第二十七章 反魂 其の一
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私は天地が逆転したかの様な遥か眼下に無数の瞬く星屑が広がる暗闇の中にいる。
そんな倒錯した星空を見下ろしていると、これまでに無く強い閃光が生じると共に自身の周囲も眩い輝きに包まれる。
目も眩む様な煌めきに満ちた私は、流星宛らに凄まじい速度でその閃光目掛けて墜落していった……
脳裏に焼きつく様な光の残像と落下の加速感が消え去った静寂と暗闇の中で目覚めた私は遥か上空を漂っており、視界の変化からしてどうやら緩やかに降下しているらしい。
周囲には標高の高い山々があり麓には裾野を覆う緑が広がっている様子からすると、どうやらこの一帯は人里離れた雄大な山脈に連なる森林地帯といったところか。
山の頂は雪で覆われているがそれは頂上付近のみであり中腹より下に雪は見られない点からすると、この地方の気温はあまり低くないのか或いは寒冷期ではないのかの何れかであろう。
この高度では遠過ぎてそれ以上の詳細は判らないが、暫らく俯瞰しているとそこは細く長い渓谷に因って二つの森林地帯に分断されているのに気づいた。
そしてその隔てられた二つの森林は至近距離でありながら生態系が異なるのか微妙に色彩が異なるだけでなく、私から見て上方に当たる方からは非常に大きな何らかの気配を感じる。
それが何なのかを確認すべくその謎の気配のある方へ向かおうと試みるが、この器は意識的な移動も儘ならないらしく自発的に移動する手段が見出せない。
更にどうやら実体を具有しない存在らしくあらゆる方向に視線を向けても己の器の姿が見えず、肉体を保持している感覚も全く無い点からしてもそれは間違い無い様だ。
肉体が無いのだから当然発声も出来ないのでこうなると周囲に影響を及ぼす事が可能な残る手段は思念くらいだが、それは何か意思疎通が可能な生物が近づくまでは確認出来ない。
それならばと糧の状況を確認したところ、今回はこれまでに無い流入の仕方をしているのに気づいた。
通常はそれがせせらぎの様なか細く僅かな量なのか洪水の様に膨大な量なのかといった違いはあれど、糧のある発生場所から私の器へと向かって河の流れの様に流入して来ると言う点は一致している。
だが今回の糧にはそういった意味での流れが感じられず、まるで私自身が糧の中にいるかの様に全方位から浸透しているのだ。
より感覚を研ぎ澄ますと、糧はほんの僅かながら上方から非常にゆっくりとこちらへと押し出される様に迫って来ているのが判った。
やはり向こう側には何かがあるのは間違いないが、能動的な移動が出来ないのでこれ以上は確認が出来ない。
こうなると取り敢えずはこの器が引き寄せられている地点まで辿り着くまで待つしか無いと諦めて、私は木葉が舞い落ちるかの様にゆっくりとした降下に身を任せつつその時を待ち続けた。
思いの他時間が掛かったが漸く地上の様子も仔細まで見えるところまで降下して来ると、てっきり目的地は曰く有り気な上方の森かと思っていたのだが意外にも逆側の下方の森であった。
高高度からの俯瞰では気づかなかったのだが二つの森林地帯にはかなりの高低差があり、森林部分の落差は優に100mを超えている事も判った。
更にその落差に匹敵する程の幅で広がる渓谷は地割れが広がって形成されたもので、その深さは地表部分の落差を優に超えており徐々に狭まっていく深い亀裂には光も届かず底が知れない。
私が意図せず目指しているのは、その渓谷に即した下方の森林地帯の外れに位置するこの一帯で唯一開けた場所であった。
そこは嘗て森を切り開いて建設された古い石造りの建造物の跡地らしく、岬の様に突出した平野部とそこから広がる森とを別つべく扇状に弧を描き連なっていたであろう高い石壁が至る箇所で崩れかけているものの未だ辛うじて原形を留めている。
そして弧の丁度中間に当たる部分はこの朽ちた石壁で唯一途意図的に途切れている箇所であり、この立地から考えるとそこに唯一の出入り口となる門扉が設置されていたであろうと推測出来る。
渓谷を見下ろせる断崖に建っていたであろう建造物の方は完全に崩れ落ち巨石が積み重なっているだけの瓦礫の山と化しており、嘗てどの様な形状であったのか全く判らない。
だがそんな状態であっても尚かなりの高さがある事から随分と高い建物であったと推察出来ると共に、その巨石の殆んどが草木に覆われている点を踏まえると相当に長い歳月が経過している点も間違いあるまい。
それに対して瓦礫の山の前方に当たる平地の広場だけは整地されており、住居として機能している真新しい建造物も幾つか立ち並んでいてそれらは三ヶ所に分けて建てられていた。
廃墟側には遊牧民が用いる様な半球型をした亜麻色の天幕が同心円状に等間隔で並んで張られており、その中心には周辺のものと比べてかなり巨大で異質な天幕が聳えている。
それは一辺が2m程度の正六角錐の形状をしており、他の天幕と比べると高さは三倍以上もあり奥の瓦礫の山と変わらない程だ。
側面に張られた織物の幕には複雑な文字にも見える入り組んだ模様が隙間無く描かれ、頂点に当たる上部は閉じておらず吹き抜けになっていて1m程の穴が空いている。
更に他の一般的な天幕の周りには雑然と大小様々な荷物や荷を載せた荷車等があるのに対し、この大天幕を中心とした周辺だけが何ひとつそういった物は無く綺麗に整地されていて、動線となる出入り口前以外には何色もの色砂を用いて図形や文字が規則的に描かれていた。
そうした大小の天幕群に対して城門跡近くの外壁に即した場所には、これらとは明らかに文化圏が異なる二階建ての大きな丸太組の建物二棟が門楼宛らに外へと繋がる道を挟んで建っている。
その建物の両隣には左右合わせて二十頭以上もの体格の良い大柄の馬が馬留めに繋がれており、更にその先には荷台に多くの荷物が積まれた十数台の荷馬車が並んでいて、荷馬車の手前側が荷物の仕分け場となっているらしく様々な大きさの木箱や麻袋が分類されて山の様に積み上げられていた。
そして丁度天幕群と二棟の丸太組み家屋の中間に当たる広場の中央には小さな丸太小屋が四棟並んでおり、その近くには四頭立ての幌馬車が一台停まっている。
これだけの住居や荷馬車があれば当然そこにはそれらを扱う相応の人間達も徘徊しており、彼等も又建造物の種別に準じて大きく二分していた。
ひとつは天幕の近くにいる者達で彼等は凡そ文明的とは言えない特徴的な未開の容姿をしており、その中でも三種類に分類出来た。
最も際立っていたのは何も身に着けていない全裸姿の六人の成人の男女で、彼等には人種や年齢等の統一性は一切無いのだが非常に目を惹く共通した特徴があった。
皆露出している肌の大半に幾重にも分岐した細長くうねる黒い刺青が描かれている点で、それ以外にも程度の差はあれども肉体の色味が全体的にくすみ黒ずんでおり状態の悪い者になるとまるで死体が動いているかの様な印象を受ける。
彼等の役割は人夫らしく大半が荷物運びや荷車を引く等の重労働を行っているのだが皆一様に目は虚ろで表情が無く動作も緩慢且つ断続的で、振り子の様に左右に身体を揺らしながら歩くその様は宛ら不器用な人形師が操る下手な操り人形の様だ。
一部の者は仕事が無いのか休憩中なのか判らないが、特に何もせずに只立ち尽くしているばかりで不規則に身体を揺らし続けているだけなのも、そういった異質な印象を増大させている要因であろう。
そうした怪しげな者達を操っているのが、微妙に色合いの異なる生地を重ねた様な頭巾の付いた緑色の長衣を纏う九人の長身の者達だ。
衣服に覆われて殆んど身体が見えないがどうやら白色人種の様で、時折見える手は白く頭巾の脇から垂らした髪は直毛の金髪でかなり長く伸ばしており、短い者でも胸元辺りまで達している。
皆一様に長身の割には痩身で更に骨格も華奢らしく、ゆったりとして見える長衣を纏っているにも関わらず細身に見える。
この痩躯な緑衣の者達がこちらの集団に於ける支配者らしく、先端に何かが付いている短い棒の様な道具を用いて指図すると言うよりもそれを使って人夫達を操っているかの様である事から、どうやら何らかの超自然的な能力を持つ術者に思える。
そんな術者の中でもその手に背丈を越える程長い杖を持つ三人は他の者達とは異なっていて、頭巾から垂れる毛色は白くてより長く腰が曲がっている為に猫背で背が低い様子を考えると、明らかに他の術者達よりも高齢らしい。
彼等老術師達は作業には加わらず大天幕の直ぐ脇で終始協議をしており、その最中にも他の術者が歩み寄り話し掛けられる度に短い対話を交わしてはその都度何らかの判断を下し指示を出しているかに見える事から察するに、彼等はこの集団に於ける上位の存在であるのは間違いあるまい。
彼等の他にも全身を覆っている服装と言う点では同様ながら、その容姿は全く異なる者達も居た。
それは長身の者達と比べると半分程の背丈しかない六人程の小柄な者達で、彼等は皆頭部まで覆う特徴的な形状の茶色い衣服を纏っている。
その服は樹木から剥いだ樹皮を細く裂き編み混んで作った二枚の荒目な正方形の大布を三つの角以外を縫い合わせて閉じ、唯一閉じた角を上にして頭から被り目に当たる部分を刳り貫いただけの極めて単純な構造をしたものだ。
それは着用者の体格とほぼ同じ大きさに作られている様で手首や足首辺りまで覆われ、服から出ている手足には包帯なのか衣服と同様の素材で作られた細い布が隙間無く巻かれており素肌を完全に覆い隠している。
そんな奇異な身形をした小柄な彼等は先程のほぼ全裸の者達とは異なり、中央の大天幕から少し離れた場所で身を寄せ合い何をするでも無く膝を抱く様に腕を組み背を丸めてじっと座っている。
その様子から察するに何らかの形で儀式に参加する子供に見えるのだが、その姿を良く見ると個々に因りその度合いが異なるものの服が歪に変形している事に気づいた。
それは人間としてあるべき部位があるべき形で形成されていればそうはならない筈の起伏や突起であり、健常者ならば服の中に何かを意図的に仕込んでいない限り在り得ない形状だった。
それらがこれより開始されるであろう儀式の為の装飾に過ぎないのか、或いは奇形等の不具に因るものなのかについては現状判断がつかない。
こうした如何にも怪しげな天幕周辺の者達に対して丸太で出来た家屋や小屋や荷馬車付近にいる者達はその住居に類する文化的な服装をしており、こちらは大きく分けると四種類に分類出来た。
先ず最初に目を惹いたのが、何かを協議している白色人種の集団の輪の中心で語っている恰幅の良い巨漢の男だ。
派手な色使いをした手の込んだ意匠の衣装や煌びやかな貴金属の装身具からしてここに居合わせている者達の中でも群を抜いて裕福な者であるのは間違いなく、多くの荷馬車や積荷と思われる山の様な荷物を所有している点からすると交易商人であろうか。
一応腰には長めの短刀を佩いてはいるものの、鞘や鍔のみならず柄にまで施された扱いにくそうな豪奢な装飾を見るに実用性に乏しく、どう見ても宝飾品の一種にしか見えない。
その富豪の商人の周囲で話を聞いているのは、主とは対照的に良く使い込まれた地味で薄汚れた実用的な武器や防具を身に付けた二十人程の屈強な男達だ。
皆簡素な胸当てのみの革鎧を着用しており佩いている剣は片手剣としても小振りの物で、それらの装備品は統一されておらず各々が異なる形状の物を所持している。
彼等の容姿にしても傷だらけで御世辞にも整っているとは言えないものの、それ故に少なくともそれ相応の場数は踏んでいる傭兵の類なのであろうと見受けられる。
そうした点を踏まえて考えるとあの商人の大男が雇い主で、周囲の武装した男達は商人の護衛として雇われているのか。
それら以外に最も数多く見られたのは肌や髪や眼の色全てが暗褐色の有色人種で、痩身ながら筋肉質な体格をした者達だ。
彼等は先程の怪しげな人夫とは異なりあちこちが擦り切れ薄汚れた袖の無い膝上丈の筒型衣を着用し、家畜を繋ぐ首縄の様に首の枷から鎖が腰の辺りまで吊り下げられており、誰もが何かしらの作業に従事している。
年齢的には比較的若い男女が多く、作業としては男が仕分け場や荷馬車の辺りで荷役や資材運搬等の力仕事を担い女が建物の周辺で炊事や洗濯等の細々とした仕事を行っており、その表情には多かれ少なかれ苦悶の感情が滲み出ている。
そういった特徴的な身形や行動する様子から見て、彼等は極めて一般的な人間の奴隷であるのは間違いないだろう。
そしてその奴隷達を使役しているのが商人の手下らしき使用人達で皆似た様な簡素ながらこざっぱりとした服装をしており、それぞれの持ち場で数人の奴隷達を使い割り当てられた作業を行わせている。
彼等はその殆んどが黒色の髪と瞳をした小柄な黄色人種であり、童顔の顔と相まって大柄な奴隷達と比べると頭ひとつ分は背が低くその対比だけ見れば子供なのかと思う程だ。
だが自分達よりも大柄な奴隷を扱う態度は高圧的且つ苛烈で、少々耳障りな高い声で矢継ぎ早に発し少しでも意に沿わぬ者には立て続けに暴言を捲くし立てつつ鞭を振るっており、外見と異なり決して大人しくはない気質らしい。
この二つの異なる文化圏の集団は互いの行動範囲を拠点としている自身の建造物を中心とし、広場中央の丸太小屋群を境界として相手側の領地には近づかない様にしており、意図的に無用な接触を避けている様に見える。
こうしてひと通り周辺を確認し終えた頃には私自身の降下も収まり、目測で地上から3m辺りの宙で静止すると距離が狭まった事で物音や話し声も捉えたものの、二つの集団の両者共に使用している言語は理解出来なかった。
雇い主や傭兵達の方は初めから期待していなかったが、術者達の言葉は若しかしたらと僅かに期待していたのもありこれには少々落胆させられる事になった。
それならばと思念での呼び掛けを試みるも誰一人として返答するどころか反応すらせず、周辺の主だった者達を試した辺りでこれ以上は時間の無駄であろうと判断してこちらも諦めた。
移動を終えた事に因って何らかの変化が無いかと糧の流れも再度確認するが、依然として指向性も無く周囲一帯から収束する様に流入しており新たな発見に繋がる様な有益な情報は見出せない。
そんな失意の中で為す術も無く眺めていると商人と傭兵の集団に新たな動きが生じ、私は気を取り直してそちらへと意識を向けた。
打合せを終えたらしき傭兵達がそれぞれの持ち場へと着くべく四散すると、巨漢の商人は間髪を容れずにその体格に見合う良く響く声で長衣の者達へと怒鳴りつける様に呼び掛け、協議を続けていた老術者の三人はその声を耳にして振り返る。
彼等は直ぐに話を中断すると、三人の中でも最も長い杖を手にしている代表者らしき者を先頭にして杖を突きつつ商人の方へと向かう。
程なくして商人のところまで来ると老術師の代表が語り始めたが、この会話は状況の確認程度の内容だったのか然して長引かずものの数秒で終了し、四人は直ぐに再び動き始めた。
商人と老術師の代表は伴って丸太小屋の傍に停められている幌馬車の方へ向かい、残る二人の老術師の内の一人は他の術者や人夫等が居る天幕の方に向かいもう一人は歪な子供達の所へ向かって歩みを進める。
今のところは目視した状況以外全てが不明ではあるがそれでもこれから何かが開始されようとしているのだけは判り、この中で最も注目すべきなのはやはりこの場に於いて最上位たる商人の動きであろうと判断した私は新たな展開を見逃すまいと更にそちらへと目を向ける。
商人が幌馬車の後ろ側まで到達するとそこに居た二人の傭兵に声を掛けてから荷台の中を覗き込んで声を発しており、その様子からすると中に居る者に向かって何か話をしているかに見える。
その間に先程大天幕の方に向かった緑衣の老術師の一人が二組の術者と人夫を引き連れてやって来た。
荷役を連れていると言う事は何かこの幌馬車から下ろす荷があると言う事であろうが、連れている人夫達を見るとそれはどちらも女でその体格も特段筋肉質である訳でも無く中肉中背で至って普通だった。
となるとその荷物と言うのは大した重さではないのかと考えつつ眺めていると、女人夫の一人が遅々とした動作で幌馬車の荷台に這い上がり奥へ消えるとほぼ同時に微かに甲高い悲鳴の様な声が聞こえた。
その後引き摺る音と共に荷台から現れたのは並行に並んだ二本の棒で、続いてその棒に乗る形で固定されている木箱が姿を現わす。
その木製の箱は蓋がされておらずその中には横たわる人間の足らしき物が見えており、どうやらこれは人を運ぶ為の担架であるのが判った。
それが出て来るのを外で待っていたもう一人の女人夫が突き出した棒の間に立ち持ち手を下から掴むと、ゆっくりと後ずさりつつ引っ張り始めた。
それは全て木製で軽量に出来てはおらず乗っている人間も脚の長さからして成人であり決して軽くはない筈で、果して引き出せるのかと訝しみつつ眺めているとそんな私の心配を他所に女人夫はいとも容易く引き摺り出してゆく。
女人夫の常軌を逸した怪力に驚きつつ様子を見ていると、木材が磨れる轟音と共に徐々に姿を現わしたのは仰向けに寝かされた女だった。
亜麻色の短い裾や袖の寝衣から露になっている四肢は長く適度な肉付きで、着衣の上からでも判る整った形状で存在感のある豊かな乳房や派手な顔立ちを引き立たせる波打つ金髪も相まって、若くは無い分毛羽毛羽しいとも言える派手な化粧で誤魔化している感は否めないが全体として調和が取れていると言える。
この様な品位に欠けた過度に着飾った容姿から連想されるのは娼婦の類であり、差し詰めこの女はあの成金趣味な商人の男が囲っていた妾で今回の召喚に深く関わる存在なのではないかと思うものの、先程の悲鳴はこの娼婦の声にしては高音で幼く声の主としては合致していない。
それを裏付ける様に姿が見えてから一瞬たりとも身動ぎひとつせずされるがままに寡黙でいるその様子はまるで死体の様であり、だとするとこれは担架ではなく棺なのか。
そうなるとあの声は一体誰だったのかを勘ぐっているとその間に棺は荷台から殆んど引き出され、後ろ側の持ち手の先端だけが引っ掛かっている状態になったところで中に入っていたもう一人の女人夫が再び姿を現し、荷台の上から棒の間に降りて両脇の持ち手を掴んで持ち上げると棺は若干左右にふらつきながら幌馬車から離れ始める。
するとその後を追う様に荷台から子供らしき小さな頭が見えたかと思うや否や、直様十歳に満たないくらいの少女が勢い良く飛び出した。
荷台の縁から地面までは1m程度ありその子供の体格からすると飛び降りるには少々高過ぎた様で、少女は着地に失敗し転がる様に倒れたものの直ぐに立ち上がると再び荷台へと駆け寄り奥へ向かって声を掛けつつ手を伸ばす。
至って一般的な貧民らしき一切飾り気の無い地味な継ぎ接ぎだらけの生成りの服を着たその少女は似通った顔立ちからしてあの娼婦の娘らしく、臥せる母親よりも更に強い巻き癖のある肩にかかる長さの赤みを帯びた金髪は燃え立つ炎の様であり、揺るぎない意思を感じる力強く大きな瞳は青天の冬空の様な澄み切った碧眼をしていた。
だがこの娘が発した声はその顔に似合う良く通る凜とした声色で先程の微かな悲鳴とはかなり異なっており、この様子から察するに未だこの荷台に残っている者が居てそれが声の主と言う事になるのであろうか。
娘の呼び掛けから遅れてゆっくりと顔を出したのは先に現れた娘よりも年上の姉らしき少女で、慎重と言うにも度を越していると感じる程に緩慢な動作で妹に介助されながら荷台を降りる様子からは、最初に現れた妹とはある意味全てに於いて正反対の印象を受けた。
衣服や装飾に関しては服装こそはほぼ同様だが、妹とは異なり首飾りを掛けている点だけが唯一の違いだ。
それは古びた硬貨を縁取る様な紐付きの留め具で固定したもので、その銀貨らしき硬貨はかなり古いものらしく全体的に黒くくすみ表面は傷や磨耗で意匠の判別も出来なければ留め具も光沢も無い卑金属の安物であり吊っている紐も単なる麻の縒り紐に過ぎず、本物の銀貨が劣化した物であれば未だしも低品質な悪貨や単なる模造品であれば宝飾品としての価値は殆ど無さそうに見える。
超自然的な力に関しても特段何も感じるものはなく、どうやら単なる装飾品でしかないらしい。
体格はと言うと妹よりも華奢でか細く、殆んど癖の無い背中まである長い髪は娼婦よりも淡く最早銀髪に近い白金色で、顔に関しては常に俯いている為にその長い髪が掛かり良く見えず詳細な顔立ちまでは確認出来ない。
身体能力も外見通りに低いらしく、しきりに両手で周囲を探りつつ荷台に腰掛けずり落ちる様にして時間を掛けて降りている。
その降り方を見ているとまるで高所恐怖症の人間が高い場所から降りるかの様であり、幾ら臆病だとしてもこの場面では流石にそれは度が過ぎるのではないかと訝しんでいると、こうした疑問の真相はこの後の姉妹の行動を見て直ぐに明らかとなった。
やっとの事で荷台から降りた姉は直ぐに振り返ると、覚束無い手付きで再び荷台の隅に手を伸ばして1m程の何の変哲も無い木の棒を取り出し、それを手にすると先端を左右に振り地面を打ちつつ歩み出したのだ。
これは盲目の人間が歩行する際に取る手法に違いなく姉は目が見えないのだと理解したその瞬間、私の視線を感知したかの様に姉は不意にこちらを見上げた。
その顔付きはやはりあの娼婦と良く似ておりそれが血を分けた娘である事を証明してはいたが、母親の顔を更に強調した様な妹とは真逆で目鼻立ちも淡白で地味とも言え、それ故に尚一層目立ったのが風に因って払われ数瞬だけ露になったその双眸だった。
姉の瞳は髪と同様に妹のそれよりも淡い色合いの碧眼であったがそう見えたのは光彩の外周部分のみであり、角膜の大半が中央に向かうに従って煙った様に白く濁り瞳孔部分は完全に白く覆われてしまっていて明らかに失明しているのが判った。
その盲いた虚ろな眼差しでは如何なる物も視認出来ないであろうにも関わらず、他者は疎か己自身ですら見も触れも出来ない私の器の方を見据えている様子からするとこちらを認識している様に見えるのは間違いないのだが、どう見ても機能不全であろうその眼で本当に私が見えているのだろうか。
寧ろ逆にあの病んだ眼には常人には見えない不可視の存在を見透かす力があるとすれば、若しかすると召喚に関わる存在は術者達の方ではなくこの娘なのかも知れない。
そう思い直した私はこれまで以上に期待を抱きつつ改めて盲の姉へと思念にて語り掛けるものの、その期待も虚しく姉からの反応は無く只只管に半ば惚けた様な呆然とした表情で私のいる宙へとその虚ろな眼差しを向け続けているだけだった。
それでも尚幾度か呼び掛けを繰り返してみたが全く反応は無く、残念ながらこちらからの呼び掛けは通じないのだと理解した私は落胆と疑念を抱きつつ意思の疎通を断念する。
するとそれと同時に妹から声を掛けられ我に返った姉は直ぐに視線を落とす様に俯くと妹へと返答した後に再び歩を進め始めたのだが、不自由なのは視力だけではなかったらしく右足と比べて左足の歩幅が半分以下で宛ら跛を引く様な歩みであり、不自由な左側に寄り添った妹が肩を貸してどうにか進んでいるといった様子だった。
それでも母親の元へと追い縋る姉妹の前に商人が行く手を遮る様に立ちはだかると、無表情のままに短いながらも強い口調で大声を発した。
それは恐らく命令的な指示であったのだろう、その怒声を耳にした姉は一瞬身を竦ませてその場に止まる。
妹はそんな姉に引き止められる形で止まるが姉とは違い物怖じする事無く商人へと鋭い眼差しを向けて睨み返しつつ即座に叫び返しており、その過剰とも言える強い反発は傍から見ても敵愾心を剥き出しにしているのが明白だ。
そんな勝気な妹の反抗的な態度に気分を害した商人は顔を顰めて苛立ちを露にすると姉妹へと詰め寄りつつ怒声を放ち、それに伴って脇に居た傭兵達も腰に吊っていた馬上鞭を手にしながら姉妹へと近づき、その他の者達も動きを止めて様子を見ている。
見えないながらも緊迫した空気を察した姉は身体を反転させると跪き宥める様に両腕で妹を抱擁しつつ、商人に背を向けたまま何か謝罪めいた言葉を繰り返した。
妹とは相反する透明感のある柔和なその声色は今にも消え入りそうな囁き声であり、少なくともこれで悲鳴を発したのがこの姉であったのは証明されたが、誰かに語り掛けているにしては余りにも声量が乏しくまるで独り言を呟いているかの様で少なくとも私には殆んど聞き取れない。
そんなか細い姉の詫び言が聞こえたのか定かではないがその様子を無言で睥睨していた商人は姉の態度を見てある程度気が済んだらしく、姉妹に向けて罵る様な短い言葉を放つと踵を返して歩き出しそれを見た術者達も女人夫に搬送を再開させ、商人がその後を追いその後ろに二人の緑衣の老術師が続く。
そしてその場には忌々しそうに見下ろす二人の傭兵に阻まれながらもそれでも未だ遠ざかる母親の一行の後姿を睨み続ける妹と、そんな妹の小さな身体を背後から右手で抱き留めつつ左手で胸元の首飾りを祈る様に握り締める姉が取り残され、私は移動し始めた男達の後を追従し始めた。
姉妹の様子が気になりつつも前方へと再び視線を向けると、娼婦を載せた棺は天幕群中央の大天幕の入り口前に到達し今正に内部へと運び込まれるところであり、私も棺に引き寄せられているのか一行の後を追う様に大天幕へと迫り続ける。
このまま進めば浮遊している高度からして大天幕にぶつかるのは確実でその場合どうなるのかと危惧するが、手繰り寄せられる様に進む己の動きを阻む事も出来ず程無く大天幕に接触する。
だが特に抵抗らしい感覚も無くまるでそれが幻影であるかの様にいとも容易くすり抜け、私は儀式が執り行われるであろう大天幕の内部へと侵入した。
幕の内部は底上げされているのか外の地面よりも若干高くなっていて、底上げされた床一面には隙間無く青々とした緑葉が敷き詰められている。
出入り口以外の五枚の幕の手前には生贄にされたのであろう未だ血が流れ出ている馬の頭部が置かれており、口腔内に香を詰めて焚いているらしく半開きの口の隙間や鼻孔から煙が立ち昇り充満していた。
そんな霧が掛かった様に煙り日中でありながら薄暗く翳る幕内へと、入口に足を向けた向きで動かぬ娼婦を運び入れた女人夫と指示していた術者の四人は、娼婦を棺から出して幕内の中央に配置すると速やかに退出する。
これでこの娼婦がこれから行なわれる儀式の対象であるのは明確となった訳だが、現状を鑑みるとやはり蘇生が目的なのだろうかと考えていると、歪な子供等とそれを引率している一人の術者が入って来た。
その際真先に目についたのが術者が抜き身で手にしている鋸の様な細かい刃の突いた短剣で、通常の刃では切れない様な硬質のものを切断する為のものであろうがその対象が何なのかは未だ判らない。
それ以外に子供等にも違和感があり、全員ではないものの大半が個々に程度の差はあるが何処か姉に通ずるぎこちない歩行をしており、それは即ち足の機能障害を意味していた。
そんな不具の子等は娼婦の身体の直ぐ両脇に左右に三人ずつ二列に並んで座ると、術者の脇に座った子供が包帯の巻かれた片腕を娼婦の身体の上に翳す様に突き出し術者がその包帯を解き始めた。
すると包帯の下から現れたのは皮膚の全般が暗褐色に変色し樹皮の様に硬化した腕でそれは最早腕の形に似た枝と言う方が近く、丁度手首の辺りには垂直方向に真直ぐな筋が何本か走っている。
術者はその木の枝の様な腕の筋が入っている辺りに鋸歯の短剣を当て一気に引き寄せると、刃は樹皮じみた腕を削りながら僅かに腕へと食い込みそれと同時に袋状の頭巾の中からくもぐった呻き声が上がるものの、その悲鳴に動じる事無く術者は規則的に刃を前後させて子供の腕を刻む。
数回それを繰り返すと傷口から血にしては色が薄い液体が滲み滴り始め、それを確認した術者は押し当てていた短剣を腕から離して隣の子供の腕を取り同じ事を繰り返して順々に六人全員の腕を切り、娼婦の身体はその淡い流血に浸されていく。
腕の状態は子供に因って個体差がある様で全員を見た結果としては最初の子供は最も変貌した状態であり、中には所々にある樹皮化が大きな瘡蓋程度にしか見えない子供もおり、どうやらそれは進行度合いに因る差異であろうと推測した。
歩行等の行動の不自然さと腕の樹皮化の進行具合も比例していた点を踏まえると、あの樹木化の影響が歩行にも現れていたと捉えるのが自然であり、即ちあの奇異な症状は全身に影響を及ぼすものなのであろう。
こうして六人全員の瀉血と見紛う措置が終わるとそれを施した術者だけが退出し、入れ替わる様にその後入って来たのは老術師の三人で皆外で持っていた長い杖は所持しておらず、その代わりに両手に二つの小さな木製の箱を手にしている。
その箱は二種類あり後ろの二人が所持するのは両方とも掌程の平らな薄い形をした箱なのだが、先頭の老術師だけは同様の平たい箱ひとつとそれよりも小さい立方形に近い形状をした箱の二種類を所持している。
三人はそれぞれ娼婦の頭部と左右の手の場所で跪くと、平たい方の小箱の蓋を開けて中から銀細工の様に輝く木の葉を取り出しそれぞれ額と掌に貼り付け、続いて左右の老術師は娼婦の足元へと移動して足の裏にも白銀の葉を貼り付ける。
その後老術師達は正三角形を形成する様に、幕の奥側である娼婦の頭部のすぐ後ろと奇形児等の背後に当たる腰の脇当たりに娼婦の身体の中心を向いて座すと、徐に天を仰いだ。
いよいよ儀式が始まらんとするこの状況でこちらを凝視する老術師へと、私は最大級の期待を込めて召喚者達からの交信を待ち受けた。
だが幾ら待っていても彼等は見上げ続けているばかりでそれ以上動きが無く、この期に及んでも尚蔑ろにされている事に憤りを覚えると共に又してもこれは私の勘違いなのかと疑い始め、彼等が凝視する視線の先を追って上空を見上げるがそこにあるのは香の煙で仄暗く視界の霞む天幕の裏側のみだ。
一体何を見ているのかと暫らく様子を見ていると、天幕上部の穴の縁から太陽が姿を見せると共に天幕内に一筋の光芒が差し込み始める。
若しかすると老術師達は太陽の位置を確認していたのかと気づき改めて下を見ると、不可視である私の器を透過した太陽光が煙る幕内を照らし始めたのを確認した老術師達は互いに頷き合い、遂に儀式が開始された。
先ず両脇に座る二人の老術師が低い長音を連続的に発し続ける音楽的な詠唱を開始すると、娼婦の頭部側に座った老術師は一人だけ未だ開けていなかった方の箱の蓋を開いて中から黒色の小さな瓶を取り出すと栓を抜き、娼婦の口を開かせて瓶の中身をゆっくりと注ぎ始める。
その液体は無色透明でありながら、空気に触れると急速に気化するのか燐光の様に僅かながら白く発光する湯気が立ち昇っており、只の水ではないのは明白だ。
それを完全に注ぎ切る寸前に何か小さな固形物が流れ落ちた様だったが、注ぎ口や娼婦の口から湧き上がり続ける光る靄に阻まれてはっきりとは見えない。
最後の作業を終えたこの老術師も詠唱に加わり暫らく三者の詠唱が続いた後、光る靄も収まり樹木化した子供等の流血で娼婦の寝衣が退紅色に染まった頃に、液体の気化も収まっていた娼婦の口から再び光が漏れ始めた。
その光は先程の光る靄とは異なり光源としての何らかの発光体が口腔内に発生しそこから照射された光であり、更にその光は鼓動の様に一定の間隔で明暗を繰り返している。
その鼓動する光に呼応する様に娼婦の喉辺りの筋肉が収縮し始め、次第に顎までもが連動して動くところまで動作範囲が広がると、娼婦の口が大きく開き脈打つ光を飲み込んだ。
その光源は喉を内部から照らしつつ食道を進んでいる様で、微かに光を透かしつつ胸から鳩尾を経て腹部に到達し胃に入った辺りで停止する。
止まると同時に発光が弱まり速やかに光は消え、暫らくすると今度は娼婦の首や四肢の表皮に伸びていく幾筋もの白く光る帯状の線が現れ始めた。
それは胴体から四肢の末端に向かってうねる様に蛇行しながら分岐を繰り返して顔や腕や足の表皮全体に広がっており、その様子からして着衣で見えてはいない腹部を起点に広がっているに違いない。
樹木化する奇形児の姿を事前に目にしていた先入観もあってかその光景はまるで急速に成長する草木の根が地中に伸び広がって行くのに酷似しており、それは色こそ違えども人夫達の身体に描かれていた紋様と類似している事から両者にも何かしらの関連性がある様に思える。
私がそんな連想を想起している間に、娼婦の口腔内から三度目の光が漏れ始めた。
今度は輪郭も鮮明な細い一筋の光で口から伸び出たそれは一直線に上へと伸び続けており、その先端は僅かに膨らんでいる様に見える。
その新たな現象に起因してゆっくりと何かが迫り来るかの様に高周波と思しき耳障りな連続音が聞こえ始め周囲の音を掻き消すと共に、視界は暗転するかの如く暗く霞み出し次第に闇に閉ざされてゆく。
それらと引き換えなのか、三人の老術師と六人の奇形児が居たと思われる場所と同様の位置に白い光の球体が重なって見え始めた。
それは成人の握り拳程の大きさで胴の中心辺りに現れており、全てが画一ではなく個々で大きさや輝度も微妙に異なって見えるが、大別すると老人達の光と比べて子供等の光は薄暗く朧げに見えている。
こうした差異が何を表しているのかは現状では未だ定かではないものの、それがその個体の何らかの特徴を形象しているに違いない。
更に光る球体はこの幕内には誰も存在していない位置にも幾つも存在しており、それは恐らく天幕の外に居る者達が透過して見えている様だ。
どうやら現在の私の視野が三度目の発光を契機に、物理的な視界とは別の次元を写し出すべく切り替わったと捉えるのが妥当らしい。
それならばあの姉妹はどう見えるのかとふと疑問に思い二人が居たであろう方向を確認すると、そこには大小二つの光球が結合して見えておりどちらも他よりも一際明るく煌めいているのが見えた。
もし想定通りだとすると姉妹は他者を圧倒する何かを具有している証明になるのだが、果してそれが何なのかまでは計り兼ねる。
それを判断出来るひとつの材料となるかも知れないと思い再び視点を移動し娼婦の居た場所を確認すると、そこには他とは根本的に異なる形状をした物が見えた。
それは朧げに光る小さな靄の塊から立ち昇る一筋の香の煙の様に揺らぎつつ細々と長く伸びていて、その先端には最早球体とは呼べない不定形に変形する靄が繋がっており、位置的に考えるとそこはもう確実に娼婦の身体から離れている。
自らを放出する様に周囲に光の粒子を散らしているその乖離した先端部の姿は、何処と無く鱗粉を振り撒きながら羽ばたく蝶の様に見えなくもない。
こうした状況を鑑みるとこの光は生者のみ保持する命や魂を現わすもので、鮮明な輪郭や球体の形状を維持しているのが健全な状態なのではないだろうか。
それが既に別の形へと変容している娼婦に関してはやはり生存状態にあるとは考え難いと言わざるを得ず、故にこの儀式は蘇生を目的としている可能性が高い。
一筋の光はその崩れ掛けた娼婦の魂目掛けて伸び続けつつ、その先端から進行方向とほぼ垂直に無数の細い突起が輪生状に生え出し細長く伸び始め、ある程度の長さまで伸びた突起は鉤爪の様に前方へとその先端部を曲げたところで成長は止まった。
その姿はまるで白く光り輝く開花した曼珠沙華の様だと思いつつ眺めていると光の先端はその形状を再び変え始め、全ての花弁が前方へと向って一斉に閉じ始めた。
この様子は宛ら獲物を捕らえようとする無数の鉤爪の様であり、その標的が目前に迫った娼婦の魂なのは言うまでもない。
だが既に身体から遠退いていた娼婦の魂が遠ざかりつつ霧散し消えゆく速度は時を経るに従い体積に反比例して加速度的に上がっており、これでは花弁が閉じる前に消滅してしまうかも知れず、実際のところはどうなのか不明ながらも私の脳裏に失敗と言う文字が過る。
更に疑問なのが、この切迫した状況に於いても特段私に対して直接的な接触が無い点だ。
儀式の開始と連動して私の視界が切り替わった結果からして、この器は今ここで行われている儀式と関連しているのは間違いないのだから儀式の成就を懇願したりその助力を乞うのが慣例なのだが、そうした要求自体試みられている様子が無くまるで私が存在しない前提で儀式が進んでいる。
この状況が意味するのは私がこの儀式実行の為に召喚されたのではないと言う事であり、それは即ちこの儀式の場に召喚者が居るとも限らなくなったとも言える。
では一体召喚者は誰で今何処に居るのか改めてその課題を再認識させられたその時、儀式は終局を迎えようとしていた。
正に鷲掴みにせんと伸ばす手宛らに娼婦の魂目掛け光る花弁は閉じてゆくが、推測通り到達する頃には光る蝶は完全に消失する寸前であり、消えゆく光の残滓を辛うじて掴んだところで花弁は閉じ切りそこで動きを止めた。
その後僅かな魂の残滓は花弁に取り込まれる様に消えると光の花は先端から徐々に光度が落ちると共に崩れ始め、見る見る内に星屑の様な煌めく風塵と化して粉雪の如く舞い散って消え去り、それと共に私の視界も元に戻った。
それがこの儀式の時間制限だったのか、やがて陽が傾きこの天幕内から光芒が消えると老術師達も詠唱を止め、子供等は掲げ続けていた腕を下ろす。
それらの行為が儀式の終了を意味するのは言うまでもなく、それでも娼婦に目覚める気配は無い。
老術師達は娼婦の様子をじっと眺めていたものの、暫しの沈黙の後に互いに顔を見合わせ首を振る。
召喚者すら判らない状況であってもその結果だけは推測する事が出来た、この儀式は失敗したのだ。




