近づく出番
1
聡子は愛羅と勇羅につまみ上げられて、ベンチに帰ってきた。
その足はガクガクと痙攣し、唇は青くなっている。
わずか5分足らずの短い時間でも、過度の緊張の中で過剰な運動量を強いられていたから、過呼吸からの酸欠を起こして、本来持っていた体力がなくなる前に、身体が悲鳴を上げたのだ。強豪校のプレッシャーと翠華の相手は、それほどまでに初心者には耐え難いものだった。
――たまこっちはこれに耐えられるのね……。
聡子は玉子が意外にすごいことを知った。内緒だけど、どっこいどっこいだと思ってた。
「うう……ごめんなさぁい……」
「いや、よくやった。あのカットインは瞬間的には咲を超えてたぞ?」
初心者の聡子にそれほど嬉しい言葉はない。聡子は声も出さずに静かに涙をこぼしていた。
交代で出場するのは佳奈だ。
「やることは聡子と同じだ。死ぬ気で行け。身長はお前のほうが勝ってるからな」
「は、はい!」
佳奈は三バカの中でも基礎のできている選手である。聡子のような運動能力での優位点はなくとも度胸があるし、ディフェンスに取り囲まれても慌てるようなことはないだろう。
「さて、いよいよフリースローを決められたら3点差だ。ここから相手のプレッシャーも跳ね上がるだろう。だが追い上げられているからって勘違いすんな。ここまでは私の立てた筋道通りだ。そこから外れていない以上、勝てる」
タイムアウトが終わり、コートに戻っていく選手たちの背中を見送り、零奈はそのまま視線を隣のベンチに移し、いう。
「璃々、しっかり見てるな? 第4クォーターの頭から出るからな?」
璃々はバクンバクンと騒ぐ心臓を抑えこむのに必死である。
その視線の先では翠華がフリースローを決める姿がある。
【日新 41 ‐ 38 実践商】
いよいよ3点差まで追い上げられた。そして更には零奈のいっていた通り、激しいプレッシャーが日新学園を襲う。それでも璃々の仲間たちは、懸命に戦っている。
――璃々は、ここに出て何ができるだろう。
今はそれを必死に考えていた。
∞
その後、あれよあれよと点を奪われ、あっという間に点数を逆転された。
【日新 41 ‐ 48 実践商】
やはり山下翠華という絶対的エースがコートにいる限り、主導権があちらに握られてしまう。
気がつけば3分もの間、日新学園は無得点だった。
日新学園の選手たちの疲労感は尋常ではない。点を取れないという状況は選手の精神とともに体力を削るのだ。
このままではまずい――
日新学園の選手たちは、なんとか攻勢に転じようとチャンスを虎視眈々と待っていた。
そして、残り時間が2分強。中央実践の攻撃。
翠華から、4番にボールが渡る。4番の選手はシューターのポジションに就き、さらに中央実践商業という強豪校のキャプテンでもある。しかし、ここまで咲が完璧に抑えこんでいるために、その仕事を果たしていない。
この4番もまた、当然、3年間の厳しい練習を乗り越え、チームを支えてきた大黒柱だ。
――だから、咲に止められたままではいられなかったのだろう。
シュートを構え、咲の足が僅かに動いた瞬間、ドライブを仕掛ける。
そのスピード、ドリブルのコントロールたるや「シュートだけだと思うなよ」と存分に語っていた。
ダン! と、力強いドリブル。力強い踏み込み。
すると咲は、まるで回転扉のように道を譲って、あっさりと抜かれてしまった。
――ように見えた。
直後に、翠華の声が4番に向けて飛ぶ。
「そいつと無理に勝負するな!」
だが、その警告は遅かった。
瞬間、
咲は自身を抜き去っていく4番のドリブルを、後ろから弾き飛ばした。
相手にわざと抜かせて、背後から隙を突く『バックファイア』という高等技術である。
「佳奈!」
ボールが吹き飛んだ先には佳奈がいた。
しかし、そのボールのスピードはパスのそれとは桁違いに速く、佳奈はバチン! と音を立ててボールを弾いてしまう。
ボールは高々とコート外へと飛んで行く。このままアウトオブバウンズになるか、と誰もが見送っていた。
――佳奈以外は。
だって、
――これを取れば、反撃できるんだ!
思うと同時に、佳奈はボールを追いかけて、しっかりとラインの内側からジャンプ。空中でボールを掴みとる。
「左! ぶん投げろ!」
咲の声に反応し、佳奈はコートの中へとボールを放り投げた。そのまま佳奈はコート横の中央実践ベンチ、パイプ椅子の中へ飛び込んでいく。
佳奈が捨て身で拾ったボール。それを受け取ったのはもちろん、咲。
咲はそこから圧倒的なスピードで中央実践の選手たちを抜き去っていく。
最後の障害はやはり翠華――
「かかってこいよ、2年!」
「ゼェ……ゼェ……歳ばっか気にして、うっさいやつねぇ」
咲はゴール下で、ピタリと止まってポンプフェイク(※ボールを上げ下げさせるフェイント)。
「――っ!?」
翠華がフェイクに引掛かると、咲は飛ぶ。
それも、翠華に体をぶつけるように――、
「ゼェ……ほら、お返しよ!」
翠華の手が咲の手に絡む。
ピッ! 笛が鳴り、そして咲が放ったシュートが決まる。
これまたスリーポイントプレーである。愛羅と勇羅がやられたものを、咲がやり返したのだ。自分事でなくとも、仲間がやられたら許せない。咲は負けず嫌いである。
これで少しは相手の勢いを押しとどめられただろう。
しかし、
「いやぁ……しんどい」
咲は小さくボヤいていた。
チームの最上級生とはいえ、まだ2年生。全国屈指の選手を相手にし、おまけに彼女は1年生のフォローをするために、人一倍の運動量を強いられている。これだけの仕事をしていて、しんどくないわけがない。
もう咲の体力はかつかつである。
正直にいえば先程の『バックファイア』は狙ったものではない。単純に疲労で足がついていかなくて、抜かれてしまったからやっただけである。すました顔をしていたが、内心では成功してホッとしている。あれはファールが取られやすいプレーなのだ。
翠華が1年だ2年だと、小馬鹿にするようにいってくることはあながち間違っていない。2年生と3年生。この1年の差というものは、特に体力に大きく現れる。
「ハァ……まあ、そんなこと最初からわかっていることだもの」
勝利のためには、翠華がコートにいる限り、咲だってコートに居続けないといけないのだ。
とはいえ、このままでは不味いだろう。根性だ何だには現実的な体力という限界がある。だから、山下翠華を抑えるための方法を考える必要性がある。出来る限り省エネで。
――あのチビがお腹を壊して帰ってくれたりしないかしら。しないよね。
審判が『T.O』(※『テーブル・オフィシャルズ』。タイマーや、得点、ファールの数を管理している場所)にファールの報告している姿を眺め、咲は深い溜息をついた。
T.Oのスコアラーが翠華の個人ファール数を表示する――『3』。
「3つ?」
声を出してもう一度、確認した。
「あらあら、またずいぶんと手癖が悪いお人だわ」
――見つけた。
咲は体力がかつかつなことなど頭のなかからすっ飛ばし、勝利への道を見出した。
∞
咲のフリースローの前にレフェリータイム(※選手の負傷などがあった場合に一時的に試合が止まること)が取られた。パイプ椅子に突っ込んだ佳奈が額を切ったのだ。
佳奈は泣いていた。だって痛いんだもの。
ベンチに帰った佳奈を、零奈が暖かく迎える。
「ナイスプレーだった。それぐらいの傷なら痕は残らないから安心しろ。お嫁に行ける」
「ぐすっ……良かったです」
選手の流血が酷い場合、止血に時間がかかるようなら交代しなければならない。
代わりに出場したのは綾乃である。チームの中で一際小柄。それでも賢く、バスケのことをよく勉強しており、自分の『役割』というものをよくわかっている選手だ。
さらに、
「あと、愛羅は玉子と交代」
「はぇ!?」
愛羅が抗議をする間もなく、すぐにT.Oが交代を認めた。
「れ、れーなセンセー? いいの? 私がいないと負けちゃうよ!?」
「その通り。勝負どころでお前がいないと負ける。だから第四クォーターまで休み。しっかり疲れをとれ。それはもう日曜の遅く起きた朝の寝覚めぐらいにスッキリしろ!」
「逆に頭がぼんやりするよ!」
ぶつくさと文句をいっていた愛羅だったが、やがてどっかとベンチに腰を下ろした。
今のコート上のメンバーは咲、杏樹、勇羅、玉子、綾乃である。
「オフェンスリバウンドには行かなくていい。誰かがシュートをうったらすぐに戻れ。全員アウトから攻めろ」
残り時間が2分程度なら、このメンバーでも食らいつくことができるだろう。
∞
咲がフリースローをしっかり決めるも、愛羅が引っ込んだことによって高さのアドバンテージがなくなり、点数が離されはしないものの、得点のペースが落ちていく。
残り時間、30秒ちょうど。
【日新 46 ‐ 55 実践商】
この9点差という数字は、前半終了時点の点差がひっくり返った形だ。
現在、中央実践がボールを保持している。おそらく、中央実践はポイントガードの性格から、第2Qのお返しとばかりに点差を二桁にして第3Qを終えようと考えているのだろう。
だが、そうはいかない――日新学園の選手たち全員がそう思っていた。
その気迫ゆえか、翠華からセンターへのパスに杏樹が割り込んだ。愛羅がいないのだからインサイドから攻めてくるのは定石だ。読むのは容易いことだった。
しかし完全にカットができたわけではない。ボールに触れはしたのだが、パスの軌道を変えただけである。
ふわりと浮いたボールを、すぐさま相手方の6番が保持しようと飛び上がるのだが、今度はそれを勇羅が背後から、ひょいと手を伸ばして思いきり打ち上げた。
高々と宙を舞うボール。
玉子がリバウンド時のスクリーンアウトと同じようにポジションを取り、ボールを奪い返そうとしてくる翠華の進行の阻害をする。
翠華の動きが止まったとあらば、あとは日新学園のエースが何とかしてくれる。
「全員! ――走れぇえっ!」
そして、咲がバレーボールのスパイクのように、ボールをフロントコートへ吹っ飛ばした。
残り時間を考えれば、これでもう中央実践に点を奪われる心配はない。さらにフロントコートにボールをふっ飛ばしたことにより、それを拾えば日新学園のゴールはすぐそこだ。
このボールの所持権が重要な事は全員が理解していた。それは中央実践とて同じである。
一様に状況を理解し、ボールを追って駆け出そうとした、
この時。
誰よりも早くボールを追っていたのは――綾乃だった。自分の身長。仲間たちの意図。残り時間。それらから自分が何をすべきかを考えて、真っ先に走りだしていたのだ。
それでも身体能力の差異の悲しさかな。あっという間に、敵味方に追いつかれてしまう。
――ボールはもう、目の前にあるんだ。
綾乃は、まるで雪原を低空飛行する野うさぎのように、大きな選手たちの中、小柄な体を活かして隙間から潜り込み、ボールを拾った。
ベンチから零奈の声が飛ぶ。
「うてっ!」
綾乃はいわれずともしっかりゴールを狙っていた。位置は零度。横から見たバックボードがゴールに添えられた補助線となって見える。
ここからなら――
そして、「よいしょ」とシュートをうつのだけど、
ガン! とボールはリングに弾かれる。
「あぅ!?」綾乃はショックで肩をすくめる。
「任せい!」
勇羅が跳んだ。そして、ボールを空中でゴールに向けてタップし、押しこんだ。
それとほぼ同時に第3Q終了のブザーが響いていた。
勇羅がボールをタップしたあとにブザーが鳴っていれば得点、そうでなければ得点として認められない。
審判の判定は――両腕を交差する仕草。
それは惜しくも、ノーカウントの判定だった。
「ああ! ちくしょう! ギリ間に合ったと思ったのに!」
「まあ、いい。綾乃もよく取った! ビッグプレーだ!」
観客席からも歓声が轟く。
いつの頃からだろうか、この時、勢いは日新学園にあった。
――つづく。




