に行く。ます」と、正直に答えた。まあ、正直も何も隠すことでもない。
だが、女性は眉間にしわを寄せ、表情を歪め「え? なんて?」と、聞き直してくる。
杏樹はキョトン、と小首を傾げ、もう一度いう。
「女バスの練習試合を見に行、きます」
ふーん、と女性は何度か頷いた。そして、なにやら「うーむ……」と、考え事を始めてしまった。
何を考えているのだろうか。杏樹としては一刻も早く体育館に向かいたいのに――
「あの……お、お姉さん?」
ちなみに杏樹はこのちっこい女性のことを『お姉さん』と呼んだものの、最初は『お嬢ちゃん』といいそうになっていた。
だってこの人、どこからどう見ても小学生ぐらいの大きさなんだもの。しかし、その顔をよく見てみると、化粧はバッチリしてるし、佇まいもどこか大人っぽい。
何よりも、その髪の毛が『赤い色』をしているのが子供らしくない。炎のように真っ赤っ赤。いくらなんでも小学生はそんなファンキーでアグレッシブな染髪をしないだろう。
――この人は自分より年上だ。
杏樹はそこそこ背が高いから、自分より背の低い大人の人なんて何人も見てきた。だから彼女を『お姉さん』と呼んだのだった。
そして、それは正解だったようである。
「お? いいね。大人に対する敬意が払える子供は好きだ」
お姉さんは満足気にニンマリと笑った。「お姉さん」って呼ばれるだけで満足するあたり、たぶん、彼女は子供に間違えられる頻度が高いのだろう。苦労のほどが伺える。
それはともかく、
「あの……体育館……」
「ああ、はいはい、行こう行こう」
ようやっと歩き出したお姉さんはいった。
「それにしても女バスがまだあったことだけでも驚きなのに、練習試合ときたか……――ちょっと私も一緒に見てっていいかな? 女バス様の練習試合」
杏樹は、お姉さんのその言い方が気になったけど、めんどくさい空気を感じ取ったのでコクリと頷くだけに留まった。
2
それからの道すがらに、再びこんなことを聞かれた。
「身長は170ちょいぐらいかな? どこのポジションやってたの?」
杏樹がバスケ部を見に行くといった以上、それはバスケのポジションに関する質問だろう。
しかし、単順な質問なのに杏樹は困惑した。
どう答えればいいだろうか。
まさか『全部』っていったところで、意味がわかってもらえないだろう。
『私は全部のポジションができる凄い選手なんだぞ、ふふん!』なんていって、自慢してると思われたくない。
思春期だから、そういう細かいところが気になってしまう。
杏樹が黙々と考えふけっていると、お姉さんも困惑したようで、
「あれ? バスケやってるんじゃないの?」
「え、と……ポジションはセンター? ……でした」
そうして杏樹が、とりあえず出した答えは『センター』。
ゴールに最も近い場所に陣取るポジションだ。そして、そのほとんどが身長の大きな選手が任されるポジションでもある。
お姉さんは杏樹をつま先から頭の天辺までしげしげと観察して、いった。
「ほお。センター――にしては170ちょいじゃあ小さいね。ああ、すまん、馬鹿にしてるわけではないよ。『ポジションの割に――』、ってことね。最近は女バスでも180超えがゴロゴロいるからなー」
そこで杏樹はふと思う。今の言葉もさることながら、170超えの女子を(自分が超チビのくせに)小さいといえるのは、バスケを知っていなければ無理だ。
「お姉さんもバスケやってるの? ……ですか?」
「いんや。昔、マネージャーやってただけだよ。男バスのね。その頃いろいろ勉強したんよ。だからバスケに関してなら、そこそこ知識があるんだ」
それを聞いた瞬間の杏樹の表情は、全く微動だにしていなかった。
ただ、「へー」と、言うだけだ。
しかし、この時、杏樹の胸が高鳴っていたなんて誰が気づけるだろうか。その鉄壁のポーカーフェイスの向こうで、杏樹はそれはもう子供のように歓喜に打ち震えていた。ほら、よく見れば目尻が1ミリ下がってる。凄いご機嫌な証拠だ。
どうして杏樹がそこまで喜んでいるかというと、それは単純な話で、杏樹はバスケの話とコンビニのスイーツが大好きだからだ。それを語れる相手を見つけた時、杏樹はいつもこうやって喜んでいるのだ。喜んでいるのだ!
そういうわけで、お姉さんがバスケを知っているというのなら、杏樹が『全部』のポジションができるといっても、その意味を理解してくれるかもしれない。
だから、杏樹はいってみた。
「私の背でセンターは難しいって中学の先生もいってた……ました。でも私、もともとポイントガードだったから。その……」
「ああ、あれだ。中学校で一気に背が伸びたタイプなんだね。じゃあ、センターだけでなくて、他のポジションも全部できるのかな? むしろ周りが小さいから、やらされてた感じか」
ほら! わかってくれた。それはまさに杏樹が全部のポジションが出来る理由なのだ。
「そう、です。いろんなポジションやらされてちょっと苦労した。ました」
バスケではそのおおよそが、身長によってポジションが決められる。
だから杏樹は、中学生の時は身長の変遷とともにいろんなポジションをやってきて、そのたびに努力を積み上げてきた。
結果、副産物として全部できるようになったのだ。
「本当は、ポイントガードやりたかった」
「でも、いい経験ができたじゃないか。いろんなポジションを勉強することは技術の上達に繋がる。むしろ『一芸特化』なんてバスケじゃ使いどころが難しいから、よほど秀でてない限り使えないよ。だからいろんなことができるに越したことはない」
「そうなんだ」
そうなんだよ、といったお姉さんの表情は、妙に優しく見えてしまう。彼女は杏樹の知らないことを知る、やはり大人のようである。
「それにしても、そんなに背が伸びるなんていいよなー。私なんて小学校から伸びてないのに」
「……ごめんなさい」
杏樹がペコリと頭を下げると、お姉さんは「ずてん!」と派手に転んだ。
「確かに私がコメントしづらいこといっちゃったのは悪いけど、そこで迷いなく謝られたらすごい惨めになるからね!? ちくしょう!」
「傷つけたかと……」
「こちとら22歳だぞ!? 大卒だぞ!? とっくに現実を受け入れてるよ!」
「え……背が低くても大学って入れるんだ」
「そこに驚くの!? 当たり前だろ!? どういう誤解してやがるっ!」
「身長制限……ない?」
「大学は遊園地のジェットコースターじゃないぞ!」
はぁ……とお姉さんは深い深いため息をついて、立ち上がった。
「もういいよ……えーと、何の話だったっけ?」
「バスケのポジション」
「あー。そうだった……――大会はどこまで進めたの?」
杏樹はそれもまた正直に答えた。
「全国の三回戦」
「は? 全国出てんの?」
お姉さんはまるでUMAでも見たかのような、珍妙な表情を浮かべていた。それにしてもこのお姉さん、リアクションが忙しい。
なにやら杏樹の全国大会出場という経歴が、お姉さんを悩ませているようである。
それ以降、お姉さんは考え事というか頭痛に苛まれた様子で、口を閉ざしてしまった。
今度はお姉さんは立ち止まったりしないので、杏樹はとことことその背後をついていく。そして、黙々と思うのだ。
――全国って出ちゃいけないんだろうか。
――うん、そうよね。
――優勝できないなら、予選一回戦負けしたのと同じだもの。
――『てっぺん』以外は価値はないわ。
だから、高校生になったら――
「ほれ、ついたよ」
ふと、お姉さんがそういうと、いつの間にやら目の前に巨大な建物が現れていた。辿り着いたこの場所こそが第3体育館。杏樹が探しに探していたその場所だ。ちなみに校門から入ってすぐの場所である。
「はてさて、どんなコメディが繰り広げられてるやら」
一度肩をすくめたお姉さんは、体育館の中へと進む。杏樹は彼女の後に慌てて続いた。
3
第3体育館は外観からして大きく、そしていかにもできたばかりといった感じの綺麗な建物だった。
玄関口手前の数段の階段を登りガラス扉を開けると、すぐにフロアが広がっているわけではなく、エントランスホールになっていた。ところどころにブルーシートが張られている。
「2階はこっちかな?」というお姉さんにつき従い、エントランスホールを抜けて右手の階段を登っていく。
そして辿り着いた2階観客席。
眼下にあるはピカピカのフロアコート。バスケットフルコート一面分の床面積に加えて奥行きもあり、椅子を十分に並べられる広さがある。
杏樹が通う中学校の体育館にはバスケはもちろん、バレーボールやバドミントンなどあれやこれやとラインがゴチャゴチャと引かれていたが、ここにはバスケのラインしか描かれていない。つまり、第3体育館はバスケ専用の体育館ということなのだろう。
しかし、専用にしろ何にしろ、これを『学校の体育館』といっていいのだろうか――
杏樹は周囲をキョロキョロと見回して息を飲んだ。
そもそも杏樹が今やってきた『観客席』がおかしい。世間一般的な学校の体育館の2階といえば、手すりがついているだけの簡素なもののはず。ところが、ここには折りたたみ式のベンチがズラリと並んでいるではないか。
パンフレットによると、工事が終われば1階フロアにはシャワー付きロッカールームや、談話フロア、ミーティングルーム、トレーニングルームも備えられるようだ。
なんという贅沢な設備。豪勢な環境。この場所でちょっとした大会なら開けるのではないか。
「いやぁ私が居た時はまだ更地だったってのに、やっと完成したんだなぁ」
「卒業生……です?」
「そうだよ。日新の男バスのマネージャーだったんよ。ちなみに男バスは第1体育館にいるよ。なかなかイケメンがいるぞ?」
「へー」
「つまらん反応だな」
そんな雑談を交わしながら、お姉さんと共に観客席の一角に腰を下ろした。
最前列の椅子に座って足をブラブラさせながら、お姉さんはいった。
「ところで、日新学園のバスケ部を見に来るなんて珍しいね。何しに来たの?」
「私も日新学園に入るの……です。だから――」
そこで杏樹の言葉を遮って、お姉さんが驚愕の声を上げた。
「は? 全国まで出てんのにわざわざ日新に入るの!? 『八強』にだって入れただろ!?」
「『八強』……ベスト8?」
急に出された聞き慣れぬ言葉に杏樹は小首を傾げた。いや、八強という言葉自体は聞いたことはあるけれど――お姉さんがいったそれには、また別の意味があるようだ。
お姉さんはハッと我に返り、
「ああ、いや……ややこしいけど、東京は特定の8つの強い学校があって、まとめて『八強』って呼ばれてるの。東京の女バスはほとんどの大会で同じ顔ぶれが上位争ってるから、本来の使い方と混同しても問題ないけどね。中央実践とか、東雲とか、花村女子とか、聞いたことない?」
「あー。ある、ます」
『八強』――そのどこが一番強いというわけではない。8つ全てが全国クラスという恐ろしさ。
東京都の大会では、この8つの高校だけを覚えておけば、大体理解できるといわれてしまう。そういわれてしまう原因はお姉さんのいう通り、毎年毎年、春夏秋冬の大会の決勝リーグがこの同じ顔ぶれで行われているからだ。
無理からぬ話だ。『八強』は全てが全国レベルの強豪校――それは別の視点からいえば、東京都でトーナメントに参加する学校が全国の舞台を目指すには、予選段階で全国クラスのチームに、最大で8回も勝たないといけないということを示している。運良くトーナメントの組み合わせで幾つかを避けられたとしても、必ず『八強』のどこかとぶつかり、そこで潰されてしまうのだ。たとえジャイアントキリングが起きたとしても、それを2回、3回――と、続けることなど至難である。
もちろん、それを成し遂げんとする学校は多くあるし、近年では少しずつ少しずつ、その差が縮まってきてはいる。
しかし、ここは日新学園。
『弱小』と衆知されているここでは、『八強』に勝つどころかトーナメントの1回戦を突破できるかすら怪しい。
杏樹が中学校の全国大会に出場した経験があるともなれば、八強のいずれかの学校に入学できる資格はあったはずだ。強いところは強くなれるだけの環境が整っているし、当然、インターハイへの道は近い。
もし彼女がインターハイを目指すなら、絶対に八強の学校に入っていたほうが良かった。
――その資格をなぜ捨てた!?
お姉さんはそれを思って、杏樹の選択に驚き、頭を抱えているのである。
「推薦は難しいにしても、一般で受けなかったの? どっか強い学校」
「地元の高校は受けるつもりだった。けど、日新学園が推薦くれたから、こっちにした」
「ああ……お前が噂に聞く初の生け贄だったのか……」
何やらお姉さんは、どこかで『日新学園初のバスケ部特待生』の噂を耳にしていたらしい。
それにしても、このお姉さん、生け贄とは酷いことをいう。
お姉さんはさらにいった。
「お前だってインターハイに出たいって思うんだろ? どうして日新学園なんかに来たの?」
『日新学園なんか――』とは、なんとも酷い物言いだろうか。
杏樹は別に日新学園であることに不満はないから、ただただ困惑するばかり。
どうして来たかって、杏樹にはいえることはこれだけだ。
「私、インターハイ優勝するために来たんだよ?」
別に必ずしも、強い学校に入らなければ、全国大会に行けないというわけではない。それを決めるのは日々の練習であり、誰にだって、どんな学校にだってチャンスはある。
東京都の代表になるために、8つの全国クラスの学校を倒さないといけないのならば、倒せばいい。どうせインターハイに出たら、もっと強いところに勝たないといけないのだから。
そんなもの、どこの学校でだって、条件は変わらないじゃないか。
お姉さんはそんな杏樹の目をジッと見つめると、不意に小さく微笑んだ。
「ああ、そうだな。余計なお世話だったな。私もずいぶん歳をとったみたいだわ。ほんと、大人ってのは現実ばかり語るから、つまんないよな。あーイヤダイヤダ。自分で寒気がするわ」
お姉さんは「この話はおしまい」とばかりに手を振り振り、それから1階フロアへ視線を向けるのだった。
そうして話は終わったのだが、
どうしてだろうか、
――やれるもんならやってみろ。
杏樹の耳には、口を閉ざしたお姉さんの声が確かに聞こえた。
「うん、やるよ」
だから杏樹はそうポツリと呟いたけれど、当然、実際はお姉さんは何もいっていないのだから、返事は来なかった。
ただ、代わりに頭をグリグリと撫で回された。
その手は小柄な身体に似合わず少し大きくて、
現実を突きつけるような酷い言葉を吐くくせに、優しく、暖かく――
∞
先程からコートフロアでは、バスケットボールの弾む音がアチラコチラで響いている。試合に臨む2チームが、試合前練習を行っているのだ。
お姉さんがいった。
「ありゃ府中南高校だ」
今日の日新学園の練習試合の相手である。その学校の名は、杏樹は聞いたことがない。
「府中南って強い?」
「うーん……あそこは都立の普通科学校で、部活に特に力を入れているってわけじゃないからなぁ。まあ、真面目な学校だよ。日新と府中南は近所にあるから、昔っから練習試合はもちろん、合同練習やったりする仲なんだよ」
杏樹もフロアを見下ろす。日新学園の選手と、対戦相手である府中南高校の選手たちがコートを半面ずつ使って、それぞれ試合へ向けた準備を整えている。
片やベンチからちょっと溢れる程度の人数。こちらが府中南高校。
そして、片や5人――
杏樹はこの少ないほうが日新学園であるということはわかっている。日新学園は代々、部員が少人数だったということは、推薦の話を貰った時にちゃんと聞いていた。
とはいえ人数なんて、バスケが出来るだけの数がいれば問題ない。現時点で5人いれば十分だ。杏樹はそんなこと気にしない。
ただ、他の点で気になってしまうことがあった。
日新学園のベンチには選手が5人、確かにいるのだが、他にもいないといけない人物の気配がない。
「あの……日新学園のコーチは、あの隅っこで寝てる人?」
指導者が、いないのだ。
一応、ベンチには年配のどこにでもいそうなオジサンがいる。腕を組み、険しい顔で瞑想しているような表情を作って座っている。しかし、コックリコックリ、明らかにお昼寝中。いくら弱小校といえども、もうちょっとやる気を出してくれないと困る。
「いや、ありゃコーチじゃないよ」
すると、お姉さんは首を振る。
「あれは教頭。あのオヤジは顧問をやってるだけでバスケの知識は皆無だ。男バスとの兼任顧問だから、普段は男バスのほうで寝てるんだけど、こっちで寝てるのは珍しいね」
それを聞いて、杏樹は少しだけ安心した。
――いや、安心していいのだろうか。どうして顧問の先生って、部活中に寝てるのだろうか(偏見)。
そうともなると、誰がこのチームにバスケの技術指導を行っているのか――
「コーチはたぶん――」
お姉さんは、ジッとコートを見渡して、
「たぶんあの子だ。あの髪が栗色のモジャモジャした子。あの子が選手兼任監督でもやってるんじゃないかな?」
「はい?」
日新学園のベンチには一人の少女が、残りの4人に作戦を伝えている姿がある。あれやこれやと姦しく、乙女5人でキャッキャウフフと話しあう様は楽しそうではあるけれど――
「なんか懐かしいなぁ。私もあんな感じのことしてたんだ。昔は男バスにもコーチがいなくてさぁ。マネージャーの私がコーチやってて――」
「選手……兼任……?」
急に思い出話を始めたお姉さんだが、杏樹には聞いている余裕はなかった。
選手兼任監督なんて、その響きは年頃の少年少女からするとかっこよく聞こえるけれど、直面する当人たちからすると、苦労以外の何ものでもない。
来年度からはバスケ部を強化するっていうんだから、コーチも新任されるのだろうけど――
こんな現状を見せられてしまったら、さすがにそろそろ、杏樹もこういいたい。
――うわっ……日新学園のバスケ部、酷すぎ……?
杏樹の不安を察したのか、お姉さんがクスクスと笑う。
「まあまあ。私が学生の時と違って今の女バスは5人いるんだから、コーチがいない程度はマシさ」
「これで、マシ?」
コーチ不在以上に、ヤバいことって何さ――杏樹はゴクリと息を呑む。
「昔は学年関係なく、部員が3人しかいなかったしな。バスケがそもそもできねぇの」
それを聞いた杏樹は手すりに盛大に頭をぶつけた。そして、珍しく声を荒らげて、
「……よ、よく今日までバスケ部潰れなかったねっ!?」
「だよな? だから私も練習試合って聞いて驚いてたんよ」
「そりゃ……驚く」
この時になってようやく、お姉さんがやたらと日新学園の女バスに対して否定的だったことを、理解した杏樹だった。
むしろそれを知ったら、概ね同意してしまう。
誰よ、ここでインターハイ優勝するなんていったのは――なんて思ってしまう。
しかし、もう入学は決まっているのだ。それに来年からは改革されるのだから、過去は関係ない。
杏樹という特待生自身が、その改革の一つの要素じゃないか。苦労は多いだろうが頑張るしかない。
――そう、新年度から変わるんだ。頑張れ、私。
自身にエールを送る杏樹。
そんな杏樹を見て、お姉さんは楽しげに微笑みながら、こういった。
「とはいえ、日新学園の女バスは何も変わってないし、これからも変わらないだろうね」
「変わってない? ――か、変わらない?」
何その死の宣告。
それは困る、という表情を作る杏樹を見て、お姉さんはさらにケラケラ笑った。
「心配すんな。悪いことじゃない。あいつら、どいつもこいつも楽しそうだろ? あれは昔っから変わらないものだね。『バスケを楽しむ』、日新学園の唯一誇れる『伝統』ってやつだ。いや、人数が少ないことが伝統だったかな? まあ、どっちでもいいや」
「人数が少ないのは……――どっちでもよくないよ」
バスケを楽しむ――
そこにどんな価値があるのだろうか。試合に出れなければ、練習もまともに出来ない。そんなもの、意味が無いじゃないか――
お姉さんはそれ以上は語らず、ただただ、楽しげに微笑むだけだった。
――もう、いいや。なんとかなるさ。
杏樹はため息とともに脱力して、深々と椅子に座る。
そして、ふと、目を上げて向かい側の2階席をぼんやり眺める。
そこには父兄が数名並んでいた。人数的に日新学園の父兄だろう。練習試合にまで父兄の応援が来るなんて、これがなかなか珍しい。応援幕まで張られている。まあ、たまにはこういうこともあるから、それは別段、気になることではない。
ただ、その中で、隅っこの方にいる女の子が杏樹は気になった。
父兄の集団の端の方、最前席に座って手すりに齧りつくようにしてコートを見下ろす女の子。まだ試合も始まっていないのに、コートの選手を見つめて楽しそうに目を輝かせている。
あの子は杏樹と同い年ぐらいだろうか、頭の上でちょこんと縛った特徴的な髪型が可愛らしい。
――ちょっと丸めのパイナップル……いや、玉ねぎ。
そんなことを思っていたら、不意に試合開始1分前を告げるブザーが鳴った。
もうすぐ試合が始まる。我に返った杏樹は再びコートに視線を戻す。
さて、来年度から改革されるという弱小校の現状は、いかがなものか――
∞
選手たちはベンチに戻り、コートがガランと広くなる。そして、1人、1人と試合に出場するメンバーがコートへ向かう。
それを眺めつつ、今さらになって杏樹はお姉さんに自己紹介をした。そこでたどたどしい敬語を突かれたりして、「喋りたいように喋りなさいよ……」と、呆れたようにいわれた。
それと、もう1つ、お姉さんはいった。
「お姉さんもいいんだけど、『先生』って呼んで!」
意味はわからなかった。お姉さんはキラキラとした眼差しで、杏樹のことを見つめてきたけど、結局呼び方を変えることはなかった。お姉さんは残念そうに舌打ちをしていた。
そんな得体の知れないお姉さんであるが、そのバスケの知識は確かなもので、隣で解説してくれる内容は大いに勉強になることは確かだった。
コートの上では五人ずつの選手たちが向かい合い、審判がボールを持って中央に立つ。
――ティップオフと同時に試合開始だ。
その直前、お姉さんはふと、こういった。
「女バスっていいよな。バスケはデカイ選手のほうが有利なスポーツだけどさ、女バスは男バスと違って、身長とかバネとかの天賦の才能の差異が少ないから、どんな試合でも『練習によって培った実力』の勝負が見れる。一番練習してきた奴が一番活躍して、最も練習を積み重ねたチームが最も強い。当たり前のようだけど、女バスではこれがまた顕著に見られて面白い」
そして、こう続けるのだ。
「だからジャイアントキリングだって、起こせるだろうさ」
4
――試合は滞り無く進んでいる。
【府中南 34 ‐ 32 日新】
第3Q(※)を終えた時のスコアは、僅か1ゴール差。スコアだけを見ればいい試合である(※クォーター。バスケは1試合4Q制で行われる。第1Qと第2Qが前半、第3Qと第4Qは後半だ)。
しかし、この僅差の要因は府中南のミスの多さにもあるのだろう。
「日新学園が取った32点のうち、半分以上がターンオーバー……」
ターンオーバー――いわゆるカウンター。相手のボールを奪ったり、相手のミスからすぐさま速攻に走り点数を獲得することをいう。
この試合、パスミスだったり、ドリブルミスだったり。どうでもいいところでファールをしたり――それが多いのである。ただ、それは府中南だけでなく、日新学園も大差ない。どっちもどっちのひどい内容であった。杏樹のいた中学校の方が強いのではないかというレベルだ。
「予選の最下層同士の戦いなんてこんなもんだよ」
そういうのはお姉さん。
「それでも日新学園はとんでもないバケモンを抱えてやがる。どっから来たんだ、ありゃ?」
お姉さんが視線を向けるのは、先程から話題に上がる選手兼任監督らしき15番の少女だ。
「あの子、番号も大きいし、試合中に味方全員に『先輩』ってつけて呼んでたから、1人だけ1年生なのかもね。長い付き合いになるかもしれないから顔を覚えておくといい」
お姉さんにいわれずとも、杏樹の目にはしっかりとその姿は焼き付いていた。
ここまで日新学園が追いすがっているのは府中南のミスによるものが大きい。しかし、そのミスを見逃さない日新学園の15番の少女の卓越した能力こそ褒められるべきだろう。
背丈もそこそこある。スピード、ドリブル、判断能力、視野の広さ――そのプレー、1つ1つから垣間見せる技術の高さは、このコートに場違いも場違いな選手であった。
その実力たるや、その気になれば、『単独で府中南に勝てる』のではないかと思えるほどだ。
「でも――」
そこで杏樹は眉根を少しだけ下げて困った表情を浮かべると、小さな声でこういった。
「手を抜いてる……」
そう。だってあの15番が『その気になれば』、この試合は日新学園が大差をつけてリードしていると断言できるのに、今は負けている。
「そうだね。でも、たぶんなんだけど、この試合はあの子が手を抜いてることを、周囲も承知してると思うよ。だから、手を抜いているというよりも、あの子が『周りを立ててる』っていったほうがいいかもしれないね」
「どういうこと?」
「この試合はアレだ」
お姉さんは向かいの観客席の父兄を見て、いった。
「空気的に『引退試合』っぽい感じがするんだよね。練習試合であんなに全力で応援する親御さん、いるにはいるんだろうけど、そうそう見ないよ。この感じってさ……なんか、これが最後みたいな空気じゃない?」
「ああ、確かに……」
杏樹にもそれはなんとなく感じ取れたのだった。
∞
第4Qは府中南ボールから始まった。
コートの外側から府中南の8番の選手が、4番の選手にパスを入れる。
そこから4番の動きがピタリと動きが止まる――いや、止められた。日新の15番が張り付くようにディフェンスをしているのだ。
府中南の4番はポイントガード(※司令塔。パス回しの起点のポジション)であるのだが、この第4Qまで、一度たりとも仕事をさせてもらえてなかった。全てのプレーが15番に止められて、その力強い『当たり』に打ち負けていた。
府中南4番がドリブルをついても、すぐさま15番の体幹にぶつかって、後退してしまう。
「あんなに身体ぶつけて、ファールにならないの?」
「あの程度でファールを取られたらディフェンスなんて出来ないって。あの子は押したり叩いたりしているわけじゃない。ちゃんとフットワークで相手の前に回って、体幹で進行を防いでるだけだ。そもそも審判の笛が鳴ってないだろ? 基本だ基本。当たりに負ける方が悪い」
バスケはオフェンスとディフェンスが接触してはいけないと世間一般的には思われているが、実際には接触の場面は多い。それはもうガッツンガッツンと。女子バスケでも青たん擦り傷は当たり前。痛くて痛くて試合中に泣いてる子だっている。選手として自立し始めた高校生の試合ともなると、おまけに罵声が飛んだりする。
「高校のバスケ……怖い」
「困ったり怖がったり、忙しいやつだな……」
フロアでは4番が苦し紛れに出したパスを日新学園の選手がカット。
すぐさま切り替えて日新学園のオフェンス。
ボールを受け取った15番がドリブルでフロントコートへとボールを運ぶ。
府中南のディフェンスは『マンツーマン』。各自が決められた選手に1対1でディフェンスをするという、全てのディフェンスの基礎となるフォーメーションだ。
15番は右へ左へ、ゆったりとしたドリブルをつきながら、敵味方の動きを観察している。
ハイポストと呼ばれるフリースローライン上を味方が走り抜けると、遅れてディフェンスが追いかけてくる。そのディフェンスはどうやら自身のマークマン(※自分が担当してディフェンスをする相手)のみに意識が行っていて、ボールマン(※ボールを所持している選手)の15番のことは目に入っていないようだ。つまりディフェンスがボールを見ていない、ということだ。
次の瞬間。
15番の少女は唐突にスピードを上げてゴールに向かう。
「おお、うまい!」
慌てて府中南4番が追いすがろうとするのだが、タイミング悪くポストを走り抜けようとしていた別のディフェンスに激突していた。
ディフェンスのトラブルで、15番の少女は悠々とフリーになり、そのままシュートにいくのかと思いきや、
「まただ」
杏樹がポツリと呟く。その視線の先で15番がシュートをうたずにパスを出す。
「ハッチ先輩! シュート!」と、15番は快活に声を上げる。
ボールを受け取った日新学園の5番がシュート。リングでガタガタと危うげに跳ねながらも、ネットに吸い込まれる。
【府中南 34 ‐ 34 日新】
点数が並んだ。日新学園の少女たちは大盛り上がり、ハイタッチを交わしている。
しかし、杏樹はそれを見て納得がいかないとばかりに顔をしかめる。
今のプレー中に起きたディフェンス同士の激突は、15番によって引き起こされたものである。ディフェンスの意識の向いている方向と、動きを把握し、ディフェンス同士をぶつけてノーマークを強引に作ったのだ。相手の動きまでコントロールするなど、並大抵の選手ではできるものではない。
ただ、そこまでできるのに彼女はシュートをしないのだ。
「あれはわざと『ハッチ先輩』とやらにシュートを打たせてるんだろうね」
その意味は――、
「……引退試合だから?」
「やっぱり間違いないね。時期があまりに早過ぎるけど、なんか事情があんじゃね? そもそも教頭がちゃんと顔を出しているのもおかしいし。父兄もいるし。たかだか練習試合で正式なユニフォームも着てるし。審判までB級だけどどっかから呼んでるもんな」
お姉さんはコートを――15番の少女を見つめ、こう続けた。
「それに、あのワカメちゃん。4クォーターが始まってからずっと、泣いてるしな」
∞
試合終了が近い。
決して上手いというわけではない。熱狂するようなスーパープレイがあるわけでもない。所詮は弱小同士の練習試合だ。それなのに、その真剣な空気にあてられて杏樹は見入っていた。
「そういえば、杏樹はどこでこの練習試合のことを知ったの?」
杏樹はその問いかけに、しばしの間を置いてから答えた。
「日新学園の『カントク』って人から、家に電話があった。『是非、見に来て欲しい』って」
「なるほどね」
そして、最後のブザーが鳴り響く。
【府中南 48 ‐ 46 日新】
結果は惜しくも日新学園の敗北だった。
「この試合には勝ち負け以上の価値があったな」
試合が終わるなり、泣き崩れるハッチ先輩を中心に、敵味方入り乱れて讃え合う。
そんな様子を眺めながら、お姉さんはいった。
「全力を尽くしたからこそ、涙を流せる。あれは決して偽物じゃない。上手いとか下手とかの枠組みを超えた価値のあるものだよ。昔っから日新学園の女バスはそうなんだ。人数が少なくて、まともに試合もできなかったけれど、バスケが大好きなバカヤローばかりなんだ。そんなあの子達がいたからこそ、明日もここにバスケ部がある。推薦入学をするのならこれは絶対に忘れちゃいけないことだろうね」
するとお姉さんは眼下にいた教頭先生と目を合わせたかと思うと、ペコリと頭を下げて、踵を返す。
「見に来て損はなかったな。『カントク』に感謝だ」
15番の少女が6番の先輩に花束を渡している光景を背に、杏樹はお姉さんに連れられて体育館をあとにする。
そっちが校門だから、間違えんなよ――お姉さんとお別れの時が来たようだ。
「今日はありがとう。ございました」
「いいっていいって。んじゃ、新学期にまた会おうなー」
お姉さんはひらひらと手を振って、校舎に向けて歩いて行く。
「新学期?」
ああ、なるほど。『先生』ってそういうことか。
杏樹はようやく得心がいき、ふむ、と頷いた。
「背が低くても先生になれるんだ」
……当たり前だ。
∞
帰り道。杏樹はふと空を見上げる。
あの15番の姿が目に焼き付いて離れない。
誰よりも上手いのに、明らかに実力の劣る先輩たちと手を取り合って、楽しそうにバスケをする。どんなに周りがミスをしても、決してそれを咎めず、憤らず、自らそのフォローをする。
そして、そんな15番の少女に引っ張られるようにして、仲間たちが実力以上のものを出す。『チーム』というものが、ここにはある。
杏樹はそれをなんとなく、羨ましいと思った。
「あと1ヶ月だ」
高校生になるのが、少しだけ、楽しみになった。
余談だが、杏樹は帰路も迷いに迷い、日新学園の最寄駅に辿りついたのは、1時間後だった。
5
そして、
その会場には、もう1人の日新学園に進学を決めている少女がいた――
父兄に紛れ、隅っこの方に座っていた少女。
ぴょこぴょこと揺れるアンテナが今日もご機嫌に揺れている。それは他の誰でもなく、ちょっと丸めのパイナップルこと、璃々だった。
ここに璃々が出現している経緯は、まず、今朝も1人でお散歩をしていたことから始まる。
そのお散歩の道中。駅前を通りかかったところで、府中南高校のバスケ部のジャージを着た集団が、ぞろぞろと列をなして日新学園に向かおうとしているところを見かけた。そこで璃々は敏感に練習試合の匂いを嗅ぎ取って、後をつけてきたのである。
璃々はバスケの試合会場がどうのように設営されるか無駄に詳しい。
だからしっかり日新学園側の応援席にいたのである。でも、父兄の皆さんからは「誰だこいつ?」と思われていたに違いない。璃々は細かいことは気にしない。
そうしてバスケを楽しんで、試合が終わるなり、そそくさと体育館から去っていく。「お疲れ様でしたー!」なんて元気に挨拶をして。「だから誰だよ?」って思われていただろう。
体育館を出る頃には時刻はお昼を過ぎて、おやつの時間。ご機嫌に帰路を行く璃々は、試合展開を思い返して、その感想をポツリというのだ。
「試合内容は悪いけど、良いチームだ!」
璃々がいうとすんごい偉そうな言葉であるが、本当にそう思ったのだから、仕方がない。
今日の試合は、上手い下手は差し置いて、それまで歩んできた道程が偽りではないことを証明する本気の気持ちが十分に伝わってきた。
それに加えて、『試合の背景』を知ってしまったら、思わず涙腺だって緩くなる。
試合の間、父兄さんから、いろいろな話を聞いた(というか盗み聞き)。
なんでも、日新学園の最上級生の一人が、この春に家庭の都合で転校することになってしまったそうだ。だから、この練習試合はそのお別れ会として組まれたものらしい。長く交流をしてきた府中南高校側もその事情を知っていて、付き合ってくれたという。
少人数で取り組んできた部活だ。その絆はさぞかし固いものだっただろう。それは試合を見ていれば容易に分かった。
――誰だかわからないけれど、ハッチ先輩、転校先でも頑張ってくださいね。ぐすん。
本当に今日はいいものが見れた。
日新学園の体育館は綺麗だった。選手たちのバスケに対する姿勢もかっこいい。凄いうまい人もいた。
璃々はもうすぐあそこでバスケをする。これは素晴らしいことだ。
観客席からベンチへ。そして、コートへ――それを思い描くだけで興奮が止まらない。
「あと1ヶ月だ!」
早く試合に出たい! それでそれで、あの15番さんみたいに大活躍するの! ――と、思うは自由なのだが、璃々はバスケのルールを知っているだけで、まだシュートもドリブルもできないどころか、運動だって体育の授業以外でやったことがないのだが大丈夫だろうか。
そこで、ふと璃々は閃いた。
「あ、そうだ! 自主練しよう!」
バスケットボール選手たるもの、事前準備を念入りに行うことは大事なことだ。
璃々も、さすがにわかってはいたようだ。
――――つづく。