第二十三章 夢幻の楽園 其の一
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2018/02/05 誤植修正 “因果の書” → 『因果の書』
鼻に何かが触れる感覚を感じて目を覚ますと、そこはいつもの粗末な寝床ではなく、色取り取りの花々が咲き乱れるトーラスの丘だった。
前回の召喚の儀式から数日の間勅令も無く、独房で朝目覚めて夜眠るだけの極めて単調な日々を過ごしており、特に何の兆候も無くここへと誘われたらしい。
周辺を一見したところ、周囲を囲む様に聳える山脈や中央部の頂にある湖、そして湖を中心に広がる丘陵等、最初にこの地に訪れた時の記憶と似ているどころか、全く同じ風景にすら感じる。
自身の器の状態についても、肉体を視認出来ない点や強い浮揚感といった亡霊じみた存在である点も酷似していた。
以前の出来事を思い起こすと、確かこの後は湖の方に向かいそこで対岸に黒い蝶を見かけて、湖を渡り蝶が隠れた潅木で“黒瑪瑙”と出会い、やがて“黒瑪瑙”は死に至り、私はこの丘陵の外周部にある底無しのカオスの谷へと身を投げたのだった。
その後に再び訪れた時には、私が“黒瑪瑙”を陥れた存在だと認識されていて、最後は報復として縊られ息絶えたのを思い出し、果たして今回はどの様な状況となっているのか若干不安を覚える。
とりあえず空を見上げると雲ひとつ無い青天であり、太陽の位置からして時間は正午辺りと推測する。
暫らく周囲を眺めていると、丘で見切れているカオスの谷の様子が何となく気に掛かり、湖から離れる方向へと進み始めた。
移動に関しても以前の感覚と全く同じで、歩行時に発生する上下の揺れも無く一定の高度を保ったまま水平移動している。
過去の記憶に因ればこの丘はそれほど広大ではなく、谷へと続く斜面にはすぐに到達すると踏んでいたのだが、不思議な事になかなか辿り着かない。
今回は偶然にも丘の中心に近かったのかとも思い始めるが、この湖はそれほど歪な形状はしておらずほぼ円形だった筈だ。
だとすればどの地点に現れようが、極端に距離が伸びるなんて事は有り得ないのだが、私の記憶違いで酷似していると錯覚しているだけで地形は全く違っているのか。
それでも黙々と進んでいたのだが、なだらかな丘陵は果てる事無く延々と続いており、流石にこれは何かがおかしいのではないかと感じ始めた。
ここで後ろを振り向くと、実は全く進んでおらず湖の畔に立っていたと言う様な展開なのではと疑い確認するが、その予想に反して遥か彼方まで遠のいた湖が小さく見えた。
これで本当に丘が広大になっているのか、或いは広大に見える錯覚に囚われているらしいのが判り、これ以上闇雲に進んでも危険と判断して引き返し始めた。
再び始めに現れた地点まで戻った頃にはかなり陽も傾き、疲労こそは感じないものの、時間にすると往復で三時間程度は浪費したかに思える。
若しかするとこの地に於いては、まず始めに黒い蝶と遭遇しなければ何も進まない様になっているのか。
それを確認する為にも“黒瑪瑙”と再会しなければならないが、場所は同じとしても時系列的には今回は何時なのかが気に掛かる。
そう思いつつ対岸を凝視すると、微風に戦ぐ草花以外にそれらしき黒い影が舞っているのが見えた。
対岸に“黒瑪瑙”の化身とも言える黒い蝶が飛んでいると言う事は、少なくとも死後の世界に来ているのではなさそうだが、だとすると最初の日に戻っているのだろうか。
この状態で再び谷を目指すと何がどう変わるのかも気にならなくもないが、それよりも今が何時なのかの興味が上回る。
もしかすると今回は初めて“黒瑪瑙”と遭遇した日なのかも知れず、そうなれば初回時に告げられた私が語ったと言う発言に関しても、その真意が判明するかも知れないからだ。
それに谷へと近づけない謎についても、自ら時間を掛けて調べるよりこの地の住人に直接尋ねた方が早いに違いない。
やはり黒い蝶の女との邂逅こそが、様々な謎を解明する最も効果的な手段であろうと判断し、湖の対岸へと向かい始めた。
鏡の様に凪いだ水面に映る青天と斜陽を眺め、そこに己自身が映っていない点から、今回も実体の無い亡霊じみた器である事を実感しつつ、ゆっくりと湖面を移動していく。
以前は最初に見つけた黒い蝶の確認を急ぐあまり周辺を確認していなかったので、今回は蝶を見失わない様に注意しながら別方向の湖岸も注視するが、他には動く生物らしき存在は見当たらない。
やはりこの場所には黒い蝶以外は居ないと言う事なのか。
そもそもこれは召喚なのか、それとも単なる夢の類なのか、その点すら曖昧なままだ。
ここであの城に囚われて初めて対面した時の道化の言葉を思い出すと、あの時の台詞は道化の世界に落とされる前の四つの異界への転生の事を指していたと思われ、順番的には五つ目に当たるトーラスの丘は含まれていないと解釈するのが自然だ。
それに二度目の時は独房での就寝中に見たものであり、儀式は一切絡んでいなかったし、今回も二度目と同様に独房での就寝後に起きている。
私の過去の記憶を覗いた“ロゴス”の解説でも、これらについて今まで一度も触れられていないのも違和感があり、次回の接見の際はこれについての見解を確認すべきか。
そう思いつつ湖上を移動し中心近くまで来ると、鏡の様だった水面に漣が広がってくるのに気づき移動を止めた。
どうやらこの先の水中から気泡が上がっているらしく、水面に映りこんだ風景を不定期に歪めている。
この辺りの水面下に何らかの生物が生息しているのかも知れないと危惧して距離を置き暫らく様子を見るが、気泡が上がって来る以外の変化が起きる気配は無かった。
ここでずっとこれを眺めているよりは、黒い蝶の確認を優先すべきであろうと判断しその場所を離れ、その後は特に何事も無く対岸へと到達した。
対岸へと辿り着くとそろそろ夕刻へと差し掛かり始めたのか、空は仄かに赤く色付き始めていた。
漆黒の蝶の姿はより明確に捉える事が出来る様になり、一切の模様も無く時折太陽の光を反射し煌めく黒一色の翅は、間違い無く見覚えのある姿だと確信する。
どうやらこの辺りで最も大きな潅木を目指しているらしく、蝶はひらひらと頼り無げな飛び方で蛇行しながらもそちらへと向かっていく。
潅木にしては妙に太い幹をした木にも見覚えがあり、あの木の根元の裏側に黒衣の女へと変身した“黒瑪瑙”が眠っていたのを思い出す。
その過去の記憶通りに黒い蝶は太い潅木の裏へと消えて行ったが、果たしてこの後はどうなるのだろうか。
既視感に塗れたこの状況がどう推移するのかと期待と不安の入り交じった感慨を抱きつつ、幹の裏へと回り込もむべく進もうとした時、それよりも早く変化が生じた。
私が回り込むよりも先に、黒い蝶が再び飛び立ったのだ。
再度移動を始めた漆黒の蝶は、少し離れた別の潅木の元に向かっているらしい。
念の為に先程まで居た潅木の裏を見てみるが、そこに黒衣の女の姿は無かった。
もしここに女の姿があったなら、あの蝶は私を誘導する為の幻影だったと判断出来たのだが、残念ながらその確証を得るに至らなかった様だ。
蝶の正体については女との関連が無い筈が無いとは思うのだが、“黒瑪瑙”は変身能力や幻影を作り出す力等について、最初の遭遇時には一切語っていなかったと記憶している。
二度目の時には、魔導の民の王妃として怪物へと変身したとも言えるが、あの悪夢の続きだとすると何事も慎重に対処する必要があるだろう。
何かを見出す期待と悪夢の再来の不安の双方を覚えつつ、私は再び蝶の後を追い駆け始めた。
潅木から潅木へと舞い続ける黒い蝶は、思わせ振りに木の近くで速度を落としたり一旦枝や幹に止まったりするのだが、またすぐに飛び立つのを繰り返しており、なかなかその動きを止めようとしない。
向かっている方向も、湖に近づいたかと思えば次は谷の方へ向かうという具合で一貫性が無く、何処かを目指して飛んでいるのかすら疑わしくなってくる。
こうして延々と彷徨っていると、これまでさほど気にならなかったものにすら違和感を覚え始めた。
この丘にはこれほど多くの潅木が生えていただろうか。
と言うよりも、始めに谷へと向かった時にも感じた事だが、やはり以前のトーラスの丘よりも広くなっている様に感じる。
風景や構成は全く変わっていないのだが、面積だけが広がっているかの様な奇妙な感覚であり、これは過去の記憶が違っているだけの勘違いではないと思える。
そんな事を考えていると黒い蝶は速度を上げ始めたのか、いつの間にか距離が離れ始めているのに気づいた。
これ以上引き離されると見失いかねないと焦るが、こちらは何をどうしても駆け足程度以上に移動速度が上がらずその差は縮まらない。
次第に背の高い草花にその姿が隠れてしまい見失いがちになり、向かっている方向の推測も難しくなり始めた。
それでも何とか追跡を続けていたのだが、少し開けた場所へ出たところでとうとうその姿を見失ってしまった。
とりあえずここがどの辺りなのかを確認すべく周囲を見渡すと、少し離れた場所に特徴的な潅木が生えていた。
あの妙に太い木には見覚えがあると思い近づいていくと、やはり思った通りこれは最初に見かけた潅木だ。
つまり随分と彷徨った挙句、結局元の場所へと戻っていたのだ。
周囲は既にすっかり茜色に染まり、黒い蝶を追って相応の時間を浪費したのは明白だった。
改めて蝶の姿を求めて周囲を見渡しても見当たらず、追跡の結果は徒労だけが残っただけであった。
すっかり落胆していたその時、背後から聞き覚えのある声色が聞こえて来た。
「お待ち申し上げておりましたわ、わたくしの貴き御方」
その声に反応して振り返るとそこには黒衣の女が佇んでおり、待ち焦がれていたかの様に早足でこちらへと歩み寄って来る。
長い黒髪に飾り気の無い黒一色の清楚なワンピースを纏い、それに相反する白い肌の手足と何かを感じさせる整った美しい顔、紛れも無くこれは“黒瑪瑙”だ。
私の前で歩みを止めた黒衣の女は、何かを探す様に繁々とこちらを眺めていたが、若干戸惑った表情を浮かべると遠慮がちに口を開いた。
「あのう、お約束して頂いた、わたくしの翅はどちらに……?」
いきなり想定外の問いを投げかけられ少々戸惑ったものの、もう三度目ともなればある程度の耐性は出来てくると言うものだ。
今回がこれまでとはまた違う展開なのを即座に理解した私は、不安げにこちらを見つめる黒衣の女へと、思念でその名を呼んでみた。
だがそれに対する返答は、またしても想定外のものであった。
「貴き御方、わたくしの事をどなたかと勘違いされているのですか? わたくしの名は“黒瑪瑙”ではありません。
まさか、わたくしの名をお忘れになってしまわれたのですか? 貴方様から頂いた名前でしたのに……
もしや名前だけでなく、わたくしの事さえも忘れてしまわれたのですか?」
またしても名前が判らないと言われるのは覚悟していたのだが、まさか“黒瑪瑙”ではないと明確に否定されるとは、一体どういう事なのか。
眉を曇らし悲しげな表情で“黒瑪瑙”と瓜二つの女に嘆かれると少々胸が痛むが、安易に弁明も出来ず困惑する。
ここは多少正しくなくとも、聞こえの良い釈明をしておいた方が得策か。
いや、それでは後々齟齬が発生して余計に軋轢が生じかねない、やはりここは理解させられるか判らないが、正しい状況を説明すべきだろう。
私は憂える“黒瑪瑙”ではない女へと、以前と同様に前回ここへ来た存在と私は別人である事を告げてみた。
すると当初は説明の意味が理解出来ずに戸惑っていたのだが、次第に落ち着きを取り戻した。
「……つまり貴き御方は、わたくしとお約束して下さった時とは別の御方なのですか。
だから、わたくしには全く同じ御方にしか見えませんけど、貴方様はわたくしの事は知らず名前も判らない、と言う事なのですね。
判りました、そういう事でしたらこれまでの経緯をお話し致しましょう」
少し時間は掛かったものの、今回の漆黒の蝶は私の説明を理解した様だったので、ここで改めて名を尋ねると、新たなる黒衣の女は静かに状況を語り始めた。
「始めましてと言った方が良いのでしょうね、わたくしの名は“黒翡翠”です。
この名は、貴方様ではない貴き御方より賜りました。
今はこの様な姿をしておりますが本来の姿は黒い蝶でして、わたくし一羽のみでこの地で暮らしております。
蝶としての名はありません、何しろここにわたくし以外の意思のある生き物はおらず、生まれてからずっと誰からも呼ばれる事は無かったものですから。
貴方様ではない貴き御方がお出でになられたのは、丁度十日前の事ですわ。
早朝の事ですが、その御方が突如現れて、わたくしをこの姿に変えてしまったのです。
そしてその御方は、わたくしの事を“黒翡翠”とお呼びになられたので、それはわたくしの名前なのですかとお尋ねすると、その御方はそうだと仰いました。
続けざまにわたくしはその御方へと、何故この様な姿にされたのかをお尋ねしたのですが、それについては何も答えては頂けませんでした。
その後何度も元の姿に戻して欲しいとお願いしたのですけど、そちらも聞き入れては頂けませんでしたの。
せめて翅だけは返して欲しいとお願いすると、次にこのトーラスの丘へと現れた時に翅を与えるとだけ仰って、すぐに消えてしまわれました。
なのでわたくしは、あの御方が再び戻られるのをお待ちしておりましたところ、十日目に貴方様がお出でになられたのです」
“黒翡翠”と名乗った女は、私ではない私との遭遇時の話を淡々と語った。
その語り口は淀みも無く流暢であり、語られた内容についても理路整然としていて、前回の“黒瑪瑙”の様な記憶の曖昧さは見受けられない。
違いはそれだけに留まらず、“黒瑪瑙”の様に衰弱した様子も見られず、体調面も特に問題がある様には見えない。
しかしその容姿や声は“黒瑪瑙”と全く同一であり、その説明を聞いても未だ別人とは俄には信じられない心境だ。
念の為、“黒瑪瑙”と言う名に覚えがないかを尋ねるが、“黒翡翠”はただ困惑気味に首を振るだけだった。
こうして当人ははっきりと否定しているのだから、ここでこれ以上“黒瑪瑙”の事を追求するのは不毛か。
それよりも今知らされた内容から疑問点を突き詰めていった方が、明確な回答を得られるだろう。
説明の中でまず気になったのは翅の件で、何故そこまで翅を求めるのかについて尋ねると、“黒翡翠”は再び話し始めた。
「わたくし達は代々この地の守護をしておりまして、その役目は天候を管理して植物を守り育てる事なのです。
例えば水を与える為に雨雲を呼んで雨を降らせたり、陽射しが足りない時は雲を散らしたり、暑くなれば北風を呼び、寒くなれば南風を呼んだりしていますの。
それらを行なうには、行なうべき変化に合わせて、この丘の上を決められた通りに飛ぶ必要があるものですから、飛べないととても困るのです。
でも今は、それ以上に気掛かりな事がありまして……」
眉を顰めながらそう訴える黒衣の女は、自身の腕を抱く様に組んでいた両腕を崩して胸の前で祈る様に手を組むと、切実そうに訴え始めた。
「貴き御方にお願いがございます、どうか聞いては頂けませんでしょうか。
湖の中心の様子について、ご存知でしたら是非教えて頂きたいのです」
それほどまでに重大な事なのか、そう訴えつつ思わず一歩また一歩とこちらへと迫る“黒翡翠”のその表情には、悲愴感すら窺える。
湖の中央と言えば丁度私が通ってきた場所で、そこで気泡が上って来るのは見掛けたが、知りたいのはその事だろうか。
だがそれを伝える前に、そこまで懇願する理由が気に掛かり、じらす心算は無かったが先にそれを訪ねると、黒衣の女は焦りからか少々早口で話し始めた。
「この丘の植物達は、管理さえ正しく行ない続ければ永遠に枯れる事は無く、わたくし達守護者はその為に存在しています。
ですがわたくし達自身は定命でして、時期が来ると次の代の守護者へと入れ替わるのですけど、その時期を知らせるのが、卵が湖底に沈む湖の中心で起こる変化なのです。
本来はその場所の様子を日々確認しなければいけないのですが、今や飛べもせず元より泳げもしないわたくしには、それも出来ません。
もしもその時を見逃して、代々守り続けて来たこの丘がわたくしの所為で滅ぶ様な事が起きてしまったら、もうどうしたら良いか……」
沈痛な面持ちで伏し目がちに語る蝶の女は、徐々に小さくなる声でそう訴え、最後は声を詰まらせて目には涙を浮かべていた。
“黒翡翠”の言う変化とは、私がここへ来る際に目撃した気泡の事に違いないが、それよりも今の話には気に掛かる点があまりに多過ぎて、期せずして意識と思考がそちらへと奪われる。
このトーラスの丘に住まう黒い蝶は世代交代をしていたとすると、“黒瑪瑙”は別の世代の守護者だったと推測出来るが、最期を迎えた際にその様な話は出ていなかったし、そういった儀式も行わなかった。
それに“黒瑪瑙”は白い蛾を伴侶としていた筈だが、“黒翡翠”の話では植物以外の生物はこの地には存在しないと言っている点からすると、白い蛾もまた何らかの器だった事になる。
この若干咬み合わない両者の話がどちらも真実だとする為には、“黒瑪瑙”が最期の守護者で今目の前に居る“黒翡翠”は過去の世代の守護者であると仮定しなければ成り立たない。
歴代の守護者さえ滞りなく義務を果たし続けるならば、悠久の時を経ても尚変わらずあり続けるであろうこの丘には、時の流れに因って大きく変化する要素は無いらしく、“黒瑪瑙”がいた丘の記憶を呼び起しても風景に差異は感じられない。
その為にこの場所自体に時間の変遷を感じさせる物が一切無く、二人の黒い蝶の生きた時代の新旧を判断するものは皆無だ。
果たして当人達は前任者や後任者を認識しているのだろうか。
ここでふと視線を感じてそちらを見ると、“黒翡翠”が潤む瞳で私を見つめながら、祈る様に返答を待っている。
今は湧き上がる疑問を考えている場合ではなかったと我に返り、悲嘆に暮れる蝶の女へと私が目撃した光景をそのまま説明した。
するとそれを聞いた“黒翡翠”は、かなり焦った様子で再び口を開く。
「貴き御方、先程お逢いしたばかりでお願いばかりしてしまい、大変申し訳ないのですけど、わたくしの願いを聞いて頂けませんでしょうか。
わたくしはどうしても、その泡の様子を確認しなければなりません、ですからわたくしを飛べる様にしては頂けませんでしょうか。
元の姿でなくとも構いません、どの様な姿形でも結構ですから、どうかお願いします……」
そう言って跪いた漆黒の蝶は、両手を組んで私へと懇願すると同時に、その瞳からは涙が溢れ、頬を伝い流れ落ちていく。
それを拭いもせずに縋る様に一心に私を見つめる“黒翡翠”を見ていると、心中にこれまでに無い複雑な感情が湧くのを感じる。
これまでにも多くの女と遭遇して来たし、ここ最近に限っても『因果の書』の死面の娘や道化の双子姫等の見目良い顔の者も見てきたが、この様な感情の変化が起きた事は無い。
やはり黒い蝶の女達のこの顔は、それがどういう理由かは掴み切れないが私には特別らしい。
それについてまたもや意識が思索に引きずり込まれそうになるのを堪えて、啜り泣く女を慰めるべくその要求の実現性について検討し始めた。
前回の“黒瑪瑙”とは違い、今回はあからさまな奇跡を要求されたが、果たしてその様な力がこの器にあるのだろうか。
その可能性を確認すべく、私が“黒翡翠”に呼び出された超自然的存在だと仮定し、そういった信仰する存在について問うと小さく首を振った。
「残念ながらわたくし達にはその様な信仰はありません。
ただこの地には、植物と自分以外の意志を持った存在は入れない筈なので、その様な御方が現れた場合は超越した力をお持ちの方とお見受けして、全て貴き御方とお呼びしておりますの。
ですので貴方様の持っておられるお力についても、わたくしには全く判らないのです」
申し訳なさそうにそう弁明した“黒翡翠”は頭を下げた。
私への呼称からして、今の器はてっきり黒い蝶達が信奉する超自然的存在だと信じて疑わなかったのだが、まさか全く見知らぬ存在であったとは予想外だった。
これで今の私が何者であるのかの情報源はほぼ絶たれたと言っても過言ではなく、想定外の返答に暫らく言葉を失った。
情報が一切無いとなると、もう試行錯誤を繰り返して器の力を見つけ出す以外に手段は無いのではないか。
そう思ってはみたものの、そんな非効率な方法では適切な能力を的中させられる自信も全く無い。
こうなってしまうといっその事、最初に現れた同一の器の存在の再来を願う方がまだ現実的ではないのか。
そんな私の失意を察したのか、先程の願いが叶いそうもないと悟ったらしい黒衣の女は、暫らくの沈黙の後に別の願いを口にした。
「貴き御方、無礼を承知でお願い致します。
わたくしを飛べる様にするのが叶わないのでしたら、飛べないわたくしの代わりに、湖の様子を見に行って頂く事は、お願い出来ますでしょうか。
この様な雑用を、貴方様の様な御方にお願いするのは大変心苦しいのですけど、他に打つ手がありません。
それに貴方様へと捧げる物もわたくしは何ひとつ持っておりませんし、この身体や命ですらも訳あって差し上げる事は出来ません。
ですから、ただただ貴方様のご厚意に縋るだけなのですけど、それでもどうか、どうかお願いします……」
私に対して無礼とも言えるかなり言い出しにくい提案の所為か、最後の方は口篭もりその声色も震えており、その華奢な身体も慄いていた。
それもそうであろう、何しろ神に近い存在の能力を見下した上に、更に無償で使い走りをさせようと言うのだから。
だがそれが今の“黒翡翠”の置かれた状況からすると最も妥当な代替案であると判断し、自身の役目を果たす為には立場や礼節を重んじてはいられないと決断した末の進言だったに違いなく、それなりの覚悟の上での行動なのはその様子で十二分に察する事が出来た。
そんな黒衣の女を見ていると、何とも居た堪れない感情が湧き上がるのを感じ、やはりこの女は特別な存在なのだと実感する。
だがこの感情が何なのかどうもはっきりとしないのが釈然とせず、その歯痒さに僅かながら自身に苛立ちを覚える。
思わず長考してしまい長い沈黙を与えた所為なのか、そんな感情が何がしかの形で伝わってしまったのかは判らないが、黒い蝶の女は眉を曇らし不安げな様子がより一層強まっていた。
今考えるべきは“黒翡翠”からの提言に対する返答であったと思考を切り替え色々と手立てを考えてみるが、現状考え得る現実的な最善の対処としてそれ以上のものは私にも思い浮かばない。
どれだけの時間の猶予が残されているのか判らないが、ここは“黒翡翠”の言う通りに状況確認を行ないつつ、今後の対策を検討するしか無さそうだ。
そうして待っている内に、もしかすると本当に最初に現れた同一の器の存在が再び姿を現わす可能性もある。
それが未来の私自身であるならば、状況は一気に好転するかも知れないと期待出来なくも無い。
私からの返事をこれまでになく緊張した面持ちで待ち受ける提案者へと、私は了承する返事を返した。
それを耳にした“黒翡翠”は、悲痛に歪めた表情から一転して驚いた様に目を見開いた後、一気に破顔する。
「ありがとうございます! 貴き御方、本当にありがとうございます……!」
止め処なく溢れる涙を拭いながらではあったが、何度も繰り返し感謝の言葉を返す蝶の女は、この時初めて笑みを浮かべたのだった。