第二十八章 決闘 其の一
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2022/07/03 誤植修正 『深淵なる叡智』 → 『深遠なる叡智』
「お早う御座います、猊下」
前回の召喚から数日後の朝、毎回全く代り映えのしない食事を終えた頃に私の住居である独房へと現れたのは、鹿の近衛兵二頭を連れ片手に『屍諫の守護天使』を所持した馬頭の執事であった。
儀式実施の際に上級使用人の家令か執事が私を迎えに来るのは慣例なので今更どうと言う事はないのだが、今回に限っては以前から予告されていた特別な召喚かも知れないと思うとどうにも落ち着かない。
“ロゴス”より告げられていた内容ではそれはこれまでと異なると言う点しか知らされず、具体的に何がどう違うのかが不明瞭であった為にどの時点からその差異が生じるのかすら判らず、一体何時から警戒すべきなのか判らなかったからだ。
そんな私の微妙な様子の違いに特段反応する事も無く、栗毛馬のカバルスはいつも通りに極めて落ち着いた口調で言葉を続ける。
「本日は謁見の間にてジェスター様に因る儀式が執り行われますが、今回猊下には儀式の前に沐浴を済ませて頂きたくお迎えに上がりました」
淡々と語ったその説明からもう既に今回の儀式がそうであると察する事が出来た、普段の召喚の儀式では事前の沐浴は行ってはいないからだ。
それが特別な儀式の為の禊の意味合いだと理解した私は、この上級使用人からもう少し情報を引き出せないかと素知らぬ振りをしつつ沐浴の事を尋ねるも、まるで事前にその質問を予測していたかの様に即座に返答が帰って来る。
「申し訳御座いませんが、儀式に関する事柄についてわたくしは把握しておりませんので回答し兼ねます。
わたくしからお伝え出来るのは、沐浴を行う様に指示したのはカメルスであると言う事のみです。
彼は今回の儀式に参加致しますが重要な役目を担っており多忙ですので、猊下と会話を交わす時間を取るのは難しいかと」
これはやはり予想済みだったのだろうか、執事はこちらが段階的に問う心算でいた内容を一気に畳み掛ける様に告げて来た。
カメルスと言うその名を耳にして白衣を着た駱駝の医師の事を思い出しはしたものの、以前に治療を受けた記憶はあるが言葉を交わした事は無く、私が見知っている数少ない上級使用人の中でも印象はかなり薄い方だ。
これまでは召喚やその他の事象に因り私の体調に支障が生じた際にのみ対応していただけで、事前にこの医者が同席していた事は無く召喚そのものに関与していた事も無かった。
それが今回は道化の命令ではなく医師からの指示で要求されると言うのは前例が無く、間違いなく特別な対応がある事を証明している。
だがそれが具体的にどの様な意味で行う処置なのかは現状では判らず、それをこの執事に問い質したところでああも明確に断言した以上は恐らくもう何も語りはしないだろう。
「猊下、宜しければご同行願いますでしょうか」
続ける言葉も無く黙して動かずにいた私を急かすべく語ったカバルスの催促に従い立ち上がると、両足に忌々しい天使の錘を追加された後それを引き摺りつつ執事達と共に独房を出た。
『聖ディオニシウスの骸』一階、使用人浴場。
地下階の階段を上がり詰所を出た所にあるそこは随分前に一度連行された場所であり、その後に賓客への見世物として借り出された挙句近衛兵に斬り殺されかけ己の脆弱さを思い知らされた忌まわしい記憶が否が追うにも蘇る。
そんな苦々しい過去を思い出しつつ中へと進むと、既に女中が二人沐浴の準備をして待機していた。
執事や近衛兵に見張られながらカトゥスからされるがままに着衣を脱がされ、背凭れの無い丸椅子に座らされた後に頭部から下へと順番に濯いだ布切れで拭われている間、私はこの沐浴の意味について考えていた。
確か前の時は貴賓と謁見させる手前薄汚い形では道化の王たる沽券に関わるからと言うのが理由だったと思うが、今回の場合は儀式を実施する上で医者が要求していると聞くと外科的な処置が思い浮かぶ。
だがこの器は道化が自ら生成したものなのだから、そんな手間の掛かる上に駒として利用する勅使の命の危険も伴う対処が必要となる様に作るとは考え難い。
仮に意図した訳ではなくこうせざるを得ないとするならそれは、その作業実施時には何らかの理由に因り道化の具有する力だけでは実現し難い状況に陥ると言う事かも知れず、それは道化に隙が生じる事であるならば普段の召喚時には実施されていない理由としても合点がいく。
それならばその期に乗じて道化を倒せないかと思うがその時私自身は召喚中の可能性が高くほぼ不可能であり、そうなると私以外にその場の同席が可能でこちらに与していて且つ自由に行動出来る協力者が必要だが今現在その様な者は存在していない。
儀式の際も必ず居合わせる獣人を懐柔出来ればそれも可能となりそうではあるが、道化に対しての服従は絶対的でありそれが揺らいでいると思えた時が一瞬たりとも無い現状では到底無理だろう、少なくとも今直ぐには。
私の関心と思考は沐浴から道化に付き従う従順な被造物である獣人の使用人へと切り替わり、彼等について改めて考え始めた。
以前にもこの議論の際に“ロゴス”は否定していたが、どう考えてもこの館内で様々な作業を担う大勢の獣人達を道化が一人で全て操っているとは考え難く、使用人達が見せるそれぞれの役職に応じた振る舞いは各々が自ら行っているもので完全な操り人形と言う訳では無いと思える。
人間を資材として利用しているとの話からすると、道化の能力は人間や生物を加工する力を有しているだけで完全な無から生物を作り出す事は出来ず、常に生命の元となる人間や獣の生体を必要としているのだろう。
流用した人間の記憶は頭部を挿げ替えられるので本来ならば一切残らない筈だが、それでは単なる半人の獣になってしまい使い物にならないので、脳そのものか或いは記憶のみを移植して対応しているに違いない。
その際に不要な記憶は抹消しつつ、再利用出来る記憶のみを意図的に残す事で業務の遂行を円滑にしているのではないだろうか、例えば執事であった人間の業務に関する記憶を流用して獣人の執事を作り出すと言う様に。
こうした記憶の改竄は高度な技術を伴う職種の者ほど複雑で緻密な作業となる為、その最たる者達である上級使用人はその個体数も少ない反面、単純な労働しかない下級使用人であれば大量生産も容易くなる。
更に記憶はその時々に生じた様々な精神状態の変化と密接に絡みついていてそれを完全に解きほぐすのは困難である事から、高度な技術を踏襲している上級使用人程元となった人間の精神面が因り強く残る。
これに伴って現れる人間性は前世である人の記憶を多く踏襲する高位の使用人程顕在化し易く、逆に大して記憶を踏襲していない下位の使用人になる程に潜在化する。
これに加えて上級使用人達は意思の伝達を図る為に対話が許されており、こうした表現の自由度の高さが尚一層それを助長している。
それ故に上級使用人に関しては個体としての意思が存在する可能性はあると言えるのだが、証明対象が上級使用人だけではその数が少なくあの程度の個体数なら道化が何らかの手段でその様に偽装する事も難しくはないだろう。
そうなるとこれを証明するには上級使用人以外の獣人にもその行動に明らかな差異が見られるか否かとなる訳だが、それは私と関わる時間の長さや従事している作業の内容に大きく影響されており対象となる者が殆ど存在しないのが実情だ。
これまで目にして来た獣人を思い返しても印象を記憶している程に継続的な関わりがあった個体は上級使用人のみしかおらず、多数存在しているであろう大半の中級以下の者達は外見の差異が判らず個体の区別がつかない為、それらの場合同一の個体と複数回遭遇したかどうかも判断がつかず検証し難い。
そう思いつつ溜息交じりに何気無く視線を落とすと、目の前で今沐浴の作業を行う二匹の中級使用人に目を向ける。
このカトゥスであれば上級使用人に近い煩雑な作業を担っていて私と接する機会が多い上に、頭部の毛並みに個体差が生じ易く特定の個体の判別も容易だ。
それに鹿や狼や猪等の獣人と比べれば非戦闘要員なので非武装であるから、何かを仕掛けた際にこちらが被害を被る可能性が低い点からもかなり確認し易い対象と言えるのではないか。
そう思いつつ改めて目前で作業に従事する二匹のメイドを見ると今回応対しているのは単色の毛並みをした白猫と黒猫であり、その外見は背の高さもほぼ同様で何れも全く同じ衣服を着用し体形にも特に突出した特徴も無くやはり頭部でしか差異は見出せそうもないのだが、個体識別の際に肝要となる毛並みの特徴がどちらも単調でこれでは似通った個体が他に存在する確率が高く、対象とするにはあまり望ましいとは言えまい。
だが折角これ程近距離で観察出来る絶好の機会なのだから、何か今後の検証に役立つ有益な情報を得る事が出来ないかと思いつつ、目前で跪いて胸部を拭っている白毛の女中を改めて注視する。
頭の大きさは人間の胴体に合わせているらしく全面に亘って生える体毛の分若干大きく見えるが、実際の骨格は人間の頭蓋よりもやや小振りかも知れない。
こうして間近で見るまでは単にごく普通の猫の頭を巨大化させているのだと思っていたのだが、体毛の太さや密度の比率が人間の毛髪と大差ない点からしてそうではなく、どうやら人間の肉体の大きさに匹敵する骨格を持つ大型の猫の頭部を用いている様だ。
その一方で首から下の体躯や衣服に覆われていない四肢は人間そのものであり、その境目が一体身体の何処でどの様に繋がっているのかまでは確認出来ないが、着衣の起伏している箇所が腹部ではなく胸部のみである点からして恐らく頭部以外は人間なのではないかと思われる。
他に何か確認出来る箇所は無いかと再び頭部へと視線を戻した時、丁度それとほぼ同時にこのメイドが顔を上げ私と視線が交差し、白猫の女中は数舜動きを止めた後に目を見開き口を開き掛ける。
獣の顔は元来人間よりも表情の変化に乏しい上に、感情を露にする獣人は居ない為皆無表情であると思い込んでいたのだが、この白猫の顔からは明らかに驚きや怯えが表れていた。
極僅かな時間であったものの、そうした感情を見せた白毛の女中は直ぐに半開きの口を噤んで俯き作業に戻ったのだが、この時感情面以外でも大きな発見があった。
その際に私へと向けられた潤んだ瞳は宛ら滴り落ちた鮮血の雫を髣髴とさせる真紅の色合いをしており、このカトゥスが雑多で有りがちな毛色である単なる白毛ではなく稀有な白子である事が判明したのだ。
それが判って俄然興味が湧きその行動を注視し始めると、もう一人の黒猫の方と比べて作業の手際に差がある事に気づいた。
こちらの方が不慣れなのか全般的に作業が遅く要領が良くないのだが、とは言っても別段赤目の女中の動作速度自体が緩慢で鈍いと言う事でも無い。
それどころかどちらかと言えば必死に動いているのは寧ろこの白子の猫の方で、黒猫の方は良くも悪くも熟練しているらしく動きに一切無駄がなく淡々と熟している印象なので、対比として余計に目立つのだろう。
では何故その作業の在り方にこれ程の差異が生じているのかを観察すると、何かを手にしたり置いたりする時や私へと触れる際にその都度躊躇しもたつく傾向がある事から、どうやら白子の方は周囲の状況を把握し難い程の弱視なのではないかと思われた。
その様な不利な状況下に於いてその差を少しでも縮めようと必死に足掻きつつ、何か粗相を仕出かしてはいないかと言った不安から私の顔色を窺っていると視線が合ってしまい、何か失態を仕出かしてしまったのではないかと動揺し思わず声を発しそうになった、先程の一件はざっとこんなところであろうか。
咄嗟に何かを言い掛けたが直ぐに口を噤んだのは、私が上位の者達への発言を認められていないのと同様に他の使用人も許可の無い発言が認められていないと言う理由からだろう。
これが推測通りであるならばこの能力の劣る赤目の女中の存在は、私の提唱する仮説にとって非常に有益な証明になると確信する。
女中として求められるのは要求された雑務を速やかに完遂する事であり、そういう意味ではこの稀有なメイドは劣っている事になる。
獣人が全て単なる操り人形であるならば、命じられた動作を実行するだけでその作業状況を考慮して動作を変える事などせず、その個体の可能な処理速度を粛々と維持し続けるだけであろう。
何故なら機械の様に操作されているのであればそこに自身の意思が介在しないのだから、その動作に対する成果で態度が変わる事も無いからだ。
だが実際にはこの二匹のメイドからは業務遂行と言う行動に伴う感情が表出していると言える、劣った作業能力故に低い評価を免れず焦りを禁じ得ない白子の女中に対して、その逆に白子よりも優れた対応で高い評価を得られると確信しているが故に精神的な優位性を得る事から来る余裕を滲ませる黒毛の女中と言う様に。
今までは大して気にしていなかったので全く考えもしなかったが、多くの使用人を目にして来たにも関わらずこういった点に全く気付きもしなかったのは、単にそういった観点で注視してこなかったと言うだけではなく、あの“ラプラス”の恩恵に因る変化が生じ始めている証のひとつと捉えるべきか。
それとも多くの使用人を目撃する機会の殆どが道化の御前である事から、そこでは最も優れた者だけが存在を許され対応していたのでこうした差異が露呈せず判らなかっただけなのか。
いずれにしても現状に於いてこうした存亡を懸けた同種内での優劣の比較は常に行われているのかも知れず、改めて考えると地下牢獄に居る鼠の牢番や狼の獄吏等でさえも卑賎な職種の割に皆忠実な働きをしていたのも、それが理由だとすれば説明が付く。
こういった競争原理がある理由はやはり職務に対する評価とそれに対する処遇があるからで、兎頭の時計職人達の大量処刑も単なる道化の気晴らしや腹癒せではなく全獣人への見せしめの意味を含むもので、道化の意にそぐわぬ者や不出来な者を粛清しているとすればこれは強迫観念に因って支配された恐怖政治そのものであろう。
それ故に獣人達には罰や処刑を恐れる意識を持ち合わせていると言える事から、彼等は単なる操り人形ではないと帰結する事が出来る。
尤もそこまでを含めて一切合切を演出していたとすればこの仮説は覆されるが、そんな面倒極まりない不毛で無益な演出をあの道化が態々仕込むとは思えないしそこまで労する価値も見出せず、強いて行うとすれば精々道化自身の自己満足くらいしか思いつかないがそれが絶対に無いとも言い切れない。
これ以上の核心を掴む為にはどうしても獣人自身の証言を得る必要があり、現状でそれが可能なのは私との対話が許可されている上級使用人のみに限られるのだが、それらは私の様な者と直接関わる立場であるが故に余程完全な洗脳を受けているのか皆付け入る隙など全く見せない。
だとするとやはりそれよりも隙がありそうな中級以下から対象を選ぶべきなのだがそれだと意思疎通の弊害が生じてしまうと危惧した時、以前に執事から受けた説明を思い出した。
当時はそれどころではなくて聞き流していたのだが、確か簡単な言葉であればカトゥスは理解出来る様な事を言っていた筈でそれならばこの赤目の女中は丁度良い相手であり、この機会を逃すと次にいつ好機が巡って来るか判らないのだから今こそそれを確認する絶好の機会だろう。
何か不自然にはならずに確認する方法は無いかと早急に考えた後、丁度良い手段を思い付き早速実行に移す。
私の身体の前方を担当している白子の女中が右脇腹辺りを拭い始めると背中側を担当する黒猫が手を離す時を見計らい、以前にセルヴスに斬られた傷跡の辺りに掛かったところで私は少々大げさに苦痛の声を漏らしつつ身を捩らせた。
実際にはもう傷は完治しており触れられても何ともなく完全な演技だったのだが、メイドは私の声よりも動きに反応したのか少し遅れて充てがっていた手を引くと素早くこちらを見上げた。
完全な猫の顔でありながらそれと判る露骨な程の驚愕と動揺の表情を浮かべつつこちらを見つめる白子の猫へと、傷の辺りは痛みがあるので力加減をする様に要望すべく語り掛けると、メイドは私の顔を瞬きもせず食い入る様に見つめていたのだがその視線は目線よりも若干下へと向けられているように感じた。
そして私が語り終えると数秒の後にそれは了解の意であったらしく深々と頭を下げてから、今度は脇腹の傷の周辺を慎重に拭う度にこちらの顔色を窺っており、私はそのやり方で問題ない事を伝えるべくこちらを見上げる赤目のカトゥスへと無言で頷き返すと、それは危機を脱した安堵からなのか白猫の表情は微かに緩んだ様にも見えた。
これに因り意思の疎通が図れる事も確認出来たので、次の段階としてこちらからの問い掛けに対して明確な意思に因る返答が可能なのかを確認したかったが、この状況下でそれを証明出来且つ不自然とならない問答がなかなか思いつかない。
執事が傍にいる状況で全く関係の無い対話をすれば流石に怪しまれるであろうから、残念ながらこの辺りが現状で確認出来る限界であろうか。
再びこのメイドが私と接する機会を考えると朧げな過去の記憶を手繰ってもこの女中を以前にも見た覚えは無く、現状でメイドと関わる主な機会は召喚の儀式の際のみとなり遭遇率は相当に低いと言わざるを得ない。
何か継続的に関わる事を可能とする手段があれば良いのだが、それに関して今の私には何の策も権限も無いのでこればかりはどうしようもない。
今後はこの女中の様な者を他の獣人でも見出して因り多くの検証結果を得ると共に、あわよくばこちら側に引き込めると理想的だ。
道化に近づける近衛兵やメイド等に造反者を潜り込ませる事が出来たなら好機を得る機会が増やせるであろうし、獄吏や看守に内通者がいれば無為に過ごすしかない幽閉期間も様々な活動が可能となるかも知れない。
だがこうした仕込みを行うには大きな問題がある、この『ディオニシウスの骸』と言う強大な監視者の存在だ。
独房の天井には見るからに悍ましい巨大な口や眼が付いているが、これまでこれらが具体的に何かをして来た事が無いので恐らくあれは脅しの為の仕掛けであって、それよりも厄介なのは目立たない様に皺や窪みに偽装された小さな目や耳の方であろう。
これまでそういった物の存在を確認出来てはいないが、それらをあちこちに埋め込んでおくだけで強力な監視網が敷けるのだから、あの人体改造を得意とする狡猾な道化が仕込んでいないとは思えない。
仮にそうした監視の目や耳の対処方法を見出せたとしても、使用人にしろ私自身にしろ鳥ではないので空は飛べず行動の際には必ず床を踏まざるを得ず、忽ち誰かがそこに存在している事や移動しているのが必ず感づかれてしまう。
下手をすると空を飛べたとしても、飛行する際に羽ばたきに因り発生する不自然な気流を天井や壁や床が感知する可能性もあり得る。
なので何を仕掛けるにしても、先ずはこの生ける館自体を欺く手段を用意しておかなければ直ぐに発覚してしまう事になる。
これについては私があれこれ思い悩むより前に銀木菟の意見を聞くべきであろうか。
そう結論付けたところで手間取っていた白毛の女中の作業も完了し、私は新調された衣服へと着替えさせられ沐浴を終えると黙礼する二匹の女中を残し執事達と共に浴場を後にした。
『聖ディオニシウスの骸』四階、謁見室。
もう既に感づいてはいた事だが今回の儀式が今までと異なるものであるのが、この見慣れた部屋に入った瞬間明確となった。
通常ならば道化以外でこの部屋に居るのは付き添ってきた一行を除けば王の警護である近衛兵達と金貨回収を行う使用人の女中程度なのだが、今回はそれら以外に予告通り白衣を着た駱駝の医師であるカメルスの姿があった。
そして普段であれば私が引っ立てられる場所である“ジェスター”が座る玉座の前に、これまで一度として見た事の無い醜悪で胡散臭げな二つの蠢く物体が鎮座していた。
一方はその外観からして私が座らされる椅子なのであろう事は直ぐに判ったが、その形状は着座した後に起こる事態が只ならぬのを体現しているものであった。
それはこの高層階の調度品としては全くそぐわない人間の四肢を組み合わせて作られた物で、成人の半分程度しか無い随分と短足な二対の脚で四足獣の様に自立している。
座面は腿を並べて構成され背凭れや肘掛は腕を連ねて出来ているのだが、これらの部分の着席者が接する面だけは平面を出す為なのか肉が削がれており皮下組織が剥き出しとなっている。
それだけでも十分に悪趣味な人間椅子だと言えるのだが、より一層それを助長しているのが肘掛や背凭れから椅子としての機能に関係無い複数の腕が十本以上放射状に生えている事だ。
その余剰な部位が単なる悪趣味な装飾であろう筈も無く、何らかの機能を有している証拠にそれらはだらりと下ろされながらもどれもが僅かに揺れ動いており、その効果は座した者を拘束するものであろう事は容易に想像出来た。
更に座面の下に当たる部分には大きく膨らんだ赤黒い袋状の部位があり、それが脈打つ様に定期的に震えているのも不気味さに拍車を掛けている。
だがそれよりも更に不安を掻き立てるのがもう一方の物体で、こちらはまるで巨大な葡萄の房を逆さにした様な形状なのだが、そこに鈴生りに生っているのは果実ではなく二十個以上もの人間の脳だ。
その脳には硬膜や頭蓋骨等は無く完全に露出した状態で長い針が何ヶ所にも突き刺さりその針の頭から白い糸が繋がっており、それは他の脳に刺されている針へと多角的に繋がり合い蜘蛛の巣が掛かった様な様相を呈している。
脳の生る木と言うべきこの代物は八方へと伸びた四対の足に因って宛ら蜘蛛の様に低い姿勢で自立しており、四つの腰が結合した中心部からは白い紐の様な物が生え出てそれが腰の上の胴と言うべき部分に巻き付けられ、今正にその紐を二匹のカトゥスが二人掛かりで解いている様だ。
先の椅子よりもこれの方が強い不安を覚えるのはその外見からどの様に用いられるのかが想像出来ないからであり、それ故にどうしても医師とメイドの行動が気に掛かって仕方がないのだが、その反面私の想像を超える様な悍ましい用途である事が判明するのを本能的に恐れて目を背けたい衝動も同時に感じている。
そんな相反する感情に揺さぶられながら注視していると、それを察したかの様に介添えして来た馬の執事が口を開く。
「猊下、これより陛下がお出でになりますので、少々お待ち下さい。
それとその後の儀式に於かれましてもこれまでとは異なる手順で行いますので、それについては医師のカメルスからの指示に従って御対応頂きたく存じます」
そう告げ終えると一礼の後直ぐに部屋の奥へと向かったカバルスの言葉は、口調こそ至極丁寧だが結局のところこれは強制的に行われる処置であり、それが安易には受け入れ難い内容であるのはあの準備された醜悪な器具を見れば一目瞭然なのだが、その態度がこちらに拒否権が無い事を告げていた。
嘗て駱駝の医者が私と関わったのは右腕と脇腹を斬られた時以来であり、この器が致命的な状態になった時以外には対応していない点を踏まえると、これが命に係わる程の危険性を孕んだ処置なのを現していると言う事か。
事前に銀木菟より忠告を受けていたとは言え、いざこうして目前に未知なる脅威が顕在化して来るとやはり平常心を維持し続けるのは難しく戦々恐々とした心境でいると、その後暫くして馬頭の執事を引き連れて道化が入室する。
それを目視し確認した使用人達が次々と臣下の礼を取り頭を垂れる中で私は近衛兵に小突かれて跪かされ、道化の王はその様子を仏頂面のまま横目で睥睨しつつ玉座へと歩みを進めており、それに反してこの場に居合わせた道化以外の全ての者達が動きを止めている。
前回道化と対話した際には確か妙に上機嫌であったと記憶しており、その理由は“嘶くロバ”を捕らえるこの機会を得たからだと思っていたのだが、想定と異なりその時が正にこれからと言う状況でありながらそうした浮かれた様子は微塵も無い。
程無く玉座へと到達して腰を下ろし踏ん反り返った道化は、いつも以上に勿体ぶった態度で徐に語り始める。
「忠実なる我が勅使よ、此度の召喚ではあの忌々しい反逆者である『儀典の悪魔』の残党と遭遇し戦う状況となるであろう。
そこで然るべき時を経て余自らがそちと入れ替わり、余の力で以てこの手であの逆賊を打ち倒し捕らえる。
余がそちと入れ替わるまでの間戦いを引き延ばし耐えよ、それが今回そちに課す勅命となる。
尚今回に限り金貨の収集は考えずとも良い、最も重要なのは出来うる限り損傷が少ない状態で余に身柄を明け渡す事だ、それを肝に銘じよ。
勅命は以上だ、儀式の準備に入るが良い、準備が整い次第儀式を開始する」
珍しく自身の口で多くを語った“ジェスター”がそう告げ終えると使用人達は黙礼の後に再び動き出し、馬の執事は玉座の脇に用意されていたワゴンから例のワインを手に取り二つのグラスへと注ぎ始めた。
一方カメルスはカトゥスを一人連れて人間椅子の所へ移動し背面に回り込んで椅子に対して短く言葉を発すると、椅子はその場で足踏みしつつ向きを変え玉座に正面を向けた位置で再び停止する。
それで椅子の方の準備は整ったらしく駱駝はこちらを向いて手招きし、ここに連行して来た二匹の鹿の近衛兵がそれを確認すると両腕を掴まれ否応なく進まされ、人間椅子の傍らまで来ると呼び寄せられていた女中が私へと近づき着衣を脱がす。
こうして全裸にされると近衛兵に着席を強いられ、本能的に反応してそれを拒むが二人掛かりで押さえ付けられては全く叶わず数秒と持たずに人間椅子に座らされると、それが契機であったらしくこれまで脱力していた全ての腕が私を掴み押さえ付けるべく素早く動いた。
背凭れの側面から生えていた腕は私の胴体を締め上げる様に両腕で押さえ込み、肘掛の脇から生えていた腕は私の腕を掴み肘掛に引き付け、背凭れ上部から生えていた腕は私の顔や後頭部を四方から押さえ付けてくる。
それと同時に椅子に直接接触している皮膚の部分から、非常に細かな無数の密集した針が食い込んでくる様な極めて微細な痛みを感じ始め、これまでにない何とも言えない不快な感覚に見舞われる。
あまり経験した事の無い痛みの方に意識を奪われつつも、拘束されるであろう事はこの椅子を目撃した時点で想像出来ていたが、拘束の具合が想定していたのと少々違っていて違和感を覚える。
目視出来ないので確証は無いのだがそれは頭を押さえている腕の数で、感触からすると生えていた本数よりも少ない様に感じるのだ。
それはつまり私の身体を拘束していない腕が有る事になるのだが、道化の用意した代物が単に不具合で機能していないと言うのは考え難く、何か別の用途があって待機していると捉えるべきだ。
余っている腕が担う行為とは一体何なのかと言う新たな脅威に苛まれていると、医者が私へと声を掛ける。
「猊下、本日の施術はこのカメルスが行わせて頂きます、先ず口をお開き下さい」
ここで逆らったところで拘束されているのだから時間の無駄であろうと観念し言われた通りにすると、背凭れの高い位置から生えていた左右一対の腕が前へと伸ばされる。
その両腕は一本の大腿骨らしき大きな骨の両端を握っており、顔の前辺りで水平に構えると私の口目掛けて確りと押し付けて来る。
どうやらこれは猿轡らしく、頭を押さえ付けられているこの状況では一度確りと押し当てられてしまっては外し様もなく、これに因り声を発する事すら出来なくなった。
その様子を無言で確認してから椅子の後ろへと戻り今度は細い紐らしきものを手にした駱駝の医師は、私の額辺りの高さにその紐を慎重に宛てがい這わせつつ一周し再び背後に回り込む。
この後何をされるのかと身構えていると、今度はこちらに来る事無く背後から言葉を発した。
「ではこれより開頭手術を始めます、万全を期してはおりますが手元が狂う可能性がありますので、極力動かれない様にお願い致します」
何気無い事柄を告げる様に淡々と放たれた警告と思しきその一言は、薄々感づいていたとは言え私が想定していた中でも最悪の展開であった。
この肉体は言わば道化に因って作られた器なのだから、何かをされるとすれば精神的に影響を及ぼすものであろうと想定しており、物理的な侵襲を被るとは考えていなかったのだ。
確かに私自身もこの着ぐるみじみたふざけた巨大な頭の内側が一体どうなっているのかと興味を抱いた事は無くもないが、それを絶命の危険を冒し直接解剖してまで確認したいとまでは思っていない。
だがこちらの意志に於いて現状を回避する術は無く、私が望むと望まざるとに関わらず淡々と施術は開始され、頭部に巻き付けられた紐に張力が掛かり始める。
この紐には麻酔能力でもあるのか或いは恐ろしく切断能力が高いのか、皮膚に食い込み切り裂く苦痛は予想外に小さくその微かな痛みからすると大した傷ではなさそうなのだが、切創から止め処なく溢れ始めた出血量は想像以上であり寧ろその流血の方に動揺を覚える。
感覚から察するに鋭利であるが故か表皮から容易く頭蓋骨にまで到達した紐であったが、大して苦痛を感じずに済んだのはそこまででこれからが本当の恐怖の始まりであった。
それまで只頭部を締め付ける様に引っ張られていた紐が、左右へと交互に引き動かされ始めたのだ。
巻き付けられた紐は鋸を挽く様に頭蓋骨を外周から削り、その地響きの様な不快極まりない微振動が脳を小刻みに揺さ振り続ける。
ゆっくりではあるが着実に頭蓋骨を削り食い込む紐にはそれ相応の張力が掛かっており、削り進めば進む程に脆くなるであろう頭蓋骨が不意に砕ければ脳の損傷は免れず、もしそうなった場合道化が作り出した器とは言え生身の肉体として存在している状態である今の私が無事で済むとは思い難い。
これは以前に鹿の近衛兵に腕を斬り落とされた時以来の命の危機を覚えるがこの状況で私が講じられる策は何も無く、こうなってはもう駱駝の医者の腕と醜悪な道具の精度を信じる他に道は無い。
物理的に脳を潰され兼ねない自身を掘削され続ける恐怖のあまり肉体的苦痛を感じる余裕すら無い中、紐が脳へと近づいた証なのか心做しか徐々に脳への共振がより明確になっている様に感じて、その変化に応じて恐怖が増長し鼓動は早鐘の如く早まり続ける。
そしてこの緊張が頂点に達した時紐の動きは止まり、紐を引いていた手が緩められたらしく頭を締め付ける圧力からも解放され、少なくとも目前に迫った危機は脱したらしいと安堵する。
その後錆猫のカトゥスが私の頭から慎重に食い込んでいる紐を引き抜くと、最後は医師自らの手で処置を行うらしくもう一方の灰猫のメイドが小さな鑿と木槌をカメルスへと手渡している。
駱駝頭の医者は鑿の刃先を私の頭の傷に沿って充てがうと木槌を用いて一定の間隔で叩き始め、その都度衝撃を感じていたのだが数回叩くと微かに異なる感覚が頭部に走る。
その感覚をこの医者も判っているらしく私が違和感を覚えると同時にそこで叩くのを止めては別の場所を叩き始め、場所が変わる毎にこの感覚は増大すると共に頭が浮き上がる様な感覚を覚え、そうして数か所これを繰り返すと最後に乾燥した枝を折った様な音がした。
それは頭蓋骨が完全に割れた音でありこの後直ぐにこれまであった頭部の妙な浮揚感が消えていくのを感じ、直接視認こそ出来ないがそれは恐らく頭蓋骨が取り外されたからだと悟った。
こんな状況ながらも、自身の頭の中がどの様になっているのかも気に掛かる。
巨頭ながらも頭蓋骨があった点からして通常の人間と同様の内部構造で作られていたらしいが、内部も巨大な頭部に比例しているのかそれとも通常の大きさであった胴体に準じていたのかといった詳細は認識し様が無く判らないままだ。
それならば執刀医の様子を見れば表情や態度から何か判るかも知れないと思い、次は脳硬膜を切開するらしく右手にメスを持って現れた白衣の駱駝を見るが、残念ながら完全な無表情でそこからは何も読み取れない。
そんなカメルスは私の頭の天頂部にメスの刃を当てると下へと切り始め、それに合わせて膜の破れ目からは脳漿と思しき透明な体液が溢れ出て流れ落ちていく。
だがそれは今尚延々と続く頭部の流血と比べると一過性で頭蓋骨の切断箇所まで切開したところで流出は収まり、その後もまた別方向へと脳硬膜を切開するがもう流れ尽きたのか脳漿の流出は殆ど無く、開頭時と同様に執刀の腕が良いからなのか脳硬膜切開に因る痛みも又それ程感じないものの、出血の所為か徐々に悪心や眩暈を感じ始める。
この様にして計八回程脳硬膜を切開すると次はメスをピンセットに持ち替えて八等分された膜を開き始め、前頭葉側の膜が私の目の前に垂らされて白い膜が視界の上部に入り込むが特に対処も無く、やがて八葉全ての膜が開かれた。
ここまでは未だ準備に過ぎず寧ろここからが肝要なのだと強く念じ、意識が揺らぐのを堪えながら次に如何なる処置が為されるのかと様子を窺っていると、駱駝の医者はピンセットを猫の女中に手渡してから再び椅子の裏へと回り込む。
そして再度戻って来たカメルスは先程開頭に使用した紐よりもやや幅の或る白い紐の束を手にしており、それは一本ではなく複数本を束ねている物でそれぞれの紐の先端は長い針になっているらしく、医者の手から垂れ下がりゆらゆらと寄れ動いている。
それは先程脳の木に巻き付けられていた紐に違いなく、この状況から考えるとここまでの処置はあれを私の脳に突き刺す為だったのが明らかとなった。
物理的な脳への侵襲を伴う行為が行われた場合何が起こるのか全く想像が出来ず、これまでに無い不安と恐怖に苛まれる。
そんな未曽有の脅威に戦慄する私の事など全く意に介す素振りも無く白衣の駱駝は粛々と準備を続けており、紐の部分が絡まない様に慎重に一本目の針を束から抜き取るとこちらへと近づき、目の前まで迫ると針を持つ右手を私の頭上へと掲げてから数舜止めた後に再びゆっくりと動き出す。
その位置では私の視野から外れていて今は医者の二の腕くらいまでしか見えておらず痛みも一切感じないが、それでも徐々に下げられる腕の動きからして今正に針が脳へと突き刺されているに違いなく、それは時間にすると数秒程度であったろうがそれよりも遥かに長く感じた。
こうして一本目の処置が終わると続いて二本目の準備に入り、その後もカメルスは手にしていた十本以上の針をほぼ一定の速度で突き刺し続ける。
刺される度に極僅かずつながらちらつきや雑音が割り込み出してそれは本数と共に連動して増長し、次第に見た事の無い断片的な見知らぬ残像やこの場では聞こえない筈の突発的な雑音へと変化し、更にそれらは多重化してゆく。
この不快な症状が意味するのは他者の記憶の混入から生じた意識の混濁であり、それは恐らく脳の木の生成の際に頭部の部位を接収された人間達のものなのであろう。
そこに失血に因る視界の暗転や揺らぎが加わり、座っている筈なのに上下左右に揺さ振られ回転し続けている感覚に襲われ悪心に満たされる。
その間に道化も準備に入ったらしく、こちらと同じ様な紐が繋がった人間の顔の仮面じみた物を駱駝の医者から渡されそれを自身の顔に付けている様に見えたが、それが本当に現実であったのかどうかすら判らない。
そこまでが私の精神の限界であったらしく、遂に完全に前後不覚に陥ったところで意識を失った。
「ねえねえ、いつまで寝ている気なの? もうそろそろ出番だよ! さあさあ起きた起きた!」
普段では全く考えられないそんな軽妙な台詞が、いつも尊大な口調でしか語らない筈の耳障りな甲高い濁声で聞えて来た事に驚き、目覚めると共に反射的に身体を起こしつつ即座に後退る。
この声は間違いなく道化の王であったがその口調はまるで別人だ、だが私はこの声の主と嘗て遭遇している。
「おやおや、随分と元気なお目覚めだねえ、実は寝たふりしてただけでずっと起きてて僕の事からかってたの? 君もなかなかやるねえ」
その時もこんな周りには何も無い虚無の空間でそれと出会っていて、その者は二本角の三角帽子を被り道化師の姿をした小太りの小男で、自らを“クラウン”と名乗っていた。
「ではではそんな愉快な冗談を仕掛けてくれたお礼に、またこれをあげるよ、ちょっと重いけどちゃんと受け取ってよ? じゃあ投げるよ? せえの!」
そして“クラウン”はその時、私目掛けて“嘶くロバ”の首を投げ付けて来たのを思い出し、無意識に体が反応して私は即座に後ろへと飛び退く。
「……なあんてね、“嘶くロバ”の生首が飛んで来ると思った? 冗談だよ冗談、冗談に決まってるじゃん!」
その言葉通り実際には何も飛んでは来なかったし私は飛び退いてすらいなかった、正確には飛び退ける筈が無かった。
何故なら今存在しているこの場所に於いて、私は肉体を保持していなかったからだ。
それは“クラウン”も同様でその姿は何処にも無く呼び掛けられた声は思念だったのだが、どうやら当時の記憶が蘇って生じた動揺から正常な判断が出来なかったらしい。
「そんなのちょっと考えれば気付くよね、だってそれはこれから取りに行くんだから!」
そう言うと“クラウン”は堪え切れないと言った様子で、小馬鹿にした様な酷く楽し気な含み笑いを漏らす。
嘗て“嘶くロバ”の首を投げ付けた道化師“クラウン”は私へとその先の未来に起こる事柄を語り、それは王を演ずる宮廷道化師“ジェスター”の下で全て現実となった訳だが、今回も前回と同様にその言動を予言として実現させる心算なのだろうか。
それにしても、この境遇に陥る前まで“嘶くロバ”に囚われていた場所と非常に良く似たこの空間は一体何なのか。
その疑問を抱くとほぼ同時に、こちらの意識を読み取っているかの様に王ならざる道化師の声が聞こえて来る。
「もしかしてさあここが何処だか判ってない? ここはね“嘶くロバ”が作ってた虚無の空間を真似て作った場所さ! どっちかって言ったら君にとっては懐かしいって感じ?
まあこっちはあれとは違って実体を作り出せないから、“嘶くロバ”の首を持ってても前みたいな事は出来ないから安心してよ!
この空間の本体は君の横にあった八本足の脳味噌のやつさ、あの中に君の意識を吸い込んで閉じ込めているんだよ。
でもこれは人間の脳を弄って作ったやつだからすぐに壊れちゃうとは思うけど、多分“嘶くロバ”を捕まえて来る間ぐらいは大丈夫、君がもたついたりしくじらなければの話だけどね!」
それは己にとっても不利益である筈なのに、然もそれを期待しているかの様な嬉々とした声色で姿無き道化師は語った。
どういった仕組みかは判らないがここはあの脳の木の内に構築された空間と言う事らしいが、簡易的なものであれば意識を拘束する容器と言うのは案外簡単に出来てしまうものなのか。
善く善く考えると“嘶くロバ”の虚無の空間も“ロゴス”の『深遠なる叡智』も、その精巧さこそ違えども何れも外界から隔絶された精神世界である点は同様であり、そういう意味では根本的な原理は皆同じなのかも知れない。
この空間についてはともかく、何故わざわざ道化はこうした衣装替えをして多重人格じみた別人を演じているのだろうか、この行為にどの様な意味があるのか非常に不可解だ。
現状考え得る範囲内で推測してみると、自身の世界に於いては王として振る舞い外界に出る時には純然たる道化師になると言う事らしいが、この様な変身をしなければ外界に行けない呪縛めいた制約でもあるのか。
若しかすると本当に装っているのではなく、双子や兄弟等の別個体である可能性も無いとは言い切れないが、残念ながら今はそれを解き明かせるだけの時間も情報も無いと断念したところで再び“クラウン”の声が響く。
「おっと、そろそろ準備が整ったみたいだよ、ちゃあんとお役目果たして来るんだよ? そうじゃないと許さないんだから! じゃ、頑張ってね!」
王ならざる道化師の癇に障る声を契機にして、私の意識は再び途切れた……




