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第二十八章 決闘 其の三

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目を覚ますとそこは召喚前に居た謁見室で、私は召喚直前と同様に例の人間椅子に座していた。

だが記憶に残る状態とは異なり、身体の拘束は解かれ脳に突き刺されていた針も既に取り除かれており、脳の生る木は既に片づけられて離れた場所に置かれている。

更に頭部は針が抜かれているだけでなく、頭蓋の回復処置も済んでいる様で額の上の辺りに包帯が確りと巻かれ、私の近くに治療で使用したと思しき道具が載せられたワゴンがあり、灰猫のメイドが丁度今そこで後片付けをしている。

この様子からしてやはり道化は計画を早々に取り止めて既に帰ってしまっている様だ。

そうして状況を確認していると、片付け終えた女中がワゴンを部屋の脇へ移動させるのとほぼ同時に黒牛の家令が空の車椅子を押す錆猫のカトゥスと共に入室し、私の傍らまで来ると徐に口を開いた。

「猊下、お目覚めになられましたか、治療を終えたばかりの御体で大変申し訳ないのですがこれから直ぐにご同行願いますでしょうか、状況については移動中に御説明させて頂きます。

未だ立ち歩くのは危険ですのでこちらの車椅子に移動願います」

タウルスがそう説明している間に錆猫は押して来た車椅子を私の座る椅子の前に止めると、灰猫もこちらへと来て二人のメイドは介添えすべく椅子の左右に回り込む。

そして身を屈めてから私の腕を取り自分の肩に乗せ、そうやって回させた私の手を外側の手で掴みつつ内側の腕を私の背中へと回し、両側から肩を貸す態勢を取ると私が立ち上がるのを待っている。

開頭したとは言え自力で立ち上がれない程にまで私は衰弱しているのかと半ば訝しみつつ、立ち上がるべく四肢に力を込めた途端思いの外力が入らないばかりか、甲高い耳鳴りと共に立ち眩みの症状に襲われ意識が遠のく。

だがそれを見越していたらしきカトゥス達が両側から支えていたので再び椅子に座り込む事は無く、朦朧とした意識でふらつきながらもどうにか立ち上がり踏ん張りの利かない非常に頼りない足取りながら車椅子に腰を下ろす。

両脇を支えていたカトゥス達は着座を確認した私から離れて後ろに下がると共に黙礼し、実に珍しい事にタウルス自らが私の乗る車椅子を押して二人だけで謁見室から退室した。




廊下に出てもそこにも近衛兵の姿は無く、独房の外で家令しか随行していないと言う極めて稀有な状況が続く。

これは今の私が非常に衰弱していて逃亡や反逆の可能性が極めて低いと踏んでの対処なのだろうか。

何時の間にか持たされていた『屍諫の守護天使』も玩具かと見紛う程に軽く今までその存在を失念していた程であり、そこまで負荷を軽減しても支障は無いと判断されている証なのであろう。

こんな好機に行動出来ない我が身の衰弱を呪うが、衰弱しているが故にこれだけ警備が緩くなっているのだとすれば、これは元より活かせない機会だったと言う事になるのか。

それにしても計画も放棄された挙句儀式も敗北したこの状況で、一体これから何処に連れて行かれるのかが気に掛かる。

まさか早速計画失敗に対する処罰を下す心算なのだろうか、しかしそれはあまりに対応が早過ぎる気がするものの、かと言って昨今の使用人達に対する道化の苛烈な対応を考えるとそう楽観視は出来ないかも知れない。

こうして私がこの後の処遇をあれこれ危惧している間に大昇降室へと入り従僕へと指示を出し、部屋が動き出したところで再びタウルスが語り始めた。

「猊下、それでは現状について説明致します。

ひと足先にこちらへと戻られたジェスター様が地下牢獄にて『儀典の悪魔』の尋問を陛下自ら執り行っておりまして、猊下にはその尋問に立ち会って頂きます。

尚我々使用人の入室は許されておりませんので、わたくしの方で部屋の前までお送り致しますがそこから先は猊下ご自身でお進み下さい」

黒牛の家令が語ったその説明はこれまでに前例の無い事柄ばかりであった。

先ず道化が地下に出向くなんて未だ嘗て一度として聞いた事が無く、通常用があれば誰であろうと道化の居住区域へと召集しそこで対応して来たにも関わらず、何故今回はそうしないのか。

それに手駒として常に使っている使用人にやらせず自ら直接尋問すると言うのも、これまで私が見て来た道化の行動としては非常に珍しい。

だが何よりも疑問なのは、何故今更前々から虜囚として捕らえている“嘶くロバ”の尋問を行っているのか。

そこでその二人のロバに対する現状の関連を考えてみると、道化はこの計画の遂行と同時に虜囚のロバに取引を持ち掛けていたのではないかと言う仮説に行き着いた。

道化は新たなロバの捕獲や処刑と囚われのロバからの情報提供を天秤に掛けていて、新たな“嘶くロバ”捕獲を断念するのと引き換えに虜囚のロバとの取引を成立させたのではないだろうか。

しかしその推測は酷く想像し難く、何よりロバと道化との間に取引が成立する程度に両者共相手が信用出来なければならないのだが、どちらも信頼なんて到底し兼ねる利己的な性格をしている点を考えると根本的に成り立たない気もするものの、現状ではそれ以外の仮説が思いつかない。

結局納得出来る推測は浮かばないままに、私は大昇降室を一階で降りるとそのまま城館の地下へと連れられて行った。




『聖ディオニシウスの骸』地下五階。

城館の正門から見て左側に当たる館の地下二階以下にあるのが地下牢獄であり、そこは木や石の代わりに人間の骨や肉で構築された地獄そのものとも言える不気味な場所だ。

そこには私を含めた道化に捕らえられた者達が囚われており私の独房は地下四階にあるのだが、“嘶くロバ”は更に下の階であるこの地下五階に囚われているらしく、自分が囚われている階より下には今回初めて踏み入れる。

地下五階は独房の間隔や通路も幅が広く、ひと回り大きな扉には覗き窓も無く全体的に堅牢な作りをしており、どうやらこの牢獄は階層が深くなる程により頑強な構造や警備となっているらしい。

それはつまり私よりも下の階層に囚われている“嘶くロバ”の方が危険視されている証明とも言える。

私が捕らえられた時点で既にロバも虜囚となっていると道化に告げられ対面する可能性も匂わせていたのだが、結局それは一度も実現せずここでその姿を目撃した事は無い。

私の過去を知る可能性が最も高い存在であるが故に、何時か必ず問い質す機会を得たいと切望していたのは間違いないが、まさか捕らえ損ねた直後にその時が来るとは想定外であった。

先の計画が失敗している事を考えると私の望む対話が許される可能性は低く、寧ろ逆にこちらが“嘶くロバ”と共謀していたのではと疑いを持ち私を尋問してくる可能性も高く、そこで糾弾しロバ共々処刑する心算なのかも知れない。

そんな危惧を感じつつ移動し続けていると、牢番の鼠や看守の狼も居ない無人の廊下を黙々と進んでいた家令が、ある独房の扉の前で立ち止まった。

「到着致しました、こちらが尋問を行っている部屋です」

そう語ったタウルスは扉の前に歩み寄り、扉を数回叩くと屋内から道化らしき声で短く返答があり、それを確認した家令は扉を開きつつ後退り頭を下げて一言告げる。

「どうぞお気をつけて、奥へお進み下さい」

私はその指示に従い自ら車椅子の車輪を押し中へと進むが、内部は予想とは違い私の入っている独房よりも狭く何ひとつ物が無いばかりか誰も居ない。

部屋の奥を見るとそこにもうひとつ扉があり、どうやらここは二重扉となっているらしい。

その扉は閂替わりの腕も床を除いた三方から生え出ており、この奥が独房となっていてそこに“嘶くロバ”と道化が居るのは間違いない。

それを認識すると共に家令が閉めたのであろう後ろの扉が閉まる音が聞こえた後、それを見計らったかの様に今度は前の扉が音も無く開く。

厚みからして先の物と比べて二倍近くある重厚な扉の奥に、相変わらず毛羽毛羽しい装いをした道化の姿が僅かに見えた。

「待ちかねたぞ、早くこちらに進むが良い」

道化はそう告げつつ手招きしており、どうやらその奥に“嘶くロバ”も居る筈だがここからでは目視出来ないばかりか、道化の声以外の物音が全く聞こえて来ない。

何処か違和感を覚えながらも要求に従って奥の部屋へと車椅子を進めると、そこには想定外の惨状が広がっていた。

その部屋には透明感のある滑らかな大理石から削り出した様な乳白色の椅子がひとつあり、“嘶くロバ”当人がその椅子に座しているのだがその周囲にも“嘶くロバ”であった物が無造作に散乱していた。

恐らくそれは道化が報復として殺して来た他のロバ達の残骸らしく、その中には嘗て投げ付けられたロバの生首も転がっている。

原形を留めているのは座しているロバのみでその他の物は生首の様に各部位の単位以上の塊は無く、半分近くは損壊が激しく肉体の部位の一部である事が辛うじて判別出来る程度だ。

何とも不思議な事に生首を始めとするそれらの肉片はまるで私がここに来る直前に引き裂かれたかの様に朽ちもせず、所々床に溜まっている流血も鮮明な真紅の色合いを湛えている。

少なくとも生首についてはこうした状態になった時期は私が捕らえられる前の筈なので、既に相当の月日が経過しているにも関わらずこれはどういう事なのかと一瞬疑問を抱くが、その答えに直ぐに気付くと共に道化の悪趣味に嫌悪感を覚える。

そもそもここではない別世界に遠征した際に殺した“嘶くロバ”の死体はそこに属する物体であり、異世界に当たるこちらへそのまま持ち込む事は出来ない筈なので、これらは実物ではなく嘗て殺した骸の状態を復元していると言う事だ。

剥製や干し首の様な工芸品としての価値があるのならば未だしも、もはや何処の何だったのかすら判らない残骸や肉片までも精巧に再現するとは、それが単なる趣味趣向から行われているとすればどう考えても常軌を逸していると言わざるを得ない。

そんな同胞の残骸の中で唯一、首や四肢が繋がっているのは中央の椅子に腰掛けたロバのみだが、それも決して無傷ではない。

座して天を仰いだ状態の“嘶くロバ”は、宛ら椅子が蝋で出来ていて半ば溶解し取り込まれかけているかの様に四肢や胴体の大半が埋没し完全に融合してしまっており、これではここから逃れるのは相当に困難であろう事は間違いなかった。

そんな絶望的な状態で拷問でも受けたのか、顎を無理やり抉じ開けられ上顎と下顎がほぼ水平まで裂けており、根元まで引き千切られ関節部分は完全に外れてしまっている。

その大きく露出した喉元には石炭や溶岩の様に暗赤色の光と熱を放つ黒い塊が押し込まれ、舌は針金らしき細い棒で串刺しにされて不自然に真上に向かって突き出しているのだが、そこ目掛けて何かが降り注ぎその度に黒い塊から引火して口内から炎が上がり舌や喉を燃やしている。

椅子の上を見上げるとロバの頭上に当たる部分の天井が漏斗状に迫り出しており、どうやらそこから油らしき可燃性の液体が一定の間隔で流れ落ちているらしい。

その様子はまるで、“嘶くロバ”で作り上げた道化の嗜好に即した極めて悪趣味な灯明台の様だ。

これでは到底口が利ける筈も無く尋問なんて不可能であるばかりか、そもそもこの状態の“嘶くロバ”に意識があるのか以前に果たして未だ生きているのかすら疑わしい。

現に私がここに入ってからロバはその言葉通り造形物と化しているかの様に全く動いていない、いくら各部が埋没されているとは言っても全身が固められているのではないにも関わらずだ。

やはりこれはもう既に死んでいるのではないかと疑念を感じつつ“嘶くロバ”の様子を窺っていると、こちらに背を向けて椅子を眺めていた道化が振り返り半笑いの表情を浮かべながら口を開く。

「これは『白夜の座』、『詭弁を弄する者』こと『儀典の悪魔』を封じるべく作り出したもの。

己を偽り装い他者を謀り欺き余を騙し陥れると言う大罪に対する罰として、その罪の根源と言える口を割き元凶である舌を焼き続ける」

そう説明する道化の両手は袖まで血塗れとなっており、着衣の膝から下の方にも血肉が付着して出来た大きな染みが付いている。

それだけでなく手にしている杖もそこらに放っていたかの様に全体が血塗れで、汚れた手で何度も触れたのか頭上の冠も又血肉で薄汚れているばかりか、何度か落としたのか若干変形している様に見える。

一方の座したロバには口が割かれている以外には目に付く損傷は無く、その傷口も既に炎の熱で焼かれ乾いている点を踏まえると、それらは拷問の際に返り血を浴びて出来た汚れではなく床に四散する血肉から付いたに違いない。

何故虚栄心の塊であろう道化が薄汚れるのを顧みる事無く、尋問する対象の“嘶くロバ”とは関係無さそうな既に肉片と化している残骸を漁る様な行為を行っているのか、その奇行の意図が掴めず何か違和感を感じて僅かに後退る。

警戒する私を無言で眺めていた道化は特段気にしていないのか、私の態度には一切触れないばかりか何がそんなに可笑しいのか、気味が悪い程ににやついた顔で再び語り続ける。

「実に丁度良い時に来た、これから仕上げに入るところだ、その後そちにやって貰う作業がある、こちらに来い、そして立つのだ」

その指示を告げている間にも失笑寸前とも言えそうな程に顔を歪めている道化であったが、辛うじて吹き出す事無く身体を振るわせながらもどうにか堪えている。

こうしたこれまでに見た事の無い態度を取る道化の様子からすると、それ程までに喜ばしい成果でも出たのかそれともこれからそれを得る事が出来るのか。

何れにしてもこの後に起こるであろうその理由の結末を見逃すまいと思いながら、私は今尚ほくそ笑み続ける道化の指示に従い近づき車椅子から立ち上がる。

すると道化は手にしていた杖を私へと突き出しつつ腰に佩いていた剣の柄に手を掛けると、ゆっくりと抜刀して切っ先を眼前に突き付ける。

「この杖を手にしこの悪魔の奥歯を叩き折れ、それがこれからそちが行うべき作業だ。

そこがこの悪魔の弱点で、光が当たれば力を失い肉体から失われると死に至る。

勿論ここで言う死とは召喚時に起こるこの次元からの消失と言う意味ではなく、本質である意識そのものの存在が消滅する事を意味する。

つまりそちの手でこの者に引導を渡すのだ、もしそれが出来ぬのならば身代わりにこの剣で冥府へ行って貰う事になるぞ。

さあ、杖か剣か、どちらか好きな方を選ぶが良い、ククククク……」

召喚先では失敗した筈なのに尋問とはどういう事なのかと思いつつ来て見れば、待っていたのは処刑の幇助であった。

獄吏や近衛兵にではなく、敢えて開頭手術をさせられたばかりでまともに動けもしない私に行わせようとは、これは考えるまでも無く私への当てつけ以外の何物でもない。

それにしても私自身の手で相手を殺すか己が死ぬか二者択一を迫って来るとは、計画失敗の腹癒せだとしてもそこまでさせるのかと言う驚愕と共に、これまでに無く露骨な悪意に強い憤りを覚える。

だがそれがどれ程意に反する命令であったとしても、逆らったところで今の衰弱した私の状態では、たとえ道化唯一人が相手でも本当に容易く殺されてしまうであろう。

こんな何時に無く凶悪な道化の気まぐれで無駄死にする訳にはいかないと覚悟を決めると、私は両手で石突の近くを握り直し棍棒の様に振り上げ、座したロバの顎へと勢い良く振り下ろした。

金属で出来ているらしき自身の頭を模した杖の先端がほぼ真上を向いている歯に当たり打撃音が響くと共に、衝撃で口腔内に溜まっていた燃える液体が飛び散り小さな炎となって四散するが、それでも“嘶くロバ”は声ひとつ上げる様子は無い。

このロバがずっと騙して来た者達の一員なのか、それとも全く関わりの無い者なのかは見た目が同じなので判らないが、それでも嘗て長きに亘って関わり一時は恩義すら感じていた唯一の救済者と同じ姿をした相手を殴打するのには、どうしても抵抗があり躊躇してしまいつい手が止まってしまう。

「どうした、手が止まっておるぞ? 余は未だ終えて良いとは告げていないが?」

そうした私の様子を傍らでにやつき眺めている道化がさも愉快気に呟き、私はその指示に苛立ちを覚えながらも黙って従い再び杖を振り上げる。

その後暫く一方的な殴打を続けさせられ、次第に四散する物が炎から血飛沫へと変わると共に、これまで完全に無反応であった座したロバがくぐもった奇声を発しながら痙攣を起こし始めた。

既にもう事切れていると思い込んでいた私は、これまでに無い変化に驚きを隠せず思わず再び手を止めてしまうが、直ぐに又道化に窘められて殴打を再開する。

私が呻き藻掻くロバを殴打している間、道化は手にした宝剣の切っ先で叩く場所を指図しつつ殴打に因って折れた歯が転がり落ちる度、その落ちた歯の下へと向かい拾い上げ凝視しては投げ捨てるのを繰り返していた。

どうやら道化の奇行の目的は殺害ではなく歯であるのが判ったものの、そもそもこの肉体は道化が“嘶くロバ”を捕らえ封じるべく弱体化させた器として用意した単なる入れ物でしかない筈で、改めてその一部を回収する事に一体何の意味があるのだろう。

私がその疑問に対する解を求めるよりも早く、四本目の歯が折られると同時に座したロバは一際大きく痙攣した後に動かなくなり、その最後に折れた歯を拾い上げた道化は満面の笑みを浮かべつつ口を開く。

「良くやった、これでそちの役目は終わりだ、後はゆっくりと休むが良い」

そこまで告げると手にしていた宝剣を鞘へと戻しつつ、最後の言葉を呟いた。

「……冥府でな」

その一言と共に戻し掛けていた宝剣を翻し私目掛けて突き出した。

何故約束を反故にしたのか、何故私を今ここで殺す必要があるのか、何故直接その手で殺す事にしたのか、疑念は幾らでも湧いて来るがそれらを考察する時間も無く、唐突に繰り出されたその不意打ちを全く予期していなかった私は咄嗟に手にしていた杖で防ごうと身構える。

だがこれであの刺突が防げるとも思えないし、仮に奇跡的に防げたとしても身動きすら儘ならないこの状態では次は躱せまい、そう判断した私は観念して死を覚悟した。

しかし数舜過ぎても肉体を貫く刃は届かず、本来ならば今頃私の肉体に突き刺さっている筈だった宝剣は、甲高い金属音を奏でながら道化の足元で飛び跳ねている。

どうやら道化のロバは剣を繰り出す一瞬前に手放したのだと理解出来たのは、騒がしく鳴り響いていた宝剣が大人しくなった後だった。

先程までの様子からして、汗で手が滑ったり握力が低下して落としたりする程疲弊している筈はなく、そうなるとこれは意図的に手放したと言う事か。

幼稚な悪戯じみたその行動に疑念を感じたその時、道化は表情を一転させると予想だにしない言葉を放った。

「なあんてね! さあてもうそろそろ、お遊びは終いにしましょうかねえ、いやあ色々と御足労頂き感謝に堪えません、実に助かりましたぞ雪だるま卿!

今の吾輩では力不足で直接手を下す事が出来ないので、これの手下共にやらせようとしたらあれらの武器では歯が立たず、それならばとこれの持ち物を使わせようとしたらそもそもそれ自体が出来ない様にされているわで、それはもう四苦八苦だったのですよ。

これで貴殿の回復がもっと遅れていたら全てが台無しになってしまっていたでしょう、いやあやっぱり持つべきものは頼れる友人ですなあ」

道化はそう流暢に語りながら近づくと、私の手を取り確りと握りしめつつもう一方の手で肩を叩いて労うかの様な態度を取るが、私はこの道化である筈の者の豹変ぶりに驚きそのあまりの衝撃に呆気に取られ声すら出ない。

不釣り合いな友好的態度もそうだが、何よりその語り口調が明らかに“嘶くロバ”のそれなのが何にも増して理解出来ない。

まさか道化がこの状況下でそんな猿真似を演ずるなんて有り得ないとすれば道化の中身がロバと言う事になってしまう、一体これはどういう事なのか。

私以外にこの場に居たのは囚われたロバと道化のみなので、この座したロバの意識が道化と入れ替わりに身体へと入り込んでいる様にも思えるが、だとすればたった今この手で撲殺したのは道化の意識だった事になる。

だが囚われの身で封じられていた“嘶くロバ”にそんな形勢逆転が出来る力を発揮出来たとも考え難く、それに道化が己の本拠地内で自らを窮地に追い込む様な大失態を冒すというのも殆ど有り得まい。

すっかり狼狽し混乱する頭でどうにか現状を把握しようと試みるが、どう考えてもこの状況に納得のいく推測も立たず只々理解し難い現実を目の当たりにして、これは全て夢で未だ私は開頭されたまま謁見の間で悪夢を見ているのではないか、とさえ思い始める。

そんな現実逃避仕掛けている私へと、これ以上無い程表情豊かに愉悦を湛える道化の姿をしたロバが言葉を繋ぐ。

「若しや貴殿は未だ吾輩が何者なのか判断し兼ねているのですかな? 流石にもう気付いて頂けたと思ったんですがねえ。

ああそうか! 吾輩がどの同胞なのかが判断し兼ねておられるのですな、それは確かに説明無しでは判り難かったかも知れませんなあ、それでは名乗ると致しましょうか。

と言っても吾輩達には告げるべき固有の名を持ち合わせてはおりませんので少々冗長ではありますが、吾輩は以前に小さな石像と化していた貴殿と初めてお会いし、つい先程まで決闘の儀式にて対峙していた“嘶くロバ”と言えば御理解頂けますかな?」

こちらの動転した様子を勘違いし自ら正体を明かした様だが、それは又しても私の予想の範疇を超えており、これに因って状況を把握するどころか更なる混乱を招いた。

今対話しているのはここに居る座したロバではなく、ついさっきまで対峙していた“嘶くロバ”だと言うのなら道化自身は今何処に居るのか、そして“嘶くロバ”であるのなら何故同族である虜囚のロバを救うのではなく殺させる様な指示を出したのか。

度重なる不可解な説明に溜まらず問い質したい衝動に駆られるが、その一方でその真相を知る事で危険が及ぶのではと躊躇いを感じて言い淀むと、その様子を黙って眺めていた道化のロバは少々困惑した態度をやや大袈裟に取りつつ返答する。

「おやおや、白痴の様に呆けていたのが治ったと思えば今度は唖の真似ですか? まあ取り敢えずもう少し落ち着きましょう雪だるま卿、未だ多少は時間は残っておりますから知りたいであろう事を語って差し上げますよ。

先ずはこの肉体の所持者である貴殿の主人が今何処に居るのかについてですが、それは貴殿の方が吾輩よりも把握していたと思いますぞ、何しろ直前まで会っていたのは吾輩ではなく貴殿なのですからねえ。

しかしながら貴殿の方が戦いに敗れたのでひと足先に戻られた、ですのでもう暫くすればこの城と肉体の主も戻って来るでしょうな。

聡明な貴殿の事ですから、これで大体何が起こったのか察して頂けたのではないですかな?」

したり顔で語られたその説明は私が考えもしていなかったものであり、恐らくこの展開は“ロゴス”でも予想していなかったに違いない。

だがそれ以上に驚いたのは、こちら側が陥れようとしていた計画そのものがこの“嘶くロバ”の術中であり、完膚無きまでに欺かれていた事だ。

衝撃的な事実を告げられ愕然とする私に構う事無く更に説明は続く。

「さてお次は何故吾輩が同族殺しをしているのかですが、それについては貴殿が小さな石像にされていた際その一端をお伝えしておるのですが、果たして覚えておられますかな?

己が使命を見出すべく吾輩が吾輩足り得るが故に為すべき事をしなければならない、それこそがこれなのですよ」

そう語ると道化姿のロバは、先程拾い上げた奥歯を再び取り出してそれを頭上に掲げつつ真上を向くと口の中へと落とし、喉を鳴らして飲み下してから誇らしげに満面の笑みを浮かべた。

その行為にどういった意義が有るのか判らないが、少なくとも傍から見れば共食いじみた奇行以外の何物でもなく、それを見た私は生理的な嫌悪感を催し直ぐに目を背ける。

そんな私の感情の変容を読み取っていないのか、それとも判っていながら敢えて気付いていない振りをしているのか判らないが、“嘶くロバ”はこちらの様子など御構い無しにさも満足げな恍惚の表情を浮かべたまま再び口を開く。

「貴殿の尽力に因りこの地での吾輩の目的は達成されました、この多大な御恩に対してどうお返しすべきか考えなくてはなりませんなあ、さてどう致しましょうかねえ、雪だるま卿?

今貴殿は何を望んでおられるのですかな? もう残された時間も長くはありませんがそれでも実現可能なものであれば尽力致しますぞ、さあさあ遠慮せずに」

嘗ての“嘶くロバ”と変わらぬ口調で諸手を広げそう告げた独り善がりな道化姿のロバは、自在には動けない不慣れな車椅子に座した私へとゆっくりと迫り来る。

銀木菟であれば論理的に判断し、これはこちらに優位な展開が見込める絶好の機会と捉えたのかも知れないが、私にはどうしてもその発想には至らず寧ろ危機的状況にあると感じた。

その理由は、この“嘶くロバ”はこれまでに出会ったロバ達とは何かが違っていると感じているからだ。

つい先程まで刃を突き付けて殺そうとしていたかと思えば一笑に付しそれを冗談粧した挙句、一転して親し気に接して来る様な豹変する相手の言葉を安易に信じられる訳が無い。

それに加えてこれまでの対話も私から意思は全く伝えておらず、全てこのロバの一方的な判断に因る見解だけで会話を進めている点もそれを助長している。

いや、伝わっていないと言うよりも端から聞く気も無く、私を人形に見立てて一人芝居を演じていると言った方が適切かも知れない。

これまではこちらの対応が曖昧だったからこそ会話として成り立っていたが、こちらから意志表示をして若しもロバの思い描く想定を崩す事になればどうなるのか。

真先に思い起こされたのはあの迫真の一撃であり、あれは己の意に反する事への警鐘に思えてならず、それを危惧して応え倦ねて凍りついた様に座したまま硬直していると、道化の表情は忽ち怪訝そうに曇り出す。

「どうしたのですか雪だるま卿? 若しや先程の寸劇を本気にされて気分を害されておるのですかな?

吾輩なりに苛烈な暴君を演出してみたのですが、その演技に少しばかり熱が入り真に迫り過ぎてしまったと言う事でしょうかねえ、いやはや参った参った。

まさか本当に吾輩が貴殿を殺める筈が無いではありませんか、全く心外ですなあ」

そう言いながら一転して朗らかに快活な笑い声を上げる“嘶くロバ”には全く悪怯れた様子も無く、寧ろそれを己への賛美であると捉えたかの様な反応を見せた。

しかしそんな柔和な対応が逆に不信感を煽り立てるばかりだが、やはりこちらの硬化する態度を気に掛ける様子も無く機嫌良く喋り続ける。

「おおそうだ、吾輩ひとつ名案を思い付きましたぞ、貴殿はこの主の虜囚として辛酸を嘗めているのでしたな、であればその手で自由を掴み取ると言うのは如何かな?」

そう言うとロバは先程放り投げた宝剣の切っ先の方を掴んで拾い上げ、柄の方を私の眼前へと突き出した。

「雪だるま卿、貴殿への返礼としてこの主の命を進呈致しましょう。

これの持ち主は吾輩がこの器に居座っておるので戻れずにいるだけなので、吾輩が抜け出てしまえば直ぐに戻って来るでしょう、ですから吾輩の支配下にある今の内に一撃で首を刎ねるのです。

戻るべき器を失ってしまえば如何に力が有ろうと為す術も無く貴殿は支配から解放されますぞ、これは貴殿にとって願っても無い千載一遇の好機では?」

又しても思っても見なかった提案をされた私は面食らいその返答に窮しつつも、適切な対応方法を模索すべく必死に思考を巡らす。

内容だけを考えればこれ以上無い程の好機とも言えるが、それを提示しているのはこの信用ならないロバである以上、その言葉の信憑性はかなり疑わしいと言わざるを得ない。

この城館を創造出来る程の力を持つ道化とも有ろう者が、果たして最も重要な己自身を唯一の器に依存する様な事をするだろうか。

それが成り立たなければ、道化が今ここへ戻れずにいる状況であると言うのは何の確証も無くなる。

仮にこの器しか無いとすると、私が道化ならば唯一の器はこの世界に存在する如何なる物でも傷付けられない様に処置を施すだろう、不測の事態を考えれば当然ながら己の所有物であり最も近くにあるこの宝剣もその範疇に入る。

この世界を己の思うが儘に再構築した至高神に等しい存在ともなればその程度の処置なんて容易く行えるに違いなく、直ぐに思い付く様なこうした対処をあの用心深い道化が考慮していないと言うのも有り得ないだろうし、それを期待し信じられる程私も楽観主義者ではない。

それにここで安易に口車に乗り手を下して失敗した後、道化が戻ってくれば忽ち捕らえられ反逆者として処刑されるのは確実であり、そんな望みの薄い危険な賭けに乗るのは賢い判断とは言えまい。

それならば逆にこのロバを退けるか或いは捕らえるべく行動しておく方が、道化への信頼も増し今後の展望がより良い方向に向かい易くなるのではないかと思わないでもないものの、その為には圧倒的に不利な現状でこの“嘶くロバ”を打倒しなければならず、それは道化を弑するよりも更に困難で危険に思える。

この場をどう凌ぐべきなのかと言うあまりにも重い命運を分ける判断に迷い決め兼ねて無言でいると、痺れを切らし始めたのか道化のロバが催促を促して来る。

「ああ、若しや吾輩の身を案じておられるのですかな? それでしたら御心配には及びませんぞ、この器が壊れれば元の場所へと戻る様に仕込んでありますので。

もうあまり時間が残っておりません、この剣を手に取りこの首を刎ねるのです、さあ早く!」

そう言って道化のロバは更に強い口調で処刑を迫りつつ宝剣の柄を私へと押し付けて来るが、そうやって急かされれば急かされる程に疑念が強まるばかりだ。

先程の歯を圧し折る作業とは違い首を落とすとなると、道化の器が軟弱な物質の塊でも無い限り相応の腕力や剣の腕が必要となる。

それを病み上がりで立ち上がる事すら儘ならない手負いの私に出来る筈が無いのに、何故私にそれを執拗に強要してくるのか。

これは単純に、どうあってもここで道化を殺害したいが自身の手では実現出来ないので、代替として私に実行させたいだけなのか。

それとも殺害が困難なのは承知の上で、手駒から離反した私への制裁として反逆者に仕立て上げたいのか、或いは私には判らない何か隠された意図があるなのか。

何れにせよ要求された行為の結果がこのロバの利益に繋がるのは間違いなく、それ故これ程必死に遂行させようとしているに違いない。

そこまで判っていながらむざむざとその術中に嵌る様な真似はしたくないものの、だからと言って拒否すれば今度こそ冗談ではない一撃を受ける事になり兼ねない。

この窮地から逃れる手段は他に無いかと必死に考えるが何も浮かばず、迫る道化のロバに気圧されじりじりと後方へと追いつめられてゆく中で、段々と表情に露骨な苛立ちを現し始めた道化のロバが再び口を開く。

「どうして後退るのですか雪だるま卿、こんな絶好の機会はもう二度と無いかも知れないのですぞ? 解放を望んでいるのではないのですか? 自由が欲しくは無いのですか? 何故頑なに拒まれるのです? 何をそんなに臆しておるのです?」

そう言いながら詰め寄る道化姿のロバは到底非力とは思えない程の勢いであり、瞬く間に壁際まで押し切られ身動きを封じられ、今直ぐロバに殺されるか後程道化に処刑されるかと言う決死の二者択一を迫られている状況だ。

ここまで追い詰められてもどちらの選択も正しいとは思えず、どうすべきかを決めかねていた私はこの時ふとある疑問を抱く。

道化のロバが焦燥感を強めているのは目的達成の為に掛けられる時間が差し迫っているからだろうが、果たしてその時間とはどの様にして定められているのか。

漠然とそれは何かしらの制約に定められた定数的な制限時間内であると思い込んでいたのだが、改めて考えるとその刻限はこのロバが道化の帰還を阻んでいられる時間であり、それは“嘶くロバ”の能力に依存している筈だ。

そしてそうした対処は決して容易く出来るものではなく、表に出していないだけで戻らんとする道化との力の鬩ぎ合いを繰り広げていて、それが高度であればある程に些細な精神状態の変動でも少なからず影響を及ぼすのではないか。

その証拠に道化のロバは私が思い通りに動いていた間は余裕を見せていたが、こちらが拒み始めた辺りから態度が変化しており、その点を鑑みるとロバの感情の乱れもそうした要素のひとつである可能性が高い。

若しこの仮説が正しいとすれば、そこに唯一の活路があるかも知れない。

私は覚悟を決めて手にしていた杖を床へと放り捨てると、突き出され押し付けられていた宝剣の柄を両手で握り締め、それを見た道化のロバは再び笑みを浮かべつつ一歩身体を引く。

「やっとその気になって頂けたのですな、さあ後は立ち上がって全身全霊の力でこの首目掛けて振り下ろすだけですぞ!」

目の前で身体を横向きにして跪き首を垂れながらも、不自然な程に首を捻ってこちらへ顔を向け視線を外す事無くそう告げる。

斬首刑に処される罪人宛らの姿をした道化を目下にしながら、処刑執行人の如く私が手にした宝剣を振り上げると、道化は今にも声を上げて笑い出さんばかりに口角を引き上げる。

その姿を見てやはりこれは善意などではなく罠なのだと確信しつつ、数秒の後に一気に刃を振り下ろした。

「…………!?」

目的を達成した喜びのあまり雄叫びを上げる寸前に、最後の最後で起こるべきものが無かった事への動揺が道化のロバの表情を強張らせ、息を呑んだ声にならない声を漏らした。

己が首を落とすべく項へと叩きつけられた筈の刃はそこには無く、寸前まで私の右手にあった宝剣は道化のロバを通り越し座して死せるロバの足元へと転がっっており、先程聞いた断続的な甲高い金属音を響かせている。

今尚状況が理解出来ずに硬直している道化のロバへと、私は手刀の様に振り下ろした徒手の両手を此れ見よがしに突き出し、先程のロバを真似てお道化た口調で茶化す様に先程の仕返しだと告げた。

「――――!!」

かの饒舌な詐欺師たる“嘶くロバ”と言えども、限界を超えた激情に駆られると言葉を失うらしく堪え難い激高から息を詰まらせ絶句し、その沸き立つ怒りは全て顔に流れ込んだのか憤怒の感情が溢れ返り全く別人の様な形相へと変貌する。

そして怒り狂ったロバはその強烈な怒りの衝動から生じた殺意を剥き出しにして、雄叫びにも似た呻き声を上げつつ私に飛び掛かると力任せに拳で殴り掛かって来る。

それが顔や頭に当たる度に脳が揺さ振られ強烈な眩暈と吐き気を催し意識が薄れていく中、怒れる道化が唐突に虚脱し糸が切れた操り人形の様にその場に崩れ落ちて行くのを、歪み霞む朧げな残像として辛うじて認識出来たところで私の意識は途絶えた。





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