第二十二章 覇者 其の一
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『聖ディオニシウスの骸』四階、謁見室。
初めて道化に召喚を強いられた場所である『胃の間』と同じ階の王の居住区側にある、あの大広間と比べるとひと回り狭いこの部屋は、様々な者達が“ジェスター”へと謁見する際に用いられる場所で、ここで道化の王は陳情を聞いたり下命を下していると、最初にこの場所へ案内された日に執事が語っていた。
当然例の儀式もそれに含まれるのでここで執り行われると言う事で、“ロゴス”との接触以降に行なわれた複数回に及ぶ召喚の儀式の実施場所となっており、初回時の大広間での儀式が特別であった事が後ほど判明した。
その名の通り謁見の為にあるこの部屋には、両開きの大きな扉で繋がっている謁見者控室と言う隣室があり、その隣の部屋を経由しなければ謁見者は入室出来ない構造だ。
謁見室の室内は縦長の部屋となっていて、床には赤い絨毯が敷き詰められ、壁や天井までが赤一色で統一されている。
内装はこの部屋の用途に合わせて奥側が上座で床が高くなっており、階段を上がった上段の部分に謁見者の座る玉座が一脚ある。
十段程のこの階段は決して上ってはならないと告げられており、この段差こそが絶対的な身分の違いを現わしているのだろう。
玉座に座る者は謁見者の出入り口からではなく玉座の脇から出入りするのだが、両脇の部分は暗幕の様な分厚いカーテンで遮られておりその様子は全く見えない。
玉座の背後の壁には、両脇に道化の紋章が描かれた大きな旗が掲げられており、中央には巨大な“ジェスター”の肖像画が飾られているのだが、それが似ても似つかぬくらいに美化されていて到底同一人物だと認識出来ない程であり、当初は失笑を堪えるのが大変だった。
室内両脇の壁際には警備の目的だけではなく、儀礼的な意味合いも兼ねてなのかセルヴスがずらりと並んでおり、ここで何かを仕掛けても階段の半分すら上がれずに肉片にされるだろう。
この様な仰々しい謁見室と比べると前室に当たる謁見者控室は至って簡素で、床や壁や天井も廊下と変わらず、壁沿いや部屋の中央に地味なソファーや椅子が設置されているだけだ。
廊下へと出る扉と謁見室へ繋がる大扉の二つの出入り口には、それぞれ左右に一人ずつの近衛兵が立っており、この点も廊下や他の部屋の警備配置と変わらない。
ただこの部屋にはこの他に、両開きの大扉には犬頭の従僕が二人控えていて、謁見の準備が整うと謁見室内にいる別の従僕から合図を受け大扉を開き、謁見者を奥へと通す仕組みはこの控室独自と言える。
初回時の召喚こそ成果があったものの、それ以後の召喚では全く成果がなく回を重ねる毎に道化の罵詈雑言は増加する一方であり、その腹癒せなのか『屍諫の守護天使』はここに来る度に段々と重さを増しており、最近は抱えて歩くのも疲労を感じ始めている。
だがそれでも私を処刑しようとしないのは、『事典の悪魔』の取り計らいが影響しているのか、それとも単に次の候補者が見つからず手駒が無くなるのを避けているだけなのかは、いまいち判断がつかない。
成果が無ければ『事典の悪魔』への報告義務も発生しない為、あれ以降“ロゴス”との接触も出来ておらず、新たな情報も入手出来ていない。
そんな状況の中、新たな召喚の為に呼び出された私は、いつもの様に栗毛の執事と鹿の近衛兵に伴われて謁見者控室へと来たのだが、ここ最近は説明するべき事も無く会釈だけで下がっていたカバルスが、今回は久し振りに語り掛けて来た。
「猊下、本日は陛下がご多忙の為、召喚の儀式はアルヴム王女殿下が執り行います。
殿下はとてもお若く奔放な方ですので、その言動や行動には理解が及ばない面があるかも知れませんが、殿下付きの従者の指示に従って適切に対処して頂きたく存じます。
また殿下は大変好奇心の強いお方でして、前々より猊下に対しても大変興味を抱いておられるとの事。
殿下のご機嫌をあまり損ねない様、問答等の応対には十分にご配慮願います」
そう忠告を受けた後に暫らく待たされてから謁見室へと通された。
普段であれば既に道化が玉座に座している筈なのだが、この日そこでまず目にしたのは、壁際に並ぶ近衛兵達が全員深々と臣下の礼を取る中、白いドレスを纏った金髪の娘が車椅子に乗せられて運ばれて来る所だった。
その衣装は全て純白で統一されており、幾重にも重なる様々なレースの襞や刺繍等の細かな装飾が施されたロングドレス、薄いレースを幾重にも重ねたヴェール、ドレスに合わせた装飾の手袋に白いハイヒールと、徹底されている。
ドレスは襟が高く首を殆んど覆っていて、袖と手袋の境も隙間は無く、スカートの裾から僅かに見える足首も白いタイツらしきものを履いており、素肌が見える部分は全く見当たらない。
ヴェールも薄手ながら複数枚のレースを重ねている為に良く見えず、輪郭が朧げには判る程度で表情は全く判らない。
その絢爛な姿は宛ら花嫁の衣装の様だが、それが花嫁ではないと判る大きな違いは、ヴェールを止めている略式冠らしき豪華な金色のティアラと、その手にブーケを持っていない点であろうか。
車椅子の脇には、幾度となく見かけている猫頭のメイドとは似て非なる服装をした、額と頬にある黒い縞が特徴的な山猫らしき者が付き従い、背後には車椅子を押す狐頭の男が追従している。
そして中央にある玉座のすぐ脇に車椅子が止まると、山猫の従者が白衣の王女の手を取り介添えに入る。
山猫の手を借りて立ち上がった王女は、足が不自由なのかかなりふらつきつつ半ば勢いで荒っぽく玉座へと座ると、すぐに山猫が乱れた衣装を整えた後、口元近くまで覆っていたヴェールを後ろに払った。
あの矮躯で奇形の道化の娘との事だったので、どれだけ親に似て人間離れしているのかと思っていたのだが、身体に不具が見られるものの容姿に目立った異常は見られない。
それどころか、亜麻色に輝く癖のない金髪や淡い琥珀色の虹彩の瞳、若干のあどけなさを残す整った顔立ちや華奢で細身ながらそれなりに存在感を示す胸と、顔も体型も似ても似つかず父親とは全てが違っており、本当に娘なのかを疑う程だ。
容姿から推測するに恐らく十代後半から二十代前半あたりかと思えるが、道化の年齢を考えた事がないのでそれが子供の年齢として妥当な判断なのかは判らない。
朗らかな笑顔を浮かべて従者へと話し掛けていた娘だったが、早速こちらに視線を向けると表情が一転し、身を乗り出す様に露骨な程の好奇心を露にしながら、隣に控えている山猫へとかなりの勢いで何かを伝えている。
美しい外見に似合わぬ無邪気さを窺わせるその態度からすると、先程の推測よりももっと年齢は幼いかも知れない。
身を屈めてひと通り王女からの言葉を聞いた後、山猫は体を起こしてこちらへと鋭い視線を向けると、両手でスカートの裾を軽く上げて会釈しつつ口を開いた。
「初めてお目に掛かります、わたくしはアルヴム王女殿下の侍女を仰せつかっておりますシルウェストリスと申しまして、こちらの者は従者のヴルペスです」
そう語りながら右手で狐頭の男を指し示した後、次にその手を玉座へと向けた。
「そしてこちらにおられるのが陛下のご息女で在らせられる、アルヴム王女殿下です。
アルヴム様は時に端的な表現をされる為、そのお言葉から真意が伝わりにくい事がございます。
その場合は不肖ながらこのシルウェストリスが、お話を仲介させて頂く事をご了承下さい。
これよりわたくしの言葉はアルヴム様のお言葉として受け答え下さいませ、宜しいでしょうか」
カトゥス達よりもきつい印象を受ける、凛とした声色のシルウェストリスからの発言が終わり、その説明で王女が足だけでなく円滑な会話が困難な程の障害者である事が判り、健常ではないと言う意味合いでは道化の血統を継いでいる様だと多少なりとも納得する。
それにしてもこの山猫は、傍目には女中のカトゥスに似た容姿だが、私と対話出来ると言う事は、侍女と言う立場は牛の家令や馬の執事と同じ上級使用人と言う事か。
とりあえず異議はない事を相槌で示すと、それを見て了承した侍女は頷き返し、再び口を開く。
「それではこれより、アルヴム様の謁見を開始致します」
こうして道化の娘との謁見が開始された。
「ねえねえ! もっと近くに来て!」
いくらあの道化の娘とは言え、王女たるものそれなりの淑女的な振る舞いをするのではと思っていたのだが、即座に発せられた王女からの甲高い声色の第一声は、私の推測の遥か斜め上を行っていた。
それは私に近づく様にとの指示だったが、あまりにも短絡過ぎる発言であろう。
願望をそのまま端的に最も短く表現した言動を発するとは、これではまるで幼児同然ではないか。
その直情的な指示の内容についても、謁見者が目の前の階段を上がって良いものかが判らず、早速狼狽させられる。
それを聞いた山猫の侍女は速やかにアルヴム王女へと何かを呟くが、王女もまた即座に大声で反論する。
「だってだってここからじゃ良く見えないもん、どうして駄目なの! どうしてどうしてどうして!」
どうやら私を近づかせる事は出来ないと侍女から諭されたらしき王女は、頬を膨らませてむくれると続け様に駄々をこね始めた。
「やだやだやだ、見たい見たい! じゃあアリィがそっちに行く!」
だがそれでも侍女も頑として譲らないと判ると、今度は自分が降りると言い出して玉座から立ち上がろうとするが、介助無しでは思う様に動けないらしく、シルウェストリスが王女の肩を軽く抑える程度で簡単に阻まれてしまった。
自分自身の事を名前で呼ぶとなると、これは本当に幼児程度の精神年齢であると断定しても良いのではないか。
この言動で外見も相応に幼ければ違和感も無いのだろうが、その身体はどう若く見積もっても青年期に到達しており、その容姿と言動の格差に因る違和感は大きくなるばかりだ。
これは道化とは全く違った意味で慎重に対応する必要がありそうだと肝に銘じつつも、執事も言っていた通り、野放し状態の道化とは違ってお目付け役の侍女が付いているから、こちらはそれほど困窮する事態にはならずに済むと期待したいところだが、果たしてどうなるのか。
開始早々に紛糾する謁見だったが、暫しの二人だけの会話の後に、どうやら侍女の方が折れる形で決着したらしく、侍女が私へと向かって話し始めた。
「猊下、アルヴム様が猊下をお近くでご覧になりたいとの事ですので、特別に玉座の前までお上がり頂けますか。
その際に『屍諫の守護天使』は両手で抱えたまま決して手放さない様、お願い致します、セルヴスは猊下のお供を」
侍女からの指示を受けて、左右から二人の近衛兵が私の両脇に付き、その間に私は一旦下ろしていた錘を抱え上げる。
まさかこの階段に足を掛ける日がこれほど早く来るとは思っても見なかったが、王女の指示とは言えこれが後々道化に知れたらどうなるのかも大変気に掛かる。
だがそれを恐れて今命令を拒否すれば、この時点で全てが終了する可能性が高いと判断し、今は目の前の最高権力者の言葉に従うべく階段を上がる。
かなりの重量となっている錘を抱き抱えながら私が階段を昇る様子を、身を乗り出しながら澄み切った瞳でじっと見つめていた王女は、不意に私へと声を掛けた。
「ここまで来て! 早く早く!」
階段を丁度登り終え玉座との距離が約2m程度まで迫ると、アルヴムはぎこちなく自分の足元を指し示しながら催促してくるので、ここで念の為一旦山猫の侍女の様子を確認する。
「猊下、どうぞお進み下さい」
シルウェストリスは頷きながら答えたものの、その言葉は私に向けられたものだが侍女の視線は微妙にずれていて、それは私ではなく両脇のセルヴスへと向けられているのに気づき、有事の際の指示を目配せで行なったのだと察した。
道化がこの王女を寵愛しているとすれば、これは又とない絶好の機会なのかも知れないが、姫を人質に取るよりも先にすぐ脇の近衛兵に取り押さえられる確率が高く、ここは大人しく指示に従うしか手は無さそうだ。
それにしても、王女はどうして私をここまで近づかせたいのか、その疑問を感じた時にその答えとなる言葉を王女自身が発した。
「ああ、やっと見えた、すごいすごい! お父様の言ったとおり、まんまるだあ!」
私の頭部へと腕を伸ばしながら叫んだお姫様は、この上なく嬉しそうに笑っている。
笑われているのは大変心外だが、ここは耐えておくべき場面だと理解し、黙って幼き支配者が満足するのを待ちつつ、先の王女の言葉を考察する。
王女はその精神年齢は置いておくとして、足が不自由なだけでなく視力にも障害があり、私の頭の輪郭をその目で把握するのにここまで近づかなければ判らないとすると、相当な弱視と言う事になる。
聴覚に関しては、自身の声がかなり大きい点から難聴の可能性も考えたが、侍女との会話では囁き声程度でも聞き取っている様なので、どうやらこちらは正常らしい。
この時四肢に関して新たな事実に気づいた。
嬉々としてはしゃぐお姫様はぎこちなく両手足をばたつかせていたのだが、時折玉座の脚や肘掛にぶつけても全く意に返していないのだ。
そしてその様な自虐的な振る舞いに対して、侍女やもう一人の従者である狐頭の者が何も指摘しないのも、どうも不自然に見える。
それが何故なのかを考え始めたところで、十分に堪能したのかようやく笑い終えたアルヴムは、同時にはしゃぐのを止めると、澄んだ瞳でじっとこちらを見つめながら口を開いた。
「ねえねえ! そのまんまるの中はどうなってるの?」
それは真の意味で純粋な疑問から生じた問いなのだろうが、実に恐ろしい質問を私へと発した。
その問いは道化からの日乞いの儀式をさせられそうになった時よりも、更に直接的な死を予感させる展開が想像出来るものであり、道化本人ではないのだから勅使の生死を決定する権限が無い事を祈りつつ、ある意味縋る様に侍女へと視線を送る。
この侍女の次の言葉次第で私はこの場で鹿頭達に解体されかねず、この辺りの展開も含めての執事の忠告だったのかと改めて思い返しながら、命運を握る山猫の言葉を待った。
だが私の心配はどうやら杞憂だった様で、シルウェストリスは表情を崩す事も無く、間髪入れずに死刑宣告者を嗜め始めた。
「アルヴム様、もうそのくらいで良いでしょう、猊下は勅使の任を担うお方であって、アルヴム様の玩具ではないのですよ。
一度でいいから見たいと言う願いはこれで叶ったのですから、これ以上我儘を言わずに、お役目を果たして下さいませ」
お目付け役としてこの様な展開にも慣れているのか、侍女は動じる様子も無く淡々と諌めた。
「えー! やだやだやだ! シルシルのけちけちけち! お父様に言いつけてやるんだから!」
白衣の王女は即座に反発し、口を尖らせながら文句を並べ始めた。
私にとってはそれも死刑宣告となるであろう、娘からの道化への告げ口にも全く怯む事なく、山猫は王女の言葉を無視してこちらへと指示を出す。
「猊下、もう結構です、セルヴスと共に下へお下がり下さい」
家令や執事も相応の権限を持っているとは知っていたが、相手が道化自身ではないにしても、使用人の立場で王族に対してこれ程逆らう様な態度を取る者がいるとは予想していなかったので、これには少々驚いた。
もしかすると侍女も女中と同様に大勢いて、日々気紛れに処刑されているのではとも思ったが、流石に使用人が命懸けで反論するとは考え辛く、王女があの様な幼児同然で感情の制御もままならないからこそ許されていると考えるのが妥当か。
「シルシルなんて大っ嫌い! シルシルなんか死んじゃえ! セルヴス! 今すぐシルシルの首を刎ねて!」
私と鹿頭達が元の位置に戻ってもまだアルヴム王女は延々と侍女への暴言や悪態を繰り返しており、その中にはとんでもない命令も含まれていたものの、その言葉を真に受けて近衛兵達が動く事は無かった。
たとえ王族と言えども、全ての使用人へ自由に命令を下す権限は王たる道化本人にしか無いのだと若干安堵しかかった時、侍女から不吉な言葉が発せられた。
「本日のアルヴム様には、召喚の儀式を代行するお役目の為の権限以外はありませんので、その様な勝手な命令をされても無駄ですよ。
ですからここで何を命じられようと、後で陛下に何を仰られようと、誰も従いはしないのです、お分かりになられましたか?
それと、わたくしの名はシルシルではなくシルウェストリスです、正しくお呼び下さいませ」
諭す様にそう言われた王女は急に黙りこくると、みるみるうちに瞳を潤ませて泣き出しそうな表情へと変貌し、啜り泣きを始める。
「だってシルシルの名前が長過ぎるのがいけないんじゃない! そんなに長い名前覚えられないもん!
何よ何よ何よ! シルシルのいじわるいじわるいじわる! うわああああああん!」
こうして最後は大号泣となった。
この後は山猫の侍女がひたすら宥め賺しどうにか泣きじゃくるお姫様を落ち着かせ、王女の機嫌も直ったところで本題である儀式の準備が始まった。
「遅くなりましたが、これより陛下に代わりアルヴム様に因る召喚の儀式を始めます、カトゥス、『聖血』をこちらに」
シルウェストリスの指示に因り、黒猫のメイドが例の怪しげなワインとワイングラスを載せた盆を両手に持って、謁見者控室から現れた。
そして女中が私の元へと向かうのと同時に、上段に佇んでいた侍女も階段を降り始める。
恐らく普段カバルスが行なっていた、この召喚の儀式の中でも唯一のそれらしき行為である、グラスにワインを注ぐ作業を行う為だろう。
猫の女中はいつも運んでくるだけで決して注がない点から、どうやらあの『聖血』を注ぐのは上級使用人でなければならないらしい。
これまでもずっと疑問に思っていたのだが、媒体となるワインの封を切るのも使用人が行なっており、この召喚の儀式中道化は何らかの動作をする訳でも無くただ見ているだけで、言ってしまえば別に目の前で行なう必要性すら無い様に見えるのだが、どうなのだろうか。
今回に至っては、道化自身ではなく娘の王女が立会人を代行している点からしても、更にその推測の信憑性を高めている。
それとも私が意識を失っている間に、何らかの行為が行われているのかも知れないが、それに関しては私個人では知る由も無い。
まさか王女に尋ねられる筈もないものの、侍女ならば知らないと言う事はないと思うが、もし尋ねたとしたら答えるだろうか。
一瞬そんな疑問を感じたが、使用人達は道化の忠実な僕であり、私にとって味方ではないのだから決して油断せず、余計な対話は避けて最低限の接触に留めるべきだと考えを改める。
それ以外で安全に回答を得るには“ロゴス”に尋ねる他に手が思いつかず、これでは確認出来るのはかなり先になりそうだと少々落胆する。
私がそんな自問自答をしている最中も、目の前まで来たシルウェストリスは黒猫のカトゥスから受け取ったソムリエナイフでボトルの封を切り、コルク栓を慎重に抜いている。
この『聖血』と言う名のワインにも疑問がある。
いつも召喚時に飲まされるのはグラス一杯分だけで残ったワインが使われた事は無く、召喚の儀式の度に未開封のワインが用意されている。
召喚の儀式では私を選択した異世界へと送り込んでいる点からすると、この普通の赤ワインとはかけ離れた不快極まりない味のワインこそが、召喚先を定める何らかの細工が施されているのではないかと最初は考えた。
だが封がされているのだから、超自然的な力で瓶の外側から細工出来ない限り、内容の成分を直接調整は出来ない筈だ。
それに“嘶くロバ”は少なくとも私が知る限り、この手の小道具を使わずに私を召喚させていたと思えるので、これは召喚自体には関係なくどちらかと言うと召喚に付加価値を与えるものなのか。
例えば召喚先の世界から物質を転移させる為に必要であるのなら、話の辻褄は合う。
“嘶くロバ”の召喚と道化の召喚との最大の相違点は、現状金貨と特定されているものの、物質を転送の可否であるのは間違いない。
あの驢馬男が召喚時に終始傍にいた事は一度としてない事を踏まえれば、召喚自体には立会いは不要となり、そうなると召喚時の付加要素こそが立会いの必要性であると言う事になる筈だ。
結論としては、道化や王女の立会いは異界からの物質回収の為に必要な施術の為の行動であり、『聖血』は物理転送を可能にする媒体であると考えられる。
注ぐ行為を上級使用人に限定している理由についてはこの考察でも判らないが、儀式の重要な要素である為に使用人でもそれなりの地位の者にしか任せていないと言う事か。
この様に推論を帰結させた頃、侍女に因ってボトルからグラスへと注がれた『聖血』が差し出される。
「猊下、大変長らくお待たせ致しました、どうぞお飲み下さいませ」
これを飲み干した後に何が起こっているのか、改めて不安と疑念が織り交ざった感慨に浸りつつ、諦観してグラスを取ろうと手を伸ばす。
その刹那、又しても予期せぬ発言を耳にした。
「ねえねえ、シルシル、眠くなっちゃったから、部屋に戻りたいんだけど」
ようやく大人しくなったと思ったアルヴム姫が、かなりはしゃいだ所為なのか、新たな駄々をこね始めた。
「アルヴム様、今は未だお役目の最中です、もう暫らく我慢なさって下さい」
呼び名についてはもう触れる事なく、振り返ってそう諭す侍女の言葉を聞いても王女は納得せずに、大きなあくびをしながらの間延びした発音で反論する。
「だぁってぇ、もぉ寝る時間でしょぉ? ねぇ、ヴルペスぅ、違う?」
鹿頭の近衛兵や狐頭の男の方は正しい名前で呼ばれている点からすると、お姫様が侍女の名だけを正しく呼ばない理由は、やはり四文字以上の文字数が駄目なのか。
ヴルペスは王女へと無言で笑みを返してから、懐から懐中時計を取り出すと時間を確認した後に侍女へと目配せし、侍女も隠しから同じ懐中時計を取り出して時間を確認すると、若干慌てた様子で王女へと返答する。
「アルヴム様がいつまでも駄々をこねていたから予定の時間を大幅に超えてしまったのです、もう暫らくの辛抱ですから少しだけ我慢して下さい」
窓の方を見ると真っ黒な雲の無い青空である事から今は夕方の筈で、昼寝にしては遅いだろうしかと言って眠るには早過ぎるのだが、はしゃぎ疲れて本来の就寝時間でもなく眠くなった訳ではないのは、従者二人の態度と言動が証明している。
つまりこのうら若き自由気ままな王女様は、いつも日の入りの時間帯に眠っていると言う事なのか。
この新たな疑念も気に掛かるがもうそれを考察する時間は与えてもらえそうにない。
「猊下、どうかお急ぎ下さいませ」
本当に時間が無いのだろう、変わらぬ表情ながら少し早口になった侍女の口調からそれが窺われる。
このまま時間が経過するとどうなるのかを確認してみたいが、ここで下手に焦らして王女からの死刑宣告が実現されては元も子もない。
今回のところは試す様な真似はせずに、大人しく従っておくべきだろう。
私は急かす山猫が差し出す深紅の液体の入ったワイングラスを手に取って、一気に煽った。
すると即座にいつもの不快な感覚に蝕まれる。
口一杯に広がる強烈な金属臭と、喉や食道や胃までも焼く様な強いアルコールの刺激と共に視界は歪み回り始め、それに伴って音が反響し始めた。
「さあ、アルヴム様、もう時間がありません、お早く最後のお勤めをなさって下さい」
辛うじて聞き取れたのはこの侍女の返答までで、私はいつもの様に意識を失った。