第二十一章 湖の主 其の三
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全身が弾け飛ぶと言う稀有な感覚の余韻を引き摺りつつ、私は再びあの忌まわしい城の大広間へと戻っていた。
恐らく意識を失い倒れた状態のままの体勢だったらしく、まだ焦点の定まらない視界には豪奢な内装の大広間と床に転がったままの飲み干したグラスが映っている。
こちら側へと戻って来たと言う現実を理解し始めた途端、切断された右腕と割かれた脇腹の強烈な疼痛に思わず喘ぎそうになったが、それとほぼ同時に不意に込み上げて来た吐き気が堪えきれず嘔吐した。
喉から溢れ出てくるのはその殆んどが液体だったので吐き出す行為自体は然して困難ではなかったのだが、時折食道を引っ掻く様な苦痛と共に現れる見覚えのある金色の硬貨を目にし、こんな状況でありながらあれが単なる悪夢ではなかったのだと確信を得た。
「良くぞ戻った、待ちわびていたぞ、我が愛する金貨達よ!」
恐らくこちらも倒れる前と同じ位置にいるのであろう耳障りな声色の主が、その帰還に対する惜しげもない賛美の言葉を私の吐瀉物へと向けて発し、それが合図かの様に脇に控えていたらしい白猫のメイドが静かに近づき目の前に屈むと、手にしていた金属製の器具を使って無言で硬貨を拾い集め始めた。
長い棒状のそれを右手で用いて、器用に先端で一枚ずつ摘み上げては左手に持つ装飾の施された容器へと入れる作業は実に手馴れており、この様な作業が日常の業務である事は明らかだった。
ものの数秒で全ての硬貨を回収した白毛のカトゥスは、速やかに立ち上がると踵を返して足早に遠のいて行く。
メイドと入れ替わる様に今度は振動が伝わる足音が近づくと、これは後ろに控えていた鹿頭の近衛兵であろうか、それらに両の脇からそれぞれ抱え上げる様にして私は体を起こされ、その強引な動作で切創が痛み思わず呻き声を上げた。
「ほう、まだ口が利けたか、ならば耳も聞こえるかな? 瀕死の饅頭人よ」
金貨へ向けた時とは明らかに異なる冷やかな口調の方を見ると、ぼやけた視野の中心に椅子に腰掛けた“ジェスター”が映り、その隣には以前には見かけた記憶の無い人物がもう一人控えている。
これは駱駝だろうか、黄土色の毛並みをした頭を持つその人物は白衣を纏っており、右手には大きな黒い鞄を提げているのまでは判るが、それ以上は不鮮明で判らない。
「そちの帰還があまりにも遅いので、我が賓客たる女王への手向けの興に間に合わなかったではないか、そちが金貨を吐き出す様を見られず女王は大層残念がっておられたのだぞ、さぁてこの失態をどう償わせてやろうか」
こちらの一刻を争う状況など知った事ではないらしく、女王一行に対する余興の演出が上手く行かなかった事への不満を咎める道化の声音には、それが作為的であるのを証明するかの様なわざとらしいまでの過剰な抑揚を含んでいた。
「だがまぁしかし、そちは余の下した使命を全うした、それに対して公平で寛容なる偉大な余は役目を果たした者を虐げる様な非道な事はせぬ、約束通りそちの命を救ってやろうではないか、ククククク……」
最初の非難めいた言動から打って変わり、当初の条件としていた救済を反故にしなかったのは意外で逆にそれ以上の何か含みを感じたものの、とりあえず現状の最優先は命を繋ぐ治療を受ける事なのは明白であり、その裏の意を勘ぐって対応する余力も無い。
ただひたすら荒い呼吸と苦痛で喘ぐのを交互に繰り返しているだけで特に反応もしない私の態度も気にする事なく、道化は暫らく無言でこちらを眺めた後に駱駝頭の医師らしき者へと何か指示を出した。
白衣の駱駝は道化へと無言で会釈を返すと今私を脇から抱え上げて立たせているセルヴス達も同時に動き出し、私を仰向けになる様に背後へと倒して再び床に転がされた。
「女王への非礼に対しての罰は、はてどうしたものか、ふむ……」
道化が私の失態とした件への代償を考えあぐねる声が遠のきつつ、これから約束通りの治療が開始されるのか、それともあの言葉や配下の動きも含めて全てが偽りなのか、その真偽を確認する事すら叶わず限界に達し私は意識を失った。
目を覚ますとそこは大広間ではなく、連行される前にいたのと同様の不気味な独房だった。
失神前とは異なる鮮明な視界にはこちらに背を向けて遠ざかって行く白衣の駱駝頭が見え、無意識にその姿を目で追うと医師らしき駱駝は独房の扉の脇に立っていた執事のカバルスと短く会話を交わした後、独房を出て行った。
我に返って意識を失う前の経緯を思い出し、己の肉体に生じていたいくつかの致命的な症状が全て消えているのを認識したものの、それでも改めて右腕や脇腹を念入りに確認せずにはいられない。
あの道化師が本当に約束を守るとは思っていなかったからだ。
だが野菜でも切るかの様にあっさりと切断された右腕も間違いなく繋がっていたし、切断時に切り裂かれた脇腹ももう傷跡すら見つけられない程に回復していて、ついでに血塗れになった服も新調され自らの血で汚れた身体の汚れも全く残っておらず、まるで全てが悪夢だったかの様にしか思えない状況だ。
「お目覚めになられましたか、猊下」
こちらがどの様な状況であろうとも決して乱れぬであろうその低く一定の口調で、執事が声を掛けてくる。
「ご気分は如何でしょうか、診察した医師カメルスの話では腕と腹部共に快癒しているとの診断でしたが、特に支障は無いでしょうか?」
そう尋ねられ念の為に確認すべく、身体を起こすと立ち上がり今度は右腕を動かしたり腰を捻ったりしてみるがやはり何の支障もなく、告げられた通り間違いなく完治している様だ。
この時立ち位置を変えた際に意図せず足を動かすと何の抵抗もなく動いたのに違和感を感じて足元を見ると、意識を失う前までは二つ付いていた筈の天使の錘は右足だけになっていて、更に重量も初期の状態に戻されているらしくそれなりの抵抗を感じるものの、引き摺って動かす事が出来た。
カメルスと言う名称の医師が出て行った後も開け放たれてたままになっている扉を視界の端で確認し、相手が執事一人であるならと一瞬短絡的な逃亡計画が脳裏に浮かんだが、この牛頭がそんな不手際を犯すとは考えにくいし、仮にここから出られたとしてもすぐに捕らえられるのは明らかだと思い返し、大人しく質問者へと問題ない事を頷いて伝えた。
「お身体に問題なければ、陛下からのお言葉をお伝え致します」
言い終えると共に執事は懐から取り出した書簡を開いて読み上げ始める。
「此度の勅令の遂行に関してはその義務を全うした事を認め、正式に勅使と任命しその権利として城内に於いてその生命を保証しよう。
だが女王の会合の席での失態については余に属する勅使としてその罪を償う責任があり、故にそちには贖罪として新たな勅令を命ずる事とする。
その勅令を必ずや全うし、余の望む結果を残す事で科せられた罪を償うが良い。
勅令の詳細についてはタウルスから説明を受けよ」
読み上げ終えたらしい牛頭の執事は、書簡の記載面をこちらへ向けながら発言を続ける。
「以上です、こちらが陛下より発せられた事を証明する令状となります、ご確認を。
特に異議等なければ早速詳細についての説明を続けさせて頂きたいのですが、宜しいでしょうか?」
恐らくこれは正規の手続きを踏んでいるからなのか、それとも勅使の地位にも色々とあり、上位ともなれば王たる道化の下知に対しても何らかの交渉の権利を行使出来る様になるのかと少々訝しんだが、少なくとも現在の私にはそれは無いであろうと理解し再び頷いて了承の意を返す。
「では続いて今回の勅令の詳細について説明致します。
今回猊下に行なって頂きたいのは、前回の召喚で訪れた場所に関する調査確認作業となります。
陛下はここではない世界に存在するあの金貨を所望しておられ、より多くの金貨を回収すべく勅使の方々を金貨が存在する世界へと派遣し、収集作業を遂行しております。
しかしながら陛下のお力を以ってしても、広大な異世界に点在する金貨を掌握する事は出来ず、断片的な情報を元に不確実な探索行へと赴いて頂くしか他に手段がありません。
ですので探索の結果金貨を発見出来た場合、そちらの世界でも収集されている確率を精査する事で、金貨を発見出来る確率がより高い地域を選択する事が可能となります。
金貨を持ち帰られた猊下には、金貨がどの様な状態で存在していたかを見ておられる筈ですから、派遣先の世界での金貨の価値判断を状況から推察した上で、更なる金貨の存在が濃厚な探索範囲の選定にご協力願いたいのです」
この執事の若干予想外な発言を聞いて、私は幾つかの確信と疑問を感じた。
まず確信を得たのは、道化師が全知全能ではなくこの世界を越える召喚については“嘶くロバ”よりも知識が低い事だ。
但し召喚先の世界から物質を転送させている点は明らかにロバよりも優れていると言える。
それを達成するのがあの儀式にあるとするのなら、召喚への干渉を技能的に実現しているのか。
送り込む先の制御はロバが完全に出来ていたのかまでは不明である為、こちらはまだ評価しかねる。
疑問に関しては、何の情報も持っていない私がどうやって調査を行なうのかで、これまではロバが逐一薀蓄を傾けていたから色々と向こう側の世界についての情報を知る事が出来ていたのだが、今やそれは出来ない。
今の私には自身の過去すら判らない人並み以下の知識しか持ち合わせていないのに、どの様にして未知の世界の情報を得れば良いのか。
その点を依頼の代弁者へと問おうとすると、それを見透かしていたかの様に一瞬先に説明を再開させた。
「具体的な猊下の作業としては、猊下の見聞きした情報を照合する為の提供でして、それ以降の作業については猊下が行なう必要はございません、情報提供までして頂ければ結構ですのでご安心を。
その方法については書物を通じて行なって頂く形となっておりますので、そちらを使用して頂きたいと存じます。
書物の使用許可は陛下より頂いておりますから、これからそれがある部屋までご案内致しますが、宜しいでしょうか」
本を使って情報の提供をさせられるのは少々予想外だったが、要するに執筆しろと言う意味なのだろうと理解して、それなら危険性は低そうだと安堵する。
だが今の私にここで通用する言語の文字を記せるのかと言う新たな疑問が生じるも、紙ではなく本だとすれば前任者達の記載も残っている可能性もあり、まあとりあえず他の記された文字を見て対応を検討する事も可能だろう。
異存は無い事を再び頷いて返答した私を見た執事は、手振りで同行を促がすと踵を返して独房を後にし、私は天使の錘を抱えてその後を追う。
扉の外に出ると狼頭の獄吏が四匹程廊下に待機しており、やはりあの牛頭の見せた隙はこちらを試す一種の罠だったのが判明し、もし先程軽率な行動を取っていたら直ぐさま取り押さえられていたのは間違いない。
道化はこうやって常に勅使と言う存在に対して探りを入れ続けるのが慣習なのか、それとも特別私が信用に値しない存在として認識されているだけなのか。
そんな疑問も感じつつ、灰色狼達に四方を囲まれた状態で一行は独房を後にした。
そこが以前収容されていた部屋と同じだったのかについて、廊下に出てからの移動経路で判ると考えていたのだが、いざ連行されてみると前回の連行時の記憶が曖昧となっていて明確に思い出せず、どれだけ考えても判断しかねた。
さほど遠い過去の出来事と言う訳でもないのに何故こうも思い出せないのかと言う、この新たな疑問に苛まれつつ歩を進める。
連行される経路を確実に記憶すべく丹念に確認しながら無言で歩いていると、恐らく以前と同様であったと思われる経路を辿り、二度狼達の詰所を通過したのちに地上へと到達し狼から鹿の包囲へと切り替わる。
薄暗く赤黒い不気味な内壁の通路から明るい淡い基調の廊下へと変わるとやはり相当に気分が違うものだと痛感しつつ一行は黙々と進み、前にも利用した犬頭の使用人が制御する昇降室へと進む。
地下に比べるとかなり記憶が明確な地上部分では前回と同様の経路である事が判り、また例の惨事を受けた大広間へと誘導されているのかと思っていたのだが、昇降室を出た後に今回は前とは逆の左ではなく右へと曲がった。
そちらは前の記憶と同様に、従僕や近衛兵の数も多く配置されている明らかにこれまでの場所よりも重要度の高い区域となっていた。
「書物の格納場所は陛下がご利用なさる書庫でして、ここより上の階は陛下の居住区となりますので、くれぐれも粗相の無い様お願い致します。
ファミリアリス達が開門するまで少々お待ち下さい」
そう言いながらカバルスは二人の従僕へと合図を送り、それに答える様に頭を下げた白犬と黒犬はこちらに背を向けると手にした長い棒で突き当たりの壁をなぞったり軽く叩く様な複雑な動作を取る。
警備をしているらしき廊下にある各扉の脇に立つ鹿の近衛兵達を通り過ぎつつ、一行は突き当りへと近づいて行く。
そこは改めて眺めてみても外見はこれまでに利用した昇降室の扉と変わらないが、二匹の行なう鏡写しの動作は完全に同期が取れているのを見るに、恐らくこちらの扉は防犯上他よりも複雑な操作を要する様だ。
ある意味舞踏にさえ見えるその操作が終わり、従僕達が再びこちらに向き直り会釈すると同時に白い粘膜状の扉は音もなく三角形に開いた。
どう見ても声帯にしか見えないその入り口を通り、奥の小部屋へと一行は進む。
昇降室となっている小部屋は、こちらは基本的に少人数でしか使用されないからなのか前に利用したものよりも狭く、整列状態を維持した一行が入ると丁度満員となる程度だ。
王たる“ジェスター”が家臣に接触する様な窮屈な状態で利用するとは思えない事から、これはつまりあの道化が警備付きで利用する際もこの程度の人数と同行する証だろうか。
そんな事を考えていると速やかに昇降室はその僅かな動きを止めて、閉まった扉が再び開く。
再度歩き出した執事や近衛兵について進み始めると、そこはこれまでの階よりも更に洗練された空間となっていた。
壁や天井は更に真っ白で、床には毛足の長い絨毯が敷き詰められており、いくつか見える扉もより重厚なものが使われている。
この階に設置された扉の取っ手や燭台は金属製で、見渡す限り不気味な人間の部位のままの物は一切見当たらない。
ただ、各扉の両脇に立つ番兵たる鹿頭の兵士達だけは、親衛隊と言った特別な兵士ではなく同様の装備と同じ頭をしており、階下と特に差異は無い様だ。
「猊下にはこちらの書庫にて作業を行って頂きます。
室内に司書がおりますのでその者が改めて案内致しますが、利用して頂くその書物は極めて扱いが難しい代物でして、取り扱いには重々ご注意を。
軽率な行動を取れば命の危険もありますので、それではどうぞ中へお入り下さい」
立ち止まってから相変わらずの落ち着いた口調で語った馬頭の執事は、最後に聞き捨てならない事を付け加えた後に廊下の中央辺りの扉を開けると、入室する様に私を促がした。
近衛兵達も微動だにしていないところを見ると、どうやら執事達の護送はここまでの様だ。
この室内にはまた別の兵士等が控えているのだろうかと考えつつ、私は部屋の中へと足を進めた。
書物の保管場所と言う意味合いでなのか、非常に明るい廊下から比べると相当に暗いその室内は、書庫と言う名からの想像通り、天井まで聳える書架がずらりと並んだとても黴臭い部屋だった。
そしてこちらも予測通り、書庫へと踏み入れた途端入り口の両脇に控えていたらしい四匹の新たな鹿達に包囲され、更に書庫の奥からセルヴス達と比べると小柄なもう一人が近づいて来た。
「猊下、お初にお目に掛かります、私めは司書の任を仰せつかっておりますヒルクスと申します。
タウルスよりお話は伺っております、さあこちらへお進み下さい、猊下に閲覧して頂く書物の場所へご案内致します」
軽く会釈しながら老いを感じさせる嗄れた声で私を誘うのは、白を基調とした学者風の姿をしたヒルクスと名乗る白い山羊頭の男だった。
司書も標準語は使えるとの話であったから私との対話が可能なのかと理解しながら、牛の家令や馬の執事に続く新たな意思疎通が可能な使用人の後を追いつつ周囲に目を配る。
肉塊ではなく恐らくは木材で作られているらしき古びた書架には、更に年季の入ったくすんだ色合いの背表紙をした蔵書がずらりと並べられている。
ここに並んでいる書物は厚さも高さも区々で、書かれている題名の書体すら色々と多種に及んでいるらしいが、私に読める物はひとつも無い。
入り口付近の書架には目もくれず部屋の奥へと真直ぐに進んで行くところを見ると、その本は部屋の最深部に保管されているらしい。
こんな場所に危険な何かが存在しているとは思えず、執事が言い残していった命の危険が伴うかの様なあの言葉の真意は現段階では未だ理解しかねるが、ここはそう広い空間と言う訳でもないのだろうからその答えはもうじき判明するだろう。
そんな私の推測は外れる事なくものの一分と経たずに目的の書の場所へと到達し、白山羊の司書は足を止めた。
部屋の最深部に当たるその場所はそこだけ書架が無い代わりに、その一角だけ増築されたかの様に壁で囲われた小部屋となっており、四段ほどの階段を上った所にある重厚な片開きの扉には横木の閂が備え付けられている。
白山羊が無言でその階段を上り横木をずらして閂を外すと半ば自動的に重々しい軋み音を立てて扉が開いたので、階段の手前からこれまで以上に仄暗いその小部屋の中を凝視する。
すると室内には天板が傾斜した机の形状をした黒い書見台らしき物が一台だけ置いてあり、その上には一冊の古びた大きな本が閉じられた状態で右寄りに設置されているのが見て取れた。
暗がりの中でも良く目立つ淡い乳白色をしたその書物は、高さや幅は同じく凡そ70cm程度で上下二箇所には錠付の革製らしき帯が付いており、どうやら開錠しなければ開けない様になっている様だ。
表紙の上部には題名らしき文章が濃い色合いのインクで綴られているが、やはり判読不明な言語なので読む事は出来ない。
しかしそれよりも注視したのは表紙中央にある人の顔の絵で、距離があって良く判らないがその絵に違和感を覚えた。
この怪しげな古書が持つ危険性の本質が気に掛かり、私が思わず足を止めたのとほぼ同時に階段を降りて来た司書が語り始める。
「カバルスからある程度の説明を受けているとは思いますが、私めから改めてご説明致します。
こちらが猊下に記して頂く書物の『因果の書』でして、嘗て陛下が滅ぼした人間の国の王女の皮を剥いで表紙を装丁し、亡国の女達の皮より作った紙を束ねて頁を作り、亡国の男達の臓腑を抉り取り磨り潰したインクで書き綴られた完全な人皮本です。
この中に以前猊下と同じ立場であった勅使の一人が陛下の逆鱗に触れて封じられておりまして、その勅使には二つの別名があり、罪人名は『禁忌を暴く者』、陛下は『事典の悪魔』とお呼びになられます。
ご利用の際はこの二つの鍵で二本の帯の錠を解除し、書に施された『晦冥の針』『深閑の釘』『寡黙の杭』の三つの封印を解除して頂くと拘束帯が外れ書が覚醒しますので、その後は書の声に従って頂ければと。
退室する際は本を元の通りに施錠した後に、入り口の脇にある呼び鈴を鳴らして頂ければ扉を開きます。
もし自ら封じる事が困難な状況となった場合でも、『因果の書』は一定の時間が経過すると自動的に封じられる仕掛けとなっておりますので、封印の発動まで待機して頂いても退室が可能となります。
いずれの場合にせよ、本の拘束が完了していなければ扉を開ける事は許されておりませんので、その点はくれぐれもご注意下さい。
因みにこの書物には無数の世界の様々な歴史とそれに関連する膨大な知識が納められており、現在も勅使の方々からの情報提供に因って更なる加筆が続けられています。
猊下の齎す情報が陛下とこの書にとって有益である事を願っております。
私から勅使の方々にお伝え出来るのはここまでです」
そう言うと司書のヒルクスは、懐から取り出した小さな金と銀の鍵が繋がった鍵束を私へと差し出した。
なるほど、実際に私が行うのは本の中の悪魔へと記憶を伝える事であるから、たとえ私が文盲であろうともこの博学な悪魔が私の言語を理解してくれさえすれば問題ないと言う事か。
だがそれはその前にこの古書が素直に応じた場合であって、司書の説明からしてその段階に到達する前に何らかの試練があるのは間違いない。
そしてその試練の勝ち目が無いと判ったとしても決して途中での逃亡は許されず、どういった手段かは判らないが決して無事に外に出られはしないのだろう。
置かれた状況を理解した私は差し出された鍵と呼び鈴を受け取ると、白山羊は一礼して道を空けるべく階段の前から脇に移動するのと連動して前の近衛兵達も左右へと動き、背後にいた近衛兵達は退路を絶つ様にその間隔を狭めて立ち止まっていた。
こうして進む以外の選択肢は存在しない開かれた小部屋へと続く短い階段を上がって、私はその室内へと踏み入れた。
室内へと入った途端に速やかに扉は閉まり、立て続けに閂が擦れる音がしたかと思うとものの数秒でその音も止み、幽閉されたのを改めて認識しつつ周囲を確認し始める。
内部は3m四方程度の広さで、入り口が床よりも高い位置にあった点から中二階になっているのかと思っていたのだが、どうやら扉だけを高い位置に据え付けただけで中も外側と同じく四段の下り階段が続いており、床の高さは外側と同じだった。
小部屋の中には下り階段と例の本が載った書見台以外は何も無いのだが、階段や床や壁や天井までが極めて黒に近い色合いの塗装に覆われており、それが小部屋の床に近くなる程濃度が増している点が目に付く。
それと、天井や壁の部分は木材が隙間なく並べられているが、床部分については硬貨が入るかどうか程度の若干の隙間が空けて並べられている点にも気づいた。
この塗料の正体が夥しい量の固着した血液で、血飛沫の飛散を防止する為の壁と天井であり、床材の隙間が体液の排水を考慮したものではないのかと言う不吉な憶測を脳裏から退けながら、私は慎重に近づきつつ悪魔の本を注視する。
遠目から見れば青白い肌をした少女の顔が描かれた同色の表表紙に、少々凝った装飾が施された大き目の古書なのだが、間近で目にするとすぐにその表紙の異質さに気づく。
本の地に届く間際で切り揃えられた髪やその整った顔立ちをした美しい顔が、宛ら水面から顔だけを出しているかの様に表紙に埋め込まれているのだ。
何らかの錯覚に囚われているのではないかと目を凝らして何度か見直すが、どう見てもそれは極めて写実的な絵などではなく陰影を持つ立体的な造形をしており、その質感は動き出してもおかしくないとさえ感じる程だ。
それだけでも十分に異様だがそれに加えて、二本の革の帯が少女の両目と口に掛かっているのが偶然ではなく、双眸や口唇部分を覆う様に広くなっている点からして意図的であり、嫌な予感を更に高めている。
王女の皮を剥いで装丁されたとの説明だったが、顔面を再現して表紙に埋め込んでいるとは想定外だった。
ある意味価値ある獲物を獲った証として獣の剥製を飾るのと同様の感覚なのかも知れないが、それがその外見から判断するに十歳に満たないであろう幼い人間の子供のものとなると嫌悪感しか感じず、吐き気すら込み上げてくる。
しかしそんな外見に気を取られている場合ではないと直ぐに思い直して次に二本の拘束帯を注視すると、上の革帯には両目と両耳を塞ぐ位置に銀色の金属で出来た装飾を施された金具があり、眉間部分に小さな鍵穴がある。
更に金具には、両瞼の上部や両耳の耳孔の部分に銀色の金属で出来た突起物が付いている。
書見台との距離を一定に保ちつつ横へ回り込んで確認したところ、革帯が多少浮いている耳の箇所の裏側には太い釘程の突起が耳孔へと刺さっているかに見える。
目の方は密着しているので確認出来ないが、この帯の目の部分が耳と同様の作りだとすれば、眼球にも針状の突起物が突き刺さっている事になるだろう。
一方下の帯の口に当たる箇所は金色の尾錠の様な形状でこちらの方がより大きな金具となっていて、やはり中央部分には目や耳のと同様の形状だがかなり大きな突起物があり、その脇に鍵穴が空いている。
白山羊の司書が語っていた二つの錠と三つの封印はこれらを指しているのは明白だが、その形状については予想以上に不快なものであった。
これらがまるで拷問具じみた構造をしているのは、単に道化の悪趣味な趣向の産物だろうと察して、相手を徹底的に嘲り辱める道化の歪んだ人間性に改めて辟易させられる。
しかしそうは思っても被害者である悪魔に対して同情的な感情を抱いている余裕は無く、これから封印を解かねばならないと思うと未知の不安と恐怖が襲ってくる。
勅令の召喚に応じる事で辛うじて命を繋ぎ止めている程度の存在である私と、封じられた状態とは言え王の居住区内で管理されている相手では、明らかに後者の方が強大な力を有していると言えよう。
形状以外全てが未知数と言える数段格上と思われる悪魔に対してどう挑むべきか、暫らくの間その場に立ち尽くして思考を巡らし幾つかの傾向と対策を検討した後に、覚悟を決めて書見台へと対峙した。
その書物は書見台と一体化している支えに因って背表紙が固定されており、革帯に多少力を加えても本自体は微動だにせず、またどの突起物も動く気配は無い。
やはりこれは説明の通り、順番として最初に開錠しなければならない様だ。
まずは目と耳を塞いでいる顔面上部の革帯から取り外すべく、その革帯の錠と同じ色をした小さな銀色の鍵を使い、丁度眉間の部分にある銀色の錠へと同色の小さな鍵を挿し込み時計回りに捻るが廻らない。
もしやと思い逆向きの反時計回りに捻ってみると、微かな短い金属音と共に金具部分から革帯が外れるのと同時に、目と耳部分の小さな突起が僅かに浮き上がった。
そこで両目を覆う金具を少し持ち上げて確認すると開かれたままの瞳の中心に突起物が刺さっており、眼球は無色透明である事から硝子か水晶の球体を嵌め込まれているらしいのが判明した。
今度はこの拘束帯が真の意味で封じているのであろう双眸に刺さる銀色の針を摘まんで慎重に引くと、それは長さ5cm程度で意外と容易に引き抜く事が出来た。
針を抜いた途端に動き出すのではと若干危惧していたのだが、特に変化が見られないので両目を覆っていた金具も取り除くと、小さな顔に対して若干大きな虹彩も瞳孔も無い瞳が姿を現わした。
その状態で暫らく様子を見てもやはり変化は無いので、続いて耳孔の方を引き抜きに取り掛かる。
眼球の針と比べるとこちらは凡そ倍程度の太さと長さがある言わば釘に近い物だったので、少々難儀したものの突発的な事象は発生せず無事にその作業を終えた。
これで目と耳の拘束帯は完全に外れたので、この段階で既に封じられている悪魔はこちら側の様子を見聞き出来る様になっているかも知れないと考え、確認をすべく思念で呼びかけてみるが特に反応は無い。
未だ口の封印が残っている状態では思念の様に物理的な動作を伴わない意思表示であっても不可能なのか、それとも全てを取り除いて本自体が動作してからでなければ目覚めないのか。
やはりこの段階では何をしても無駄だと判断し、次に口を拘束している拘束帯の解除に入る。
口部分を塞ぐ金具の右側の箇所にある錠に金色の鍵を挿して、こちらも反時計回りに捻り開錠すると、金具の左右に付けられていた革帯は両頬へと滑り落ちた。
それと同時に先程と同様に突起部分が若干抜ける様に動いたのでそれを掴んでゆっくりと引き抜くと、こちらは杭と表現すべき大きさをしたものが口内に刺さっていた。
そして尾錠のみとなったそれを掴んで慎重に退かすと、小振りながら杭を咥えるべく大きく開かれた唇が現れた。
こうして二つの拘束帯を除去し、改めてその顔を確認するとそれは当初の想像通り年端も行かない少女で、大きく開かれた双眸と口唇からは激情的に叫んでいる様に見えつつも、感情の無い透明な瞳の所為で虚ろで呆けているかの様な全く真逆の印象も同時に受ける。
その相反する矛盾した二つの表情を見せる少女の死面を眺めていると、不意に声が聞こえて来た。
「来訪者よ、我は『因果の書』、汝は我に如何なる見識を求める? 汝は我に如何なる見聞を捧げる?」
少女の口から発せられたのはその可憐な顔立ちに見合うしおらしい声色での問い掛けであったが、抑揚の無いその発声は極めて機械的で且つ無感情であり、意識を持った存在が語っているとは到底思えず、それは自動的に再生される音声ではないかとの感想を抱いた。
だが何はともあれその声に因ってこの本の覚醒に成功したのが判ったのは良いが、ここまでは大した事ではなく寧ろ重要なのはこれからの対応で、いよいよ開始されるであろう命懸けの作業に思わず息を飲んで相手の出方を見る。
「来訪者よ、汝の言葉で以って聖句を唱えよ、そして瞳を閉じ強く念じよ」
淡々とそう発した古書は私が触れてもいないのに勝手に開くと、まるで風に煽られる様に次々と頁が捲られて行き、大体中央辺りの頁で止まった。
作業を行うのにこんな儀式があるとは初耳だが、使用人達が意図的に作業方法の詳細を伝えようとはしていなかったのも明らかなので、この場でそういった手順があると言われればその指示に順ずるより仕方がない。
開かれた本の頁へと視線を移すとそこには恐ろしく微細な文字で頁一杯に文章が記載されており、行間も殆んどないその文面は、一見しただけでは細かな模様の一種かと誤解し兼ねない程だった。
どうやら本の言う聖句とは一行に満たない短いものらしく、遠目に見ても同一行に系統が異なる言語が記されているのが見て取れ、実際に行う事は短文を読み上げるだけなのだろうが、この中から判読可能な文章を見つけるのは相当に時間が掛かるに違いない。
だがしかし読める言語の聖句を探すには、古書の間近まで迫り開かれた頁を間近で凝視しなければ無理なのは明白で、その状態は非常に無防備となる。
これが正規の手順と言うのならば従うより手は無いのだが、もしもこれが罠だとすると非常に不利な体勢での抵抗を余儀なくされるのは必至だろう。
暫らく様子を見ても新たな少女の声が発せられる事もなく古書は沈黙し続けており、どうやらこちらからの行動を待っている状態で停滞している様だ。
現状を考えると古書への接近が促がされていると感じるのだが、それを強く感じれば感じる程本能的に罠ではないかとの疑念が高まるばかりで、指示に従うのを躊躇ってしまう。
これが単なる超自然的な書物であれば恐らく本能の警告に従うのが正しい選択となろうが、事前の説明で告げられた、これが悪魔として封じられた元勅使だと言う点が、取るべき行動に更なる戸惑いを喚起する。
万が一にも真の意味で友好的な提言であったとしたら、それを拒むのは相手の機嫌を損ねる結果となろうし、これがこちらの力量を推し量る為の仕掛けだとしたら、最初から警戒して近寄りもしない行動は臆病なだけの愚者だと見做されかねず、無価値な存在として対話にすら応じなくなるのではないかと言う危惧もある。
しかし博識であるからと言って必ずしも協調性があったり理性的である保障は無く、知識を貪る為には手段を選ばず破壊や殺戮を厭わない存在だとしても、何ら不思議ではないとも言える。
ここであまり悩んでいる時間も無かったが、数秒の逡巡の後に新たな見解を導き出した。
この状況を逆に捉えると、これこそこの悪魔の力量を推し量る絶好の好機とも言えるし、更にはここで期待以上の効果が出て相手を萎縮させられたなら、逆にこちらが優位に立てる確率だって有り得なくも無い。
そんな起死回生の逆転の為には、相手の罠を凌駕する素晴らしい反撃を披露する必要があるのだが、幸か不幸かその材料は持っているものの、さてどうすべきか。
それ以外に取るべき妙手も思い浮かばず、私はその唯一の手に賭けて敢えて罠としか思えない古書の誘いに乗るべく、開かれた頁へと間近に迫った。
徐々に顔を近づけつつ書面を見ると、非常に小さいながらも精巧に綴られているのが確認出来たのと同時に、こうして注意していなければ気づかない程度の非常に微かなものだったが、本来は黴臭さくらいしか感じる筈の無い単なる古い本からそれとは異なる別の気配を感じるものの、しかしその気配の正体を把握するにはあまりに情報が足りず、それが何なのかまでは判らない。
だが相手も、獲物が確実に罠に掛かったと確信する瞬間までは仕掛けては来ない筈だ。
獲物に意識を集中するこの時間は、逆に言えば狩る者の己に対する警戒が最も手薄になる瞬間でもある。
私は書面に注目しているかに見せつつ、相手に気取られぬ様に慎重に反撃の準備を整えるべく、ゆっくりと右腕を動かしていく。
表紙にあった少女の顔は頁が開かれた段階で言わば真後ろを見ている状態なので、少女の視界からは確実に外れていると言えるものの、だからと言って周囲を確認出来る手段が他に無いとも限らない。
仕掛ける瞬間を知らせる気配の変化に全身全霊を傾けながら、構えた右手を極力本から遠ざけつつ慎重に振り上げる。
いつ仕掛けてくるかと恐れるあまり気取られてしまえば全ては台無しとなるが、準備が整う前に向こうから仕掛けられればそれもまた終わりだ。
その葛藤に苛まれながら右手と同期を取りつつ更に頭を頁へと近づけて行くと、不意に古書の発する不明瞭だった気配が強まった。
その気配は言わば野生の獣が放つ熱気と殺気で、これまで抑えていたその衝動を解き放ったのだ。
それは丁度頁が私の頭を挟み込める位置であり、そこまで近づくのを狙っていると踏んだ私の推測が的中した瞬間でもあった。
体温の様な熱気と吐く息が掛かる湿気と何とも独特な生臭さ、それらを感じた瞬間に私は咄嗟に身体を仰け反らせようとしたがそれよりも早くこの古書が動いた。
私の頭が離れるよりも素早く文字だらけの両頁が捲れ上がったのだ。
回避が間に合わずそれが完全に頭部を塞ぐ前に一瞬見えた次の頁には、精巧な写実画と言うよりはもう本物にしか見えない、虎挟みと見紛う様な鋭い牙がずらりと並ぶ巨大な鮫の口の様な絵が紙面一杯に描かれ、それは紙面に収まりきれず立体的に飛び出して見えた。
頭部へと巻き付いた頁の動きは宛ら獲物を絡め取る舌の様で、つい先程までは乾いた古紙だった筈のそれは今や光沢を帯びた粘着物質で覆われた表面へと変わり、頭部に纏わりついてくる。
最初の攻撃を避け切れずに捕まったのは致命的な失態だったが、直ぐさま食い殺されなかったのは不幸中の幸いと言えよう、未だ私には勝機が残っていたからだ。
獣の気配を曝け出し牙の並ぶ口の頁が捲れ上がるのを感じると同時に、私は右手で振り上げていた足枷である道化の錘を本へと渾身の力で叩き付けた。
私が持つ最高の武器とは、私自身がどうにもならない程の強い力を秘めた物である、私を拘束している道化が作り出したこの錘だ。
この城館内に於いて道化の力を超える存在が存在しないからこその絶対的支配なのだとすれば、その道化が作り出した拘束具を破壊可能な程の力を発揮出来る存在もまた不在の筈と考えた末の結果だ。
だがこの推測は、各拘束具がその拘束相手毎に合わせた力で作られているとするならば、この悪魔には凌駕されてしまう危険性もあったのだが、これ以上の手段は見出せないのもあってこの一撃に賭けた。
言うなれば舌に当たる部位であったろう文字だらけの頁が、ご丁寧に私の頭を完全に絡め取るまで口の頁が動かなかったのが幸いし、右手に構えていた忌々しい鉄球を所定の位置にまで移動させる事が出来、その結果牙の並ぶ顎の頁が閉じきる前に叩き付ける事に成功したのだった。
こうして叩き付けた錘が突き当たって止まるのと同時に、何かが砕ける様な音とこれまでとは全く異なる凄まじい金切り声で古書は叫び出した。
先程までの無感情な囁き声からは想像も出来ない劈く様な悲鳴を発しながら、私の頭を絡め取っていた舌の頁は暴れ狂って私を投げ捨てる様に放り出し、私は入り口の扉がある壁に叩きつけられた。
打撲の苦痛に喘ぐ暇も無く直ぐに古書の方を見ると、左右の小口の中央付近が僅かに浮き上がり、右の頁の隙間からは爬虫類のものらしき鱗に覆われた細長い尻尾らしきものが、左の頁の隙間からは茨の様に棘の生えた蔓らしきものが生え出始め、その尻尾と蔦で辺り構わず無秩序に室内を叩きつけ始めた。
素早く多少なりとも安全な部屋の隅へと退き、無秩序故に隙の多い雑な攻撃を唯一の対抗可能な武器である錘で受け流しつつ、現状を整理する。
とりあえず頭を食い千切られる危機からは脱出出来たが、当初期待した展開より状況はあまり良くはない。
この起死回生の反撃で、致命傷を負わせるか或いは意気消沈させてあわよくば交渉時に優位な立場に立つと言う計画は、どうやら失敗に終わった様だ。
ただ失敗するだけならば未だしもだったのだが、尻尾やら蔓やらと言った本体たる本から実体化した部位が出せるとは予期していなかった。
それもこれだけ素早いと錘を叩き付けるのもほぼ不可能であり、この狭い空間内で自在に伸ばし動かせる部位を使われては、一人の人間程度の力しか持ち合わせない私に勝機は薄いだろう。
これまでのこの悪魔の古書の動作を改めて振り返ると、精々超自然的な力で作り出された本の化物と言った程度にしか見えず、果たして本当にこれが知恵者なのかと疑わざるを得ない。
呪われた古書に封じられたとすると、今対峙している存在は悪魔の意思ではなく封じている古書のものと考えるのが妥当なのか。
道化や召使達はその様には説明していなかったものの、そもそも全てを説明する気が無かったとも思えるのでそれでは確証を得るに至らない。
これが門番の如く古書の意志として暴れているだけで、そこに悪魔の意識は関わっていないとすれば万事休すだが、もしこれが全て悪魔の演出か或いは本と同時に悪魔が目覚めているなら、未だ逆転の手段は残されているかも知れない。
それはこの悪魔の本質に訴える奥の手であり、それが成功するにはこちらからの声が悪魔へと届かなければならないのだが、その条件は既に整っている筈だ。
そう信じて大声で対話を要求してみるが、暴れ狂う二つの生ける鞭は一向に止まらず、また少女の絶叫も同じく全く収まる様子は見せず、依然として脳が共振し兼ねない程の甲高い悲鳴を放ち続けており、その推論の確証を得るには至らない。
だがそうは言ってもそれ以外に対抗策も思い浮かばず、こうなるともう己の推測が的中するのを祈って仕掛けるしかない。
私は意を決して、幾つかの単語を矢継ぎ早に叫んだ。
『神々の島』『大瀑布』『雲海の都』『深淵の都』『常夜の都』……
それは私が嘗て“隠者”より聞き、そして“嘶くロバ”が全く判らなかった様々な名称、これまで数々の召喚に応じて体験した中でも最も謎の単語群、それを古書へと向けて発した。
『聖域』『使徒の都』『神官』『使徒』『継承者』『使者』『探求者』……
次々と単語を叫ぶ内に、最初は無反応に見えた悪魔の本は襲い掛からんとしていた左右の尻尾と蔓の動きを止め、それと同時に叫び声も途絶えた。
必死に己の莫大な記憶を探っているのか、黙ったままで身動ぎひとつしなくなってしまった古書の怪物へと、私は最後の一手として“隠者”との邂逅を語った後に、私ならまた“隠者”と再会する可能性がある点を付け加えて、私を殺害した場合に起こる不利益を強調した。
暫らくの沈黙が続いた後に、停止していた尻尾と蔓が引っ込んで消え去り、開いていた頁が再び次々と自動的に捲られると、ある頁で止まった。
その新たに開かれた頁の左側は全く判読出来ない文章が延々と記されているだけだったが、どうやらそれは右側の頁一杯に描かれた挿絵を説明したものらしく、そこには骨董品の様な巨大な丸い鏡が写実的に描かれており、その箇所だけが特別な塗料で鏡面となっているらしく描かれた鏡には私の姿が映り込んでいた。
「来訪者よ、我は汝の全てを欲する、我に汝を映し全てを捧げよ」
再び囁き声に戻った死せる少女の新たな言葉は私自身を求めると言った意味合いの内容で、求められている行動自体は明確なのだがそれを行なった後に何が起こるのかが推測出来ない。
暫らく様子を見ていると、先程までとは異なり凡そ一定時間毎に同じ通達を繰り返していて、それも完全に一定の間隔ではなく数秒程度ではあるが時間にずれが生じている点から、今回の『因果の書』の対応は先程までの罠を仕掛けてきた時とは少々様子が違っている様に感じる。
これはつまり、こちらの能力を試す段階を突破して次なる段階へと推移しているのではないかと判断し、挿絵の鏡に己が映りこむ位置へと移動して正面から鏡を見据える。
挿絵の鏡に映る自身の鏡像と視線が合った途端、表情の無い筈の鏡像の中の饅頭顔がほくそ笑み、それと同時に細められた双眸へと吸い込まれるかの如く周囲から暗転して視界が狭まり始めた。
それとは逆に鏡像との距離は一切変わっていないにも関わらず、鏡の中の不敵な己自身は迫り来るかの様に巨大化する。
そして視界が殆んど鏡像の目のみにまで迫るとその黒一色である筈の両眼の中に光が瞬き、その光を認識したところで意識が途絶えた。