初めての敗北。そして、
第四章、第1話です。
徐々に徐々に、璃々が持つバスケットボールに対する考えの違和感が浮き彫りになっていきます。
ただの観客だったはずの彼女が、バスケットボール選手になりたいと思って始まった物語。
しかし、今のままで、本当になれるのでしょうか。
1
「おお……かっこいい!」
今、璃々の視線の先で繰り広げられるは、練習試合会の最終戦。
仲間たちが戦うその姿をベンチから眺め、璃々はゴクリと息を飲み、高鳴る鼓動を止められずにいた。
対戦相手は『八王寺学園八王寺高等学校』――璃々はバスケ雑誌で何度もこの名前を見てきた。
例年の東京都大会の上位の席に常に座る、東京都の強豪校、『八強』の一つである。
今年度の関東大会での成績は芳しくなかったようだが、それでも、到底こんな場所でお目にかかることのできないはずの相手だ。
八王寺学園は、ここまで散々、大きいチームだといってきた日新学園よりも一回り大きいチームである。愛羅と勇羅が普通サイズに見えるレベルだ。その技術レベルもやはり高い。チームワークも統率も連携も取れていて、まさに一個集団となってバスケをしている。
部員数も桁違いだ。バスケ部内で実力に応じてAからCのチーム分けがされており、計50人もの部員数を誇るという。
そして何よりも、日新学園ベンチの初心者組を恐れさせるのは――
その大量の部員によって繰り出される応援。
八王寺学園はベンチから、応援席から、二階フロアから、体育館全体を震わせる轟音とも取れる応援を響かせる。
「――――――!?」
「――――?」
「――――!」
松竹梅の三人組が何かを言ってもかき消されてしまうほどである。
これがもし公式戦であったなら、その雰囲気に飲み込まれ、ベストパフォーマンスを出すことなど出来なかっただろう。おまけに、これは八王寺学園に限らず、『八強』にとっては当たり前のことであり、トーナメントを勝ち上がってきた挑戦者にとって、この中の一つとぶつかるという絶望感は想像を絶することだ。
府中南、永山商業、日野北の各選手たちはもはや空気に飲まれ、ポカンと呆けるだけである。中には泣いてしまう子もいるほどだった――
∞
そんな修羅が暴れ狂う空気の中、
ニコニコと嬉しそうに、目を輝かせているのはやはり璃々だ。
だって仕方ないじゃないか。『あの』八王寺学園の試合を生で見れるのだもの。
しかも、それだけではなく、
――出してもらえるかもしれない!
その可能性に弾む胸を止められない。
璃々にとって今のこの状況は、芸能人と席を同じくしてお茶を飲むようなものである。サインをもらいに飛びつくように、璃々もコートに立ってみんなと一緒にバスケがしたい。
でも、今朝、零奈はいっていたのだ。
(今日試合に出してはやるが、『おまけ』だからな)
璃々だって『おまけ』という意味を理解している。それはまだ、『戦力外』ということだ。
つまり、おまけの入り込む余地がない場合では、出してもらえる可能性はかなり低い。
八王寺学園の実力をよくよく知っているからこそ、璃々は「出してもらえるわけがない」という現実的な答えを出すことができるのだが、同時に、「それでも出たい」のである。
出たい。出たいったら出たい。だって璃々はもうバスケットボール選手だもの。戦力じゃなくてもバスケはできるもの。
だから、思い切っていってみた。
「先生、璃々も出たい!」
「黙って見てなさい」
しかし(当然)、零奈は首を振る。
――むう。意地悪だ。
この試合に出たいだなんて度胸あるねー、と佳奈が感心していた。
――度胸? ただ試合に出るだけじゃない。璃々はバスケができればなんでもいいの!
「璃々だって、みんなとバスケしたい!」
すると零奈は、困ったようにいうのだ。
「璃々? お前の仲間たちは、勝ちたいんだ」
しかし璃々は全く聞いていない。勝ち負けなんて興味ない。
ただただ、バスケがやりたいのだ。
神崎先生、バスケがしたいです! と、ちょっと膝を折ってうなだれて訴えたいぐらいである。
もちろん、璃々のそんな想いは届かない。
「出たい」
「ダメ」
「うむむ……」
璃々はふくれっ面で、されども八王寺学園への羨望その瞳に宿し、コートを見つめる。
――あー、かっこいいなぁ……。
――みんなばっかりバスケして、ずるい。
――初心者だからって出してくれないのは、差別だわ。
「誰が見たってわかるじゃない」
――どうせ『手も足も出ない』のだから、璃々が出たって同じでしょ。
ほら、見てよ。この試合――
∞
すでに試合は終盤に差し掛かっている。
「愛羅! 無理すんな! 戻し――あっ!?」と、咲の慌ただしい声が飛ぶ。
ゴール下でボールを持った愛羅だったが、相手のプレッシャーに押し負け、ボールのコントロールを失ってしまう。
愛羅は初めて出会った。自分よりも大きくて、自分よりも動ける選手に。リバウンドも、得意のゴール下のプレーも何一つできやしない。この試合、常に相手にアドバンテージを取られたまま、愛羅は自分の仕事ができていなかった。
それを補うために動くのが勇羅だ。
相手チームのシュート。
「勇羅! リバウンド!」
しかし、勇羅はリバウンドポジションを取るために動こうとした瞬間、いよいよ体力が底をつき、ガクンと膝を落としてコートの上に無様に転がった。勇羅は愛羅と同じく厳しいマークを受け、得意のアウトサイドシュートの一つもうてていなかった。
ただ、ポジション取りなどもともと意味がなかった。相手のシューターのシュート成功率は九割を超えている。
玉子のディフェンスではそよ風ほどもプレッシャーを与えられず、あっさりとシュートを決められてしまうのだ。
すぐさま攻撃に転じようとしたその時、相手方コーチの声。
――4番だ! 4番にだけはボールを持たすな!
日新学園の4番とは、咲のことだ。ここまで咲はフェイスガード(※ディフェンスがボールの在処に関わらず、マークする相手の行動を全て防ぐディフェンス)と、ダブルチーム(※一人に対して二人のディフェンスがつくこと)によって、徹底的なマークを受けていた。その上で20得点もあげている。咲がもしいなかったら――もっと悲惨な試合になっていただろう。
しかし、咲はそれでもなお、自分の不甲斐なさを嘆いていた。ただ、点を取ることしかできていないことが、情けなくて仕方がない。『4番』という番号を背負うものは、点を取るだけが仕事ではないのに。心折れる後輩たちに声の一つかけてやれない――
杏樹のボールキープ力は、高校バスケでも通じる実力があった。相手の激しいプレッシャーを押しのけ、たった一人でもフロントコートにボールを運ぶことができている。それでも、パスを渡す先がなく『ビー!』と、ブザーが鳴る。『24秒オーバータイム』だ。バスケでは攻撃時に24秒以内にシュートを決めるか、リングにボールを当てないといけないという『攻撃の制限時間』がある。それが経過すると相手ボールになってしまうのだ。 それはこの試合中、幾度起きたことだろうか。
そして、もはや一方的ななぶり殺しのような展開が続き、
一矢報いることすらできずに――試合が終わった。
【八王寺学園八王寺 85 ‐ 32 日新学園】
完全敗北だった。
∞
そして、それを見た璃々は「ほらね!」と得意気に言うのだ。
そんな璃々のほっぺたをぐにぃっと引っ張るのは零奈だ。
「今は許してやる。まだまだ、これからだよ。あいつらも、お前もな」
零奈の優しさを、果たして璃々はわかっていただろうか。
∞
試合終了後。
零奈は意気消沈する少女たちを引き連れて、グラウンドに向かった。
あいも変わらず日差しは強いが、心地よい風もまだ吹いている。
ちょうどいい木陰を見つけて少女たちを座らせると、零奈はいった。
「いやー。清々しいぐらい完敗だったなー。これが本番じゃなくてよかったな」
簡単にそういえるのは、零奈にとってこの結果がわかっていたことだからだ。いくら素質のある少女たちが集まろうとも、日新学園はできたての新チーム。ひと月やそこらの練習をしたぐらいで、高校三年間を練習に費やしてきた強豪を相手にやすやす勝てるわけがない。
大会で上位に進むほど、モノをいうのは才能ではなく、積み重ねた努力と経験だ。しかし日新学園はこれからそれを覆さないといけないのだ。だから今日、その強さと、この会場の空気を本番を前に知っておくことができたのは、実に幸運なことだった。
それに、この敗北は、それほど落ち込むほどの結果ではない。
「お前ら気づいてたか? 八学は私たち以外の学校には控え選手を出したり、セットプレーの確認しかしてなかったんだ。ところが、あちらさんはうちにはそれをしなかった」
先の試合開始直後、1分も経たない内に八王寺学園はメンバーの総入れ替えを行った。
そして、出てきた五人こそ――、
「八学は主力を投入して、勝ちにきたんだ。これはな、実に喜ばしいことなんだぞ?」
日新学園の少女たちは、全国大会常連の強豪校を本気にさせた。それはつまり、同等の実力を持っていると認められたということだ。
事実、試合終了後には相手方のコーチが零奈の元にやってきて「夏には恐ろしいチームになりそうだ。本戦とも違わぬいい試合をさせてもらいました。できればまた、お願いします」と平身低頭で、讃えられた程だった。
しかし、日新学園の少女たちはそんな賞賛などいらなかった。ただただ、勝ちたかった。
まったく、空気が重苦しい。
杏樹なんて日本人形みたいに無表情のまま動かないし、玉子は顔を真っ青にして過呼吸気味。愛羅と勇羅にいたっては、大きな身体をおむすびみたいに小さく丸めて、ぐすんと鼻を鳴らしている。
初めての試合で強豪に勝てると思っていたなんて、なんとも傲慢なことだ。
そんな彼女たちを見て、零奈は口元に小さな微笑みを浮かべていた。
――勝ちたいという気持ちがなければ、その先なんてない。思ったとおりだ。この子たちはやっぱり、強くなる。
こういう時、慰めの言葉なんていらないだろう。今彼女たちに必要な物は――、
「んじゃ、負けた罰ゲームとして、帰ったらフットワークやろうか!」
瞬間、空気が凍りついた。
どんよりと沈んでいた少女たちの間に、また別の空気が流れることになった。
先ほどまで死闘を繰り広げていたスタメン組にとって、それはあまりにもあんまりな仕打ちである。
他の面子よりも一早く立ち直っていた咲が、ガクガクブルブルと足を震わせて聞き返した。
「先生が焼き肉を奢ってくれる、ですって?」
すっとぼけ。
試合後に盛大な打ち上げ――うん。スポ根的によくある展開だ。こういう時はたいがい、メンバーに料理屋の娘がいて、そこのお父さんがただで飲み食いさせてくれたり、先生が財布から「これで好きなものを食え」って感じで諭吉さんを渡してくれるのだ。
未成年に禁止されているお飲み物をちょっと口にしたり――うふふ。
まあ、あいにくとメンバーの中に料理屋の娘はいないんだけど。あと、新米教師の給料で9人もの高校生にご飯を奢るなんてとてもとても無理である。
だから、咲のその妄想は儚いもので、
「そんなこと一言もいってねぇよ。今からフットワーク。いつもの2倍」
「2倍もいってなかったわよね!?」
そして、少女たちはゴクリと息を呑む。
――え? ほんとに?
――うん。ほんとに。
視線だけで会話を交わすほどである。
「そんじゃ、さっさと帰るぞー」
以降、問答無用である。
うへぇ……と少女たちはゾンビのようにのろのろと立ち上がり、真っ赤な髪の悪魔の後に付き従うのであった。
∞
合同練習試合会もお開きになった。
いずれは戦うであろう近隣の学校に日新学園の実力をさんざん見せつけることもできたし、日新学園も大きな経験を積むことができた。
咲を先頭に今日の対戦相手の学校に「今日はありがとうございました!」と整列して頭を下げた。各学校の選手、先生方への挨拶も忘れない。
零奈はそういう礼儀に関して特に厳しかった。
「試合は相手がいないとできねーんだよ」
実力の上下に関係なく、対戦相手に対する敬意を忘れんな――口酸っぱくそういっていた。
ひと通り挨拶も終わったところで――、
立場が一番下っ端の璃々は率先して片付けを行う。麦茶の入ったウォーターサーバとボトルを水道で洗ったり、ボールを専用のケース(枝豆みたいに細長で三個ずつ入る鞄)に入れる。その二つのケースをエックスの字型に肩に掛け、自分のリュックサックは胸の前。両手には作戦盤の入った鞄とウォーターサーバ。ジャングルを行く兵隊さんもびっくりな重装備である。
――重ひ……。
バスケに限らず運動部の対外試合というものはなかなか荷物が多い。道具を多く必要とする野球部なんてもっと大変である。璃々は中学までは見る専門だったので、こういう影の苦労を知らなかった。
「璃々っち、私も持とうか?」という聡子に、
「大丈夫! 璃々、これぐらいしかやることないから!」
満面の笑みで返し、大量の荷物を抱えたままフラフラと歩き出す。
「そう――璃々っち……ボトルは?」
「あ!」
床にはまだ六本のボトルが転がっていた。
両手がふさがって物理的に持てなくなってしまった。聡子が「任せてー」と、拾い集めてくれた。
「ごめんよ、聡子ちゃん」
「気にしないでー」
聡子はボトルを袋にまとめると、璃々の首にかけてくれた。
――あ、持ってくれるわけじゃないのね。さっき「私も持とうか?」って……聞いただけ?
まあ、いい。これをしないと璃々がここにいる意味がなくなってしまうし。
ちなみに聡子を始め、綾乃も佳奈も最後の試合に出ていた。主に玉子の交代で出場していたのだが、彼女たちではチームの力になることはできず、それを悔やんでいるようだった。
それを贅沢な悩みだ、と璃々は思う。
――璃々だって試合に出たかった。
でも、初心者だから今できることは荷物持ちしかないのが現実。
これからかれこれ一時間。璃々はずっとこのヘビーアームズ状態で電車に揺られる。
時刻はおやつの時間を過ぎたばかりで、電車は空いていた。これが平日の混雑時だったら、大量の荷物を抱える璃々は多くのおじさまたちに舌打ちを返されていたはずだ。
でも、その方がまだマシだった。
電車の中では、皆が皆、負けたショックで口を開かず、妙に静かだった。仲間たちが塞ぎ込んでいても試合に出てない璃々は蚊帳の外で、狭い車内で取り残されている気分だ。
「みんな頑張ったよ! 八王寺学園は強いから、勝てなくても仕方ないよ!」
と、戦った仲間たちの気分を変えてやろうとしても、
「仕方ないだって?」なんて、急に怒りだした勇羅にどつかれそうになったり、それをヘッドロックで引き止めた愛羅に、
「リリー、皆疲れてるの。静かにしよう。今日は二度と口を開くな」と、怒られた。
咲は困ったように笑っていたが、杏樹にはなんとなく睨まれてる気がした。
余計に空気を悪くしてしまったようだ。
――そうだね。璃々は試合に出てないもん。皆と違って疲れてないわ。
バスケをしに来たのに、自分にできることは荷物を持つことだけ――、
電車の窓に映る自分の姿は、とても退屈そうだった。
地元の駅まで帰還した璃々は、やはりフラフラと危なっかしい足取りで電車を降り、改札を抜けようとしたところでボールケースをつっかけて「ぐえっ」と唸った。
そのまますてんと尻餅をついてしまった。
璃々がもたもたしているせいか、みんなはそそくさと先を行ってしまう。荷物が多くて上手くバランスが取れずになかなか立ち上がれない。
「皆、ま、待って――」という璃々の声は届かない。
心身ともに取り残された璃々は、やっぱり、ぐすんと泣いてしまうのだった。
∞
「何してたんだよ、リリー!」
「とろとろしてんじゃねーよ、リリー!」
璃々が日新学園の第3体育館にたどり着くと、仲間たちにため息で迎えられた。皆はすでに10分以上前に帰ってきていて、璃々をずっと待っていたそうだ。
「その……荷物が重くて――」
璃々が怖ず怖ずというと、皆はため息を漏らす。
なんだか晒し者になっている気分だ。
璃々、荷物いっぱい持ってたのに。置いていったのは皆なのに。酷いじゃないか。
「とりあえずご苦労さん。璃々もさっさと準備してこい」
零奈はそういうと、その後は璃々のことはそれっきりで、
「そんじゃ、フットワーク始めっか!」と、意気揚々といった。
そうともなれば少女たちは不平不満をもらさずにはいられない。
「鬼ー」「悪魔ー」
「ワハハハっ! なんとでもいうがいい!」
「ちびー」
「誰だチビっていったの!? ――え、嘘!? 綾乃!? お前だって……」
これからフットワーク――とはいえ試合に出てた8人はジョギング程度の流しで。
回数も時間も定められていないものだから、零奈の気が向くまで走らされるらしい。
ところが璃々はいつものフットワークの2倍の量を命じられた。
――遅刻した罰だ。
零奈がそういうと、璃々はムスッと頬を膨らませていた。
走ることは構わない。ただ、罰という言葉が嫌だった。
∞
フットワーク前にストレッチをやっていると、
「璃々ちゃん、ずいぶんとゆっくりだったね?」
声をかけてきたのは玉子だ。さっきはみんなと一緒にため息をついていたくせに、まるでなかったことのように気軽である。
璃々はつっけんどんにいった。
「あんだけ荷物持ってたんだから、遅くなるに決まってるじゃない!」
プイッとそっぽを向くおまけ付き。
そんな態度を取れば、玉子が目を丸くして、「璃々ちゃん、どうしたの? 怒ってるの?」と、困ってしまうのも当然だろう。
それでも璃々は、理不尽だと自覚していても、ますます機嫌を損ねるのだ。
だって――怒ってるだって? 当たり前じゃないか。璃々は皆の為を思ってやっていたのに、それを踏み躙られるようなことが起きたんだ。璃々はそれを許せるほど寛容ではない。おまけに『罰』まで受ける。全くもって意味がわからない。
「皆はバスケ経験者なんだから、荷物が重いのわかってるんでしょ? それなら璃々がちょっと遅れるぐらい許してくれたっていいじゃない」
「ご、ごめんね。それはわかってるよ?」
なにがわかってるのよ、ふん!
「それならどうして璃々が怒られなきゃいけないの? 試合にも出してくれないし、いつも雑用ばっかりやらされるし――」
それから璃々は今までの鬱憤のあれやこれやをグチグチとこぼしていった。
そして璃々にとって何よりも不満なのは、
「八王寺との試合、どうせ負けるんだから璃々も出してくれたっていいじゃない!」
「えっ……?」
その瞬間、
璃々の言葉に、玉子の表情が一変した。あの玉子が――璃々のフリーダムさにどんなに振り回されたって、困った顔をしながらいつだって一緒にいてくれる玉子が、少しだけ目を釣り上げていた。
璃々はそれに気づかない。
「あ、あの、璃々ちゃん? ここでみんなが何のためにバスケの練習してるか、わかってる?」
「もう! たまちゃん、うるさい!」
「ご、ごめん……でも、璃々ちゃん、前から思ってたんだけど、ちょっと勘違いしてるところが……皆はここに遊びに来てるわけじゃ――」
「うるさいうるさい!」
璃々は玉子の言葉に耳を塞ぎ、背を向けて肩を怒らせ去っていく。
「あ、待って璃々ちゃん――」
玉子の言葉は、届かない――
そしていつも通り、璃々はコートの隅っこで1人、基礎のフットワークに取り組むのだった。
いつも通り。
コートの隅、たった1人で。
――初めて、寂しいと思った。
でも、文句はいわない。これをちゃんとやって、今度こそ、試合に出してもらうのだ。
∞
窓から差し込む光がすっかり消え、ぽつりぽつりと星が見えてくる。
いつも通りのメンバーがいる体育館なのに、今日は少しだけ薄暗く、物静かだった。
汗の滴る音がする。バッシュが奏でる甲高い音が体育館に響き渡る。ただ黙々と、コートを走り続ける。何往復も、何分も。終わりなく延々と。
そして沈黙が破られたのは、実に2時間もの時が経ってからだった。
ふと、杏樹がいった。
「今日の試合、勝てるわけがなかった。ハーフコートバスケになった時、どこもパスコースがなかった。連携が全くとれてなかった」
杏樹はずっとずっと考えていたのだろう。今日の敗北の原因を。そしてようやく、心境の整理がついて、口を開いたのだ。
「まだまだ息が合わないねー」と、咲が答える。
1人、2人と口を開きだすと、次々に言葉が飛び交っていく。
「そもそもデカイ奴にビビって縮こまってた愛羅が悪い」と、勇羅がいうと、
「勇羅はそもそも何もしてなかったじゃんか」と、愛羅が鼻で笑う。
「何をー!? 私は愛羅が役に立たないからその分をフォローしてたんだい!」
「1ピリに『お姉ちゃん、動き方がわかんないよぅ』とか泣きついてきたのは誰かしらねぇ」
剣呑に睨み合う双子の間に玉子が入り、「ご、ごめんなさい!」と、謝った。
ようやく彼女たち本来のかしましさが戻ってきたか、というところ。
でも、やっぱり璃々だけは違った。
璃々はコートの隅でフットワークに勤しんでいる。ただでさえ量の多いメニューが2倍である。なかなか終りが見えない。騒ぎ始めた仲間たちをよそに1人だけで走っていると、寂しさも感じる。それでもめげずに走り続ける。これをしないと、試合に出られないから。もっと体力つけて、上手くならないと試合に出してもらえないから――
「おーい、璃々ー? こっちおいでー。一緒にお喋りしながら走ろう」
不意に咲から声をかけられた。璃々はしばしの間を置いて立ち止まり、
「ハァ……ハァ……まだ、終わってないよ?」
「いいのいいの。そんなん先生だって本気で全部やらせるつもりじゃないわよ」
ちらりと零奈を見てみれば、咲のいうとおり「もういいよ」とばかりに手を振っている。
「で、でもやらないと璃々、試合に出られない……」
そこで双子にケラケラと笑われた。
「どうして出られないかわかってないのに、走ったところで意味ないから!」
「リリーは本当におバカさん!」
さらに杏樹まで、
「璃々ちゃんが試合に出るのはまだ早い」
「璃々ちゃんは部活始めたばかりなんだから仕方ないよ」というのは玉子だった。松竹梅には「ファイト!」なんてサムズアップされた。
そして今度は皆にケラケラ、ケラケラと、笑われる。
――あれ? どうして?
皆の視線がなんだか怖かった。まるで見世物小屋の中に放り込まれたお猿さん。璃々はどこにも逃げようがないのに、皆に囲まれて笑われる。
もう限界だった。
璃々はやがてポロポロと涙をこぼしだした。いつもの泣きべそとは違う。本格的な涙だった。
璃々はそこまで強いわけじゃない。双子だけだったらともかく、皆に意地悪をされたら本気で泣いてしまう。でも、いつもいつも璃々は泣いているから、皆はまさか本当に璃々が悲しんでいるなんて、わかってもらえなかっただろう。
双子はわかってるかもしれないけれど。
あと、
「どうしたの、璃々?」と、咲が心配そうに近寄ってくるのだけど、その手から逃げるように璃々は背を向けた。
「璃々、フットワーク、やる」
「もういいってば」
「試合に。えぐっ……出るんだもん……ぐすっ」
嗚咽を漏らしながら、璃々は再びコートの隅へ向かおうとする。しかし咲に捕まって、ウリウリと頭を撫で回された。
「もういいから、こっちにいなさい」
璃々はギュッと目をつむって震えていた。それを見て一同は笑う。璃々にはその笑い声がどうしようもなく怖くて、耳を塞いでますます涙を流す。
でも、咲は笑わない。腕の中で震える璃々の頭をポンポンと優しく撫でると、こういうのだ。
「大丈夫。あなたは頑張ってる。皆わかってくれてるから。ただ、足りないものがあるだけ」
――嘘だ。皆で璃々をいじめてるんだ。でも、負けない。そんないじめなんて怖くない。
咲はさらにこう続ける。
「でも、足りないのは貴方だけじゃない。私も、皆も、足りないものがある。それをこれからしっかり直していきましょう。だから、いい? 次は全員で出て、全員で勝ちに行くわよ」
それは璃々だけではなく、全員に向けて、
「今日のは私たちのバスケなんかじゃない。負けて当然だったのよ。だから夏は私たちのバスケを完成させて、私たち全員の力で戦いましょう――璃々も、いいわね?」
璃々はフルフルと震えて、
「璃々、負けないもん……試合、出るんだもん」と、耳を塞ぐ手にもっと力を込めて、ぐすんと鼻を鳴らすのである。
咲はそんな璃々を見て、優しく微笑み、
「そうよ、負けじゃダメ。でも戦う相手を履き違えちゃダメよ? 相手はいつだって――」
その声は耳を塞ぐ手に遮られて、微かにしか聞こえなかったが、璃々は涙を流したまま、とりあえずコクコクと頷いていた。
∞
敗北した少女たちに激励も叱咤も必要ない。本当に勝ちたかったという思いがあればこそ、彼女たちは自ずと答えを導き出して、再び道を歩み出す。
練習試合後に延々と走らせるなんて、今どきこんなスパルタ指導は流行らない。それでもやらせたのは、これが零奈の狙いだったからだ。
ただ、
「うーむ……あいつはまだまだ、心構えが周りについていけてないな。どうしたものか……」
零奈は遠くから見ているからこそわかる。新たな決意を胸に抱いた集団の中、たった一人、璃々だけがその輪に加われていないことに――
――つづく。