バスケって辛い。その1
1
かの敗北から数日。ゴールデンウィークが明けたその日。
練習が始まる前に、零奈がメンバーをミーティングルームに集めた。
「はい。東京都予選の組み合わせと、大会要項の冊子」と、パイプ椅子に座って足をぶらぶらとさせる零奈は、書類の束を咲に手渡した。
「明後日にはもう、1回戦と2回戦があるんですね」
「そう。しかも勝てばダブルヘッダー。つまりダブルヘッダー」
東京都のインターハイ予選は5月の第2週から始まる(ちなみに関東大会を勝ち抜いていると、期間がもろに被るけれど、関東大会本戦に出る学校はシードを与えられているから、初戦は6月になる。日新学園の初戦は5月頭からだから準備期間もだいぶ変わってくる)。
約340の学校がAからDの4つのブロックに分けられ、そこで勝ち抜き戦が行われる。さらに各ブロックの1位の計4校が決勝リーグに進むことができる。そこで総当りで戦い、上位3校が全国大会に進むのだ。
日新学園はCブロックの一番小さい山からスタートだった。
「6回勝てば8位以内入賞。7回勝てば決勝リーグだ。全国に行くには10回は勝たないとな」
これから勝ち抜いていけば、5月と6月のほぼ2ヶ月間は毎週末に試合を行うことになる。全国大会というステージに立つには、とてもとても、長い道のりである。
「すんごい遠いね」と、勇羅がボヤく。
「そりゃ、仕方ないこった。新チームがいきなりシード権なんて貰えるわけがない」
そして零奈は一同にトーナメント表が行き渡ると、難しい顔をしていった。
「この前の練習試合の結果から分かる通り、山の下の方の戦いは大丈夫だろう。うちの山の最大の試練は第5試合――スーパーシードと当たる日だ」
零奈のいう第5試合とはブロックトーナメントの準々決勝、そこはスーパーシードの緒戦であり、漏れること無く強豪が居座っている。そこにある名は――、
璃々が嬉々とした声を上げた。
「あ、中央実践だ! すごい!」
あー……――と、皆が声を上げるのも当然だった。それも璃々以外はちょっとだけ弱気な声だった。
『中央実践商業高等学校』もまた、『八強』の一つに数えられる学校である。
例年、インターハイ、関東大会出場を当前のように果たしており、先日行われた今年度の関東大会予選では東京都1位という座を勝ち取っている。おまけに、先日戦った八王寺学園を関東大会予選から蹴落とした学校こそ、中央実践なのだ。
つまりもなにも、現時点では、東京都で1番強い学校だった。
「だが、試練ではあっても問題ではない。実践とあたるのは1ヶ月後だ。時間は十分ある。チームができた時よりも、八王寺に負けた時よりも、力をつければそれで済む」
それに日新学園は強豪の強さを身にしみて知っている。暗中を模索するのではなく、明確な基準があるのなら、やってやれないこともない。
「今度は八王寺の時のようにはいかないさ。な?」
少女たちだってやる気がないわけではない。負けるのは1度で十分だ。
だから、少女たちは勢い勇んで、練習に臨むのだった。
∞
それは、予選の第1回戦、前日の事だった。
「明日、璃々も試合に出して! ください!」
てかてかと輝く満面の笑みで璃々はいった。
璃々もいい加減に技術は身についてきている。さすがに練習試合の時のような失態はもうしないだろう。そろそろ『普通に』試合に出たい。だから、思い切って零奈に直訴したのである。
先生のお仕事中だった零奈は手を止めると、璃々のキラキラお目目を見返した。
「なんで試合に出たいの?」
「璃々、上手くなりました!」と、璃々は腰に手を当て胸を張り、やはりてっかてかの笑みで答えた。
しかし、そんなことコーチである零奈は知っている。璃々の成長は著しい。バスケのことをよく知っているというアドバンテージは成長にすら影響するようだ。
それでも、
「で、上手くなったからどうしたの? なんで試合に出たいのかを私は聞いてるんだけど」
と、零奈はなんだか冷たい。
上手くなったからどうした、といわれたら、璃々にはなんと返せばいいかわからない。身につけた技術を試合に出て披露したい。ただ、それだけなのに。
正直にそれをいってみると、零奈はやれやれと首を振った。
「じゃあ、ダメ。部活は遊び場じゃないんだぞー?」
「そんなことわかってますよ」
「いいや、お前に限っては絶対にわかってないね。そんなんじゃあ周りに迷惑かける」
「もしそうなったら交代してくれればいいじゃないですか。とりあえず試合に出たい!」
「ダメなものはダーメ!」
「インターハイ予選からは出してくれるっていった!」
「そう思ってたけど、勉強が足りてないからダーメ」
さらに、零奈はため息をつき、こういった。
「お前は、バスケの練習を何のためにしてるの?」
璃々にはどうしてそんなことを聞かれるかわからない。そんなもの「上手くなるため」に決まっているじゃないか。素直にそう答えると、そこで零奈は「ああ、なるほど」と、しみじみと頷いていた。
「指導案を書いてる時に、ハゲオヤジがグチグチ文句いってきた理由がわかったわ」
「何の話ですか?」
「気にすんな――ともかくお前は練習して、上手くなって、どうしたいのさ?」
「璃々、『バスケットボール選手』になりたい!」
璃々は子供の頃からテレビで見てきたヒーローたちのように、かっこいいバスケットボール選手になりたいのである。そして試合で華麗な技を披露するのだ。
「なあ、璃々。お前の憧れてきたバスケットボール選手っていうのは、どうしてかっこ良く見えると思う?」
「バスケが上手いから!」
璃々は即答。
すると零奈は再びため息。
「下手くそでもかっこいい選手はゴマンといるよ。彼らがかっこよく見えるのは、技術云々とは別の理由がある。その理由がわからないなら、やっぱりお前を試合には出してやれない」
今度こそ、零奈はきっぱりと断言した。もうこれ以上のわがままは聞いてやらん、とばかりに先生のお仕事に取り掛かってしまう。
もはや取り付く島もない。
こうなったら璃々はもうご立腹。「じゃあ、いいもん!」と、プンプンと頬を膨らませて、零奈に背を向けた。
それから璃々は1度も振り返ることもなく、ずんずんと歩いて行き、体育館を出て行った――かと思ったら戻ってきて、明日の試合に持っていくボールや折りたたみ式のボール籠などの荷物を準備していた。
璃々はそれらの荷物を持って、再び体育館を出るところで一度振り返り、頭を下げ「ありがとうございました!」とコートフロアに礼をすると、今度こそ姿を消した。
スポーツ選手が練習場や試合場に頭を下げるのは一種の礼節だ。それはどんなスポーツにおいても行われていることである。璃々は部員になった初日から、これを忘れたことがない。
「そういうところはしっかりしてるのになー。これも『見よう見真似』なのかな?」
去っていく璃々の背中を見て、零奈は頭をかいて、深い溜息をつく。
「でも、お前に足りないものは『真似』では覚えられないことなんだよ。自分で見つけないといけないんだ」
2
璃々がロッカーでプンスカとふくれっ面で着替えていると、松竹梅の三人もやってきた。
「お疲れー」「お疲れ様」「おっつー」
初心者の仲間たちである。最近の璃々は杏樹や玉子よりも、この3人といるほうが落ち着く。初心者で、他の仲間達から雑な扱いを受ける同じ穴のムジナだから。
でも、なんだか今日は彼女たちの様子もおかしいことに、璃々は気づいた。
松竹梅の3人はロッカールームに入ってくるなり、中央に据えられている長椅子に腰掛けてテーブルの上に何枚かの紙を広げると、3人揃って「うーむ」と、難しい顔をし始めたのだ。
「3人共、何してるの?」
それに答えてくれたのは松竹梅の『松』、3人組の中で最も背の高い松井佳奈だった。
「先生から私たちのシュート練習のデータをもらってね。それを見てるの」
「ほぇー……」
テーブルの上に広げられたノートの切れ端のような紙には、松竹梅の3人のシュート能力におけるデータが記載されていた。シュートをうったとき、どの角度、距離が得意なのか、どれくらいの確率で決められるか。修正点や課題などが多く記載されている。零奈の手書きだ。
佳奈はそのデータを見つめながら、
「うーん、私、零度からはシュートが入るんだけど、ゴールの正面になると苦手なのよねぇ。今さら練習したって間に合わないから、如何に零度でポジション取れるか考えないと」
「咲先輩のカットインに合わせて動けばいいんじゃない? 咲先輩なら、ノーマークになったらパスしてくれるでしょ?」と、聡子が答えた。
「咲先輩のパス、痛いのよねぇ」と、泣き言をいうのは綾乃だ。
「あー、手元で伸びる感じよね」
「わかるわかる! 愛羅たちはあれを当たり前のように取ってるんだから本当にすごいよね」
「でも、アレに対応できるようにならないとダメだわ」
「綾乃なんて先月までは華麗に避けてたもんね」
「ソフトボールでもあんな豪速球飛んでこないもん!」
それからも3人は璃々をほったらかしでああだこうだと、明日の試合でいかにヘマをせずにプレーできるかを話し合っていた。
璃々はその間に着替えを終え、しばらく3人のその様子を眺め、機を見計って尋ねる。
「ねえねえ」
「んー、どうした璃々っち?」
小首を傾げるのは『梅』、脚が速いことが自慢の梅津聡子だ。
「なんでそんなことしてるの?」
するとどうしてだろうか。3人はきょとんと目を丸くした。
「いやいや、璃々っち……どうしてって明日試合だよ?」
「知ってるよ?」
「試合に出たときのために準備をしとくのは当然でしょ? 璃々っちもやったほうがいいよ?」
聡子の言葉に、璃々はぷくっと頬を膨らませた。
「璃々は試合に出られないもん。そんなことしても意味ない!」
ちょっと言葉が刺々しくなったが、璃々は聡子に対して怒っているのではない。だって、璃々はすでに零奈から試合に出ることを『ダメ』といわれているのだ。そもそも、松竹梅の三人組だって、その機会があると確約されているわけではないのに考えたって意味ないじゃないか。
それでも、しっとりした声で『竹』、竹下綾乃がいう。
「出られないかもしれなくても、選手としてしっかり準備をするのは大事なことよ?」
――出さないといわれているのに、それをする意味があるの?
璃々にはさっぱりわからない。
綾乃が更に続ける。
「先生はメンバー全員分のこういうデータをつけてくれてるから、璃々ちゃんも貰ってきたら? 一緒に考えよ? 皆で話せばわかることだってあるわ」
おっとりのんびりした綾乃の声は、いつもなら耳に心地よいものなのだが、この時ばかりは璃々には少々煩わしかった。
「だから、璃々は出られないの!」
「『もしかしたら』があるよ」
「ないもん!」
璃々はやがて機嫌を損ねると、大量の荷物を抱えて部室を出て行った。
「それじゃまた明日! 頑張ってね!」
他人事のように、そんな言葉を残して。
∞
そしてあっという間に来るインターハイ予選、初日。
「これはお前らにとっての初めての公式戦だ」
会場校の控え室。新調のユニフォームに身を包む少女たちに向けて零奈はいった。
「日新学園のバスケ部が生まれ変わってからまだ一ヶ月ちょい。確かに培ってきた練習も経験も浅いだろう。それでも、他には負けない『勢い』がある。新星が誕生するときはまばゆい光を放つものだ。だから魅せつけよう。お前らのその輝きを。一気に遥か高みまで照らしてやれ!」
決意ある眼差しとともに、大きな返事をする少女たち。
「行くぞ!」
その『本番』がいよいよ始まった――
待機所からフロアへと続く廊下は閑散としていながらも、茹だるような熱気に包まれていた。同じジャージを身にまとい咲を先頭に列をなして歩く少女たち。たぎる闘志と決意を瞳に宿し、一歩一歩、舞台へと進んでいく。
――しかし、自分はこの先に進んでいいのだろうか。
璃々はどこか息苦しい気持ちでいた。
先日、ようやく新調のユニフォームが届いた。
このユニフォームの淡色は白地に桜の花弁が舞い散るアクセントがつけられていて、濃色は桜色一色。可愛いユニフォームだ。
これを見た時はちょっとだけ胸が高鳴ったけれど、数字の意味を考えると悲しくなった。
――新しいユニフォームをもらっても、結局『15番』だった。
今日は初めての公式戦。本番である。本番ではどんなに大差がついても『おまけ』では試合に出してくれないと、零奈がいっていた。
つまり璃々はもう試合に出る機会がなくなったということだ。あいも変わらず璃々は蚊帳の外。せっかく可愛いユニフォームを着ていても、結局コートに立たないのであれば、ただのコスプレと大差ないじゃないか。
試合前。
戦いに意気込む仲間たちの最後尾で璃々はポツリと呟いた。
「どうせ、中央実践には負けちゃうんだから、その前に出してくれたっていいじゃない」
それを聞いていたのだろう。前を歩いていた愛羅が、ふと振り返って、その大きな手で璃々の頭をグリグリと撫で回してきた。
「リリー、そんなんじゃ一生出られないよ」
どうしてだろうか。いっていることは酷いのに、愛羅にしては妙に優しい声だった。
とはいえ、優しかろうが、意地悪だろうが、愛羅が天敵であることに変わりはない。璃々はぷっくりほっぺたを膨らませ、愛羅の手を乱暴に振り払い、それを無視した。
∞
練習試合で強豪校と戦い、敗北を経験していたことはやはり幸いだった。
上には上があるということを身をもって知っている日新学園の少女たちは初出場といえども緊張もなく、そして驕ることもなく緒戦を戦い抜くことができた。
不良と揶揄されてきた愛羅と勇羅は、バスケットボールプレイヤーとして堂々とコートに立ち、存分に大暴れをし、
杏樹は特待生として恥じぬ全国クラスの支配力を見せ付け、
その類まれな才能をようやく本番で披露する時が来た咲は、緒戦でありながらもすでに注目を集めることになる。
玉子だって実力は他と見劣りしたって、自身でできる精一杯のプレーをして、間違いなく勝利に貢献した。佳奈も綾乃も聡子も、玉子と交代しながら出たり入ったりしつつ、仲間たちの背中をしっかりと支えていた。
ただ、璃々だけは一度として試合に出ることもなく――ぼんやりと試合を眺めるだけだった。
ともかく、
そうして日進学園バスケットボール部は1回戦、2回戦――と初出場を思わせぬ戦いぶりで勝ち進み、いよいよ5回戦。Cブロックの準々決勝まで登りつめた。
ここまで来ると大きな体育館で試合が行われ、地方局のテレビに中継されたり、バスケ雑誌の取材記者が多くやってくる。土曜日に準々決勝、日曜日に準決勝、決勝という連戦である。決戦のウィークエンドだ。これを乗り越えた先に決勝リーグ戦。そして、全国の舞台がある。
しかし、日新学園にそんな遠い場所を見ているほど余裕を持つことはできない。
まずは目の前の壁をひとつひとつ乗り越えていかないといけないのだ。
∞
その決戦を控えた1週間前。
月日が流れるのは早いもので、もう6月に突入して2週目だ。木々はすっかり緑に染まり、梅雨入りを告げる煩わしい雨が頻繁に降り注ぐ。
5月最後の土日に行われた関東大会本戦は、中央実践商業が優勝を飾ったらしい。5回戦の相手の肩書きが『東京都1位』から、『関東1位』に変わってしまった。日新学園にとっては試練が更に過酷になる事実だが、それでも折れないのが新生のチームの勢いというものだ。
少女たちは挑戦心にますます燃えていた。
ここ最近の練習は、主に5対4でオフェンス及びディフェンスの練習、そしてフルタイムの4対4を行って試合勘をつかむメニューが増えた。
それらの練習に移るときは、得点板やゼッケンの用意をするのは璃々である。
もう雑用はこなれたものだった。
最近だと笛を持って審判の真似事もさせられるようになった。璃々は初心者だけれども、メンバーの中で誰よりもルールに詳しい。何よりも、オフェンスとディフェンスのファールの境界線をここまではっきりと『視る』ことのできる者は、そうそういないだろう。
――ピピ!
「咲先輩、トラベリング」
「え、嘘!? 普通にレイアップシュートしただけよ?」
「ギャロップステップの1歩目が、明らかに『流れ』を外れてたから、制止から軸足が動いたってことでトラベリングです。公式戦でも結構、笛が鳴るプレーです」
「くっ……気をつけよう」
なんて、こればっかりは咲にも劣らない。松竹梅や玉子には、璃々のいっていることが理解できないぐらいだ。
ちなみに璃々はトラベリングにすごく厳しい。親の仇かってぐらい厳しい。笛を吹きすぎて松竹梅の3人を泣かしたほどである。「うわあああん! もうボール持ちたくないぃいいいい!」って叫ぶほど。しかし、おかげさまで3人はトラベリングをしなくなった。
もちろん、璃々ができることは審判だけじゃない。選手としてのプレーだってしっかり身につけてきている。シュートも、ドリブルも、パスも、ディフェンスも、バスケの基本的な技術なら、もう笑われるようなことはないだろう。
それでも、まだ試合のメンバーに入れない。どんなに、どんなに練習を繰り返しても――
だから、そう、
バスケをやろうと決めてから、かれこれ4ヶ月。この頃、璃々は気づいていた。
――璃々はまだ、バスケットボール選手になれてなかったんだ。
座る場所が観客席からベンチに変わっただけ。未だに自分は『観客』のままなのだ。そして、それはきっとこれからも――
その時、
「リリー!」勇羅の慌ただしい声がした直後、璃々の視界をオレンジと白のコントラストが埋め尽くし、
顔面にガツンと衝撃が襲った。
――つづく。