第二十一章 湖の主 其の四
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2016/02/12 記述修正 お主が入手した金貨の中には → お主が目にした中には
2016/02/21 記述修正 特定の対象には攻撃を仕掛けんでおるから~ → 特定の対象には攻撃を仕掛けん認識方法があるんじゃが~
―――これまでの半生で通り過ぎて来た景色が無秩序に再生されている感覚。
それはまるで、狂った走馬灯を見ているかの様だ。
その映像や音声は正常ではなく、歪んでいたり、霞んでいたり、白黒だったり、色が反転している。
その再生も等速ではなく、早かったり、遅かったり、逆だったりと、全てが正しくない。
記憶が氾濫し勝手に想起され、意識が混乱し思考が停滞し続ける。
時の流れを示すもの全てが歪み、自身の感覚すら正しく感知出来ない。
その苛立ちで反射的に何かをしようとしたのだが、何をどうすべきかすら判らずただただ躊躇する。
……そんな中で、数多の残像の中に一瞬人影が鮮明に見えた。
こちらへと両手を差し伸べるその者は、微笑を浮かべつつ何かを呟いていた。
反射的にその者の名を呼ぼうとするが、名前が判らず絶句する。
それを思い出そうとした瞬間、限界に達した脳が全てを遮断し、一転して闇と沈黙に閉ざされた―――
規則的な機械時計の短針音と仄かな薔薇の香りで目を覚ますと、そこには青い光を放つ星々が煌めく紺碧の夜空が広がっていた。
すぐに今自分が仰向けに倒れていて、視界に映っているのが空だと自覚し身体を起こすと僅かに違和感を感じたが、それよりも驚愕すべきものが視界を覆っていた。
そこはこれまで居た“ジェスター”の書庫とは全く趣の異なる場所で、星の光だと見誤った青色の発光体が飛び交う広大な講義室らしき空間だった。
周囲一帯を青白く照らす無数の発光体の正体は青い蝶で、天井の無いこの空間の上空だけでなく、教場と言うよりも円形劇場と見紛う広さの場所の至る所に存在し、その発光する翅で青白い光を遍く照射している。
この蝶は全てが単に照明代わりに辺りを舞っている訳では無く、何らかの作業に従事しているかの様な一定の動作を繰り返している個体も相当数見受けられた。
その動作とは大きく二種類で、ひとつは劇場に於ける階段状の観客席部分に当たる箇所に立ち並ぶ背の高い書架と、舞台部分の端に設置された台座周辺にある画架との往来で、その目的は書物の輸送らしく数匹単位で一冊の本を運搬している。
書架は相当に離れていてもその巨大さが判る程であり、そこに格納されている書物もまたかなりの大きさで相当に重い筈なのだが、数匹程度で危なげもなく大書架と画架を往来している。
画架は大書架から運んで来た書物を開いて設置する三脚の台らしく、台座を囲む様に配置されたその数は台座毎に区々らしい。
もうひとつの動作は台座と画架との往来で、正確には台座の上に載っている物体と画架に設置された書物との往復行動だ。
台座は彫像を飾る様な代物で円柱状の構造をしており、その上に鎮座しているのは様々な生物の頭部らしき物で、それぞれの生首の頭部に多くの蝶が群がっている。
まるで花に群がり蜜を吸うかの様に死体の頭に暫らく止まると、近くに設置された画架へと向かい今度は開かれた頁の上に止まり、また暫らくすると再び頭へと止まるのを順番に繰り返していて、時折移動の際に頁を捲ったりもしている。
無数の蝶は一切の物音を立てずに各種作業を行なっている為、これだけの広さと夥しい蝶の数でありながら全くの無音であり、何処にあるかも判らない時計の音だけが響いている。
足元周辺にも大量の青い光が飛び交っていて一瞬宙に浮揚しているのかと驚くが、よくよく見るとそれは空が反射して映し出されていた鏡像で、自分は今床に設置された巨大な鏡の中心に立っているのが判った。
私の身長の倍はあろうその鏡の意匠が、ここで目覚める前に見た挿絵の鏡と酷似しており、これが道化の世界との接点であろうと連想させる。
遠目では不確実ではあるが、金属製と思しき鏡の縁以外は床も台座も大書架も全て同じ暗い赤褐色の木材で作られている様で、辺り一帯から漂う薔薇の様な芳香からするとこれらは全て紫檀の様だ。
こうして周囲に目を奪われていると、短針音以外の音である私へと呼び掛ける声が聞こえた。
「ようこそ我が書斎『深遠なる叡智』へ、神妙且つ滑稽な客人よ」
その声は背後からであり、声の聞こえた方向へと半ば自動的に振り返ると、そこには唯一紫檀ではなく黒檀と思われる古びた机と、こちらも同じく黒檀の背凭れの高い椅子があったのだが、その椅子には誰も座してはおらず、代わりにそこにいたのは椅子の背凭れの上に止まる一羽の猛禽類だけだ。
今の反射的な動作にも若干の違和感を感じたが、それよりもそこに居た存在への興味が凌駕した。
それは全身白銀色に輝く羽色に白い嘴をした梟で、良く見ると一対の羽角があるので木菟なのだろうか、その鳥が青い虹彩の双眸でこちらをじっと見据えていたのだ。
暫らく凝視し続けていても身動ぎひとつせずに静止していたので、もしやこれは剥製なのかと思い始めた時、それは瞬きして嘴を開くと同時に再び声が聞こえ始めた。
「儂の名は“ロゴス”、あらゆる世界の事物を探求すべく存在し、あらゆる世界の歴史を知り尽くす事が儂の存在意義であり、その蓄えた知識故にあの愚かな侏儒めは儂を『事典の悪魔』と命名しておる。
今のお主からすると恰も別世界へと来たかに思えるであろうが、厳密にはそうではない。
これは儂の精神世界をお主の脳に記憶として投影している映像で、あの書物の頁に描かれた鏡と視線を合わせた事に因って、お主の脳と結合し直接脳への感覚を操作しておるだけでな、現実のお主はあの頁を見つめたまま意識を失っておる状態じゃ。
言ってしまえば夢と大差ないものじゃ、それ故にお主の意思は儂へと反映される事はないし、お主は自らの意思で動く事も叶わん、因みに目覚めてからここまでのお主の動作は予め儂が仕込んでおいたものじゃよ。
わざわざこの様な面倒なやり方をしているのは、あの忌々しい侏儒めの呪縛で他者との意思疎通を封じられておるのでな、これが唯一の伝達手段なのじゃ」
そう言われて、その詳細について問おうとしたが、喉に何かが詰っているかの様に全く声を出す事が出来ない。
それどころか宛ら己の肉体が鉛の塊にでもなってしまったかの様に指先すら動かず、更には呼吸すら出来ない事に気づいた。
これまでに視線が変わる都度感じた違和感の正体はこれだったのかと納得したものの、流石に呼吸不能な点には窒息死を危惧するが、一向に息苦しさを感じる気配がないと言う矛盾した現状を理解し、どちらにせよ一切抵抗出来ないのであればここは静観するべきかと判断して、新たな“ロゴス”の発言を待つ。
そうした私の動揺を察した様子も特に無く、白銀色の木菟は一度瞬きしてから再び説明を再開する。
「最初に弁明しておくが、あの悪趣味極まりない書物は儂の意思で動かしているものではないぞ。
『因果の書』は醜悪な装丁が施された本の形をしておるが、実のところは儂を閉じ込める為に作られた一種の牢獄で、その目的は儂が外部の者との自由な対話を阻害し、意思の疎通を限定する為じゃ。
あれの主たる動作は、封印を解き接触を試みた相手に対して襲い掛かり頭部を喰らうというもので、本に喰われた頭の脳内の記憶全てが儂の元へと送られて来る、この周囲に並ぶ台座に鎮座しておるのはその記憶を視覚化したものじゃよ。
その様な攻撃をする理由は、儂が彼奴に囚われた際に提示した要求に起因しておってな、儂が知識を提供する条件として外界の情報提供を要求した結果なのじゃ。
だがそれは全ての来訪者を対象とするものではなく、特定の対象には攻撃を仕掛けん認識方法があるんじゃが、儂からはそれを制御出来ん。
それとは別に、来訪者の記憶を生かしたままで探る手段も用意されておって、その仕組みは本から伸ばした触手を来訪者の耳や目や鼻から挿入し、脳へと接続して脳内の記憶を読み取ると言うものでな、より鮮明な近い過去の記憶から順に遠い過去へと遡行して参照する事が可能じゃ。
だがこちらは儂が必要以上の情報を得ぬ為の措置として、記憶へと接続可能な時間を制御しておって、その所為で儂は来訪者が持つ脳内の記憶の中でも、時間軸にして極めて直近の過去の記憶しか手繰れぬ様にされておる。
逆に儂の知識を引き出す手段が、先程と同様に触手で脳へと接続し映像や音声を脳内の記憶として埋め込む仕組みで、今正にお主が体験しているこれじゃよ。
本の中に囚われておる状態の儂の方から、直接外界へと働きかけられる事象は至極僅かで、書物の表紙を飾る顔の目と耳を通じて、あの部屋の室内の様子を見聞きする事なのじゃ。
いずれにしても、来訪者との意思の疎通を行なう為には手続きとして所定の頁を開かねばならんが、それも儂には一切制御出来ん、本来ならば。
じゃが今回はお主の予期せぬ反撃が書物の誤作動を引き起こした結果なのじゃろう、本来開く筈の無い接続の為の頁も開き、更に触手に因る脳への接続も切れずに依然保持され続けておる。
これまでにも書物の力を凌駕した者もおりはしたが、そうした者達の場合でもこんな現象が起きた事は一度とて無くお主が最初じゃよ、実に小気味が良いわい、ホッホッホー」
この悪魔もまた私と同様に、囚われの境遇や道化から受けた仕打ちを強く恨んでいるらしく、道化の事を侏儒と蔑称している点からしても窺い知れた。
だが単に弄ばれるかの如く一方的に使役されている私とは違い、屈折した形であっても要求を叶えている辺りは、それほどに有能な存在だと道化も認めているからであり、それは本の格納場所が城館の上層階である点からも間違いない。
そんな印象を覚えつつも、直ぐに今語られた説明を纏め始める。
要約すると、本来勅使として訪れた者はこの古書に頭を食われて死んでいるか、或いは自力でそれを凌いで生き延びるかの差異はあれ、どちらにせよ悪魔へとその記憶を提供するだけで、悪魔からの声を聞く事は出来ない筈なのに、それが今は誤作動し解放されてしまっていると言う事か。
この異常な状況が露呈すれば、あの道化なら即座に何らかの報復手段を講じて来そうなものだが、それが伝わっていないのかそもそもその様な情報伝達の仕掛けがないのか、特に異変は起きていない。
まあどちらにせよ、今の私が取れる防衛手段は皆無に等しいのだから、とりあえずはこのまま『事典の悪魔』の話を聞き続けるしかなさそうだ。
その様に現状に対する考えを纏めたところで、銀木菟が話の本題へと入った。
「どうかね稀有な客人よ、ものは相談じゃがこの儂と取引をせんかね? 儂が欲しいのはお主が叫んでいたあの言葉、それらに関する経験の記憶じゃよ。
お主は儂にあれらの言葉に関する経験の記憶を提供してくれれば良い。
なあに、提供と言っても頭を寄越せなどとは言わんよ、ただ単にその記憶を儂に見せてくれるだけで良いのじゃ。
その確約さえしてくれるのなら、儂からはお主が望む知識を授けてやろうじゃないか、どうじゃね、悪い話ではないじゃろう?」
そう提案した“ロゴス”は、宛ら襟を正すかの様に軽く両翼を開いてから閉じ直すと、改まった様子で語り出した。
「まず最初にこの取引を行なうに値するかについて、先のお主の言動が真実である事が大前提だったんでなあ、それで先程その処置をさせて貰った。
この処置は時間を要するんでな、本来であれば通常は侏儒めが特別に許可した対象者か喰らった脳でしか出来んのじゃが、丁度お主の行動で生じた誤動作に因る接続が維持されておったから、この状況を利用したのじゃよ。
目覚めるまでに悪夢を見たのではないかな? それは脳内に保持された記憶を読み取る際の副作用じゃ。
記憶の再生時、脳の保持者にはそれが追憶として認識されてしまい、まるで悪夢を見ているかの様な状態に陥って、それでごく稀に精神に異常を来す者もおるがお主は無事だったようじゃな、善い哉善い哉。
さて、先程主張した言動が嘘偽りではないのが確認出来た、確かにお主は非常に興味深い存在と遭遇している様じゃなぁ。
“隠者”と申す者については儂も知らんが、その者が語った内容については、部分的にではあるものの幾つか思い当たる記憶も、僅かではあるが存在しておる。
これまでは、それらの情報は誤って伝わった伝承程度に捉えていたのじゃが、お主の記憶に因ってその定説は覆った様じゃ。
長い長い歳月を掛けて調べていても尚、未知なる情報が湧き出て来るのだから、全く以って興味深い! やはり知的探究の渇望とはどうあっても止められんものよのう。
久方振りに語り合う価値のある輩が現れてくれて、実に愉快じゃわい、ホッホッホッホッホー!」
それほどまでに高揚したのか、白い猛禽は両翼を広げてさも愉快そうに高音で鳴いた。
そんな上機嫌な悪魔とは逆に、下手をすればあの悪夢の際に発狂していたと言う事実を知って、私の感情は複雑だった。
確かにあれは精神が錯乱しかねない状態だったが、気になるのはあれが全て私の記憶の映像であった点だ。
どれも何処かで見た様な気はするのだが、歪曲していた所為か何か違和感を感じる部分もあった。
だがあの悪夢の詳細については完全に思い出す事も難しく、銀木菟が再び語り出したのもあって思考を中断し、そちらへと意識を向ける。
「これで儂からの交渉条件は満たされたが、このままでは一方的に儂の望みを叶えただけじゃからな、ここは公平にお主の要求も叶えておくかのう。
先ずはあの侏儒めからの問いについてじゃが、彼奴の指示があったと言う理由が無くとも少なからず興味を抱いておるようじゃから、儂の知識を証明する意味でもここで軽く論じておくべきじゃろうな。
今回お主が送り込まれていたのは、これまでに巡って来た世界とは全く別の場所じゃ。
そう言った意味では我々が囚われている侏儒めの支配する世界もまた同様で、逆に言えば“嘶くロバ”が選択していた召喚先は、全て同一の世界であったと言った方が判りやすいかのう。
以前侏儒めに送られた幾つかの召喚も、かなり進化の度合いが異なる文明の世界だったろうから、儂の説明もある程度は判るのではないかな?
まあこの辺りは追々理解出来るじゃろうから、取り敢えず話を進めるぞ。
お主が送り込まれたのは、嘗てはあの地域でも最も高い山が聳えていた場所で、湖底の建造物は元々その山頂に立てられた巨大な城砦だった。
その城砦を築いた文明は当時、あの世界を統一支配するほどの強大な力を有しており、その力の根源の制御をあの城砦の最深部で執り行っていた。
その力の正体は磁界を操る能力で、それに因り言わば神に等しい地位を得ていたのじゃ。
だがある時、その力の制御に失敗し暴走した結果、あの場所の地底深くにあった強い磁性体の岩盤に引き寄せられる形で、城砦は山毎大地へと沈み瓦解した。
そしてその跡地には、地層の断絶に因って湧き出てきた、岩盤内に挟まれていた地下水が地の底へ沈んだ城砦の瓦礫へと流れ込んだ。
この満たされた地下水の成分が、金と一部の磁性体物質以外に対して強い腐食性を持っており、城砦内にあった物は有機物は元より無機物もその殆んどが、跡形もなく溶解してしまった。
城砦の瓦礫や石像だけが原形を留めていたのは、あの石材に磁性体を含む特殊な素材が含まれていたからじゃろうて。
地下水は城砦を水没させた後地上にも湧き出ては来たが、多くが地中に浸透してその濃度もかなり希釈された為、大地への侵食も次第に止まり、小さな湖として定着した。
その後長い年月を経て周辺の雨水が流入し続け、やがて広大な湖となったのじゃが、元々の成分は相当に薄まったもののそれでも生物が生息するには厳しく、ごく限られた生き物しか棲めない死の湖となったのじゃ。
この頃には既にあの城砦を築いた文明は滅亡しその痕跡すら残っておらず、後世の未熟な文明では湖の毒性と不可解な船の事故から、湖を神格化した自然崇拝の信仰として伝承されていた。
お主が糧と呼ぶ召喚時の力の根源はほぼ推測通りで、これは儀式の暴走に因る副作用と言うか副産物なのじゃろうが、現文明の水難者達の魂と城砦の崩壊で命を落とした古代文明の人間達の魂が融合し、湖水に浸透し保持されていたものじゃ。
お主が器と定義している憑依物は、湖の神の化身とされる伝説の大魚で、餌とする金を狙って大渦を起こしては行き来する船を沈めて襲う存在じゃよ。
その正体は無論全て迷信で、大渦に関しては湖底の亀裂から地下水脈が流入して起こる現象であり、船を沈めるとされる原因は、突発的に起きる高濃度の地下水の流入で船体の腐食を急速に促進させるからなのじゃが、大型船に使われていた材木が他の木材と比べて地下水の成分に弱く、その被害を被る確率が高かっただけの事で、水質的に浮力が低く重量のある船ほど喫水が下がり、水没する面積が大きくなる点もそれを助長しておる。
餌が金に特化した理由としては、この地域の周辺に金鉱が存在しており、金鉱石の輸送で頻繁に航行していた経緯から、自然信仰の聖地から産出する鉱石を搾取する行為が、神への冒涜に繋がると感じた人間達の罪悪感から生じたと捉えるのが妥当かのう。
魚類だとされた理由に至っては極めて安易で、稀に地下水と共に湧き出た巨大な気泡が水面で弾けるのを目撃した人間が、魚が飛び跳ねているのと誤認したからじゃよ。
侏儒めがこの地を選んだ理由は、滅んだ文明が儀式に特殊な金貨を用いていた形跡があったからで、それが彼奴の求める金貨ではないかと考え、調査目的でお主が送り込まれたのじゃな。
お主が目にした中には例の金貨も含まれていたものの、そうではない金貨が大半であった点を見るに、どうやらこの文明はあの金貨の特質性を見抜いていた訳ではない様じゃ。
お主や我々にはあの忌々しい意匠が見て取れるが、転送先の世界に属する生物にはあの様には見えてはおらず、流通している通常の金貨と同様にしか認識出来んので、実のところあれのみを収集している事例は殆んど存在せん。
彼奴の欲するあの金貨の詳細については、また別の機会に論じるとしようかのう」
やや大仰な口上で自らの博識さに加えて雄弁さをも主張していた“嘶くロバ”と比べると、銀木菟が語った内容は感情的な表現が少なく淡々とした説明口調であり、非常に合理的だが味気無さを感じるものの、その説明には一瞬の淀みも無く、断定的な口調からも確固たる自信が窺われる。
「因みに今の解説については、後日儂の元へと家臣の獣か彼奴自らが訪れて確認する事になるんでな、お主がこの内容をお覚えておく必要はない。
さて、こんなところで召喚先の世界については良いかのう、これよりもお主が真に望む話は、己の過去についての情報と、“嘶くロバ”についてであろう?」
いよいよ知る事が出来る最大の謎の真相に、一拍置いた“ロゴス”と同調する様に、実際には出来ていないのだろうが私も息を飲む。
「始めに残念な結果の方から答えようかのう、お主が望んでいたであろう過去の記憶は何も無かった。
より正確に表現すると、お主の脳内から取り出せた記憶は全て暗闇で意識を取り戻した所からだけで、それ以前の時を過ごしていた形跡が脳内には全く残っていなかったのじゃ。
お主の知りたがっている過去とは言わば前世の記憶の類なんだろうよ、しかしながらそれは存在しておらん、故にそれを踏まえて結論付けると、お主はあの暗闇から生まれた事になろうな」
白い鋭利な嘴より放たれたその回答は、私に新たな失望を与えただけだった。
この返答に因っては、もしかするとこれまでの状況を一気に打開する奇蹟を起こすかも知れないと、多少なりとも期待していたのもあったのだが、そう事は上手く運ばないようだ。
だとすると残るは、“嘶くロバ”の情報に期待するしかないと落胆した感情を切り替えると、こちらの様子を見るかの様に数瞬の間を空けた後に、銀木菟は再び嘴を開く。
「残る“嘶くロバ”についてじゃが、結論から伝えると、お主の知るその者は、死してもおるし生きてもおる。
以前に侏儒めとの邂逅の際に放って来た生首は、間違いなく本物で勿論死体の一部であったし、城内に幽閉していると告げた侏儒めの言葉もまた、偽りない事実じゃ。
当然ながら、生と死は両要素が相反する事象じゃからして両立せん、逆にそれが両立可能となる可能性を考えれば、『因果の書』を凌駕した賢明なお主ならば、直ぐに判るじゃろう?」
かくもあっさりと失望させられた回答の次は、一転して答えをはぐらかすかの様な禅問答を仕掛けて来る意味が判らず、その発言に若干の苛立ちを覚えた。
だが先の解説時の口調からして、“ロゴス”は“嘶くロバ”の様な勿体ぶった対話を好む性分ではないし、そもそもこの状況では対話は成り立たないと自ら説明していたのだから、それらを鑑みるとあの意味不明な説明が最も的確であると判断しているのだと理解し、その言葉の真意を考え始める。
言葉の表現としてなら、仮死状態や生ける屍とも言えなくもないが、実際に斬首された生首も目の当たりにしているのだから、少なくとも仮死状態の線は無いだろう。
残るは不死者と言う意味で、道化が動く骸を閉じ込めていると言う事なのかとも思ったが、“ロゴス”の語り方からするとそれでは違和感がある。
もし“嘶くロバ”が不死者だとすれば、それは生死の概念が失われた存在なのだから、敢えて言うなら生きても死んでもいないと両否定で表現すべきであって、死してもおるし生きてもおると言う様な両肯定では表現しないのではないだろうか。
そもそも一人の人物が、生きていて且つ死んでいるなんて在り得るのだろうか、その表現が在り得るとすればそれは、“嘶くロバ”とは――
私がその真実に気づいたのとほぼ同時に、白銀の悪魔は真相を語り出した。
「もうそろそろ気づいた頃かのう、その答えはな、彼奴は個人ではなく、複数存在するのじゃ。
あのペテン師共は皆同じ驢馬の頭をしているが、各々異なる着衣を纏って行動しておる、つまり服装の数だけ仲間がおるんじゃよ。
彼奴は当初お主と同じく勅使として儂の元へと訪れたのじゃが、直ぐに侏儒めの信用を得た様で、儂の元にやって来る回数は時を経るに連れて増えた。
ペテン師は侏儒より許可を得ておって、正規の手続きで儂との接触をして来るので、お主の様に脳内の記憶を覗き見る事は出来なかったが、饒舌に語るその内容には微かな違和感を感じる事があった。
然しながらその疑問を解き明かす前に、彼奴等は何か失態を犯した様でな、ある日を境に全く姿を現わさなくなったのじゃ。
で、また暫らくの時を経たある日、侏儒めから記憶の解析の依頼対象として連行されて来たのが、詭弁を弄する者たる『偽典の悪魔』と命名された、“嘶くロバ”じゃった。
早速記憶の解析を行なったんじゃが、ペテン師の脳内には重大な秘密の記憶どころか、儂との接触で得た筈の知識すら幾つか無いのが判り、更に詳細に確認するべく時系列を追って照合して行くと、不自然に記憶が欠落している時間帯が無数に検出された。
それだけではなく、残存する儂から伝えた情報の詳細が儂の認識と異なっていたり、異なる扮装のペテン師に伝えた記憶も見つかり、これに因ってこのペテン師は、自らの意思で自身の記憶を操作改竄出来るのだと判明したのじゃ。
恐らくこのペテン師共は、個体の記憶制御だけではなく、自身が体験した記憶以外の別個体の記憶をも、己の記憶として書き換える事が出来るのじゃろう。
通常の存在であれば、その能力を使えば本来の真実が不可逆的に失われるのであまり有益とは言えんが、彼奴等はそれを互いに補完調整し合う事で、常に理想的な真実を記憶として脳に保持しつつ、行動出来るのであろうよ。
仲間が全く同一の姿をしているのも、最低限の記憶操作で済む個体が対応する事に因り、逐次記憶の総入れ替えをせずに済む利点になっておるのだろうなあ。
あの本と儂の力は、現状の脳内の記憶を探る能力でしかなく、記憶の根本を改竄されてはどうにもならんのじゃが、侏儒めはどうあってもペテン師共の企みを暴きたいらしく、実に不毛な拷問を幾度も繰り返しておる。
だが言うまでも無く常に結果は変わらず、ペテン師の脳内からは新たな記憶が見つかる事も無く、拷問の度瀕死となった彼奴は再び幽閉場所の地下牢へ監禁されて、延命の為の治癒を施されると言う、幽閉と拷問の日々を延々と繰り返しておるのよ。
因みにお主が対面した例の生首は、儂の元に姿を現わさなくなった辺りに行なわれた、侏儒めが行なった報復で殺された、彼奴等の仲間の中の一人じゃろうて」
“嘶くロバ”は私に対して、何らかの真実を隠しているのではないかとは常々疑っていたが、まさか毎回別人が現れていたとは流石に予想だにしなかったのもあり、この真実には少なからず驚きを感じた。
そんな次元で他者を謀っていたとなると、語られていた内容に至っては全て都合の良い虚言だったのだろうが、あれほど膨大で仔細な情報が、本当に全て嘘偽りだったのかと訝しんでいると、それを見透かした様に“ロゴス”の解説が再開する。
「お主が召喚として送られていた、様々な世界の知識の多くは儂が教えたものじゃよ、儂から得た情報を元に、手駒を送り込むのに都合の良い世界や地域を選んでいたのじゃろう。
但しお主がずっと囚われていたあの空間に関しては、文明は疎か物質すら無い状態となると何も判らんが、如何なる経緯で利用に至ったかはともかく、あれは手駒とする存在の幽閉場所じゃったのは間違いない事実じゃ。
そしてお主の記憶にあったペテン師共の情報を加えて新たに判明したのは、ひとつの世界に固執して召喚を繰り返していたと言う点と、その世界に属する民に対して、何かと猜疑心や焦燥感を煽っていた点じゃろうかのう。
果たしてペテン師共は何を企んでおったんじゃろうか、その真相には儂も多いに興味がある、こちらからも少々仕掛けておくとしよう。
儂の解析では忘却した記憶を引き出す事は叶わずにいるが、若しも記憶が消されているのではなく封じているだけだとしたら、嘗て仲間と装っていたお主との邂逅で何かを語るやも知れんぞ?」
“ロゴス”がそう言い終えると同時に、これまでずっと聞こえていた短針音が唐突に止み、それと入れ替わる様に鐘の音が響き始め、それは時を追う毎にその数を増やし、徐々に苦痛を伴う騒音へと変化して行く。
これを耳にした銀木菟は、焦った様子ですかさず嘴を開く。
「おやおやここで時間切れか、どうやら時限封印だけは生きておったらしいのう、まあ仕方があるまい。
最後にこの取引の成否に対する回答手段について伝えておこう、お主が応じるのであれば再び儂の元に寄越された際、今回と同様の方法でこの書物と接触をする事じゃ。
但しこの手段が次回も上手く行く保証も無ければ、先に伝えた通り通常儂にはこの醜悪な本を制御不能でもあるから、反撃に因る身の危険も常に伴うじゃろう。
それに何よりこれは侏儒めへの反逆行為に当たるのだから、発覚すれば只では済まされんのも間違いあるまいて。
この取引を拒むのであれば、侏儒めや家臣の家畜共から指示された手段を講じれば良い、彼奴等の指示に従えば、侏儒めが喰わせる気の無い限り最低限の身の安全は保証されるが、但しその場合儂が把握出来る情報も限定されてしまうのと、儂からの言葉はお主には届かぬ、即ち互いに記憶のやり取りは出来なくなる訳じゃな。
危険を覚悟で取引に応じるか、それとも保身を優先し反故にするか、それはお主次第じゃ、ではまた会おう客人よ、ホッホッホー!」
今や頭が割れんばかりの轟音と化した、幾千もの鐘の音に埋もれて消え行く“ロゴス”の声と同期して、徐々に霞み闇に閉ざされて行く視界を見るに、最後の言葉からしてこれが元の空間へと戻る兆候なのだろうと理解した。
どの様に元の空間へと戻されるのかについて、一切の解説が無かった点に若干の戸惑いもあったが、今はその不安よりもこの空間や語られた内容についての感慨が凌駕する。
その中でも“嘶くロバ”に関する情報は、これまで考えもしなかった結論に至り驚きを隠せないものの、その驚き以上に私を翻弄していた事に対する憤りを覚えた。
結局全ての疑問は正にペテン師たる当人に問うしかないのだが、果たしてそれは何時になるのだろうか。
一切の自由を封じられているとは言え、貴重な情報源としてその存在価値を認められている“ロゴス”の方から道化へと働きかけがされるのなら、最後の言葉を深読みすれば予想以上にその日は近いのかも知れない。
となるとやはり当面の目標として、“嘶くロバ”との再会を目指して行動するのが妥当だろう。
そう結論づけたところで視覚を完全に失い、絶え難い騒音と漆黒の闇の中で意識を失った。
再び意識を取り戻すとそこは、“ロゴス”の幽玄な書斎からいつもの独房の風景へと変わっていた。
足音らしき物音がする方に目を向けると、明るくなっている扉の方から狼頭の獄吏達が廊下へと出て行くところで、私はそれを床に転がった状態で眺めていた。
どうやら意識を失った後、彼等に運ばれてきてたった今放り込まれたところらしい。
まだ少し朦朧としながらも体を起こしている間にルプス達が扉へ向かって遠ざかり、それと入れ替わりに今度は馬頭の執事が目前に現れて一礼する。
「猊下、ご気分は如何でしょうか、再び封印が発動する時間に達しても退室されなかったので入室したところ、猊下は意識を失い室内で倒れておりましたので、こちらまでお運び致しました。
そのご様子ですと、お体の方はご無事の様で何よりです。
まだお目覚めになられたばかりのところ、大変申し訳ありませんが、陛下がその首尾を心待ちにしておりますので、勅令の任務の結果についてお答え頂けますでしょうか」
その問いを耳にして、どう返答すべきなのかを導き出すべく、即座につい先程まで見ていた夢の記憶を手繰り始める。
確か夢の中で聞いた話では、確認内容について訪ねられはしないと語っていた筈だ。
そうなるとつまりこれは、本来とは違う手順なのではないか、それとも生き残った場合はその首尾を問うてくるのか。
迂闊な事を口走ってしまえば全てが台無しになり兼ねないのだから、返答は慎重に言葉や表現を選ぶ必要があろう。
数瞬の間を置いた後に、荒っぽい扱いとは相反する丁重な問い掛けをするカバルスへ私は首を振り、無言でその問いに対する回答を持ち得ない旨を伝えた。
“ロゴス”は来訪者には直接結果を伝達しないと語っていた点から、ここで何かを知っていたら通常の手順ではなかったと勘ぐられると判断しての対応だった。
「……そうですか、判りました」
私の対応に疑問を持ったのかは判断し兼ねるが、執事は暫しの沈黙の後に了承の返事を返すと、一礼した後に踵を返して獄吏達の待つ独房の外へと出て行く。
そして獄吏が扉を施錠しているのを待っている間にこちらを向いて、口を開いた。
「蛇足ながら申し上げますと、猊下の齎した情報を元に『事典の悪魔』から有益な調査結果が得られた際は、その成果の報酬として、猊下の望みも叶えられるかも知れません。
猊下には是非とも与えられた職責を全うし、陛下への忠誠をその行動で以って示して頂ければ幸いです」
いつも通りの無表情でそう言い終えると、狼達を連れて栗毛馬の執事は去って行った。
この最後の一言は、道化に対する“ロゴス”との同調を見透かした私に対する牽制としか思えず、まるであの悪魔との対話の内容を把握しているのではと一瞬驚いたが、すぐにそれは『事典の悪魔』と対峙し生還した者達全てに語る口上なのではないかと、認識を改めた。
恐らく“ロゴス”は、私以外の来訪者に対しても様々な提携の提案を行っており、実際にそうした者達の反逆行為も、少なからず発覚しているのではなかろうか。
そうでなければわざわざあの様な脅迫めいた警告なんて言わないであろうし、例の金貨を渇望している割には、手駒の勅使がこれほど少ないのも違和感がある。
恐らく勅使とされた者達の辿る末路は、道化に殺されるか悪魔と認定され囚われるかの、二択しか無い。
その様な未来しかないと悟った者が、起死回生を賭けて反逆に出るのは当然であり、それらの反乱の一要素として、“ロゴス”が関与していると道化側が全く気づいていないと考えるのは、あの他者との接触を極力拒む厳重な封印を考えれば、どう考えても無理があろう。
それにしても、あれほど公然と道化を非難し、少なからず反逆者を生み出しているであろう元凶でありながら、処刑されもせずにいられるのは、やはりその有能たる博識あってのものなのであろうと、改めて実感する。
“ロゴス”に付けば、嘗て“嘶くロバ”から得ていた以上の情報が入手出来る様になるのは、非常に重要だ。
それに道化にどれだけ忠誠を誓ったとしても、私が『事典の悪魔』程の価値を見せる事など到底出来はしないだろうから、勅使として使役され続ける内に、いずれ機嫌を損ねて殺されるのは目に見えている。
以前に斬られた際、あれほど容易く重傷を負うとなれば、この脆弱な身体では、死こそ今私に実現可能な最も容易い事象と言っても、決して過言ではないだろう。
このまま使い捨ての駒として酷使されながら、延々と道化に媚び諂い続けて費える生涯を過ごすくらいなら、この状況からの脱却を図って、半ば頓死した方がまだ増しだ。
だとすれば『事典の悪魔』の提案を拒否する理由は、最早何も無い。
今後は向こうが望む情報を提供して行く必要があるものの、その為には道化が送り込む先の世界の選択に関与しなければならず、それは“ロゴス”しか出来ない範疇なので任せるとすると、私の目下の課題は『事典の悪魔』も興味を示している“嘶くロバ”との再会を果たすべく、道化の機嫌取りに従事すべきだろう。
そう腹を決めると、新たな希望を胸に眠りについた。