第二十二章 覇者 其の三
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2018/02/03 誤植修正 因果の書 → 『因果の書』
「お手数をお掛けしてしまい大変申し訳ございませんでした、これで行なうべき作業は終わりですので、玉座にお戻り下さい」
聞き覚えのある侍女の声が聞こえて目を覚ますと、そこは例によって召喚前と変わらない場所だった。
いつもと同様に床にうつ伏せで倒れているらしく視界の半分は絨毯で覆われ、残る半分の中に整列したセルヴス達と窓が見えた。
窓から見える空は夕焼けの様な橙色であり、青褪めたどころか紫掛かっている満月からして、夜なのだろう。
「そう……」
その返答は極めて淡白で素っ気無い低めの囁く様な小声であり、アルヴム姫の凛とした高く通る声とは音程からして全く違って聞こえるのだが、声の主は視界に入っておらず誰かが判らない。
声の主を確認したくもあって体を起こそうとするが、強烈な筋弛緩状態で全く力が入らない。
過去の召喚ではここまで体調が悪化した事は無く、この不調の原因が道化ではなく王女が儀式を執り行った結果なのではないかと思われる。
「ニグルム様、お手をどうぞ」
辛うじて目だけは動かせたので声の聞こえた方向である謁見室の中央へと視線を向けると、そこには狐頭の男と山猫の侍女にそれぞれ左右の手を取られ、丁度階段を上っている黒いドレス姿の娘が見えた。
腰まである波打つ艶のある黒髪に、色こそ違えどもアルヴム王女と同じ意匠のドレス、そしてこちらも同形状の黒いヴェールを後ろに払ったその姿は、正にあのお姫様を全身黒くしたかの様だ。
だがその瓜二つの容姿とは異なり言動や行動については真逆らしく、従者に介添えされながらの階段を昇る動作も相当慎重で、それほど高い段差でも無い階段を、片足を掛けて残るもう一方の足を同じ段に載せ終えてから次の段へと足を出すと言う具合だ。
その代わり、それだけ時間を掛けているからかふらつく様子は殆んど見られず、アルヴムの様な危なっかしさは感じられないが、このニグルムと言う名前らしい第二の王女も足が不自由なのは間違いなさそうだ。
そうやって時間を掛けて階段を上り玉座に座ると、黒衣の姫は未だに床に転がっている私の方に顔を向けた。
その顔立ちはアルヴムとそっくりだったが、明るい色合いの向こうとは異なり深い菫色の瞳をしていた。
そしてその表情も、精神年齢はともかく朗らかな笑顔で明るい印象だった白衣の王女とは違い、睨む様に細められた目やしっかりと結ばれた口元からは明るさなど微塵も感じられない。
更に腰掛けるとすぐに深い溜息を吐いてから、背凭れに体を預ける様に座り直して体を軽く傾けると、足を組み右手で肘掛に頬杖を付く。
黒衣の王女はもう既に疲れ切っている様な様子で、その動作も緩慢であり億劫そうに映る。
私が目覚める前に何らかの体力を消費する作業があったのかも知れないが、それを差し引いても随分と無気力に見える。
「お疲れでしょうがもう暫らくお待ち下さい、後は採取物の回収だけですので、見届けて頂くだけで結構ですから」
侍女の説明を聞いた王女が僅かに口を開きかけるのを見て、シルウェストリスが背を丸めて王女へと耳を近づけて構えた。
「……」
だが結局何も発する事なく、再び閉じられた。
終始喋りっぱなしに近く、口を閉じていた時間の方が短かったのではと思えるアルヴムに反して、こちらの王女は顎が開かないのではないかと疑う程に喋ろうとはしない。
口だけでなく表情の変化も乏しく瞬き程度しか無く、更に身動ぎしたりもせず姿勢も全く変えないのでまるで人形の様であり、この辺りもアルヴムとは大違いだ。
召喚前の時の騒然とした雰囲気とは全く異なりこの部屋全体は重苦しいまでの沈黙で満たされており、それはやはり玉座にいる不機嫌そうな王女の所為だろう。
顔立ちや体つきは双子としか思えないものの、容姿の色彩や性格や行動については正に正反対であり、まるで一人の人間が持つあらゆる二面性を分離して具象化したかの様だ。
この二人の王女はやはり双子なのだろうか、それとも似ているだけの年の差のある姉妹なのかそこも謎だが、精神年齢から察するに年の差があるとすればニグルムの方が年上と推測するのが自然か。
だがこの世界を構成しているものは大半が倒錯しているのだから、この二人の関係もアルヴムが姉でニグルムの方が妹と言う可能性の方が高いかも知れない。
「カトゥス、回収の支度を」
ニグルムが特に反応が無いのを確認した山猫は女中を呼び、その指示を受けて直ぐさま来たのだろう、扉の開く音がして程なく軽い足音と衣擦れの音が迫り、すぐ脇で微風と共に音が止んだ。
視線だけをそちらへ向けて確認すると、女中の制服である長い丈のスカートの裾と靴が視界の端に入った。
初回時の召喚の時と同様に吐瀉物を回収する用意らしいが、私は今回何も飲み込んではいない筈なので、この手配は徒労に終わるだろう。
こうして周囲を確認している最中にも、体を動かす努力は行ない続けているのだが、依然として殆んど動けない。
この未曾有の症状がいつまで持続するかが段々判らなくなり始め、下手をすると儀式が失敗しているのではないかと不安を感じ始めた。
“嘶くロバ”や“ジェスター”達ではこの様な状況は皆無だった為、召喚の作業と言うのは出来る者がやれば誰でも確実に成功するのだと思い込んでいた。
それが実は何らかの技術や能力を要求し、一定の水準を満たしていなければこうした不具合を発生させる、命の危険を伴う作業であるのだと痛感させられた。
しかし今回の儀式を取り仕切る山猫の侍女に狼狽した様子が無い点からすると、この状況は予測された範疇だったのだろうか。
それにしても私が覚醒する前に一体何をされていたのだろうか、それも非常に気に掛かるが今はそれよりもこの状況をどうにかしなければならない。
声を掛ければ何かが変わるかも知れないと思い発声しようとするが、召喚時と同様に全く声が出せない。
まさか向こうの器の状態がこちらまで継承されているのか?
そんな疑念と恐怖を覚えつつも必死に声を出そうと奮闘していると、不意にこの静寂が破られた。
「……まだ?」
私の様子を冷めた目で黙って眺めていた黒衣の王女は、唐突に一言低く呟く。
その声色には若干の抑揚が含まれており、それは無感情で無愛想な王女の苛立ちを表している様だ。
現在の状況はどう見ても私が覚醒するのを待っている様にしか見えず、私としてもそうしたいのは山々なのだが、どうすれば改善されるのかが判らないのだから対処しようが無い。
この様子だとまだ私が目覚めてすらいないと認識されている様なので、せめて覚醒はしている事だけでも判れば状況は変わるかも知れない。
今この謁見室にいる者達の中で最も私の傍にいるのは、吐瀉物を回収すべく待機しているカトゥスだが、果たしてそこまで細かな私の変化に気づくだろうか。
この屋敷にいる獣の使用人達の大半は個体の意思や感情を持っている様にあまり思えず、内面的な意味での人間的な雰囲気を感じない、半ば操り人形の様な存在ばかりだ。
なのでこの女中も、採取物が出て来るまでただ黙って立ち尽くしているだけな気がして仕方がない。
だが上級使用人の獣達は、私や王女とそつなく対話をこなせている所からして、一個人として成立している感がある。
となるとやはり、私の状態に気づくとすれば山猫か狐のいずれかだろうか。
問題はどの様にしてこちらへと注目を向けさせるかを考えようとした時、期せずしてそれは唐突に実現された。
麻痺していた感覚がようやく回復したらしく、胃や食道の強い閉塞感を感じた途端に強烈な吐き気を催す。
それと同時に弛緩していた他の筋力も僅かだが動き始めて、息苦しさから呻き声を漏らしながら芋虫の様に無様に床の上でもがく。
私の異変を察知した女中が動き出し、侍女もこちらへと近づいてくる。
二人が動いた理由は決して私を助ける為ではなく採取物の確認だろうが、何も飲み込んでいないのだから、出て来る物などありはしない。
そう思っていたのだが、思わぬ物が吐き出された。
それは大量の金貨だった。
それを見た瞬間に向こうで最期に見た光景が即座に思い出されるが、その事を思案する余裕までは無く、夥しい吐血と共に次々と金貨は喉から溢れ出し続けた。
嘔吐に伴う悶絶しそうな程の苦痛に、果たしてこの血が『聖血』なのか自身の内蔵からの出血なのかの区別がつかない。
やがて暫らくすると詰まっていたものが全て出たらしく私の状態も落ち着き、それを見計らって虎猫のカトゥスが、長いピンセットの様な道具で撒き散らした金貨を拾い集め始めた。
その時上座の方から音が聞こえたのでそちらを見ると、先程まで玉座に凭れていた物憂げな王女が、両手で肘掛を掴み身を乗り出して、これまでになく真剣にこちらを凝視していた。
「……金貨は?」
これまで全く以って無関心だった王女が呟いたのを耳にし、まだ回復していない状態ながらもその表情に注目する。
耳聡く主の問い掛けを聞いた侍女もすぐに振り向いて答えた。
「はい、かなりの枚数を入手出来そうです、この成果はきっと陛下もお喜びになるかと思います」
それを聞いた黒衣の王女は、小さく溜息を吐いてから一言漏らした。
「そう……」
その顔つきにも若干の変化があり、先程よりも僅かながら表情が緩んでいる様にも見える。
そして前のめりの姿勢を戻してから、組んでいた足を戻しつつ再び囁く。
「ならもういい?」
何を言い出すのかと思えばその内容は退室の確認であり、何か事情でもあるのかも知れないがとにかく一刻も早く戻りたい様だ。
つまりあの表情の変化は、お役目が無事終わったのが判り、これで解放されると安堵しただけだったのか。
道化ならば哄笑しながら小躍りしそうな大収穫だと思うのだが、その点に関しては憂える王女には興味を惹かないらしい。
「はい、後はタウルスに引き継ぐだけです」
シルウェストリスからの返答を聞くと、両手を肘掛について体を支える様にしながらゆっくり立ち上がり、従者のヴルペスが隣に付くと無言で手を差し出す。
ニグルム王女はその手を掴んで車椅子の前まで移動すると、慎重に腰を下ろしてから再び深い溜息を吐いた。
「失礼致します、お待たせしてしまい申し訳ありません、ニグルム様」
それとほぼ同時に黒牛の家令が大扉から登場し、こちらへと近づいて来た。
それを見た侍女は速やかに執事の元へと歩み寄って行き、小声で現状の申し送りを始めた。
やがて短い会話が終わり家令は私の脇で立ち止まり、侍女は階上の王女の元へと戻ると、軽く腰を屈めて王女へと顔を寄せて声を掛ける。
「部屋で休まれますか?」
その山猫からの問い掛けに対してニグルムは無言で頷いて答え、それを確認した従者達は無言で会釈する。
そして侍女は後方に捲くられていたヴェールを顔へと掛けてから、車椅子の後方へと回り込んで待機していたヴルペスに合図を送る。
狐の従者が車椅子を押し始めると、家令や両脇のセルヴス達が一斉に深く頭を下げた。
アルヴム王女が入ってきたのと同じ方向へと向かう途中、一度ヴェールがこちらを向く様に揺れた気がしたが、気の所為だったかも知れない。
こうして黒衣の王女は、従者を引き連れて謁見室を退出した。
「猊下、お加減は如何でしょうか」
ニグルム王女が退室してからすぐに牛頭の家令の指示に因り、私は近衛兵に抱えられて一階まで降りると、そこで獄吏達に引き渡されて地下牢獄まで戻された。
それから暫らくしてようやくまともに体が動くまで回復したところで、ここへと出向いて来たタウルスからの言葉に対し、私は特にもう問題ない事を伝えた。
「シルウェストリスからの報告では、普段と少々様子が異なると聞いていたので、心配致しておりました。
今回は儀式に不慣れな王女殿下方が対応したので、いくつか問題が発生した様ですが、結果的には無事に終える事が出来て何よりです」
家令からの返答に王女に関する内容が含まれていたので、この話の流れで問うのは問題なさそうだと判断し黒衣の王女について尋ねてみると、タウルスは静かに語り出した。
「ニグルム王女殿下について、シルウェストリスより紹介がありませんでしたか、それは失礼致しました。
ニグルム様もアルヴム様と同じく陛下の御息女でして、お二方は双子の姉妹です。
無邪気で快活なアルヴム様と比べると、寡黙であまり物事に関心を示されないニグルム様には、色々と気を使うものでして、シルウェストリスも猊下の方まで気が回らなかった様です。
何しろニグルム様は一度機嫌を損ねてしまうと貝の様に心を閉ざしてしまい、少なくとも翌日までは誰とも話されなくなってしまいます。
猊下もお気づきになられたかも知れませんが、お二方共両手足が不自由の為に、介添えがいなくては何ひとつ思う様に行動出来ません。
ニグルム様はその事を負い目に感じていて、それが原因で周囲にあの様な振る舞いをされてしまわれるのでしょう。
無論ご自身のお身体が不自由なのは他の誰の所為でもない事は頭では判っていても、健常な者達を目にする度にどうしてもご自身の不具を呪い、周囲の健常者からの接触を頑なに拒んでしまわれるのです。
一方、アルヴム様のあの性格は、不具である現実の逃避から生じた精神的な退行ではないかと思われまして、あの様に幼い子供であり続ける事で自虐的な言動や行動を凌いでおられるのではないかと。
アルヴム様は目覚めている間は常にあの様なご様子なので、あれが本当のアルヴム様の性格となってしまわれているのか、それとも全ての者を欺く演技なのかは誰にも判りません。
ですがアルヴム様が周囲へそうして接する事で自我を保っておられるのなら、それを否定する謂れは我々にはありませんから、為されるがままに受け入れて応じていくのみです。
お二方とも手足や視力の障害以外にお身体も弱く、現状では一日の大半を眠って過ごされております。
猊下の治療を行なったカメルスが日々お二人を診ておりますが、この先も回復の見込みはなく現状を維持するのが精一杯だとか。
ですから公務に関わる事も少なくお目に掛かる機会はあまりないとは思いますが、もし発言の機会を賜る様な際には重々慎重に対応願います」
そう語り終えた家令は一旦話を切ると、改めて口を開いた。
「話は変わりますが、今回の勅命の成果に関して、陛下は大層お喜びになられておりまして、猊下の処遇についての令状を預かっておりますので、読み上げます」
そう語ると懐から取り出した書簡の封を切って手紙を取り出す。
「日和坊主よ、此度の勅令に於ける成果を評価し、『因果の書』の使用特権を与え、使用時の身の安全を保証しよう。
それと驢馬との面会についても、前向きに検討しようではないか。
それが実現するかどうかは、そちの今後の成果に掛かっている。
これからも余の為に死力を尽くして勅令に臨むが良い」
そう告げ終えると書簡をこちらへと見せながら、再びタウルスは語り始める。
「以上です、おめでとうございます、この度猊下は『因果の書』の使用特権を陛下より賜りました。
使用特権の詳細についてはヒルクスからお聞き頂ければと。
陛下も今回の儀式の詳細に大変興味を持っておいでです。
差し支えなければこれから『因果の書』の元へ向かい、情報の提示をお願い出来ますでしょうか」
家令が読み上げた令状の内容からすると、どうやら以前に“ロゴス”が語っていた攻撃を仕掛けない特定の対象と言うのが、この使用特権の所有者の事だったのだろう。
今回はそれなりの枚数の金貨を入手したとは言え、随分と破格の対応をして来るので怪しんでいたのだが、要は道化が少しでも早く召喚の内容を知りたいから権限を与えたと言う訳か。
何はともあれ、今までの使い捨ての駒の扱いから一段階地位が向上したのは間違いないのだろうから、素直に喜ぶべきであろう。
これであの死面の書物と対決しなくて済むのは良いが、そうなると“ロゴス”への返答はどうしたものか。
とりあえずそれは、新たな手順を確認してから考えるべきか。
私は家令へと承諾の返事を返すと、その後すぐに独房を連れ出されて書庫へと護送された。
『聖ディオニシウスの骸』五階、書庫。
「これは猊下、この度は使用特権の拝受おめでとうございます。
そのまま奥にお進み下さい、では早速ですが特権についてのご説明をさせて頂きます」
扉を入った途端に待ち受けていた白山羊の司書が、すぐ隣に並ぶと私に歩調を合わせつつ語り掛けてくる。
どうやらこちらも準備万端で待ち受けていた様だ。
しかし立ち止まらずに説明してくるとは、そこまで早急に道化は詳細を知りたがっていると言う事なのか。
それはつまりあの金貨の収集が相当な急務である証とも言えるが、果たしてあれは一体何なのだろうか。
「以前にご説明させて頂いた手順とそう違いはありません。
ただ使用して頂く鍵が違っておりまして、特権保持者の方はこちらの鍵で開錠して頂ければ、開錠後の幾つかの手順が省略されますので、円滑に作業を行えます」
開錠後の幾つかの手順と言うのは、道化からの令状の内容からして、こちらへと襲撃してくる工程を指していると思って良いのだろう。
例の小部屋へと進みながら、ヒルクスが懐からその新たな鍵をを取り出す頃には、もう小部屋の階段の前に到着していた。
「こちらが特権者の鍵です、どうぞお受け取り下さい」
そう言って差し出されたのは、大きさは全く変わらないが色が黒い鍵だった。
前は金と銀の二つが目と口の錠の色と遂になっていた筈なのだが、この黒い鍵であればどちらも開錠出来ると言う事か。
私が鍵を眺めつつそんな事を考えている間に、司書は閂を外して扉を開き、入室する様にと手で誘いながら会釈をする。
どうやらこれ以上の質問の時間すら私には与えられていないらしい。
とにかく急かされていると感じつつ、促がされるままに小部屋へと入った。
部屋の中は前に訪れた時と何ら変わってはおらず、殺風景な室内には『因果の書』が置かれた黒い書見台があるだけだ。
今は私しか勅使がいないから、惨劇に因って壁や床の黒ずみが増えている様子も無い。
入ってすぐに背後から閂が差し込まれたのがその音で判り、たとえ特権を持っていても室内に閉じ込められるのは変わらないのが判った。
てっきりもう無抵抗に『事典の悪魔』との接触を図れるのだと考えていたので、もしかすると特権者と言えどもある程度の危険はあるのかと、すっかり楽観視していた己を戒める。
初めて対面した時と全く同じ状態の古書を暫らく静観し、特に特別な動きはないのを確認してから、ゆっくりと書物の前に移動する。
そして渡された黒い鍵を持ち直すと、まず最初は目の方の錠を外しに掛かった。
前回と同様に鍵穴に鍵を差し込んでから左に捻るが、どうも手応えが無く空回りしている。
念の為に逆回しとなる右方向に捻ってみると軽い抵抗があり、すぐに短い金属音と共に錠が外れた。
どういう仕組みかは不明だが、黒い鍵の場合は正方向で外れるらしい。
同じ要領で口の方の錠も解除してから、目と耳と口に刺さっている物を引き抜くと、視線は書物を捉えたまますぐに数歩後ずさる。
何か違いが生じるとすればここからの筈だが、果たしてどうなるのか。
固唾を飲んで白い本の様子を窺っていると、死面の娘の声が聞こえ始めた。
「来訪者よ、我は『因果の書』、汝は我に如何なる見識を求める? 汝は我に如何なる見聞を捧げる?」
発言内容は前回と変わりないが、その声と同時に開かれたのは例の聖句の頁ではなく、最後に開いた巨大な鏡の頁だった。
「来訪者よ、我は汝の全てを欲する、我に汝を映し全てを捧げよ」
これで本当に私が使用特権を得たのが確認出来た訳だが、問題は“ロゴス”への返答方法だ。
前回とはその行為を行なった頁と異なっている点がかなり気に掛かるものの、聖句の頁を開く手段は逆に今は無いのだから、どうしようもない。
これはまたしても、覚悟を決めてやるしかない様だ。
私は片手で抱えていた錘を持ち上げると、文字が綴られている頁の上に静かに押し当てた。
すると本は悲鳴を発しかけたものの、それは一瞬で治まったらしくその後は暫らくの沈黙の後に、再び最後の台詞を繰り返し始めた。
どうやらこれで上手くいった様だと判断すると、私は悪魔へと伝えるべき事柄と確認事項を強く念じてから、鏡の挿絵を覗き込んだ。
視線が鏡像と合った途端、忽ち視界は前回と同様に歪み始め、私は意識を失った。
目を覚ますとそこは、幻想的な青い光が舞い飛ぶ巨大な図書室である『深遠なる叡智』だった。
視野は真正面に黒檀の机と椅子を据えた位置で固定されており、そこから微動だに動かせない。
視界の端の方に入っている、幾つかの頭部の配置が変わっている様な気もするが、どうだったかはっきりとは思い出せない。
それを再考している暇も無く、こちらも全く変わりのない、定位置である椅子の背凭れに止まっていた白銀の木菟が嘴を開いた。
「おお、待ちくたびれたぞ、神妙なる客人よ!
こうして儂からの託宣を見ているおるのならば、つまり上手くいったと言う事じゃ。
少々返答が前回とは異なっていた様じゃが、同じ手が通じて安心したわい。
これでお主にも様々な事の真相を語れると言うものよ、今回はどれも重要な話となるからのう、決して忘れるでないぞ、ホッホッホー!」
双翼をばたつかせて感情を体現した“ロゴス”は、再び落ち着きを取り戻して姿勢を正す。
そして数秒の沈黙の後に『事典の悪魔』は語り始めた。